第八話:沈黙と、別れの予兆
ガタゴトと石畳を走る馬車の音だけが、重苦しい沈黙を埋めていた。
薄暗い車内で、アレクセイはリリアの隣に座り、切り裂かれた二の腕に包帯を巻いていた。 彼の手つきは驚くほど丁寧だったが、指先は微かに震えていた。
「……っ」
包帯を締める力が強くなり、リリアが小さく声を漏らすと、アレクセイは弾かれたように手を止めた。
「すまない。……痛むか」
「いいえ、大丈夫です。殿下の応急処置がお上手ですから」
リリアは努めて明るく振る舞った。 だが、アレクセイは目を合わせてくれない。 彼の瞳は、先ほどのマグマのような激情を失い、今は固まった血のような、暗く沈んだ赤紫色をしていた。その光のなさは、まるで光を吸収して離さないガーネットのようだった。
「……なぜ、あんな無茶をした」
絞り出すような声だった。
「君はただの鑑定士だ。戦闘訓練も受けていない一般人が、禁忌鉱物に素手で触れるなど……正気の沙汰じゃない」
「で、でも、あのままじゃ殿下が怪我を……」
「僕が怪我をするのは構わない!」
アレクセイが叫んだ。狭い車内にその声が響き、リリアは肩を震わせた。 彼はハッとして口をつぐみ、前髪をかき上げて深く息を吐いた。
「……僕の仕事は、そういうものだ。汚れ仕事で、いつ命を落としてもおかしくない。だが、君は違う」
彼はリリアの手を取り、その指先についた土汚れを親指でそっと拭った。
「君は、日の当たる場所で綺麗な石を見て笑っているべきだ。……こんな、血と暴力の匂いがする夜の世界に、君を引きずり込むべきじゃなかった」
「殿下……?」
嫌な予感がした。 彼の言葉が、まるで別れの言葉のように聞こえたからだ。
「城に着いたら、すぐに専属医に見せる。傷が残らないよう、最高の治療を受けさせる」
「あ、ありがとうございます。でも、明日にはまた元気になりますから、そうしたらまた温室で……」
「いや」
アレクセイはリリアの手を離した。 その拒絶の意志は、どんな言葉よりも冷たく、リリアの胸に突き刺さった。
「契約は終わりだ、リリア嬢。……君はもう、僕に関わるな」
「え……?」
馬車が王宮に到着するのと同時だった。 アレクセイはリリアが何かを言う前に扉を開け、振り返りもせずに闇の中へと消えていった。
それから三日間。 リリアはアレクセイに会うことができなかった。
「申し訳ありません、リリア様。殿下は公務でお忙しく、面会は謝絶されています」
アレクセイの私室の前で、カイが苦渋の表情で頭を下げた。 以前のような冷たさはない。むしろ、カイの目には「通してやりたいが、主命でどうにもならない」という同情の色が浮かんでいた。
「……そうですか。忙しいなら、仕方ないですね」
リリアは力なく笑い、すごすごと引き返した。
与えられた客室に戻ると、机の上には数え切れないほどの宝石が散らばっていた。 アレクセイが約束通り、「宝物庫の閲覧権」と「最高級の原石」を山ほど贈ってきたのだ。 それはまるで、手切れ金のようだった。
「……全然、嬉しくない」
リリアは最高級のサファイアを手に取ったが、心がときめかない。 ルーペを覗いても、何も見えない。 脳裏に浮かぶのは、美しいカットやインクルージョンではなく――
『君を守るはずの力が、結局君を危険に晒した』
あの夜、泣きそうな顔で自分を抱きしめた、アレクセイの赤紫色の瞳だけだった。
「どうしちゃったんだろう、私」
リリアは石を机に置くと、胸のあたりをギュッと掴んだ。 傷ついた腕よりも、ずっと深い場所が痛い。
「殿下の瞳が見たいんじゃない。……殿下に、会いたい」
アレクセイが隣にいないだけで、世界中の宝石がただの石ころに見える。 その事実に気づいた時、リリアの目からポロポロと涙がこぼれ落ちた。
「私……殿下のことが、好きだったんだ」
鑑定士としての興味じゃない。 不器用で、優しくて、自分の色に悩みながらも必死に生きている、あの一人の青年が。
「……言わなきゃ」
リリアは涙を拭い、顔を上げた。 研究対象としてではなく、一人の女性として。 彼が自分を「危険だ」と遠ざけるなら、そんなもの関係ないと伝えなければ。
ちょうどその時、扉が控えめにノックされた。
「リリア様。ウィルフレッドでございます」
老執事が、静かな表情で入ってきた。その手には紅茶ではなく、一枚のメモが握られている。
「……カイ殿から、伝言です。『今夜、殿下は単独で北の森へ向かう。誰も連れずに、一人で行くおつもりだ』と」
それは、二度と戻らない覚悟の任務かもしれない。あるいは、リリアを巻き込まないための孤独な逃避行か。
リリアは立ち上がった。 迷いはなかった。
「ウィルフレッドさん。……私、行ってきます。一番素敵なドレスじゃなくて、一番走りやすい靴で!」




