第九話:その瞳は、夜の闇より熱く
夜風が頬を打つ。 リリアは王宮の裏庭を、ドレスの裾をまくり上げて走っていた。足元は舞踏会用のヒールではなく、庭仕事用のブーツだ。
(間に合って……!)
肺が熱い。でも、胸の奥の痛みよりはずっとマシだ。 通用門の鉄格子の前に、月明かりに照らされた人影を見つけた。
灰銀色の髪。闇に溶け込むような黒い外套。 間違いない。アレクセイだ。
「待ってください、アレクセイ殿下ぁぁぁっ!!」
リリアは庭の茂みを強引に突破し、彼の背中に体当たりするように飛びついた。
「うわっ!?」
不意をつかれたアレクセイがよろめき、驚愕に目を見開いて振り返る。
「リ、リリア……!? なぜ、君がここに……カイは何をしているんだ!」
「カイさんとウィルフレッドさんが『うっかり』教えてくれたんです! そんなことより、どこへ行くつもりですか!?」
リリアは彼の外套の袖を両手でギュッと握りしめ、肩で息をしながら睨みつけた。
「……君には関係ない」
アレクセイは痛ましげに顔を歪め、袖を引き剥がそうとする。 その瞳は、夜の闇の中で赤紫色に揺れていた。だが、いつものような妖艶な輝きはなく、罪悪感で濁った色をしていた。
「言ったはずだ。契約は終わりだと。……僕のそばにいると、君はまた傷つく。僕の『影』は、君のような光の当たる場所にいる人間を壊してしまうんだ」
「関係あります! 大ありです!」
リリアは叫んだ。
「だって、私の怪我の責任、まだ取ってもらってません!」
「……なに?」
アレクセイが動きを止める。
「治療費なら払ったはずだ。最高級の宝石だって送った。あれだけあれば、君の家の借金も返せるし、一生遊んで暮らせるだろう」
「そんなもの、いりません!」
リリアはポケットから、彼が送ってきた最高級のサファイアを取り出し――あろうことか、茂みの中にポイッと放り投げた。
「なっ……!?」
「私が欲しいのは、あんな冷たい石じゃありません!」
リリアは一歩踏み出し、アレクセイの胸ぐら――ではなく、頬に両手を添えた。 驚いて固まる彼の瞳を、至近距離から真っ直ぐに見つめる。
「私が欲しいのは……この瞳です。昼間は優しくて、夜は誰よりも熱い、この**生きた宝石(貴方)**だけなんです!」
「……っ、何を言ってるんだ。僕の目は呪われている。色が定まらない、不完全な……」
「不完全だからいいんじゃないですか!」
リリアは彼の言葉を遮り、畳み掛けた。
「ダリウス殿下のダイヤモンドは完璧です。ええ、悔しいくらい完璧で美しい。……でも、それだけです! 永遠に変わらない美しさなんて、私には退屈なだけ!」
彼女の言葉に、アレクセイの瞳が揺れる。
「私は知ってしまいました。あの夜、廃教会で……貴方が私を守るために、その瞳をマグマのように赤く燃え上がらせたのを」
リリアの声が震える。
「怖くなんてありませんでした。……貴方のその『赤』は、血の色なんかじゃない。私を想ってくれる、情熱の炎の色です。……あんなに温かくて、激しい色は、世界中のどこの鉱山を探したって見つからない」
「リリア……」
「貴方は私を『傷つけた』と言って自分を責めますけど……勝手に決めつけないでください」
リリアは涙を浮かべ、しかし鑑定士としてのプライドを懸けて言い放った。
「私は鑑定士です。本物の価値を見抜くのが仕事です。……私が『この人だ』と決めたんです。貴方がどれだけ自分を『影』だと卑下しようと、私にとっては貴方こそが、命を懸ける価値のある最高で唯一の『推し』なんです!」
「……っ」
「だから……責任を取ってください」
リリアは爪先立ちになり、彼の額に自分の額をコツンと押し付けた。
「私の心に、こんなに消えない『恋』というインクルージョン(内包物)を作った責任を取って……一生、私のそばで、その瞳の色が変わるのを見せ続けてください!」
アレクセイは、言葉を失っていた。 これまで、数え切れないほどの人間が彼を「王子」として、あるいは「危険な能力者」として見てきた。 だが、こんな風に――彼の「変化」も「影」も、すべてを「愛おしい価値」として丸ごと抱きしめてくれた人間はいなかった。
「……はは」
アレクセイの喉から、乾いた笑いが漏れた。 そして、力が抜けたようにリリアの肩に顔を埋めた。
「……敵わないな。本当に、君には」
「あ、アレクセイ様……?」
「君は、本当に変な鑑定士だ。……わざわざ、こんな傷物の石を選ぶなんて」
彼は顔を上げると、リリアの腰に腕を回し、強く引き寄せた。 月明かりの下、彼の瞳の赤紫色が、涙の膜を張ってキラキラと輝きだす。それは、リリアが今まで見たどんな宝石よりも美しく、鮮烈な輝きだった。
「……責任なら取るよ。君が逃げ出したいと言っても、もう離さない」
「! の、望むところです!」
「覚悟してくれ。……僕は君が思っているよりずっと、独占欲が強い」
アレクセイはそう囁くと、リリアの唇に自身の唇を重ねた。 それは契約の印ではなく、誓いの口づけ。 夜の闇の中で、二人の影が一つに重なる。
茂みの陰で様子を伺っていたカイは、フッと口元を緩め、静かにその場を立ち去った。 主人にようやく訪れた、温かな春を邪魔しないように。




