記憶のお話
――何かが消えていく。
誠の中にあるものが吸い取られ、目の前の杯に溜まっていく。
それは記憶だ。この世界に来る前の、自分が生まれてからこの世界に来るまでの全ての記憶。
家族や世話になった教師たち、何度も一緒に遊んだ学友たちの顔や性格、それらが全部消えていく。
自分という存在そのものが消えていくような感覚。後に残るのは、こっちの世界に来て半年もない記憶のみだ。
「……っはは」
「…………」
「ははははははははははっ! マジか、お前マジか! やっべぇ面白すぎる! 自分の記憶全部明け渡す奴なんて初めてだ!」
笑い声に反応するように目の前の杯が揺れ動く。心の底から笑いながら彼は言う。
「いいぜ、契約を果たそう。俺の全部をお前にくれてやる! これで空間を司る力はお前のものだ!」
「……そりゃどうも」
くらりと、誠の体が揺れる。倒れそうになった誠の体を、呆然と見ていたファニーとマーチェが反射的に支える。
「ちょっと誠!」
「大丈夫ですか誠さん!」
見れば誠の顔は青く、尋常じゃない量の汗を流していた。フラついたのは脱水症状だったのかもしれない。
「……えーと、ファニーさんに、マーチェさん? ……うん、名前は言える。うん、どんな人かも分かる。良かった、ちゃんとこっちの記憶は残ってる」
「っ! 貴方、本当に記憶を……」
「大丈夫。ファニーさんたちのことは覚えてるから……」
二人の手を借りながら誠は立ち上がる。椅子に座らせてもらい、一息ついた後に視線を杯へ向ける。
「それで、ペンシャでいいんだよな?」
「エビルから聞いてたか? そうだ、俺の名前はペンシャ。空間を司る神の子だ」
「そんじゃあ質問なんだけど、お前の力で過去に戻ったり干渉することはできる?」
「…………」
ファニーが期待するような、不安そうな視線をペンシャへと向ける。拳を握りしめ、ペンシャの台詞を聞き逃さないようにしていた。
対して、ペンシャはつまらさそうに言う。
「無理に決まってんだろ馬鹿か。そんなことができるなら、そもそも俺らは存在してねえんだよ」
「……そんな」
ペンシャが当たり前のように言った台詞で、ファニーの顔が絶望に満ちる。一歩二歩と下がり、床の機材に足を引っ掛けて転んだ。
派手な音がし、体を強く打ち付けたはずだが、ファニーは痛みを訴えることなくただ呟く。
「それじゃあ、それじゃあ私のやってきたことはなんだったんですの。何もない、何もないじゃありませんの。やり直し? 神以上のものなんて、この世界にあるわけない」
「ファニー……」
マーチェがファニーに近づき、ファニーの手を取った。その手を握りしめるマーチェを見て、ファニーが呟く。
「もう、戻ってこない。あの子は、あの子と一緒にいたあの時間は、戻ってこないんですのね……」
そう呟いた瞬間、ファニーの目から涙が溢れた。
限界だったのだろう。空いた手で目を覆い隠し、静かに泣き出した。
誠は口を開きかけ、少し迷ってから閉じた。ファニーの悲しみを理解できない他人に何か言われても、ファニーには届かないだろう。
「……もう一つ質問。さっきお前に俺の記憶渡したわけだけど、その記憶で手に入る情報を元に俺のいた世界に行くことはできる?」
「…………」
暫くの間考え込むような沈黙が続き、ペンシャは答える。
「それも無理だ。俺にはお前のいた世界に行く方法がさっぱり分からねえし、何より俺ら神の子はこの世界の力を司る存在なんだよ。この世界で好き勝手はできるだろうけど、お前の世界にまで力を及ばせれるのか分からん」
「やっぱりかー。まあもう戻る気もないけどな。どうせ何も覚えてないし」
そう言いながら誠は立ち上がる。いつの間に顔色は元に戻っていた。水の力で水分でも取ったのか。
立ち上がって一歩踏み出した所で、誠の動きが止まる。視線をファニーへと向け、少し口を開きかけるのを繰り返す。
ファニーの言う『あの子』がどんな子なのか全く知らない。だがファニーが何をしてでも取り戻したいと思うほど大事な人だというのは分かる。そんな大事な人がもう戻ってこないのだと知った悲しみは大きいだろう。
(そんな傷心状態のファニーさん放っとくのは駄目だよなうん。でもなんて声かければいいんだよ分からねえよちくしょう。あー駄目だヤバイ『ゲーム』とかにはなんかいい台詞あったのかもしれないのに、順番間違えてるだろこれ)
今の誠に残っていることは少ない。この世界に来てからの記憶に女の子を慰める情報なんて存在しないので、ファニーにかけるべき言葉が見つからない。
「……誠さん」
「え?」
そうやってあれこれ考えていると、マーチェが声をかけてきた。マーチェはファニーの手を握ったまま、明らかに無理をしている笑顔を見せてくる。
「すみませんが、少しの間放っておいてください。ファニーには私が付いてますから」
「え、あー……はい。よろしく」
どうも気を使われたらしい。マーチェだって思うことはあるはずなのに、気を使わせてしまったことを誠は恥じる。
大人しくペンシャを連れて部屋から出て行くことにする。するのだが、
「…………」
部屋を出る直前で、誠は足を止めた。振り返り、ファニーに話しかける。
「……やっぱ一つだけ言っとくよファニーさん」
「…………」
「さっき何もないとか言ってたけど、それだけは訂正させてもらうよ。……ファニーさんが結局何をしてきたのか、詳しくは知らないけどさ」
ファニーからは反応がない。聞いているのかも分からず、ただ涙を流し続けているだけだ。
それでも気にせず誠は続ける。結局の所、誠がそう言いたいだけなのだ。
「何もないってことだけは絶対にないよ。現に、俺が助かってるじゃん」
「……え」
「そりゃまあ、俺がエビルを持ち歩いてたことから利用してやろうとか考えてたのかもしれないけど、それでも助かったことだけは確かなんだよ。多分、ファニーさんは似たようなことをし続けてるんじゃない? ファニーさんの目的は別だったかもしれないけど、その結果助けられた人たちが沢山いるはずなんだよ。だから、『何もない』ってことだけは訂正させてもらう」
「…………」
「言いたかったのは、うんこれだけ。……俺の言ってることただの予想じゃねーかって信じれなかったら、マーチェさんに聞いてみてよ。マーチェさんが一番、ファニーさんに助けてもらった人だろうし」
それじゃあ、と言って誠は逃げるように部屋から出て行く。早足気味に歩いていると、ペンシャがこんなことを聞いてくる。
「しっかしお前さん、そんなこと考えてたのか」
「いきなりなんだよ」
「いや、さっき記憶取った時に、お前がエビルたちにどんなこと思ってるのかを見ただけだよ」
「…………」
「なあ」
ペンシャは誠の前に回り込み、笑い声を抑え込みながら誠に問う。
「お前が何を思ってるか、エビルたちに言っていいか?」
「好きにすれば」
「……あ? おいおい、俺は本気だぞ? お前エビル共に何されるか分からんぞ?」
即答した誠に驚きながらも、ペンシャは煽るように言う。だが誠は対して興味がなさそうにこう返す。
「それも予想した上で言ってるんだよ。好きにしろって」
「……おいおい、いいのか? もしかしたら神の子全員でお前を潰して別の依代を見つけに行くかもしれんぞ?」
「……ペンシャが見たのは俺の記憶。契約からして当然だけど」
「……何の確認だ」
「わかんないか。やっぱ神の子はどいつもこいつも無駄に長生きしてるだけか」
呆れたように言いながら誠はペンシャを手に取り、呟く。
「……お前らの知らない知識で、お前ら程度ならどうとでもなるって言ってるんだよ」
「…………」
誠の台詞を聞いてペンシャは黙る。誠の記憶から何かを得られないかと探しているのかもしれないが、無駄だろうと思う。
さっきみたいな煽りをしてきた時点で、誠の勝ちが決定しているも同然なのだから。
黙ってしまったペンシャを放っておいて、誠は歩き出す。
とりあえず、今日の夕飯の支度をしないといけない。




