5 居候の追加
色褪せた世界の中、クラウディオは歩いた。
大きなホール――当時は最先端の建築技術を駆使した美しい劇場であった。
「ここにいたんだ……」
クラウディオはひとつの客室を覗き込んだ。
上階にある一等席、そこにぽつんと置かれた椅子に女性は腰をかけていた。
膝には美しい毛並みの白い猫が寝転がっていて、女性は猫の背中を優しく撫でていた。
銀色に輝く髪が波打って床までついていた。
そろそろ髪を切ろうとしてもなかなか踏ん切りがつかずに伸ばしっぱなしにしてしまったが、クラウディオはこの髪が好きだった。
「そんなにこのお芝居が好き?」
髪に触れてクラウディオはゆっくりと編み始める。このままずるずると引きずって帰らせても嫌なので、少しでもまとめて首にかけられるように三つ編みにまとめよう。
「ええ、大好きよ」
女性は笑って頷いた。
成人して何年も経つ高齢の女性であるが、ひとみはきらきらとして少女のように純粋であった。
今までどれだけの地獄をみてきてもついに変わらなかった輝きをクラウディオは愛し気に見つめた。
「ディオ、私はハッピーエンドが好き」
「知っているよ」
「あなたの作品の3分の1が暗い話なのはいただけないわ」
クラウディオは苦笑いした。
「それは嫌いなの?」
「嫌いじゃないから困るのよ」
女性ははぁっとため息をついた。
「でも、どうせ腰を据えてみるならハッピーエンドよ」
舞台が終わり、盛大な拍手が鳴り響いた。
下の階にいた観客たちは涙を流しながらも笑顔で舞台を賞賛した。
「どれだけの苦難の中でも、ようやく辿り着いた幸せこそ至高よ」
ゆっくりと女性は立ち上がった。
それに合わせて白猫はぴょんと足元へと降りてどこかへと消えてしまった。
女性はの背筋は昔のようにぴんと伸ばすことはできない。
腰が痛くて折れ曲がって、ずっと小さい体のように思えた。
クラウディオは彼女に手を差し伸ばす。女性は白いしわしわの手を彼に預けた。
「だから、あなたはこれからハッピーエンドを書き続けて……」
「ずっと?」
「そう。ずっとよ! だって幸せになれないなんて嫌じゃない」
女性の無茶な要求にクラウディオは笑った。
「自分の業に振り回されて、苦しむ女の子がいたら……ちゃんとハッピーエンドにしてあげてよね」
それがクラウディオへ向けた最後の我儘だった。
はじめて出会った時から明るく綺麗で、純粋で、我儘な愛しい人。
◆◆◆
クラウディオはぱちりと目を見開いた。
木々の影のもと、腰をかけてうたた寝をしてしまったようだ。
春の揺籃、とても心地よくてついつい昔のことを思い出してしまった。
「ふぁあ……」
クラウディオは袋の中を確認した。
ヴィルヘルムの薬の材料をかきあつめていたが、いつまでも同じ内容ではいけない。
耐性化する可能性もあるし、1日の服用量を考えるとなるべく害の少ないものへ改良する必要があった。
(その為、普段は通わない森まできてしまったな)
クラウディオは首にふれながら硬くなった体をほぐしていく。
「さてさて……色々約束を守りにいきますか」
鞄の中から取り出したのは封筒である。中にはオペラのチケットがあった。
今頃、約束した女の子はたどり着いていることだろう。
◆◆◆
フローエ男爵家に新しい客人が到着した。
「マリア様」
椿は思わず、彼女の名を呼んだ。
「そうよ。私よ」
訪問してきたのはアンナ・エーデルシュタイン。
先日、椿はお世話になったエーデルシュタイン伯爵家令嬢だった。
「どうしてここに?」
マリアは使用人に荷物を預けながら答えた。
「私、こちらの学園に通っていたのよ」
現在のマリアがいくつか考える。
確か、13歳だった。
ギムナジウム――大学進学コースが、確か10歳から18歳だったから。
「マリア様、まさかギムナジウムに通われていたのですか?」
「ギムナジウム、の付属女学校よ」
基本的に女子はギムナジウムへ通えない。何度か共学になる話があったが保守派のせいでなかなか進展しなかった。
だから、女子が通う為の付属女学校が始まった。
「寮に入っていたけど、屋敷から通う者もいるわ。頼れる親類の家から通う者もいて」
マリアは淡々と自分の身の上を説明した。
椿としてはそれでも付属女学校へ通うマリアに敬意の視線を向けた。
その視線にマリアはごほんと咳払いした。
「どうせなら大叔母様の屋敷から通うのがいいんじゃないかしらって急遽変更したの」
それに椿は首を傾げた。
今まで問題なく寮で過ごしていたのにどうして。
そう顔に書いていた。
「私が過ごす場所を変更した理由はあなたよ!」
マリアはびしっと椿を指差した。
「何なのよ。あんな泣き腫らしたしおしお姿で屋敷を後にして……気になって気になって仕方ないじゃない」
椿がヴィルヘルムとの婚約解消を受け入れて、離れることを決めたと聞いてからマリアはずっと心配であった。
「もしかしたら軽薄な男に美味しいものをご馳走されてふらっとついていくんじゃないかと思うと、いてもたってもいられず急遽大叔母様に頼み込んだのよ!」
「す、すみません」
自分の責任とは思わず、椿は萎縮してしまった。
マリアはじぃっと椿を睨む。
「ちゃんとご飯は食べているの?」
「は、はい」
少しばかり翳りがみえるが極端に痩せているようには見えない。
最後に出会ったままだ。
「そう、ならいいわ。ついてきて」
マリアは使用人の案内を受けて用意された部屋へと向かう。
「……」
それにしてもびっくりした。
フローエ夫人からは何も聞いていなかった。
もしかして色々忙しくて失念していたのだろうか。
「何をしているの」
マリアはくるっと振り向いた。
「え、はい?」
まだ何かあったのだろうかと椿はびくっと震えた。
「この後、お茶をするのよ! ついてきてって言ったでしょう!」
しばらく椿は先ほどのことを思い出す。
確かにマリアはついてきてと言った、ような気がする。
「全く、クラウディオ様が見たらここに居座るかもしれないわね。あの人は、お兄様の側にいてもらわなければいけないのに」
マリアは深くため息をついた。




