第五話:翠緑の聖域と、母の記憶
ウィルフレッドに教えられた場所は、王宮の奥深く、鬱蒼とした木々に隠されるようにひっそりと佇む古いガラスの温室だった。
「ここね……。カイさんに見つからないように、慎重に……」
リリアはドレスの裾をからげ、猫のように音もなく忍び寄る。 ガラス越しに中を覗くと、そこは外の世界とは切り離された楽園のようだった。手入れされた美しい花々、そして天井から降り注ぐ柔らかな陽光。
その中心にあるベンチに、アレクセイはいた。
(いた! ……あれ?)
いつものように本を顔に乗せて寝ているかと思ったが、彼は起きていた。 彼は一本の白い花を指先で優しく撫でながら、どこか遠くを見るような、寂しげな横顔をしていた。
リリアは鑑定士としての本能で、息を呑んだ。 今の彼を覆う空気は、いつもの「やる気のないサボり魔」でも、「危険な夜の王子」でもない。 ガラス細工のように繊細で、触れれば壊れてしまいそうな――少年の顔をしていたからだ。
「……母上」
ガラス越しにかすかに聞こえたその呟きに、リリアは足を止めた。
(母上……? そういえば、第四王子の御母堂様は、身分が低く、彼を産んで間もなく亡くなったと聞いたことがあるけれど……)
アレクセイは、自分の瞳と同じ、深い緑色の葉を愛おしげに見つめていた。
「この場所だけは、変わりませんね。……僕の瞳の色のように、コロコロと変わったりしない」
自嘲するような響き。彼は、母の思い出の場所でさえ、自分の「変化する瞳」を呪っているのだ。
リリアの胸に、鑑定欲とは違う、チクリとした痛みが走った。 気がつくと、彼女は隠れるのをやめ、温室の扉を開けていた。
「……変わらないことが、そんなに良いことですか?」
「!?」
アレクセイが弾かれたように顔を上げ、同時に、物陰で待機していたカイが殺気立って動こうとする気配がした。 だが、リリアは構わずに歩み寄った。ルーペも構えず、ただ真っ直ぐに彼を見て。
「誰だ……リリア、か? なぜここが……」
警戒心を露わにするアレクセイに、リリアは花壇の前にしゃがみ込み、彼が見ていた白い花を指差した。
「このお花、素敵ですね。でも殿下、ご存知ですか? 植物だって、朝と夜で葉の向きを変え、季節ごとに色を変えて生きています」
彼女は顔を上げ、木漏れ日の中で翠緑に輝く彼の瞳を覗き込んだ。
「お母様との思い出の場所なんですね。……とても美しい場所です。そして、その美しい緑色の風景を映している貴方の瞳も、今、この温室で一番美しい宝石です」
「……え?」
「変わることは、悪いことじゃありません。だって、今の貴方の瞳は、お母様が好きだったこの温室の色と同じ、優しい緑色をしているじゃないですか」
リリアは、いつものような早口のオタク語りではなく、ゆっくりと、噛みしめるように言った。
「私は、この優しい緑色が大好きですよ。……あ、もちろん鑑定士として、色味と彩度の話ですけど!」
照れ隠しのように付け加えた言葉に、アレクセイは呆気にとられ、やがて――ふっと力を抜いて笑った。 それは、カイがずっと見ていなかった、皮肉や諦めの混じらない、年相応の少年の笑顔だった。
「……はは。君には敵わないな。母上の思い出に浸って湿っぽくなっていたのが、馬鹿らしくなってきたよ」
「えっ、馬鹿らしいって何ですか! 私は至極真面目に褒めているのに!」
「わかってるよ。……ありがとう、変な鑑定士さん」
温室の入り口で、剣の柄に手をかけていたカイは、その手をゆっくりと離した。
(……殿下が、あんな風に笑われるのは、いつぶりだ?)
この場所は、殿下が唯一、亡き母君を思い出して心を休める聖域。 本来なら、土足で踏み込んだ部外者は即座に排除すべきだった。
だが、あの令嬢――リリア・アメジストは、殿下の「呪い」だと信じている瞳の変化を、「母君の庭と同じ色だ」と肯定し、殿下の孤独に寄り添った。
『カイ殿の弱点は、殿下が心からリラックスされている姿にはめっぽう弱いことです』
ウィルフレッドの言葉が脳裏をよぎる。
カイは一つ大きなため息をつくと、気まずそうに視線を逸らした。
「……今回だけだ。今回だけ、警備の目を盗まれたことにしておこう」
鉄壁の騎士の防御に、小さな風穴が開いた瞬間だった。




