第六話:温められた翡翠と、解かれた警戒心
数日後、午後の執務室。
アレクセイは執務机で書類の山と格闘していたが、その顔色は明らかに優れなかった。 目の下には薄っすらと隈があり、時折こめかみを押さえて辛そうに眉を寄せている。 昨晩の「影の仕事」が長引き、魔力を酷使した影響だ。
護衛騎士カイは、扉の脇で直立不動のまま、主君の疲労を案じて歯噛みしていた。
(……殿下は無理をしすぎだ。だが、私が休息を進言しても『これくらい平気だ』と笑って誤魔化されるだけ……)
その時、廊下からパタパタという足音が近づき、ノックもなく扉が開いた。
「失礼しまーす! リリアです!」
「……リリア嬢」
カイが一歩前に出て立ちはだかる。 だが、今日のリリアはいつもの「単眼鏡」も「分光器」も持っていなかった。代わりに、湯気の立つボウルと、タオルの載ったトレイを抱えている。
「申し訳ありませんが、本日の殿下は公務でお疲れです。瞳の研究なら出直していただきたい」
カイが冷たく告げると、リリアはムッとして頬を膨らませた。
「研究じゃありません! 『メンテナンス』です!」
「メンテナンス?」
「宝石だって、手入れをしなければ曇るでしょう? ましてや殿下の瞳は、国宝級の生きた宝石。酷使されて悲鳴を上げているのが、ドアの外からでも分かりましたから!」
リリアはカイの脇をすり抜け(カイも、なぜか強く止めなかった)、アレクセイの元へ歩み寄る。
「……リリアか。悪いが、今は遊んでやる余裕が……」
「動かないでください。目を閉じて」
リリアの真剣な声に、アレクセイは毒気を抜かれたように瞬きし、言われるままに目を閉じた。 リリアはトレイから、お湯で温められた滑らかな緑色の石――翡翠を取り出し、タオルで包んでアレクセイの瞼の上にそっと乗せた。
「……っ、温かい」
「翡翠は熱伝導率が適度で、熱を逃しにくい性質があるんです。こうして温めると、眼精疲労に効くんですよ」
じわじわと広がる石の熱が、酷使した神経を解きほぐしていく。 アレクセイの肩から、強張っていた力が抜けていくのをカイは見た。
「……気持ちいいな。君は、こんなことまで知っているのか」
「宝石の活用法ですから! 殿下の瞳が曇ると、私の研究に支障が出ますからね。……あと、クマができてると、せっかくの美貌が台無しですよ」
リリアはぶっきらぼうに言いながら、もう一つの石でアレクセイの手のひら(魔力の放出口)をマッサージし始めた。 その手つきは優しく、とても「研究対象」を扱う手つきには見えなかった。
「……ふふ。君には敵わないな」
アレクセイは瞼に石を乗せたまま、口元を緩めた。 それは、カイだけが知っている、幼い頃のような無防備で優しい微笑みだった。
「ありがとう、リリア。……楽になった」
彼はそっと、マッサージをしてくれるリリアの手を握り返した。 その仕草は自然で、彼自身も無意識のうちに彼女に安らぎを求めているようだった。
その光景を見ていたカイは、握りしめていた拳をゆっくりと開いた。
(……あんな風に、殿下が誰かに身を委ねる姿を見るのはいつ以来だ?)
リリア・アメジスト。 最初は、殿下の瞳を狙う不届きな変人だと思っていた。 だが、彼女は殿下の「宝石眼」を利用しようとするのではなく、その輝きを守るために、こうして甲斐甲斐しく世話を焼いている。 そして何より、殿下自身が彼女を受け入れている。
「……ふん」
カイは短く鼻を鳴らすと、無言で部屋の入り口にある「執務中・入室禁止」の札を掛け直した。 そして、中でお茶の用意をしようと動くリリアに向かって、ぶっきらぼうに声をかけた。
「……リリア嬢」
「はい? なんですか、やっぱり追い出します?」
リリアが身構える。カイは視線をそらし、ボソッと言った。
「……茶葉なら、一番上の棚に『カモミール』がある。殿下は、疲れている時はそれがお好みだ」
リリアは目を丸くし、やがてパァッと花が咲くように笑った。
「! ありがとうございます、カイさん!」
「……礼には及ばん。殿下のメンテナンスの一環だ」
カイは再び直立不動の姿勢に戻ったが、その纏う空気は、以前のような「鉄壁の拒絶」ではなく、どこか柔らかな「信頼」へと変わっていた。




