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三、花房山の化け狸


十月。

ようやく修理が終わり、市内から帰って来たミニクーパーに乗って、修二は湖畔を走っていた。この村の隣村は大きな川筋にあったので、十年ほど前にダムの建設が行なわれ、今は巨大なダム湖に沈んでいるのだ。谷底に溜まった水はどこまでも深く青く、それが紅葉の始まった山々の尾根へ伸びる風景は、普段田舎というものに飽き飽きしていた修二も、さすがに感動するほどのものだった。

「すっごいねえ莫迦人間。いい景色だねえ」

 助手席から高い声がする。ちょこんと、片手にコーラの瓶を持って座りこむ幼女は茶斑の短髪にワンピースのような赤い服を着て、律儀にシートベルトを締めていた。

 その名を躑躅ヶ崎呉羽という。

「山に住んでるなら、これくらい見慣れたもんじゃないのか?」

「うにゃにゃ、神通力のある連中ならともかく、私らはご飯捜すのも一苦労だからねえ。腹も膨れて寝床もあったかくて、それでようやく景色なんて見る余裕が出来るってもんさ。『花より団三郎』だっけ? 人間共もそう言うじゃないか」

「――『花より団子』だろ」

「そうだったっけ。まあどうでもいいよね。そんな些細なことはさあ」

 呉羽が修二のボロ屋敷、二人目の奇妙な同居人となったのはつい最近のことだ。先だっての事件――『餓鬼』なるもののけとの闘争の末に、呉羽はしょっちゅう修二の家に遊びにくるようになった。それが夕飯目当てであることは明白だったが、それでもいたいけな幼女の体を無碍にも出来ず、すると呉羽はいい気分で寝てしまい、起きて、また夕飯を食べに来て、また眠った。一周間もすると私物を持ち込み始め、見る見るうちに六畳の部屋をひとつ占領する。まさに、「軒を貸して母屋をとられる」というような、そんなずうずうしい顛末だった。

 あの日以来、呉羽はすっかりこの自動車というものを気にいったらしく、修理が終わって戻ってきたミニクーパーを見て、「どらいぶ! どらいぶがしたいよ!」とわめいた。幸いに村の周りには、まるでドライブ専用とでもいえるような走りやすい景色のいい道がいくらでもあったので、最近遊びに出掛けていなかった修二は気軽な気持ちで、呉羽を乗せてあてどなく出かけたのだった。ちなみに玉簾は自動車が嫌いで、絶対に一緒に乗ろうとはしなかった。

 晴れ渡る秋空は高く、澄みきった風は心地よい。家を出てから二時間弱、たどりついた所は、ダム湖を望む小さな公園。

 修二は適当にミニクーパーを駐車する。

「さて、とりあえずこんなところかな――っと。昼飯にしよーや」

「うわーいっ! 湖だよ湖! 広いねえ綺麗だねえ」

 飛び跳ねる呉羽はいやにテンションが高い。

「まあ確かに広いけど……海のほうがはるかにでかいぞ」

「うみ? なんだいそりゃ」

「まさか、海見たことないのか? え? 嘘だあ……流石にそれは嘘だろ」

「あぁ……? あぁ、うんうん知ってる、知ってるよ『うみ』! アレだろあのなんていうかなー、でかいよなーあれー。鯉とかめちゃくちゃいっぱいいるしねー」

 どうやら本当に知らないようだった。

「そうか……可哀そうだな、お前」

「どこがだよ! くそう莫迦に莫迦にされるほど口惜しいことはないよ!」

 今日はランチバスケットに、おにぎりを山のように入れて持ってきている。

 ドライブと言うか、ピクニック気分ではあるが――修二自身、こんなのどかなピクニックなど小学生以来で、少しだけ懐かしい。

 というか去年の今頃はまだ大学生だったわけで、学生気分というやつがすっかり抜けている自分に改めて気付いてみたりする。呉羽を見る眼も、まるで父親のそれだ。

 そんなことを面と向かって言えば、きっとすねてしまうのでとても言えないのだが。

「ばーか!」「ばーか!」「ばーぁ」「ばー」「―ぁ」

 無意味に湖に向かってこだま遊びをしている呉羽は、本当に小学校低学年の子供にしか見えはしない。

 けれど自称、五十歳。

 化け猫としては若いそうだが――いやはや。

 あの屋敷では修二が一番年下なのだと思うと、ちょっと複雑な気分になる。

「きゃはは! 木霊がいるね莫迦人間!」

 半世紀生きていても、頭はあんまり良くならなかったらしい。

 おにぎりをほおばって、修二はぼんやりと空を見た。

 高い高い、秋の空だ。



 山本竜児は――ようやく先週、小学校に帰って来た。

 市内の病院にずっと、入院していたのだ。特にこれといった怪我のせいではない。精神の問題である。

 突然の父親の死、続々と発生する理解不能の存在――そういうものを簡単に許容しろというのは、土台に無理な話なのだが。それでも回復は非常に早かったようで、半月近い入院の期間は病状のせいというよりも、医者が様子見をしていたせいだということだ。

 修二はあれ以来、竜児に会ってはいない。

 別に避けているわけでもないが。

 すべて夢だったと思っているなら、それはそれで悲しく。

 すべて現実だと理解していても、それはそれでなんとも言えず。

 かける言葉のひとつも見つからないうちには、会った所で意味などはない。

 小林先生によると、なんだか激烈に元気で逆に怖いという話だ。

 それならばそれで、べつにいい。

 修二はそういう風に納得した。

「おーい。飯全部食っちまうぞ!」

 気付いたらやけに遠くの木立にまで行っていた呉羽に、修二はでかい声を出す。

「おおぉーい」「おぉー」「おー」

 こだまが長く伸びた。

 飯という単語に反応してであろう、呉羽は迅速な挙動で帰還。

「全部なんて食えるわけないね。なぜならそこには私特製の“野ねずみ握り”が入っているからねえ」

「……」

「いっただっきまーす」

 無言で殴った。

「にゃにするんだよ莫迦! 痛い!」

「人ん家の台所でなにを作ってるんだお前は……」

 ――常識。

 法力よりも、常識をつけよう。

「お前には明日から特別訓練を行うぞ」

「にゃ! にゃんだってー!? 何をするっていうんだい?」

「算数国語理化社会……いろいろあるがな。まずは一般常識からだ」

「さんす? こくごり? かしゃかい? いっぱ? じょ?」

「……頑張ろうな」

「わかったよ! よくわからないけどわかった! 楽しみだねえ莫迦にものを教えてもらえるなんて! いやあ楽しみだねえ」

「明日の今頃に同じ言葉を吐けると思うなよ」

「へっへーん! どんなことでも出来ないことなんて、この呉羽様にはありゃしないんだよ!」

 そう言って呉羽は嬉しそうにおにぎりにかぶりつく。

「あ、ほういえばはっき、ひょうなものをひたよ」

「ひょうなもの?」

 もごもごと咀嚼をしながらなので、甚だ言葉が聞き取りづらい。ごくりと喉を鳴らして呑み下して、呉羽は改めて「妙なものを見た」と言った。

「なにを見たんだ?」

「来ればわかるよ! 来るんだ莫迦!」

 自分の食事が済んだので、もう修二の食事はどうでもいいらしい。

 ううむ。

 なかなかこいつを教育するのは、一筋縄ではいかないだろう。

 車を停めている野原を越えて、切れ落ちたダム湖への崖を横目に進むと、その草地が木立に変わる場所に到着した。

「ほうら! こりゃいったいなんだい?」

 呉羽の指差したそこは木立の陰。薄暗いそこにひっそりとあったのは、何者かの――

 墓石、だった。

「おいおい……何を見つけたかと思ったら……」

「もしかしてあれかい? うまいのかい?」

「んなわけあるか! こりゃどう見ても墓石だろうが!」

 ボロボロ、というほどに朽ちてはいない。誰かが手入れをしているらしい、小奇麗な墓だ。といっても大きな立派なものというわけでもなく、自然石をそのまま立てたような形の墓標には、ただシンプルに「小林團三郎之墓」とあった。

 野菊がひと束、その前に添えてある。

「はかいし? ああ、なるほどねえ私字が読めないからわかんなかったや」

「古くもない、なあ。こんな所に作って、墓参りも大変だろうにな」

「大変ですよ。冬は除雪車もここまでは来ませんから、事実不可能です」

 突然背後から声をかけられた。

「へぇぁ! あ……小林先生」

 小林先生、小林眞美先生が、野原の真ん中に立っている。薄手の白いシャツに、片手に提げているのはランチバスケットなどではなく。

 手桶と柄杓、もう片手には線香と花束。

 墓参――だった。

「――小林先生の、御親族ですか」

 ふふ、と、口の端で笑う小林先生はしかし、修二ではなく呉羽の方を向く。

「あら、こちらお子さんですか? 可愛らしい」

「聞き捨てならないね! 呉羽はお子さんなんかじゃあないよ! これでも阿蘇は御寝子山にて八十八夜の苦行を積んでは……」

「ああ、ごめんなさい親戚の子です。うるさくてですね。もてあましますよ」

 呉羽の口上を打ち消して、修二は誤魔化すように笑った。

 にやにや。

 にやにや。

 ――あまりにもわざとらしいが。

「何歳なの? えっと……名前を御姉さんに教えてくれる?」

 かがみこんでお姉さん口調で話す小林先生。

「五十歳だよ! 名前は躑躅ヶ崎呉羽さ!」

「すっごい! とても五十歳には見えないねー呉羽ちゃん」 

 褒められて嬉しそうに呉羽は背筋を伸ばした。

「へへん! だてに苦労はしてないからね」

 おいおい、馬鹿にされてるぞ。

「この子は虚言癖がありまして、本当は十歳なんです」

「きょ、きょげんへきってなんだよ!」

「嘘吐きってことだよ。ちょっと静かにしててくれ」

 私は嘘吐きじゃないよーと叫びながら、それでも呉羽は木立に駆けこんで行った。突っ立っているのに飽きたらしい。

「元気ですね。私が十歳の頃なんてもう、大人しすぎて死体だと思われてましたよ」

「死体に間違われたことは無いですが……俺も大概、ダウナー系でしたね」

 どうやら小林先生に、呉羽の正体は掴まれなかったようだった。

 呉羽の外見はけっこう異様――茶斑のざんばら髪に、うっすらと長い毛の生えた手足――なのだが(ちなみに服は幼稚園の制服を野戦用に改造したような、不思議なやつだ。これについて形容も説明も可能な言葉を修二は知らない)案外にそうでもないのか、それとも小林先生が綺麗にスルーしているのか、そこはよくわからない。

「でもあれくらいの歳の子は本当に、可愛い盛りですよね」

 木立ではしゃぎまわる呉羽を見る小林先生の眼は、どこか遠い。

 最早記憶に埋もれた、子供時代を思い出しているのか。

 小林先生はしかし、唐突に修二へ振り向いた。

「ああ、説明してませんでしたね。これは――この墓は、祖父の墓なんです。私の家族は昔、この村に住んでいまして」

 この村に、と言って指した先には、ダム湖。

 修二は言葉に詰まった。

 小林先生は故郷を――失っているのだ。

「祖父はダムが出来てから亡くなったんですが。それでもこの村がよく見える、ここに墓標を立ててくれと遺言していましてね。それでこんな、不便なところにぽつんと」

「そう――ですか」

「ええ。そして今日は祖父の命日なんです」

 小林先生は墓石に歩み寄ると、柄杓で桶の水をすくい、何度か墓石にかけた。そして線香の束を、マッチで軽くあぶる。

 濡れた墓石はまるで生き物のようにぬめって見えた。

 線香の細い煙が、その鼻をつく香りと共に青空へ流れる。



 玉簾は一人で山道を歩いていた。もとの棲家である丁子山の神社へ向かう小路だ。

「まったく……手入れしねェとすぐ草が生えちまうな」

 下草は夏の間にひどく茂って、砂利道はまるで獣道ででもあるかのように細く、か細い物へとなっていた。

 実際問題として、縮地が使える天狗に道はあまり重要なものではない。しかし、そこに道があるという事実自体が必要なのだと――玉簾は知っている。

 元は人間だった天狗は、人間らしさを無くすわけにはいかないのだ。

 だからこそ、山中とはいえ人の匂いがのこる神社に棲む。手入れをしない建物はいとも簡単に藪へ沈むので、定期的な修理や補修は欠かせない。

 まあ、能力的にはまったく難しい話でもないのだが。

 小指を振ればそれで足る。

 ところが、最近は麓の人家なんかに居座っているせいでまったくこれがはかどらない。

 本当は、神社が治るまでの腰掛け気分で棲みついた人家――修二の屋敷だが。

 どうにも人心地がついて、ずるずるともう二カ月以上も経ってしまった。

「潮時ってやつを見極めなきゃねェ。あいつもずっとあそこに居るわけでもないだろうし」

 修二は教師らしい。教師というものがどういう勤務体制なのかは知らないが、十年二十年と長くひとところに留まる仕事でもあるまい。

 そうでなくとも、人間が避けられない問題もそこにはある。寿命というやつだ。

 人間の身体は脆い。それを痛いほどに、玉簾は理解している。

 長く生きても百年。常人の十倍以上の寿命を持つ天狗としては、まるで犬か猫とつきあっているようなもの。

 別離は避けられないのだが。

 わかっているからといって、そう素直に感情が動くわけでもなく。

「難儀なもんと付き合いを、持っちゃったもんだな……」

 玉簾は苛立たしく下草を蹴った。

 がさり。

 何かが藪の中で蠢いたのを、玉簾の眼は逃がさない。それは息を殺しているようで、気配もまた朧げだ。しかし隠しきれない、幽かに漂うこの臭いは――間違いなく、獣臭。

 野生の獣は玉簾の前で息を殺さない。獣は本能的に、相手の敵意に対応して動くからだ。そして玉簾は脳味噌のない獣に敵意を向けるほど、ぶち切れた闘争心は持ち合わせていなかった。

「――出てきな」

 静かな声が木立を渡る。

 そろそろと、それは低い灌木から顔を出した。濃茶の体毛、黒い隈取り、知性を秘めた小さな瞳はまさしく、狸だった。

「おい狸公、なんか用か?」

 返事はない。

「しらばっくれるなよ。ココがちゃあんと詰まってるってことは、お前の眼を見りゃ丸わかりなんだよ」

 ココだよ、と軽く頭をつついて、玉簾は一歩ずつ狸へと近寄った。縮地で瞬間的に手のひらへ握りこんだ錫杖が、しゃん、と澄んだ音を立てる。

 狸は怯えたふうを見せたが、しかしまるで覚悟を決めたかのように、そこへ座りこむ。切れあがった口を開いた。

「……全て御解りで」

「馬鹿野郎。狸ごときが天狗を誑かそうたァ、百年早ェんだよ。で、なんの用だァ?」

「……」

 狸は後足で立ち上がると、一瞬液体のように透き通り、その姿を変貌させた――墨色の僧衣を来た、修行者の姿だ。

「天狗よ。命が惜しくば此処を去るが良い」

「はン! なにを言うかと思ったらおいおい、けもの風情が脅迫か? 馬鹿馬鹿しいなァんてもんじゃあねェな」

 修行者姿の狸は編み傘をどこからか取り出すと、目深に被った。

「貴様等の様な雑多極まる物の怪が跋扈できるのもこれが最後なれば、吾等に下ると言うなら考える所も在ったものの、いやはや気炎は上等か」

「訳のわからねェことを言ってんじゃねェぞ」

「……ふ、せいぜいはしゃいでおればよいわ。では御免」

「な、待てよコラッ!」

 ぶうん、と振り降ろされた錫杖は空を掻き。

 狸は溶けるように消え去った。

「……」

 どうやら、この間から一月とおかずに闘争の芽が生まれたらしい。だが、それでも別にかまいはしない。

 天狗は喧嘩好きなのだ。

 それがどんなものであっても。



 紅葉がかさかさと音をたてる。

 黄土色の無機質な平面、グラウンドの周りにはまるで染め上げたかのような紅葉と銀杏が、こんもりとせり出した山肌に満ちている。

 季節を考えるとまだ早い紅葉だ。しかし山地の村は標高も高く、そのぶん冷え込みもまた激しい。少し下った隣村――今のダム湖では、ここまで見事に紅葉は盛っていない。ほんの百メートルほどの違いだが、それでも気候に与える影響は大きいのだ。

 修二は教室の窓辺に立って、そんな風景をぼんやりと見つめていた。

 頭に浮かぶことは、どうしようもなくとりとめのない雑多なあれこれ。

 それは夏から始まった、理解のし難い出来事。そして出会いの数々。

 ――あるいはさとり。

 ――あるいは狐。

 ――あるいは山猫。

 ――あるいは女天狗。

 奇怪といえば奇怪で、呑気と言えば呑気な――隣人と言っていいのか、それとも厄介者と言うべきなのか。

 幾度となく考えて、理解しようともしたが、しかし何がどうなっているのかさっぱりわからないことばかりで。

 もはや、半ば思考を放棄しているような、そんな状態と――言えなくもなかったが。

 それでも修二は、二カ月をそんな連中と暮らすことによって。

 情が移ったのだろうと、修二は思う。

 そしてとある見解を得た。

 なんだかわからないモノは、なんだかわからないのだ。

 そこに理解は要らない。

 ただ、彼女等が――彼女が、存在しているという事実。

 いるものは、いるのだ。

「我ながら訳がわからねえんだが……」

「なにがですか?」

「ひょわ!」

 修二は変な声を出して倒れた。小林先生が背後に居た。

「危うく窓から落ちかけましたよ! せめて声くらい掛けてくださいよ!」

「声なら今、掛けましたが」

 まあ、そうなんだが。

 そういう意味ではない。

「いやあ、なにか嵯峨野先生、物思いに耽ってらしたようで。声を掛けづらかったんですよ――で、なにが訳わかんないんですか?」

 小林先生は珍しく、黒いワンピースを着ていた。普段は白い服をよく着ているのだが。ワンピースの下には黒い小さな革靴、うなじを見せるようにひっ詰められた髪はこれも、烏漆に黒い。

 それは少しだけ、喪装を思わせる。

「……あは、なんでもないですよ。どうしようもないことです」

 明朗快活で穏やかな小林先生とはいえ、話を聞かせるわけにはいかなかった。

 話してみたい気もするが。

 修二は誤魔化すように、へらへらと笑ってみせた。

 ――なんか昨日も同じことをしたような気がするが。

「隠し事ですかー? そういうの嫌いですね」

 しかしやはり小林先生もへらへら笑って、修二の隣に並んで、窓辺に腰掛けた。

「あ」

 何かに気付いたように、小林先生は窓外を指す。

「どうしたんですか?」

「ほら……狸が」

 修二が見ると、ちょうど紅葉の低い茂みから一匹の狸が顔を出したところだった。

「へえ! 狸なんて初めて見ましたよ――本当に顔が黒いんだなあ」

 修二は妙に感動した。

「この辺にはいっぱい居るんですけどね。なかなか姿は見せないんですよ。彼等けっこう、賢いですから」

「へえ」

 狸はなにをするでもなく、鼻をヒクつかせながら地面を見つめている。もしかしたら食べ物でも探しているのかもしれない。

「狸って人を化かすっていいますよね」

 ふと、修二は思ったことを口にしてみた。

 それに対する、小林先生の答えはない。

「先生……?」

 小林先生はじっと、射るような目つきで狸を見つめている。

 瞬きひとつ、しない。

「先生、大丈夫ですか」

「……あ、ああ! はい大丈夫です。いやー私も久しぶりに狸を見たんで、けっこう見入っちゃいました」

「そう、ですか」

「……こんな所に出て来て……まったく」

 その言葉は狸に向けられたものだったのだろう。

 狸は不意に顔を上げて、修二たちに気付くと踵を帰して藪に消えた。

「臆病なんですかね。狸は」

 小林先生は、修二に正対した。

「臆病ではありません。人間の怖さをよく知っているからこそ、逃げるのです――賢明なんですよ」

 その言葉はいやにきっぱりとしていて、修二は少したじろぐ。

「――なんて。あはは、そんな顔しないでくださいよ。今のは私の感想です」

「感想――」

 狸を見た感想? 

 そうではない。狸を知っているからこその、狸と距離の近い人間の、言葉。

 どうやら小林先生も、隠し事をしているようだ。

 その夜には、雨が降り始めた。



 深夜。

 眠っていた修二は、ひどく乱暴な物音に目を覚ました。

「なんだぁ……?」

 それはなにかを引き摺るような、重い音。幽かにその合間から呻き声のようなものが聞こえる。

 布団を弾いて座敷へ向かった。玉簾の声も、呉羽の声もないということは二人とも出かけているのだろうか。

「……ぅう」

 座敷の襖を開け放った修二は、ぶち破られた障子を見た。その障子は南側の庭に面したもので、その縁側に倒れ伏した、おそらくは障子をぶち破った本人であろうそれは――見覚えのある、白狐。

 綺麗な白い毛並みはびっしょりと濡れている。戸外で降る雨のせいもあるだろうが、しかし全身に広がる赤黒いしみは、もちろん雨水ではない。

「――ッ――転、か?」

 息を呑んだ修二を、転は弱弱しい瞳で見つめて、頷くように首を動かした。

「……ぎょく、れんを……呼んで下さい……」

「どうしたんだ! この怪我――くそ、今玉簾はどっかに出てる。すまないが俺からは連絡がつかない」

「焦る必要は――ねェぜ」

 ちゃりん。

 錫杖の軽やかな音と共に、気付けば玉簾は背後に居た。

「とにかく、転の具合を見てやらねェと。嵯峨野、こいつを座敷に上げてやってくれ」

「な、なんかあったのか! また――」

「うるせェ! 説明は後だ。とにかく言われたことくらい、しやがれ」

 玉簾はどたどたと縁側に走り寄り、雨雲の低い空を見上げ、それから遠く暗い山と木立を見つめた。修二は黙って転を座敷の畳へ起こしてやる。とりあえず布団を運び出して、そこへ狐の細い身体を寝かせた。

 布団に血がじくじくと染みる。

「ふん! ……どうやら追っては来てねェな。転、喋れるか?」

 玉簾は壊れた障子を乱暴に閉める。折れた木材が少し落ちたが、なんとか形はそのままに障子は残った。

「……一応は……」

「昨日おかしな奴に遭ったんで、何か知ってるか朔日に聞こうと思った矢先にコレか。とりあえず此処は結界で守られてるから、落ち着いてろよ」

「結界……?」

 修二は口を挟んだが、それは玉簾に全く無視された。

「その話はいずれ……嵯峨野さん……。玉簾、とりあえずその口ぶりでは……どうやら私を狙ったもののことを少しは、知っているようですね……」

 転の吐息は絶え絶えとしている。修二がなにも出来ずに(なぜか修二はいつのまにか救急箱を持っていた。どこからどうやって持ってきたのか、全く覚えていない。しかし化け狐に消毒液をかける気にはなれなかった)慌てふためいているうちに、玉簾は転の枕元にひざまずくと何やらもごもごと口中で唱える。

「陰形の咒をかけた――嵯峨野、ちょっと見てろ。様子を見て来るから。もしかしたら奴等、追って来てるかもしれねェ」

 ぱちんと鞭の鳴るような音を立てて、玉簾は消えた。



 とりあえずタオルでその長い体毛を修二が拭こうとした時、転はただ一言、「狸です」と言って気絶した。

「狸?」

「おう、狸公だ」

 玉簾はすぐに帰って来て、修二の隣に座った。

「まったく……こないだの騒動にひと段落ついて、ようやく神社でも直しにいこーかと思ったらコレだ。どうやら近国の狸らしい。昨日、私んところにも胡散臭ェのが来た――ああ、そう焦らなくてもいいぜ。あたりを探って来たが、なにも気配はねェから安心しな」

 思わず腰を上げた修二を、玉簾は片手でいなした。

「狸……呉羽みたいな感じのか。あいつは猫だが」

「いわゆる化け狸ってェやつかなあ。私もよくはわからんけれど、やり方は紀州の野郎にそっくりだな。頭下げて山ァ貰いに来るんじゃなくって、力づくで奪い取ろうとする感じ」

 転の傷口をじっと観察する。深いであろう、長い傷が腹を裂いて、やがて背に至ろうというところで止まっている。しかし出血はあまりない。どうやら血は止まっているようだ。

「ふん。まあ普通の人間なら即死ものの傷だが、転だってもののけのはしくれ、そう易々と死にゃしねェ。しっかしなあ……来るなら私か朔日かと思ってたんだが、しょっぱなは転か……まぁ、狐と狸は昔っから折り合いが良くねえしな。当然か」

「……」

 また、闘争か。

 修二はもともと喧嘩が好きではない。人を殴れない、人を殴るより先に相手の痛みと拳の痛みを考えてしまう性格のせいで、学生時代にはしばしば情けない目にもあった。部活動に陸上部を選んだのもその結果だった。剣道や空手や柔道は――修二はけして運動神経が悪いわけではなかったが――勝つために相手をぶちのめすという意味で、嫌だったのだ。

 だからこんな、血気盛んな話を聞くのも本当は、あまり楽しいことではない。

 それもボクシングやプロレスのように、スポーツとして行なわれるものと明らかに違った、相手の住居を、権利を奪うための闘争などは、最も修二が厭う種類のものだ。

 もちろんそういった前時代的な理の中にもののけというものが生活しているという事実は、間違いなくそこにあったわけなのだが――なんとか平和裏な解決ができないものか、とも思う。

 できないからこそ殴り合う、殺し合うのだろうが。

 納得しろ、と言われても、はいわかりましたと言えるような問題ではない。

 あの夏の山狗の事件の時には、思考の余地さえない混乱と不可解の中で、修二は天狗に手を貸した。

 しかし冷静になれるタイミングがあったのなら、修二はあの短刀による一突きを、繰り出すことはなかったかもしれない。

 もちろん、こうして過去を判定することに意味などない。

 それでも、釈然とはできないのだった。

 雨音が強くなってきた。水滴が軒を叩く音が、いやにはっきり聞こえる。

「……」

「どうした? 黙り込んじまって。勿論お前に闘えなんて言わないぜ? 只の人間風情が手を出す問題じゃあねェからな」

「……先月は一応、手助けをしたつもりなんだが」

「先月ゥ? お前は瘴気にあてられてびっくんびっくんしてただけじゃねェか。まあ山狗のことは礼を言うべきなんだがな。ただ今回はそう簡単に決着がつくとも思えねェから、お前が出る幕はねェぜ」

「そうか……」

 玉簾は背を向けて、転に向かってまたなにやら呪文を唱える。どこからか取り出した蛤の貝殻を空けて、中の軟膏を傷口に塗り込んで、ついでのようにその開いた口にも含ませた。

「……どうして狸がこうも突然来やがったのか、わからねェのはそこだな」

「どういうことだ?」

 貝殻を投げ捨てて、ごろりと大儀そうに横になって玉簾は答える。

「狸ってェのは団体行動するもんだ。奴らは一匹じゃ絶対に動かねェ――だいたい徒党を組んで、その親分が居る山に皆で住むんだ。この辺にゃ、東の西台山に蜂右衛門だかってやつが二百ばかりの手下を連れて陣取ってるが、しっかしここ五十年は奴らも動いてねェから、きっと別の群れなんだろうな。どこかで負けて一族郎党逃げ出して来たか、それとも多賀あたりから侵略戦争か――紀州は完全に流れの厄介者だったが、あいつが手引きしたとも思えんしなァ……友達少なそうな奴だし」

「狐はその、団体行動ってやつをしないのか」

「ああ、しねェ」

 投げやりに玉簾は言う。

「こいつらは一匹狼だ。いや狼じゃなくて狐なんだが、どうも性格が全然違うみてェでな。私にも狸の知り合いはいねェからそこはわからん」

「そうか――じゃあ、狸と狐の折り合いが悪いってのは?」

「前から思ってたけど、お前私に質問ばっかすんのな。まあ教えるのは好きだからいいんだが、なんか馬鹿みてェ――知らないか? 四国狐狸戦争の話」

 四国狐狸戦争という民話があるのかもしれないが、修二は知らない。けっこう古典は読んだのだが(これでも国語教師だ)もしかしたらもののけだけの中で語られることなのかもしれなかった。

「四国にゃ狐がいない。だから狸が今でもものすんげえ権勢を持ってるんだが、これがなぜかっていうとだな、人間は弘法大師が悪さをする狐を追っ払ったなんて言ってるが、本当は阿波と讃岐の国境あたりで凄まじい狸と狐の戦争があったんだと。どうしてそんなことになったのか、どうんな戦争だったのかは誰も知らねェ。もう千年も前の話だから見ちゃいないが、そう伝えられてるんだ。それで結果狐は負けた。敗走した狐共の死骸で、戦場だった吉野川は真っ赤に染まって水も飲めない有様だったとさ」

「妖怪大戦争か……そういう話、なんかゲゲゲの鬼太郎にありそうだな」

 玉簾は片目をすがめて修二を見た。

「何だよげげげげげげのきたろうって」

「そういう漫画。――じゃあ、逆に言うと狐も狸を敵視してるってことか」

 修二はお茶を淹れることにした。台所へ行き、熱湯の満ちたポットと急須なんかを取る。

「お、茶もたまにはいいもんだよなァ」

「呉羽はどこ行ったんだろう?」

 すうすうと立ち上る湯気が、ポットから流れ出た湯から浮かんでいる。修二はきちんと、一度湯呑みに湯を入れて冷まし、それからお茶を淹れた。淹れあがるなりに玉簾は修二の手元から湯呑みを奪うと、そのまま一気に嚥下する。

「えっほっふェ」

 当然のようにむせた。

「熱ッつー……呉羽? ああ、化け猫のガキか。そういや見ねえなァ。ねぐらで連れとでも遊んでるんだろうが、まあ心配は要らねえや」

「どうして?」

 修二も湯呑みを取り上げて、熱い薄緑のお茶を啜る。

「そりゃ……だってあいつ、たぶん山も持ってないぜ? 偉そーな口は叩くが、あんなのが山一つ持てるのはそれこそ東京あたりの、もののけの少ねェ都会くらいだろうさ。この辺は田舎だからなァ……そんなに甘くねェ。だからそんな雑魚を相手にするほど、向こうもこっちも暇じゃねェし、そこまで非道でもねェだろうな」

 相変わらず雨足は弱まる気配を見せない。破れ倒れた障子は一応立て懸けられてはいたが、その隙間から見える驟雨の中に居るのであろう呉羽は、きっと寒がっているだろう。

「そうか……なら安心というか、心配無用なんだな……あ、そういや玉簾、お前『東京』知ってるのか?」

「あ? 華の帝都だろ? そんくらい知ってるよ馬鹿にするんじゃねェ」

「いや、そうじゃなくて。東京って明治からの名前だろ?」

「明治――そん時ゃ私も、まだ山に籠ってたわけじゃあねェんだよ」

 そう言って湯呑みをあおった玉簾の、横顔はどこか淋しげだ。

 修二はいつか転に言われたことを思い出す。――上位の天狗は大概、もと人間なんですよ。玉簾さんは中の上といった位階ですが、やはり人間だったと聞いています――夏の木漏れ日の下で聞いた言葉。その時にはさして疑問にも思わなかったが、そうか。明治の頃にはこの女天狗も、人間だったというのだろうか。

 しかしそのことについて、触れてみる気分にはとてもなれない。

 なんというか、どうしようもなく複雑で悲しい過去が見えるような。そんな予感がするからだ。

「ま、そんなこたァどーでもいいんだ。今はとりあえず、朔日に話つけてちょっとばかり真面目にこの厄介事を考えなきゃな」

 でも疲れてるからとりあえず寝る。と、言うなり玉簾はごろりと寝転んで、そのまま高い寝息を立て始めた。

 


 人も、もののけさえも知らない、暗い広い洞穴の奥深くにて――苔も生えないそこは二年ほど前から、奇妙な集会場と化していた。

 白々とした夜空の下を眼にも止まらぬ速度で、あるいは飛行し、あるいは駆けて、洞穴に集まる獣たちは、いずれも深い瞳に知性を湛えている。

 やがて五十匹程が集まり、岩場の陰にそれぞれが座りこんだ。

「雨中御苦労だった」

 暗闇を裂いて響く声は、玲瓏として高い。しかしその言葉の主はどこにいるのか、闇にまぎれて判然としない。

「三郎兵衛、戦果を聞こうか。あの南の山狗を攻める手はずであった、八郎狸は未だ戻らぬようだからの」

 三郎兵衛と呼ばれた、一匹の狸は洞穴の広場のようになった岩場に立ちあがる。その毛並みはすぐに溶けるように消え、墨染の衣を纏った雲水へと変貌した。

「手はずは万端なれど、思うたより狐め素早しこく、取逃がしまして候」

 低い声が反響しながら、あたりを埋め尽くす狸の群れに届く。

「取逃がしたか――まあよい、手傷のひとつも与えては来たろうな?」

「無論に。或いは一周間と持たずに死するやもしれぬ程度には」

 おうおうと、どこかの狸が鳴いた。応じるように幾匹かが鳴き合う。ざわざわと鳴き交わす声がこだます。

「ようやったのう」「憎き狐めにのう」「有難いのう」「兵衛はよくやりよって」

「静まれ」

 三郎兵衛は手を伏せて、ざわめきを制した。

「十代目様。報告したきことがございまする」

 高い声がそれに応じた。

「何事か?」

「丁子山の頂上に構える神社、ここには女天狗が陣取っていることは先刻に伝えた通り。先ほどに痛めつけ申した蕎麦粒山の狐めとも仲が良いようで、傷を負った狐めはここへ逃走致した」

「ならばその神社を攻めればよかろうが。三郎兵衛、何故貴様に精鋭を与えておるのか、その意味が解らぬか? それとも天狗が恐ろしうてか?」

 高い声は恐ろしげな叱責の響きへと変わった。群れる狸達は身を寄せて震えるが、雲水は頑として微動だにしない。

「そのどちらでも御座らぬ」

「ほう?」

「狐の手の内は読み、即ち我々二十五の狸軍団神社にて先回り致した。されど狐め、まるで姿を見せませぬ――やがて卯の刻も過ぎ、調べたところ何処かで穏形の咒をかけられておりました。女天狗めが機先を制し、神社以外の隠れ家に匿っていると思われまする」

「なればその、女天狗を始末すればよかろうが」

「天狗めについても調べは付いておりまするが、之こそが大きな障害にて――どうやら天狗、人里にて棲まっておる様子」

「人里――なるほど、武芸で鳴らす貴様が攻めあぐねたもそれが理由か」

「左様」

 暗がりからひとつの小さな影がまろび出る。それは皺だらけの老狸で、化ける力も最早残っておらず、毛深い身体をそのままにしていた。老狸は少しだけ背筋を伸ばすように伸びあがり、高い声の先を見た。

「浦安翁めが申し上げまする。人界へ手出しするはかつての四国狸戦争以来の禁忌、化かし以外の干渉はありえませぬ――どうか里への攻撃は慎まれるように」

 高い声は笑いを含みながら答える。

「ふふ、左様なこと知っておるわ。されどもまあ、私も少なからず人界に干渉しておるがな――まったく、人間には逆らえぬの」

「逆らう逆らわぬではありませんぞ! これは我々狸というものの存亡にかかわる――」

 浦安翁は声を張り上げたが、それを抑えるように三郎兵衛が応じた。

「解りきったことなれば、講釈は不要でござります――しかし、かの戦争より四百年を数える今は、かつて讃岐と阿波の二国を従えた淡路様も国を追われ、かような山奥に閉じ込められている有様――あの権勢を取り戻す為に必要な闘争なれば、人里への手出しはせぬとても、天狗ごときに手をこまねく必要はありますまい」

 三郎兵衛は口の端で微笑む。

「問答はこれ以上無意味。なればこその策、私が既に考案しておりまする――十代目淡路様、いえ今は――小林眞美様でございましたね」



 修二はどうやら座敷で眠ってしまったようで、気が付けば畳目に頬を押しつけて横になっていた。雨は上がっており、破れ障子からすがすがしい朝日が指しこんで、それがごろごろと寝転んでいる玉簾や転、そしていつ帰ってきたのか大人しく寝ている呉羽の顔を照らしている。冷たい、湿った朝の風の様子からすると、時刻はまだ早いようだった。

 乱暴なノックの音がした。きっと大家さんだろう。

 修二は立ち上がって、長い廊下を歩き玄関の引き戸を開けた。

「久しぶりじゃの。人間」

「……ッ!」

 見上げる体躯は転と同じく、やはり白い長い体毛に覆われている。白々とした朝霧と同化して、その姿は輪郭がぼやけて見えた。耳元にまで切れあがった恐ろしげな口だけが赤い。そしてその口中には鋭利な、かつて玉簾の胸を裂いた牙が見えた。

 殿又谷の紀州はくつくつと、籠った声で笑った。

「驚いておるようじゃな。まあ、昨日の敵じゃ仕方もあるまいか……天狗と話がしたい。上がらせて呉れるか?」

 全く予期しない来客の登場に、二の句も継げない修二はようやく絞り出すようにして「でも、その大きさじゃ玄関潜れないな……」などと、冷静なのか動転しているのかよくわからない言葉を言った。それがよほどおかしかったらしい。紀州は今度は憚りもせず、からからとひどく豪快に声を上げる。

「かははは! そうじゃのうこれでは鴨居につかえて身動ぎもできぬわ……どれ、これでどうだ?」

 前転するように前肢を丸めて、紀州は毛玉のようになる。次の瞬間には、そこに一人の男の子が立っていた。中学生くらいか、見た目は玉簾よりも若い。ただ、不思議な紋様のちりばめられた羽織りと袴を穿いていて、白銀色の髪をひとつに結えているのが、ひどく神秘的だった。

「そう驚くな! 儂は人型が嫌いでのう、しかしまあ、なかなかに美形じゃろ?」

「そ、そうだな……」

 紀州は堂々と大股で玄関を潜り、修二はその後を追って屋敷へ入る。

「うぉ! 紀州の旦那、お久しぶりですにゃん!」

 二人が座敷に進むと、鼻が利く呉羽が一番に飛び起きて正座した。その声に起き上がった玉簾は、とくに驚くわけでもなくのんびりと「やあ紀州、元気かァー?」と呟いた。

「相変わらず呑気な天狗よの」

 そう言った紀州の視線は、依然目を覚まさない転に向けられている。

「おい人間、客人に茶も出せんのか?」

「……」

 修二は返事をしないで、台所に立った。幾許もしないうちに戻ってくると、座敷の障子の向こうから馬鹿笑いが聞こえる。どうやら紀州がなにか武勇伝を語っているようだ。

「まったく狸というものは、もとは狗とも思えんような鼻の鈍さじゃった。儂は奴等がやってくる半刻も前に気付いておったものを、どうやら奴等め、儂がその先鋒の鼻を齧り取るまで、まるきり奇襲が成功したと思っておった」

「ぶわははははははは! 馬鹿だァ!」

「それで儂は言ってやったのよ! 『うぬら群狸が幾百集まろうが、所詮はそこいらの野良猫にも劣るわ』とな」

「うわあ! 紀州の旦那ってば私のことそんなにも高く買ってくれていたんだね? 嬉しい! 嬉しいよ私!」

 当然のように上座に胡坐をかいて座る紀州に、修二は湯呑みを差し出した。

「紀州のところにも、狸が来たのか?」

 熱いだろうに、全く意に介さずお茶を呑み下す紀州は答える。

「そうよ。奴等全く我々を舐めておるわい――まあ、見ての通り儂はまるで無傷よ」

「やっぱり狐なんて軟弱なのとは違うねえ! かっこいいね山狗は!」

 呉羽はいつも以上に悪餓鬼の顔になって、紀州をぐいぐい持ち上げた。

「……で、用ってのはなんだ?」

 玉簾が、さっきまでとは打って変わって真面目な顔を作った。応じる紀州の声音からも、冗談が消える。

「応、いやあ、どうやら奴等めここら奥美濃一帯の山をみんな一気に攻め崩そうなどという腹らしいからの。貴様とて狸軍勢は持て余そう? 儂が力を貸してやろう」

「ほほーう、お前私を舐めてるな? そういう上からの視線が私は嫌いでねェ」

 笑顔の無い玉簾の瞳が、少しだけ光った。

「ふむむ、言い方が悪かったようだの。儂はそんな意味を持って言ったわけではない。そうだな……むしろ儂が力を貸してほしいのよ」

 紀州は穏便に、手元の湯呑みを傾ける。

「なんでまた? さっきまで狸退治の自慢をしてたじゃねェか」

「ふふふ。いやはやまったく青二才というか、百年生きた程度ではもののけも育たんものよの。簡明に言うとだな、儂は団三郎とは顔馴染みじゃ。ほれ、夏に貴様等とやりあったあの時――妙に潔く引いた儂を、訝しんだ奴は居らなんだのか?」

「狸の先兵だったってェ、そういう話か」

 玉簾が妙に納得した声を出した。

「応よ。ただどうにものう、面倒くさくなってな。山一つ手に入れた所で、儂は飽いた。野良猫も顔を出さんから暇だ。そのうち狸共、業を煮やして闇討ちにかかった。ま、裏切ったというつもりは無かったんじゃがな。喧嘩売られたら買い返すのが儂の流儀での。ぶっつぶすことにした」

「……」

 玉簾も呉羽も転も、かかと馬鹿笑いする。

「狸は強い。儂もそれは知っておる。昨日儂が噛み殺した連中はどうしようもなく弱かったが、それで狸が終わるはずがないということを、お前もよく知っておるだろう?」

 玉簾は考え込んだようで、頭を押さえてぶうぶつと何かを呟き出した。紀州は何事もなかったかのように、自分の長い髪をもてあそんでいる。

 朝日が高くなってきたようで、障子越しの光が黄色味を帯びて強まった。

「――ようし、じゃあよろしく頼まれようじゃねェか!」

 十分も経ってから、ようやく玉簾は顔を上げて紀州に言う。

「思うところがねェわけでもねェが、それでも私は誇り高き天狗だ。おんなじ狗のよしみだ、まあ仲良くやろうや」

「一度敵として立った身ではあったが、この度ばかりはよろしく頼もうぞ。天狗――玉簾よ」

 満足げに微笑んだ紀州は、おもむろに立ち上がると今度は修二の方を向いた。

「な、なんだよ」

「人間――嵯峨野と言ったか。こたびの戦は少しばかり人間の力も借りねばならん。すまぬが、よろしく頼まれてはくれまいか」

 修二は狼狽した。

「何を手伝えってんだ? よくわからねーな……」

「儂が言いたいことはひとつだけだ。『小林眞美』という女を知っておるな?」

 紀州はいつのまにか修二の目の前に居る。音はしなかった。

「こ、小林先生……?」

 全く唐突な言葉を、修二は反芻して聞き返す。

「知っておるな? ならば頼むが、どうかこの女から眼を離さぬようにしておいてほしい。何か起こったらすぐに天狗に言っておくれ」

 どうしてここで小林先生が。

 小林先生が。

 いったい何の関係があるというのだろうか。

 修二は答える前に考える。小林先生は、修二が考える中で最も、こんなもののけの怪しげな世界から遠い人物だ。理性的で、家庭的で、人間的――

 しかし、果たしてその裏に何があるのか、修二は自分でも驚くほどになにも知らなかった。もちろんその家の場所や、家族のことや、性格のことは知っていたが――それでも、本当にそれが真実なのか、それを修二は知らない。その影を、知らない。

 人間同士の付き合いで、そこまで深い間柄ではないのだから知らなくとも当然といえば、当然なのだが。しかし修二にとって、その影は堪らなく暗い暗渠に思える。

 思い出せば。不思議な祖父のことや、狸を見たこと。それらの細かい部分が、もしかしたらという修二の疑念に結び付けられてゆく。小林先生は――彼女は、修二も知る「あちら側」の人間なのだろうか。いや、そもそも「人間」、なのだろうか。

 化かされていたのだろうか。

「少し、混乱した。ちょっと風呂にでも入ってくる……」

 修二は頭を抱えて座敷を出た。すっかり昇りきった日差しが、廊下の黒々とした板張りを照らしていた。



 その日、小林先生は学校を休んだ。なんでも急な体調不良らしく、麓の町の病院へ行くそうだ。

 修二はいろいろと言いたいことも聴きたいこともあったので、少々の肩すかしを感じはしたが、しかし決定的ななにかを確認してしまうことは恐ろしく、だから同時に安心した。

 今日も涼やかな秋晴れである。薄い高い絹雲がたなびいている他に、動くものはない。静かな風は木立の紅葉を揺らすほどではなく、生徒の高い歓声も授業中の今は、ぱったりと止んでいる。修二の受け持っているクラスは体育の時間で、専任の教師が世話をしているために、修二はひとりで教室の自分の机に座って、生徒のテストを採点していた。

 ちりんちりんと、風鈴の音がした。窓辺にぶら下がった、青いガラスの風鈴は夏以来忘れられていたものだ。それでも静まり返った教室で、その音はよく響いた。修二はその軽やかな音に、夏のある日を思い出す。

 全てはあの日始まったのだ。小林先生とくだらない、つまらない話をしていた。瓜を食べた。それからのことだ。あの時には暑気が教室に満ちていたが、今は秋風が爽やかに吹き込んでいる。しかし、風鈴の音色は変わることなく、ただただゆるやかに揺れていた。

 小林先生がもののけの同類であるならば、四月にこの村へやって来た時には、修二は既にこの奇奇怪怪の世界に足を踏み入れていたことになる。それでも全く、小林先生はそんな素振りは見せなかった。いつも朗らかで、うららかな春の日差しのようなその笑顔を、まさか人のものではないなどとは、考えようのないことだ。

 だが修二は知っている。もののけも笑うのだ。人間と変わらず、いや人間以上に、素直に朗らかに笑うのだ。笑い、怒り、酒を呑み、時に撲り合う。その姿はまるで人間と変わりない。

 だから小林先生がそうだったとしても、驚きはすれど疑問には思わない。

 しかしわからないのは、狸と小林先生の関係である。「小林眞美に気をつけてくれ」と言った紀州は、理由を問うた修二に答えた。「やつは人間であって人間でなく、さりとてもののけかというとそうでもない。ま、これ以上は本人から聞くがよかろう。同僚のよしみだ、素直に正体を教えてくれるやもしれん――ただ言うておくと、小林は狸側の人間だ。これはゆめゆめ忘れるでないぞ」その意味はいまだによくわからない。多分、狸と仲が良かったという彼女の祖父に関係しているのだろうが――情報が、足りなすぎる。

 ミステリ小説ではないのだから、そんなふうに彼女と狸の関係性について思考することに意味はない。それでも、考えないではいられないのだ。

 同じもののけに魅入られた人間として、解り合えるかもしれないではないか。

「――なんて、そんなことあるかよ……」

 呟く声は開け放った窓から、晴れゆく秋の空へ消えて行く。

「なーに言ってんだか」

 窓外から呑気な声が聞こえた。修二が窓辺を見るとそこにはふわふわと落ち着かずに揺れる玉簾がいた。白い修験者の篠懸をはためかせて、玉簾は教室の古びた板敷きへ降り立つ。

「ここ、二階なんだけど」

「なんだァ、二階だろーが三階だろーが違いはねェよ。で、なにしてんだい教師の兄ちゃん。暇してんのかい?」

 いつものような酒臭さはない。頬が薄赤いのはその年齢に由来するものだろう。

「――玉簾は、どうして天狗になったんだ?」

 何気なさを装うわけでもなく、修二は単刀直入に訊ねた。

 玉簾はすぐには答えず、ふらふらと教室を歩きまわって、そして教卓の上に座りこんだ。

「……そーいや、あんた知ってたな。私が元々人間だったってェこと。誰から聞いたよ」

 渋面、というほど嫌そうな表情ではないが、それでもなんだか話ずらそうな、そんな口調だった。

「転だよ。知りあったその日にね」

 修二は珈琲を啜った。淹れてから時間が経っているので、もうだいぶん冷めている。

「そうかァ。まー別にだからなんだってェわけでもねーけど――長い話になるかもだぜ。そんなに時間があるのか?」

「聞ききれないのなら、帰ってからまた聞く」

「それなら一丁、話してやろーかァ。如何にして可憐なる十七の馬鹿娘が、天命を裏切って魔道に落ちたるかをよ」

 玉簾は縮地で手元に湯呑みを出した。中には熱い茶が波波と注がれているようだ。

 そうして彼女は、昔語りを始めた。



 玉簾――向日玉江は、京都の西陣の近くで産まれた。家族は六人、親兄弟に祖父母で、この当時としては少ないほうだ。

 向日家は西陣に多い染物屋を家業としており、玉江もよく藍染めの樽に入って遊んだものだ。それなりの旧家で、羽ぶりもさほどに悪くはなく。家も、屋敷と呼んでいいほどに大きな蔵つきの敷地を持っていた。

 暮れ行く空を見ると、衣笠山にかかる細い薄い雲がたなびく中に小さな宵の明星が輝き、その訪れと共に市中がガス燈の灯火色に光り出す。その風景が好きで、玉江は夕方には親に隠れて、蔵の屋根に登ることが多かった。普通の女の子なら、高い所へ登ることを怖がるものだが、しかし玉江はそういうことは気にならない。遊びも男の子がするような、戦争ごっこや探検ばかりやっていたので、綺麗な緋色のおべべはいつも擦り切れかけていた。

 学校に入る年になって、玉江はできたばかりの近隣の女学校へ行くことになった。そこでの生活は淑やかで大人しく、生来の暴れ者だった彼女をひどくまいらせたものだが、それでも卒業する頃には、そんな気質の隠し方を上手く覚えた。

 そのころ玉江が興味を持っていたことは、学問だった。当時の大学は帝都たる東京にひとつだけ、そこに進学してやろうと気炎を吐く玉江は進学的な高等女学校へ進む。入学早々に首席を取った彼女の将来は、そういった女性の社会進出に肯定的だった両親にも恵まれて、ひどく順調だったのだ。

 事件が起こったのは、そんな鮮やかな日々の中に迎えた、十五の誕生日のことである。

 玉江とその家族は、連れだって鞍馬にやって来ていた。氏子が松明を持って村々を走り抜けるという奇妙な「鞍馬の火祭」が行なわれていたためだ。

 このごろ勉強机にかじりついていた玉江への、両親からの嬉しい心遣いであった。

 秋の夜空の下で、暗渠がせり上がったような闇の谷間に居並ぶ人々は、誰もが手に手に松明を持ち、その灯りは渦巻く渓流のようだ。玉江は氏子ではないので参加することはできなかったが、鞍馬寺の三門のそばで家族と眺めるその喧騒を見ているだけで、ひどく浮かれた、楽しい気持ちになった。

 夜も更け、祭りも最高潮を迎えた。きつい傾斜の坂道をものすごい速度で下る神輿が、人の波を裂いて走り込んでくる。どっと沸き上がる歓声に、玉江は神輿を目で追った。

 その時、玉江の瞳に見えたものは、とても不可思議なものだった。

 今にも転びそうに揺れつ傾きつ走る神輿の、その不安定な屋根の上に、一人の少女が座りこんでいるのである。袈裟を纏い、つやつやとした長い髪の上には五角形の頭巾をつけ、巨大な法螺貝を片手に楽しそうに、少女は微笑んでいる。その瞳に曇りはなく、玉江はもしかすると神事に関わる巫女の類だろうかと考えた。しかし、それにしてはおかしなことがある。神輿の周りにある灯りは松明のものばかりで、とてもその屋根の上を照らしきることはできないのだ。それでもはっきりと少女の姿は見える。まるで自らが光を放っているかのような――と、思った時。

 少女は微笑みを、玉江に向けた。

 瞬間、喧騒が遠のく。

 ひやりとした冷たい汗が、玉江の背を流れた。その理由はわからない。だが、もしかするともう既に理解していたせいかもしれなかった。

 少女が――人の理にいないということを。

 少女の輝く瞳が、すうと音もなく見開かれて、まっすぐに玉江の瞳を見つめる。

 玉江は声をあげようとした。傍らに立つ父親に、不思議な少女の存在を伝えようと、その羽織りのたもとを引っ張るために手を伸ばす。

 ――だが、その手ごたえは無かった。

 おおん――と。

 耳鳴りのような、深い響きが鼓膜を駆け抜け、脳髄を揺さぶる。

 自分の中身が頭頂から引きずり出されるような、そんな不愉快な感覚が全身を貫き、玉江は悲鳴をあげた。

 その高い声は森閑と響く。

 いつ瞑ったのか、玉江がその瞼を開くと――

 そこは闇の底だった。ついさっきまでいたはずの、氏子も家族も消えていた。松明の灯りも見えなかった。どうやらそこは山の中であると、玉江が気付いたのはすぐそばに御社があったせいである。その御社に玉江は見覚えがあった。いつか昼間に鞍馬寺へやって来た時、その前を歩いたのだ――確か、「魔王殿」と言ったか。

 鞍馬山の奥の奥、人界の果て。

 玉江は恐ろしくはなかった。ただ、いったい何が起こったのだろうかと、それだけを訝しんでいた。もしかすると、知らぬうちにこんな所まで歩いて来ていたのかもしれない。夜の山道を目的もなく歩き続けることは考えづらいことではあったが、玉江はたまに古い古典を思い出したりしつつ道を歩いている時に、びっくりするような所まで歩いてきていることがあった。

 そんな合理的な解釈をあっさりと捨てざるを得なくなったのは、眼前に暗い魔王殿の向こうの杉木立から、袈裟を纏った少女が音もなく歩いてきたせいだ。それは間違いなく、あの神輿の上にいた不思議な少女なのだった。

 玉江は背筋に這い依った恐怖を抑えきれない。唐紅の振り袖のたもとを握りしめたが、布地はすぐにじっとりと冷たくなった。ぶるぶると、思い出したかのように震えが足元からこみあげてくる。

 ――なんなんだ。

 ――あの奇妙な少女は、そして私になにが――

 気が付けば少女は眼の前に立っていた。先ほど手にしていた法螺貝を腰に差して、まだ十代の初めだろう小さな顔を綻ばせながら。確かに美しい、美少女と言っても差し支えないその顔だったが、口元に浮かぶ笑みは祭りの時のやわらかいものではなく、べったりとした獰悪なものだった。

 それでも気の強さが幼いころから変わらない玉江は、震える喉を隠しながら訊いた。

「あなたは――」

 だれですか。と問おうとした言葉を手で制して、少女は頭を降る。

「私は太郎坊と呼ばれている」

 澄み渡る声は凛として尊く、玉江がそれまでに聞いた、どんな音よりも麗しかった。だが、そんな声を出せる人間などいない。

 太郎坊は相変わらずにやにやと、狂気さえ感じる笑みを崩さない。

「どうやらお嬢ちゃん、私が誰なのか――いや、なんなのか、解って来たようだね。物分かりの早い子は好きだ。おまけに気も強そうだし、身体も丈夫そうだな。うん、私の見立てに狂いはない」

 鈴を転がすような響きも、縮みあがった玉江にはただただ恐ろしいばかりだ。

「――わたしを、どうする気ですか」

 この娘に連れてこられた、いや、かどわかされたのだということは、最早確信に変わっている。

 ――この文明開化の時代に、まさか神隠しに遭おうとは思わなかった。

 気丈に絞り出した玉江の言葉に、太郎坊はさらに大きく口を曲げた。

「おもしろい娘だなまったく――安心しな。お前はもう、かえしてやらない」

 明治十年。十五の夜更けに――向日玉江は連れ去られたのだ。

 なんの理由も、理解も、意味さえもなく。

 ――暗い鞍馬の奥底へ。



 間の抜けたチャイムが鳴り、修二は我に返った。玉簾はぴょこんと教卓から飛び降りると、窓辺に立った。

「要するに、天狗に魅入られちまったってェわけよ。本当はもっと続きがあるんだが……まァ、こっから先はクソつまんねェからいいだろ。ああ、疲れた疲れた、身の上話なんて慣れねえことするからだなァ」

 玉簾は窓辺に身を乗り出すと、そのまま飛び降りる。飛んでいく姿が見えるかもしれないと思ったが、そのまま縮地の弾けるような音がして、気配は消えた。

「……」

 奇妙な話だった。時折混ざる京都の言葉は、かつてを思い出したせいだったのだろう。乱暴で蓮っ葉な玉簾が、可憐で淑やかな女学生だったなんて、信じられないというか、なんとも似合わない――だが、それからまた天狗になるまでの間に、そんな女学生を決定的に、人間から乖離させるなにかがあったのだろう。それははたして、どんなことだったのだろうか。

それを修二が知る術はない。

 帰って話の続きを聞きたくはあったが、しかし。

 けして、彼女は望んで天狗になったわけではなかったのだ。

 暖かい家族から、ただ一匹の天狗の気まぐれで引き離されて、そうしてそのまま、幾年もが経って。

 ――人でなくなった娘が、たとえ帰りつくことかできたとして、どうして家族が愛してくれるだろう。

「……ううん、なんかとてもやるせない気分」

 鞍馬山は修二も知っている、京都の北にある古い土地だ。そこには鞍馬寺という寺があり、源義経が天狗に武芸を教えられたという伝説もある。そういえば、その天狗の名前は太郎坊だった。

 日本全国の天狗を束ねる大将だと聞くが、しかし大将格が少女を攫って喜ぶなんて……悪戯好きじゃ済まないことだ。そういえば、よくある牛若丸(源義経の幼名だ)が天狗に武芸を教えられている絵の天狗は、どれも髭面の老人のような姿をしている。話を聞く以上には、牛若丸のほうがその姿に近い。

「天狗も変装できるのかねぇ」

「できませんよう。天狗はどっちかっていうと、もっとやばい系の神通力を使うんですよ? そういう化かしは、別のもののけ専門です」

 背後からの声にももう慣れた修二なのだが、しかし今は少し事情が違う。

「……小林先生、今の話、もしかして聞いてました?」

 振り返って、教室の引き戸の傍で立つ小林先生を見る。

「え? 天狗の変装のことですよね?」

「その前です」

「えー? ごめんなさい聞いてませんでした。廊下を歩いていたら嵯峨野先生のぶつぶつ言う声が聞こえたんで、なんだろーと思って返事をしてみただけですよ。あらら? もしかしてこれ聞かれちゃまずい話だったんですか? 確かに誰もいない教室で天狗のことを独り言つきで考えてる新任の先生ってのは、ちょっと怖いですもんね」

 修二は胸を撫でおろした。もしも玉簾が見られていたとしたら、それは少しどころか、かなり取り返しのつかないところだった。

 親戚の娘だとかなんだとか、言いわけは不可能ではないにせよ。それ以上に、昨夜に聞いたことが本当ならば、小林先生には玉簾の正体が一目瞭然のはずなのだ。

 小林先生は、今日も黒いワンピースを着ていた。抑圧的なその色は夜を染め抜いたように、鈍く光る。

「確かに怖いですけれど、小林先生、今日お休みだったんじゃないんですか? そう聞きましたが」

 くすくす。

 小林先生は口元に手を当てて笑った。

「実は昨日、ちょっと夜更かししちゃったので。仮病使っちゃいました」

 昨夜。

 転、そして紀州への襲撃は夜半を過ぎてからだった――小林先生がもののけの関係者だったとして、その時間的整合性はあるが、もちろんまだそれと決まったわけではない。

 そんな思考を見越すように、意地悪く小林先生は言う。

「……でも、嵯峨野先生も昨日はあんまり眠れなかったんじゃあ、ないですか?」

「……」

「騒がしい夜でしたからね」

「……それは、どういう意味ですか?」

 小林先生は、音もなく滑るように歩いた。教室を見まわして、人眼を気にするようなしぐさをする。

「いろんな意味ですよ――先生、今夜お暇ですか?」

「暇ですが……なにか」

 悪戯っぽく、小林先生は手を組んで背筋を伸ばした。

「でしたら、また夜にうかがいます。それではまた、宵の頃に」

 返事を返すその前に、小林先生は教室を出る。

 引き戸が遅れてからからと滑り、その背中を隠した。



 薄々は、気付いていた。

 どうして自分で、わからないフリをしていたのだろう。

 修二の同類なのか、それとも真正のもののけ側なのか――それは今夜、わかることだ。

 小林先生は午後の授業にも居なかった。どうやらすぐに帰ってしまったらしい。落ち着かない気持ちで、修二はその一日を過ごす。いやに長く感じた。

 夕方になり、東の空が群青色に染まり始めたころ、ようやく一日の授業も仕事も一段落がつき、修二は帰路につく。学校から家までは、近いといえる程の距離ではないが車を使わなければならない程でもない。今日は歩きだったので、暮れなずむ村落を一人でゆっくりと通って行った。途中には白熱灯をぶら下げた「あいどる」がある。もしかしたらあいつがいるかもしれないと、少しだけ期待をして修二はそのドアを開けた。

 期待通り、その狭い店内の隅っこ、ステンドグラスの嵌められた窓際にちょこんと座りこんでちびちびと紅茶を啜る、真黒な小袖の姿はそこにあった。修二には見向きもせず、机に置かれたケーキ皿にじっと目を落としている。

「……よう」

 修二はその向かいに座った。すると朔日は妙に嬉しそうな顔をして、修二の顔面ににやりと笑いかける。このもののけが笑う姿を修二は見たことがなかったので、これにはかなりの驚きがあった。

「ど、どうしたんだ? なんかあったのか」

「二週間ぶりね。貴方が来てくれて嬉しいわ。待っていたの」

「ま、待ってた? 俺を?」

 はにかむようなそぶりを見せて、朔日はもじもじと身をよじらせた。

 こいつ……

 こんなキャラだったっけ? もっとこう、クールな感じじゃなかったか……?

「他に誰がいるの? あ、マスター、ちょっとメニューいただけます?」

 髯のかっこいいダンディなマスターはすぐにメニューを運んできた。そこに朔日は矢継ぎ早に、ケーキを三個と紅茶の御代りを注文する。

 修二は朔日の殊勝な態度の、その理由をようやく理解した。

「……てめえ、なに期待してんだ」

 きゃぴ! という擬音が聞こえてきそうなくらい媚び媚びに朔日は小首を傾げる。

「期待というか、確信よ。ああ、ありがとう嵯峨野先生。私今日からの新作ケーキが全種類食べられて、とっても嬉しいわ」

「やっぱりな……財布目当てだと思ったよ」

 シリアスな雰囲気でここ数日を過ごしていた修二は肩を落とす。

 こういうどうしようもない流れが、もののけ連中のわからないところなのだ。

 やがて運ばれてきた色とりどりのケーキに眼を輝かせる朔日に、修二は簡単に最近のことを説明した。もうなにもかも知っているのだろうが、話の流れのためである。

「――本当にここのケーキは『やばい』わね。もう里で暮らそうかしら。山から下りるのも一苦労だし」

「俺の話に反応してもらえたら嬉しいんだがな……」

「うるさいわね、ちゃんと聞いてたわ――狸連中の動きは、実際けっこうな不意打ちだったわ。名代としてちょっと情けないわね。後手に回るしかないなんて」

「いったいぜんたい狸とやらは何が目的なんだ? 一応玉簾には聞いたんだが、どうも要領を得ないというか、なにか戦争染みたことが起こりそうだってことしかわからなかった」

 見る見るうちにケーキをすべて平らげ、朔日は上品にティーカップを持ちあげた。修二はずるずると珈琲を啜る。どうでもいいが修二は珈琲が好きだ。学生時代から一日に五杯は必ず飲む。

「戦争……まあ、似たようなものね。狸は群れるものだっていうのは玉簾から聞いてると思うけれど、彼等は群れへの帰属意識が強くて、旗本の一族みたいな構造の組織を作るの。頭首は血筋で選ばれて、それに他の狸は傅いて生きる――頭首の命令は絶対だし、頭首をすげ変えるようなことも、絶対にない。これがほかのもののけと狸の大きな違いよ。私なんて同族に会ったこともないわ」

「へぇ、名代とかなんとか言ってたから、お前等にもそういう縦のつながりはあるもんだと思ってたよ」

「ないわけじゃないわ。ただ狸ほどじゃないだけ。狸は一匹でもそれなりにやっていける能力がある。それが寄り集まるから、その勢いは無視できないものになるのが通例よ。四国なんて今も狸の支配下にあって、他のもののけは海にしかいない」

 紅茶を啜る姿もまた気品がある。玉簾ではないが、もしも朔日が元人間だったとしたら、きっとよほどいい家に産まれたのだろう。

「でね。今回この御美濃へ宣戦布告してきやがった狸共は、淡路団三郎っていう頭首を掲げる一族なの。かつて四国で狸の戦争が――狐と狸がやりあったのじゃなくて、狸同士でやりあった『阿波狸合戦』のことなんだけれど、この時に彼等は負けて、それでここいらに落ち伸びてきた。これが三百年くらい前の話」

「……ずいぶん昔の話だな」

「そう。この時の当主がたしか九代目淡路団三郎で、私も話したことはあるけれど、とても感じのいい、頭のいい雄狸だったわ。あの頃はまだ結構若くて、人望というか狸望がかなりあったみたい。要らぬいさかいを避けて山こそ持たなかったけれど、その配下の狸は一時二千を数えて、南の蜂右衛門狸とも仲が良くて、いろいろなことがとても上手くいってた――それがおかしくなったのはほんの最近のこと。九代目が三年前に死んだのよ」

「ほう。それで?」

「いい狸だったから九代目は南の名代も務めていてね。死因は老衰だったんだけれど、その後はまあ、狸達が次の頭首を決めようって大騒ぎして、ある日みんないなくなった。不思議だったけれど、それからしばらくして紀州が狸達がねぐらにしていた殿又谷に棲みついたから、その始末にちょっと手間取ってね。あまり狸のことは考えていられなかったの」

 もう窓の外では日が完全に落ちて、人影もない村落の田舎道は濃い藍に沈んでいる。修二は朔日に相槌を打ちながらも、なんとなく窓の外を眺めている。

「紀州のことが落ち着いて、それで初めて狸について私も調べ始めた。するとどうもね、連中は四国のような覇権をもう一度、取り戻そうとしているらしいってことがわかったの。三百年の太平は、狸にとっても長すぎたみたいね。潜伏はその為の準備だったらしく、高度な咒が掛けられているから私にも連中の居場所が掴めないわ。そうこうしているうちに準備完了したらしくて、昨日は転と紀州が襲われた――警告はしていたのだけれど」

「そうすると、次は玉簾や呉羽や、お前が襲われるってことか」

「そうねえ、この辺りは力のあるもののけが多いから、消耗する前にとりあえずそこを落としてしまおうって腹らしいわ。必ず二三日のうちになにか、動いてくるわね」

「四国みたいな覇権ね……どうもお前等を見てると、そんな権力欲みたいなものとは無縁に見えるんだがな」

「そんなこともない。というか、いろんなのがいると言ったほうが正しいわね。人間といっしょ」

 だいたい話の沿革が掴めてきた。そこで修二は、昨夜からの疑問の核心を突いてみる。

「紀州が言ってたんだが、うちの学校の小林先生がなにか関係してるとか」

「やっぱり秋は栗よね。栗。マスター! モンブランひとつ追加で」

「……話を聞いてくれ」

「聞いてるわよ。小林先生? ああ、あなたの同僚ね。関係あるどころの騒ぎじゃないわ。おおありよ」

「……」

「彼女は、彼女こそが十代目――淡路団三郎なのよ。九代目の孫。」

 いつ昇ったのか、ぽっかり浮かぶ満月はいつかの夜のように、煌々と輝いていた。



 朔日と共に夜道を歩く。実は今日、小林先生と直談判をすると聞いた朔日は、別段どうということもなく、「そうなの? なら私もついていくわ」と軽く言った。

 てっきり縮地で先に行ってしまうのかと思った修二は、店を出た後朔日が小さな下駄をからからと鳴らしながら歩き始めるのを見て、ちょっと驚く。

「お前も歩くんだな」

「たまには人間の動きに合わせるのも大事なことよ」

 さほど急がず、けれど呑気にでもなく、あまり言葉を交わさずに修二と朔日は家路を進んだ。修二は緊張しているのは言うまでもないことだが、しかし朔日もけして余裕しゃくしゃくという雰囲気ではなく、それは額の瞳がしっかりと開かれていることからもわかる。

「なんかその眼、マッドアイ・ムーディーみたいだな」

 意味がわからなかったのか、朔日は「なにそれ、知らないわ」とだけ返した。

 くるくると緑色の瞳は落ち着きなく回る。果たしてどこを見ているのか判然としない。けれど何を見ているわけでもないということを、修二は知っている。この瞳は全てを見て、全てを聞く能力を持っている。

 それを見ていた修二は、瞳の回転がぴたりと停止したことに気付く。思わず足を止めると、朔日はなんでもないようにそのまま歩き続けた。

「どうかしたのか?」

「どうもしないわ」

 それでも停止し続けるその瞳の先を修二が目で追うと、それは古い小さな農家の縁側に向けられており、そこには輝く二つの光があった。

「――狸か」

「喫茶店を出てからもう十匹目よ。あちらさんも緊張しているようね――まあ、私達が気にすることはないわ。所詮はどうしようもない雑魚助よ」

 それでも気になる修二は、恐る恐る縁側を見る。二つの光――小さな狸の眼は、まとわりつくようにじっとりと修二達の歩みを追っていた。

 ひときわ大きな農家を回り込み、集落から外れて田圃の中の路に入る。その正面にはもう修二の家が見えている。低い生垣の向うには座敷の明りがついているが、転はまだ眠っているのだろうか。そんなことを思うが、しかしすぐに生垣の陰に潜む獣を見つけて、また思考は落ち込んだ。家の前にまで監視つきとは、気分の悪いものだ。

「ちょっと待っててね。私が話つけてくるから」

 朔日は言うが早いか縮地を使い、狸の眼の前に移動した。逃げようとした狸の太い丸い尻尾をつかみ上げ、そのまま持ち上げておもいっきり睨んでいる――声は聞こえないが、何を言っているのかはあまり聞きたくはなかった。狸はなにやら抵抗を試みたようで、溶けるようにその姿を歪ませると、真っ白な巾着袋みたいなものに変化した。しかし、それを持ったまま朔日は縮地で消えてしまう。

 ぽかんとして玄関口に立っていた修二だが、朔日はすぐに帰ってきた。

「何をしてたんだ?」

 朔日はあくまで無表情だ。

「平和的に帰れと言ったのだけれど、聞かずに変化なんて始めやがったからそのまま琵琶湖の上に捨ててきたわ。まあ、泳ぐことくらいはできるでしょう」

「……」

 最初から最後まで朔日に容赦が無かったような気はするが、うん――要するにヤキを入れたわけだ。

「本当にお前等って怖い」

「そう、とってもこわいのよー。舐めてちゃひどい目にあっちゃうわ。私達はあなたを喰ったりしないけれど。あ、でも紀州とか呉羽なら食べちゃうかもね」

 やめて。

 紀州は確かに人を食べても平気そうな顔をしているが……

 そういうこと聞くと、もう呉羽を可愛い可愛いとか言えなくなってしまう。

「こんばんにゃん! 今日の晩御飯はなにかな? おいしーものかな?」

 言っているそばから呉羽が現れる。もしもここで美味しいものを用意していなかったら、「じゃあもっと美味しいものをいただくにゃ……それはお前にゃああああああ!」「うわああああああああ!」みたいな。そんな展開になるのだろうか。

 廊下に入ってすぐに玄関が強く叩かれる。すわ小林先生かと思い、びくびくしながら引き戸を開けるとそれは寿司の配達だった。特上寿司が桶二つ。いろいろと思い悩んでいたせいで、買い物に行く気分にならなかったこともあるが、しかし狸側との直談判というと、さながら侠客同士の会合のような雰囲気を想像して、修二は泣く泣く高い金を払ったのだった。しかし小林先生が来る前に呉羽に食べられてはどうしようもないので、桶は玄関脇の六畳間に隠しておく。ちなみに呉羽はすぐに座敷へ帰って行ったので、寿司は見られていない。

 改めて座敷に入ると、もののけ達が勢ぞろいしていた。なにもない床の間を背にして、当然のように上座に胡坐をかいて手酌をあおる玉簾がいる。その右手には顔色のひどく悪い転が紺の着流しを着た文学青年風の姿で座り、さらにその右手には寝転んで肘をついた呉羽がいて、その隣には紀州が今朝と同じ格好で腕を組み眼をつむり(眠っているのかもしれない)、その隣に朔日がちょこんと正座していた。修二は転と呉羽の間に割り込んで、車座に参加する。

「ああ嵯峨野さん、昨日はどうも、ご迷惑をおかけしました」

 修二の顔を見て、転が丁寧に謝った。

「それはいいんだが……傷はもう大丈夫なのか?」

「伊達に百年近く化け狐をやっておりませんで、おかげさまで夕方には動けるようになりました。とはいえ、闘うのはまだ無理ですが」

 それを聞いた玉簾が、盃を置いて転に怒鳴る。

「なに言ってんだ馬鹿野郎、けっこうまずかったんだぞ? 私の秘蔵の血止めがなけりゃ、一周間ともたなかったかもしれねェ――」

「血止め……太郎坊様に戴いたという宝重ですか。なるほど妙に回復が早いと思ったら、いやはやなんとも贅沢に奢ってもらったものです。ありがとう玉簾――しかしあれは多分あなたの為にとっておくべきでしたね。これから狸連中に袋叩きに遭いますよ」

「へん、お前みてェなヘマはしねーし、私はそこまで弱くもねェからいいんだよ」

 血止めとは玉簾が傷口に塗り込んでいた、あの貝殻に入った練薬のことだろう。そんなに大層なものとは思えない玉簾の扱いっぷりだったが、素人目にも重傷だった転がこんなふうに軽口を叩ける状態にまで回復しているところを見ると、なるほどその効き目は本物らしかった。

「――で、転。狸はどういう感じだったの? 私まだ聞いてないわ」

 朔日が訊ねると、転は畏まったような恥ずかしがるようなそぶりで頭を掻いた。

「いやー、それがなんとも言いわけの出来ないような出来事で――ちょっとした用事を終えて私が泉獄洞に帰った時、あいつらは待ち伏せどころか、ごく普通に入り口に突っ立っていまして――」

「泉獄洞ってのは、あの狐の棲家だよ」

 こそこそと呉羽が耳打ちをしてくれた。

「数は何匹だった?」

 朔日が言葉を促す。

「雲水に化けた狸が一匹と、それ以外は同じ直垂の武士に化けた狸が十匹ばかり。ただそれ以外にもっと多くの狸が隠れているようでしたね。朔日さん程ではありませんが、私も気配にはちょっと敏感なので。連中、数にまかせた攻撃をしてきたわけです」

「卑怯だねェまったく」

 玉簾の合いの手に、転は強く頷いた。

「まったくそのとおりですよ。我々狐はどんなに腐っても、あんなふうに威圧することはありません。あくまで個個の――個狐の問題ですのでね。ただ少し見直したのは、その中の大将格と思しき雲水姿の狸が、決闘を申しこんできたところです」

 転は憤りながらも、自分の不甲斐なさを恥じつつ語った。

 暗い洞窟の入り口に立つ、時代錯誤の集団に正対する文学青年――集団から一歩進み出た雲水は墨染の衣を着て、編み傘で眼を隠している。転にはこの狸に見覚えがあった。つい二日ほど前に、転の元へ狸側への降伏を勧めに来たのがこの、雲水姿の狸だったのである。狸は名を三郎兵衛と名乗った。

「狸と狐、仲の悪さは折り紙つきであるな。そして分かっておるかとは思うが、この十匹がやられてもすぐに襲いかかる手順となっておる十五匹が、貴様の後ろの藪に潜んでおる――数の有利は明白。勝負などするまでもない。ただ、そんなふうに決着してしまうのは甚だ無粋よ。そう思わんか」

 三郎兵衛はそう言った。転は即座に理解する――お互いに得意は化かしである。化かし合いの決闘にて勝負をつけようと、この狸は言っているのだ。

 もののけ同士としては至極正当で、そして由緒正しい決着方法だった。

 転はそれを迷わず受ける。

 ――相手の力量さえ見誤っていなければ、それはきっと間違いではなかったのだろう。

「どうして化かし合いでそんな、大怪我をするんだよ」

 修二が訊くと、朔日が答えた。

「化かし合いと言っても、それはあくまで自分の変化できる最も強いものによる決闘なのよ。昔話みたいに、『うわあこれにはかなわん 退散退散』という訳にはいかないわ」

「儂の処に来た連中はもっと無遠慮だったがな」

 紀州が口を開いた。

「寝込みを襲う手はずであったようで、数こそ十匹足らずだったが――なんの挨拶もなく、寝所に突っ込んできおった。無論全員血祭りにあげたものの、いやはや最近のもののけは礼儀も躾もなっとらん」

「お前んとこに来た狸の大将はなんてェ名乗ったんだよ」

 玉簾は新しい銚子を引き摺りだしながら言った。紀州は少し考え込むようにする。

「ううむ……確か讃岐八郎などと名乗りを上げておったような気がするの。奇襲が失敗したとみるや全員で一斉にかかってきおるから区別もつかなんだが、一匹だけいやに大きな蛇がおったのは覚えとる。多分そいつが讃岐八郎だったのであろ」

「とすると、転と紀州を襲った部隊は別々だったのね……力量的に紀州の方が上ということは、ここいらのもののけならみんな知っていることだけれど、どうして紀州に強いほうの狸――三郎兵衛だったかしら。そいつを当てなかったんでしょうね」

 朔日も小首を傾げた。転は面と向かって弱いと言われて、益々恥じ入った表情を作っりつつ答える。

「――それは多分に狸と狐の因縁の問題でしょう。狸にとって狐は眼のかたき、親の仇にも等しいものです。完全に戦力として使い物にならないようにしたかったのでしょうね」

「その雲水狸がこっちに来たとて、まともに闘り合えるかどうかは怪しいがな……狸など所詮は野の獣よ」

 紀州はからからと笑って、玉簾に「儂にも酒をくれんかの」と呼ぶ。玉簾は返事もせずに銚子と盃を放り投げて、紀州は器用に片手で受け取ると美味そうに口へ運んだ。

「……」

 修二は落ち着かなかった。小林先生が来る気配は一向になく、もう日が落ちてからかなりの時間が経っている。そして気が付けば呉羽がいない。嫌な予感に修二が廊下に出ると、今まさに化け猫の手が寿司桶に伸びるところだった。猫の鋭敏な鼻相手にはやはり隠しきれなかったのだろう。修二は寿司を取っておくことを諦めた。

「今持って行くから触っちゃ駄目だ」

「ええぇー! くそうこっそりやったのにバレちまってはしかたがないねぇ……でもここは退いちゃいけない正念場だよ! お寿司はみんな私のもんだい!」

 呉羽は寿司桶を抱えながらあかんべーをした。

「な、なに言ってんだお前は! 大人しくしやがれこのっ」

 飛びかかる修二を華麗にかわし、呉羽は飛び上がると天井の鴨居に爪を立てて取り着いた。満面の笑みで寿司桶の蓋を開ける。

「追いつけるわけねーだろ莫迦人間! そこでゆっくり私の胃袋にこの可愛い鮪ちゃんやら海胆ちゃんやら烏賊ちゃんやらが消えるさまを見ているがいいさ!」

「烏賊は駄目だ! 他はよくても烏賊は駄目だ! 猫が烏賊を食べると腰を抜かすらしいぞ!」

「へへん! 知るもんか! いっただっきまーす」

 からり。

 玄関の戸が開いた。

「夜分に申し訳ありませぬが、今宵の約定違えず参上仕り候――」

 三郎兵衛狸は、硬直する修二達を見つめて、流れるように挨拶をした。

 しゃんしゃんと聞こえる鈴の音は、その後ろの闇の中から木霊する。

「こんばんは。嵯峨野先生。呉羽ちゃんもいっしょですね」

 ぬらりと板戸をくぐる小林先生の影が長く、廊下に伸びた。



 もののけと人間は、相反する存在だ。

 たとえどこかが似ていても、人間と見分けがつかない姿でも、彼等はけして人間と同じものではない。人の通わぬ奥山に堂々と棲まっても、地球の反対側に暮らす人間のことを我々は関知できないように、世界の反対側に生きる彼等と出会うことはできないのだ。

 人ならざる怪力を持ち、人ならざる知力を持ち、人ならざる夢を見る――それが、もののけである。人間という存在を裏向けて生まれるもののけは、元からそういうもの。本来は姿を見ることすらかなわない。人間が産まれてからずっと、もののけもその対極にいた。

 それでも、そんな裏側を垣間見てしまう人間がいる。

 祭りの最中に出会ったり、夜の山道で出会ったり、愛する祖父がそうであったり、父親を殺されてしまったり。

 ありえない運命の交錯の中で、ふとその存在に気付いてしまう。

 するともう、引き返せない。

 引き返すことが、許されないのだ。

 その瞬間にもう、理から外れてしまったのだ。

 振り向くことはできても、けして気付かなかった今までの世界に帰ることはない。

 知ってしまった以上は。

 裏側を覗きこんでしまった以上は。

 ――そんな人間は、最早人間ではない。

 陽のあたる世界の表側と、永劫の暗闇の裏側の、その狭間のわずかな隘路に滑り落ちて。

 夜でもなく昼でもない、黄昏と払暁を繰り返しながら生きる。

「小林先生――あなたは、どうしてそちら側に」

 望んで落ちる人間はいない。引き返せない路を、どうして進もうと思えるのか。

「嵯峨野先生こそ――どうしてこちら側に」

 ふ、と。

 口の端で笑う小林先生は、どうしようもなく魅力的で――しかしそれは、彼女の持つ魅力ではない。

 黒々とした引力を持つ、裏側の世界の魅力だ。

 修二は力なく笑い返した。

「さあ、気が付いたらなぜだか。もう引き返せないんでしょうか? 僕は」

 小林先生の後ろの闇が、ひどく膨れ上がって見える。それが幻覚なのか、現実なのか、判断する術はない。

「引き返す? おもしろいことを言われますね――来た道を振り返って御覧なさい。そんな選択肢がどこにもなかったことが、まだ分かりませんか?」

 満点の星空の下。

 おかしそうに高く高く笑う小林先生の声は、山を谷を越えて響きあう。

「そう。知ってしまった以上は戻れない。御伽噺では済まないんですよ」

 修二の家の縁側に開けた、やけに広い庭。

 荒れ放題の枯山水だが、わずかに残る白砂が星の光を反射して、きらきらと蛍のように輝いている。銀河の上に立つようだった。

「要らぬ闘争は無用なれば、どうか内々に談判を」

 三郎兵衛は玄関先で、ちらりと座敷を伺いながら言った。ここでこの二人が座敷に乱入すれば、畳が血濡れになることは間違いが無い。小林先生もそんなことは望んでいないはずだ。修二が小林先生の顔を見つめると、こくりと小さく彼女は頷いた。呉羽は既に姿を消している。三郎兵衛の力量を計り、生意気を言える相手ではないと理解したのだろう。

「じゃあ庭で。少し広いから話声も聞こえません」

「ふふ、初めて来たけれど、大きな御屋敷ですね。どちらに案内していただけるんですか?」

 その軽やかな言葉の調子はまったくいつもと変わらない。

 緊張と狼狽とを隠して、修二は古い庭へと進んだ。

「三郎兵衛」

 小林先生が一言発した。何をしろとも言ってはいないが、音もなく雲水は消えさる。

「――いいんですか。一応こっちの味方――というか、あなた方の敵達は今、すぐそこの座敷に集合しているんですよ」

 庭からは座敷の締め切られた障子が見える。室内の灯りを写して障子は明るく光り、中からは笑い声や囁き交わす声が届いた。既に小林先生の来訪には気付いているのだろうが、それでも平然としているのは、果たして様子をうかがっているからなのだろうか。

「すっごい星空ですよねー。やっぱり市内ではこんなふうには見えないんでしょうね」

 小林先生は女子高生のようなしぐさでくるくると回り、柔らかい苔の上に倒れ込んだ。

 修二は答えない。

「――意外と余裕ないんですね。天狗と付き合ってるくらいだから、もっと頭が柔らかいのかと思っていたんですが」

「はは、余裕はいつでもありませんが……単刀直入に聞きます。先生は狸、なんですか」

 むくりと身体を起こした小林先生は、そのまま立ち上がると修二の傍へ歩み寄った――かと思うと、溶けるようにその姿を変えて、玉簾になった。

 揺れる錫杖、はためく袈裟、金色の瞳、小馬鹿にしたように笑う頬。

「な……」

 玉簾はその場で踊るように回る。玉簾の姿は消え去り、奇妙に膨れ上がったかと思うと、ネイビーブルーのミニクーパーが停車した。

「……」

 ミニクーパーは誰も乗っていないのにエンジンをかけ、空ぶかしの勢いでまた溶ける。

 黒衣の少女――朔日。

 着流しの青年――転。

 白い大狗――紀州。

 茶斑の幼女――呉羽。

 猫、熊、鹿、狐、蛇、軍人、サラリーマン、雲、月、水、風、炎、時計、刀、家。

 目まぐるしくその姿は溶けた。

「――わかりましたか? 嵯峨野先生はもしかしたら、私がもののけに魅入られた可哀そうな自分のお仲間だ、なんて思っていたのかもしれませんけれど――」

 私は立派な「あやかし」なんですよ。

 現実にはありえない色彩の揚羽蝶に化けた小林先生が、笑いを含んで言った。

 月の光に照らされて、ひらひらと飛ぶ揚羽蝶は風に揺れる。

 気儘な天狗のように、ふわふわと羽ばたきながら浮かんでいる。

「――先生」

 修二は喉から絞り出すように、声を出した。

「――先生。もう結構です」

 揚羽蝶は溶けると、黒いワンピースを纏った女性の姿に戻る。

「もっと面白いものにもなれるんですよ」

 ――どうして。

 どうしてあなたはいつもと同じように笑うんだ。

 どうしてあなたはいつもと同じように話すんだ。

 どうしてあなたは――

 修二は思わず泣きそうになる。

 それでもこらえて、修二は小林先生の瞳を見つめた。

「私の祖父は狸です」

 小林先生は言う。

「こういう血筋は隔世遺伝するんですってね。私は祖父が狸だったなんて知りませんでしたし、私自身が人間じゃないなんて、そんなことは十五歳になるまで気付きませんでした――でも、祖父が少し奇妙であることはわかっていた。夜はなぜだかいなくなり、庭に迷い込んだ狸と挨拶を交わし、あまり他の人と関わらない――父も不思議に思っていたようですが、父には狸の力はなかったようです。今でも何も知らずに、すぐそこの農家で畑を耕しています」

「……お祖母さんは」

「祖母は……祖母は人間でした。それは間違いありません。後で訊ねると、祖母自身がそう言っていました。祖母は狸に嫁いだと理解していましたし、嫁いでしまった以上は気にならないと。そう言って笑いました。母も人間です。家族の内に狸は祖父だけです――だから私は純粋な狸ではないんですよ。四分の一ですね。クォーターです。ですが……なぜか、なぜだか私に祖父の力は受け継がれた。人の形をしていても人ではないんです。年は普通にとりますが、それ以上に神通力や変化に現れる狸の血を消すことはできません」

「……」

「もちろんそんなことは家族に言えるはずもありません。気付いた時には恐ろしくて恐ろしくて――自殺さえ考えました。だって意味がわからないんですから。どうして私は姿を変えられるんだろう。にきびが気になるなあと思えば、すぐににきびは無くなるし、髪を切り過ぎたなあと思えば、すぐに髪が伸びる。便利だと思うかもしれませんが、自分ではただただ気持ち悪いだけです。学校でもいじめられました。気を抜くと顔が変わっているんですよ……家族もひどく私を疎んじました。だから私はひとりになりました。望んでひとりになりました。異形の血を隠すために、人気のない場所で変化の訓練をしました。皮肉ですよね、変化しないようにするために変化の訓練をする――でも、そんな私のことにある日、祖父は気付きました――そして、すべてを教えてくれた。救いは祖父だけでした」

「……」

「祖父が死んだとき、狸の次席を務めていた三郎兵衛がやって来て、私に祖父の遺志を継ぐように言ったんです。私に嫌がる気持ちなんてありえませんでした。どうせ人間とは違う身体、狸として生きていこうとそう、思いました――それからの私は狸です。十代目淡路団三郎なのです。小林の名字は祖母の家のものでした。全ては化かしだったのです。今更どうしてこれ以上化かすことに、抵抗があるでしょうか」

「……その遺志っていうのは、四国のような覇権を取り戻すことですか」

「そうです。私はそんな四国のことなんて知りませんし、喧嘩も嫌いですが――それでも私は狸らしく生きる術をそこにしか見いだせなかった。だから私は三年間、ばらばらだった奥美濃の狸をまとめあげた。まとめあげて、そして祖父の果たせなかったことを始めた」

 小林先生は笑っていた。呵々と口を開けて楽しそうに笑っていた。長い独白は修二のための説明から、彼女自身への釈明に変わっていた。

「だから私はやるんです。やらねばならないんです嵯峨野先生――そこに意味はありません。意義も意志もありません。私は二千の狸を従えて、狸の国を作ります」

 顔を伏せて、小林先生は宣言した。

 

 

 闇に気配が満ち満ちる。それはきっと狸の群れだったが、修二はそんなことの一切がどうでもよかった。

 小林先生は人間ではない、と自分で言う。しかしそうではないと、修二は思う。

 その区別は曖昧模糊として、ひどくわかりづらいものではあるが――それでも。

 彼女はまだ、向う側には行っていない。

 そんな確信がどこからくるのか、それは修二自身にさえ説明のできないことではあったが、しかし。

「――駄目だ」

 駄目だ。そこにいては駄目だ。

 修二の精神がそう言っている。小林先生はしっかりと、顔を上げて真正面から修二の瞳を見つめている。

 しゃん。

 一筋の清らかな音が、闇を裂いて奔った。

「どうしたんだい――交渉決裂か? まったく、つれねェ化け狸だぜ。平和的に済むと思って手出ししねーでいたら、やっぱりやる気満々じゃねェか」

 黒髪は月光の下で最も美しく輝く。酒精と抹香の匂いが入り混じった、不可思議な香り――天狗の香りが、修二の傍らに立つ。

「ふん、何かと思えば天狗か――莫迦らしい」

 打って変って時代がかった強い口調で、小林先生は吐き捨てた。

「小賢しく人の力を借りよって。人との不干渉は天狗の理ではないのか?」

「自己紹介もしてねェのに、御挨拶だな。どうにも狸ってのは教育が悪いらしいなァ――名乗りくらい上げられねえのか?」

 しゃんしゃん。

 鳴らす錫杖の音は澄んで、月光を弾く。

「――十代目、淡路団三郎。またの名は小林眞美」

「ようしいい子だ。ちなみに私は玉簾、向日玉簾だ。よろしくな」

 会話のペースを奪われたことが不愉快だったのか、小林先生は笑みを消している。

「で、どーするってんだい。そこらへんに隠れてる連中も合わせて、くちゃくちゃに揉んでくれるのかい?」

「天狗は強い。それはまったく認めるしかない――けれど、こちらも十匹からの手だれ揃い、揉みつぶすのもそう難しくはなかろう」

「とか言っちゃって、前は山狗にボコボコにされたんだろー? 学習能力ってのが足りないねェ」

 ついにキレたのか、闇から刀を手にした人影が幾つも滑り出てきた。

「十代目、構いませんな」

「構わんよ。でも後ろの人間は傷つけるな――」

 小林先生の言葉が最後まで終わらないうちに、野武士姿の狸が五匹、玉簾に飛びかかる。手にした大太刀は太く月光に煌めいたが、しかしそれが降り降ろされることはない。

「――阿保かァ? どうして神通力を使わねえ……それとも使えねえのか? 錫杖を使う手間もいらねえや」

 光の速さで反応した玉簾は、修二が敵の数を数えているうちに全てへ一発ずつ拳をぶちあてた。それで終わりだった。一拍遅れて倒れ伏す狸達を尻目に、玉簾は不敵に笑う。だが更に遅れて、もう一匹が闇から飛び出してきた。それは闇に染まる雲水の衣だった。

「歯ごたえのありそうな奴が出てきたじゃあねェか!」

 嬉しそうな玉簾は、錫杖を降りあげると、そのままの勢いで三郎兵衛に打ち込んだ。

三郎兵衛はそれを傘でいなし、強く固めた拳を向ける。

「おっと! あぶねェッ!」

 身をよじる玉簾の姿は修二の視力でもとらえられたが、しかしその後の撃ち合いは速度を増し、風を切る唸りだけが残った。紀州の時には力を込めて殴るために速度を落としていたのだろうが、今は達人同士の決闘を見るような、美しさすら感じる闘争だった。

「三郎兵衛、もうやめろ」

 ひやりと冷たいものが、修二の喉に触れた。思わず身じろぎをした途端に、「動かないほうがいいですよ。嵯峨野先生」と囁くように耳元で警告される。その声もまた、冷たい。

「……ッ、なにを……」

 視線だけを動かして喉元を見る。平たい青白い刀が、修二の首の皮にぴったりと押し当てられていた。その刃紋はしっかりと、呑みこんだ息で揺れる気管に吸いついている。そしてそれを突きつけているのは、他ならぬ小林先生だった。

「縮地ができるのは天狗ばかりではないんです。先生、談判の誘いに乗ってくれて本当にありがとう。ちょっと情にかられてつまらない身の上話をしましたが、まあ、すぐに死ぬあなたには意味のないことでしたね――天狗、人間が大事ならせめて首を差し出すなりなんなり、態度を見せてみんか?」

 あれほど「人間に手を出してはならない」とうるさいもののけ連中なのだから、殺されることはないと踏んではいたのだが。冷徹な吐息はそれを辞さない覚悟を、疑いようもなく決めていた。

「人質たァ、汚ねェ真似をしやがるね」

 動きを停めた三郎兵衛に合わせて停まった玉簾は気軽な調子ながら、動かない。動けない。もし移動すればそれより早く修二の喉元が両断されることを理解しているからだ。小林先生は天狗に見合うだけの素早さを持っている。

「……」

 構わねえからやっちまえ! などと叫ぶのが模範的な人質というものなのだろうが、修二にそこまでの自己犠牲的精神はない。というか、人間はどうしても目前に死を意識した上で、なおかつそこへ身を投じることが簡単にできるものではないのだ。震えが足元から立ち上って来たが、なんとか崩れ落ちることは耐える――ひどいお荷物だ。

「……小林先生、人殺しは人間として、やっちゃあいけないことのひとつですよ」

「わかっていますよ先生。でも私人間じゃないですから」

 くそう。

 朔日や紀州はなにをしているのだろう。玉簾一人に任せられるほど、この状況は甘くもないはずなのに。

 そんなことを思っていると、家の裏側あたりから怒声が聞こえてきた。狸軍団というのは名ばかりではない。当然のように二手以上に分かれていたのか。

「どうやらあの、さとりと山狗はあちらへ回ったようですね――化け猫と狐は戦力外ですし、ああ可哀そうな嵯峨野先生。絶体絶命ってやつです」

 天狗も動かないようですし、では斬首――と。

 無慈悲な響きは修二の世界を停めた。

 


「そういうわけにはいけねェなあ」

 玉簾はおどけて言った。相変わらず三郎兵衛は動かない。じっと、修二を見ている。

「人間様に手出し無用ってのは、もののけの本質に関わる問題なんだぜ? 裏稼業の人間がカタギに手を出しちゃただのチンピラになるみてェな、そういう話だよ」

「何をするかと思えばお説教? そういうのは教師の私がするべきだな」

 小林先生はせせら笑う。修二は黙っている。

「説教なんて堅ッ苦しいもんじゃないさ。ただ私は事実を言ってるだけだよ……裏の生き物は裏だけで完結しなきゃならねえ。ああ、もちろんなんかどうしようもねェ理由で人間をブチ殺さなきゃいけなくなることもあるよ? 腹が減ったとか、馬鹿にされたとか。でもな、そういうのと、今お前がやってることは、全然違う」

 全然違うんだ。と、玉簾は錫杖を鳴らした。あきれたような表情で、小林先生を見つめる。

「同じことだろう……」

「いいや違う。いちいち説明すんのも面倒だが、分かりやすく言ってやるとだなァ――それ、お前の望みでやってんのか?」

 少し、刀の距離が離れた。力が緩んだらしい。

「もののけと人間の本当の違いを教えてやるぜ。それはな、人間はまわりに合わせて意思を作るが、もののけは意思に合わせてまわりを作るんだ。要するに天衣無縫って言葉は、もののけのためにあるんだよ。この矜持はどんなちっちゃな弱っちいもののけにも備わっている気概だ。群れようが頭下げようが殺されようが、もののけは自分の意思で生きる。ちょっと我が侭だが、そういうものなんだ――それをお前は、なんだ祖父さんがどうとか四国がどうとか。そんなしがらみに取り憑かれてる以上は、まだまだ人間なんだよ」

 小林先生は言葉に詰まったらしく、息を荒げた。

「そんなことは詭弁だ! それに私は私の意思で――」

 そうではないということを、既に彼女は知っているのだった。

「一番分かってるのは自分だろう? まったく、それが爺離れひとつ出来ずにあたりを巻き込んで、いやいや見苦しいぜ」

 修二は力の緩んだ腕から、慎重に抜け出した。そのまま砂利に腰を落としたが、小林先生は動かない。

「三郎兵衛! やってしまって!」

 三郎兵衛はなぜだか立ち尽くして、今は小林先生の顔を見ていた。

「……十代目、この天狗の言うことは真実なれど。淡路団三郎の名を継ぐ貴方がそのようなことで迷うはずもない。その人間の首を落として下され」

 しかし、小林先生も動かなかった。刀が一度ぴくりと跳ねたが、振りかざしはしない。

「小林、先生……」

 修二の言葉への返事もない。こきざみに震える肩は、とても弱弱しく――さっきまで理想を語っていた、同一人物であるとはとても思えなかった。ぽつぽつと雨滴のような染みが地面に落ちる。その涙は、けしてもののけのものなんかではなかった。

 人間の、涙だ。

「――嵯峨野先生」

 小さな声が、修二を探す。

「はい」

「――私は間違っていましたか? 私は狸ではないんですか? 私は――狸の皮を被った人間だったんでしょうか?」

 その答えさえも、小林先生は既に知っているはずだ。

 けれど修二はあえて答える。

「――先生は、人間です」

 涙の粒が落ちるより早く、小林先生の身体は溶け落ちて地面に消えた。



 平成に入ってもう十年以上が経ったというのに、この小学校の校舎は古めかしい木製だった。白いペンキ塗りの柱は長年の風雪によって、今では触れる度にぱらぱらと塗料の破片が落ちる。

 修二は校舎一階の窓枠にもたれ掛り、ぼうっと晩秋の空を眺めていた。この木造校舎には当然、暖房装置は一切無く、唯一の暖房機械である石油ヒーターは二日前、用務員の飯島さんが手を滑らせて灯油をぶちまけてから、ひどく臭い真黒な煙を出すばかりで動かない。仕方なく教室のすべての窓を閉め切って、少しでも暖気をとどめようとはしているが、誰もいない教室はがらんとして寒々しく、修二はしっかりと凍えていた。

 青空は澄んで高いが、それを弾いて光る風は冷たく、今にも雪を運んできそうだ。山間は夏が遅いが、そのぶん冬が早い。きっと山の麓ではまだ、炬燵さえ出してはいないだろう。しかし修二の家にはもう既にフル装備の冬支度がある。炬燵、長火鉢、電気ヒーター、石油ストーブ、いっぱいの炭、いっぱいの食糧。一度雪が積もれば道路は使えなくなるので(積雪が一時間に二メートルを超えると、もう除雪車も動けない)、食料の確保は必須であった。

 生徒の高い騒ぎ声が校庭から聞こえる。この寒さの中でもすさまじく元気な子供たちは、かつて修二にもそんな時期があったということを忘れさせるほどに激しく遊んでいる。忘れかけた記憶が懐かしくもあり、また悲しくもあり、修二は鼻を啜った。寒さのせいでもあるが。

「……」

 小林先生はあれから姿を消した。どこへ行ってしまったのか、死んでいるのか生きているのか、それさえもまるで分からなかった。いや、もしかすると朔日なら知っていたのかもしれないが、しかし修二はあえて聞かない。

 屋敷の外の田圃を山を埋め尽くすように沸いた狸の軍勢も、小林先生の消滅と共にかきけすようにいなくなった。玉簾も紀州も追撃はせず、先ほどまで血みどろで殴り合っていたもののけ達はけろりとした顔で座敷に戻り、酒をあおり始める。戦勝記念だなんだと呉羽は騒いだが、修二の気分は沈んでいた。沈みきって言葉も出なかったが、その感情を誤魔化すために酒を呑んだ。呑んで呑んで、そうしてしっかり記憶を失って翌朝気付くと、紀州も朔日も転も居なかった。ただ玉簾と呉羽だけがひっくり返っていびきをかいている。

 起き上がって修二が障子を開くと、そこには昨夜の激闘の跡がありありと残っていた。そこかしこに染みる血痕、踏み荒らされた苔――ただ、小林先生がいた場所にだけ、ぽっかりとした水たまりが出来ていた。果たして小林先生は水に化けているのか、それとも涙の量が尋常ではなかったのか――と、一瞬は狼狽した修二であったが、すぐに修二は水に浮かぶ小さな封筒に気付く。

 細やかな模様の描かれた切手の消印は聞いたことがない地名だったが、これが小林先生からの手紙であることはすぐに理解した。乱暴に封を切ると、一枚の薄い鳥の子紙がはらりと落ちる。そのまま風にゆられて水たまりに落ちると、見る見るうちに水が染みて手紙の墨はもやもやと溶けた。文字の形もすぐに消える。

「……」

 しかし読む必要はないのだ。小さな溜息をついて、修二は顔を上げる。

 墨染の衣を纏った雲水が、塀の向うで会釈をした。そしてそのまま、雲水は溶けるように消えた。

「奥美濃狸合戦」はここに終結した。

「――はあ」

 昼休みの教室で、修二は長く息を吐く。

 小林先生は、なにをする以前に既に理解をしていたのだろう。理解していたからこそ――修二に話をしたのだろう。

 こうしてひとりでいても、後ろから突然話しかけてきて驚かせてくれる人は、もういない。それは淋しいことだが、しかしあの結末が最も良かったのではないかとも、思った。

 窓をこつこつと叩く音がする。きっと化け猫かなにかが、暇をもてあまして遊ぼうと言っているのだ。

 修二は空を見る。

 細い白い雲が一筋、ゆっくりと流れていった。

 



本章でこの「もみじ葉酔夢譚」はお仕舞いです。読んでくれた方がいるなら、まずは本当にありがとうございました。素人の駄文に長々とお付き合いいただくのは不承の極みではありますが、これから頑張って向上してゆきます。


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