二、権現山のさとりの娘
○
雨が降っていた。山本竜太はぬかるんだ林道を歩くのが、ひどく憂鬱だった。
山本は「ふぁーむ美濃 鹿牧場」を営むかたわら林業をしている。もともとは林業が本職だったが、道楽で始めた鹿のふれあい公園の経営と鹿肉の販売ルートの開拓で成功し、いまや持ち山の半分が草原に開墾されていた。
「しっかしこりゃひでー雨だな……」
先日やってきた台風の影響か、降りしきる雨は弱まらず日増しに強くなっていた。山本の一番の心配は、このところの好景気で急ピッチに開拓した山の土砂崩れだ。節約のためとうそぶいて何も考えずに伐採をしてしまった。運の悪いことに山本の持ち山は国道沿いにあり、もし土砂崩れが起こったら国道が埋まって村人から大顰蹙をかうだろう。
「様子見にいかねーとまずいなあ」
ちょっと山の様子見てくるぞと嫁に言って、山本はゴム長靴と蛍光色の合羽を羽織って家を出た。軽トラックで山まで進むが、ある程度まで登ると後は歩きだ。山本は溜息をひとつついて、豪雨の中へ身を投じる。
その時である。地鳴りのような不気味な低音が足元から立ちのぼって、木々がみしみしと不穏に揺れた。続いて小さめの地震が発生した。山本は思わず立木にしがみつく。ものすごく間の悪いタイミングで、どうやら土砂崩れが起こってしまったようだった。
「あぁ……」
鹿牧場は見事に土砂崩れに呑まれていた。厩舎は無事でレストランも無傷だったが、国道沿いの斜面は崩落し赤茶色の土砂が露出している。どうやら柵が壊れたらしく、鹿が群れをなして林に走りこむのが見えた。
膝から崩れ落ちる山本に雨は容赦なく降り注ぐ。しばらくは立てなかった。鹿ビジネスはもう終わりだ。やはり代々の土地を安易に開発すべきではなかったのか。そういえば死んだ親父も言っていた。あの山をないがしろにするな、と。これは天罰なのだろうか? なにか悪いことしたっけか? 初詣にもちゃんと行ったし厄年でもないはずだ。しかしこんなことになってしまったのは、やはり親父の意見を聞かなかったからか。
おうおうと滂沱した山本が無意味に芝生を握りしめると、それは芝でなく鹿のフンだった。
「ウンがついたってか? この野郎! 人を小馬鹿にしやがってこのッくそっこのッ」
立ち上がり走った。猛ダッシュした。広い鹿牧場を駆けていた可愛い鹿共はもういない。俺はいったいどうすればいいのだ! 林業一本にするとて、木は伐ってしまったじゃないか! 来年には牧場併設の民宿を建てる予定だったのに!
気がつくと土砂崩れで出来た崖のふちだった。崩落はそれほど広い範囲でもないが、それでも牧場の半分をめちゃめちゃにしている。逃げそびれたのか、一頭の小鹿が斜面で泥をほじくっていた。
「うおおおぉおおぉぉぉぉぉおおおお!」
山本は崖から飛び降りると小鹿に駆けよる。一頭だけでも確保して新生・鹿牧場のアダムとするのだ。しかし無情にも小鹿は素早く山本に気付いてぴょーんぴょーんと馬鹿にしたように跳ねて、林に消えた。
「……」
小鹿がなにか掘っていた場所にはやはりフンが転がっていた。眼を落した山本は、そのフンのとなりになにか奇妙なものが埋まっていることに気付いた。
「……なんだぁコレ」
好奇心に一瞬ショックを忘れて、山本は素手で泥を掻く。埋まっていたなにかはどうやら、壺のようだ。
梅干しの保存用というか、とにかく安っぽい壺である。木片がぱらぱらと落ちた。もともとはなにか木箱に入っていたようだが、すでに腐食して形をなしていない。壺のふたにはぼろぼろの紙がはりついていた。湿ってふやけている。山本はためらわずにそのふたを開いてみた。しかし中には小さな古銭が一枚、入っているばかり。
「……なんなんだ」
瞬間、山本はすさまじい空腹を感じた。まるで胃の中に幾千もの肉食の虫がうごめいているような、圧倒的な、もはや痛みと言っていいような空腹感だった。それは本当に唐突だったので、山本はぬかるみに頭からつっこみ倒れ伏す。
「ぐううぅううぅうぅううううぅぅ」
うめき声しか出ない。山本は空腹に耐えきれず泥を口に含んだが、飲み込むことはできず嘔吐した。意識が落ちる最後に見たものは、灰色の曇天。
山本竜太の遺体が発見されたのは、その五時間後のことだった。
○
葬式は嫌いだ。といっても、好きなやつなんているわけがない。
誰かを弔うものだから。
もう会えないという、ことだから。
鯢幕がモノトーンの世界をおおっている。まるでそれ以外の色味が、この地上に存在していないかのように。
親父は土砂崩れにまきこまれたと聞いた。
親父はどうしようもないダメなおっさんだった。それは僕にもわかっている。親戚の言うことも聞かずに、無茶な牧場経営に手を広げ、家では酒ばかり飲んでいた。眼のつけどころがよかったのか牧場は成功していたけれど、家では僕をよく殴った。
でも、僕が親父を嫌っていたのかというと、そんなことはない。僕が馬鹿なことをして親父から拳骨を喰らっても、反省したことがわかれば親父はすぐに頭を撫でてくれた。でっかいごっつい手のひらで。
線香のむずがゆい匂いがする。
ゆらゆらと、白い煙が親父の枕元から流れてくる。
母さんは「あの煙に乗って、お父さんは天国へ行くんだよ」なんて、言っていたけれど。
そうじゃないことを、僕は知っている。
僕は親父が死んだと聞いてから、すこしだって泣いてはいない。そりゃ悲しかったけれど、それでも僕にはわかっていたんだ。
あの日。
親父のいる山をぼうっと見ていて、そうして見つけた。
爺ちゃんの言ってた、「あいつ」がいる。
黒くて、大きくて――禍々しい。「あいつ」が。
山から下りて来るその姿は、ものすごく怖くて――だから。
もう、山にいる親父は死んでると、そう思った。
その夜のうちに、涙は出し尽くした。
だから僕は、もう何も悲しくないんだ。
僕がやるべきことは、泣くことじゃない。
「あいつ」を見つけて、ぶっ殺すこと。
――そうしなければ、また、誰かが死ぬ。
○
「山本さんが、亡くなったんですか?」
新学期が始まって翌日の朝。あまりにも急な知らせに、修二は持っていた湯呑みを取り落としそうになった。
「はい――このあいだの台風で」
頷く小林先生の表情も硬い。山本さんは小林先生の担任する生徒の父親だったはずで、会合なんかで顔を合わせる機会もあっただろう。落ち着いた風を見せているが、心中は穏やかなわけがない。修二にも面識があったが、背が高く筋肉質な、快活で豪放ないかにも「田舎の親父」という印象の人だった。
「――山本さん、牧場を経営されていたんですけれど。その様子を見に行った時に運悪く、がけ崩れに遭ったらしく……」
「がけ崩れですか……確かに、あの雨はひどかったですね」
紀伊半島の東側を北上して来た大型台風は数十年に一度という規模の凶悪なしろもので、奇しくも、かつて東海地方に大きな被害を与えた伊勢湾台風と同じ進路をとっていた。山間部のこの村にも猛烈な雨が降り、あちこちで土砂崩れが起こって、今も滋賀県側の国道が封鎖されている。土砂の除去のために地元の青年団(といってもみんな四十過ぎだ)が朝から現場に向かっており、ひっそりとした村にはいつも以上に人気がなかった。
それでも台風一過の空は明るく高く、山裾から乾いた涼しい風が吹いて、けっこう快適だ。うだるような暑さも台風は持って行ったらしい。
「竜児くんも今日はお休みだし、職員も一同で御焼香に行くようです。さっき教頭先生が言ってました」
小林先生は、うつむきがちに言う。竜児くんとは六年生の、小林先生の担任する生徒であり、亡くなった山本さんのひとり息子だ。
「そうですか……。だったら、そろそろ通知の放送が流れるでしょうね」
言っているそばから頭上の放送スピーカが、がりがりと不協和音を出した。
『……マイクテスト……マイクテスト ……緊急職員会議を行ないますので、教職員は職員室へお集まりください…… 繰り返します。 緊急職員会議を……』
「しっかし、なんでまた全教員なんですか? 普通は担任と、学年主任くらいだと思うんですがねえ」
修二の疑問に、小林先生は少しだけ笑った。
「小さい村ですからね……それに、山本さんはPTA会長もされていて、学校にはけっこう深い知り合いの方もたくさんおられますし」
確かに、全教員を合わせて数えても両手と少ししか、この学校にはいないわけで。おまけにPTAときたら、大学生も顔負けに公民館で飲み会ばかり開いている。そこに職員はしょっちゅう呼ばれて、当然、修二も呼ばれてはいたのだが、中年のおやじばかりの飲み会がどんなものかはわかっているので、あまり顔を出すことはなかった。しかし教頭や校長、小林先生や理科の遠藤先生なんかはよく行っていたようだ。それ以外もほとんどみんな地元のひとたちで、昔からのつながりが強いらしい。修二のような村外出身者は、むしろ少数派だった。
「そういうわけで今日は徹夜です。お通夜の準備も仕事のうちですよ」
残業手当は出ませんけどね。と、気丈に見せる小林先生だった。
○
通夜の席が親戚一同の宴会になるのはよくあることだが、あまりにも突然の訃報に集まった親族達もある程度落ち着いてからはその御多分に漏れず、席に並べられたビールも寿司桶もどんどん減っていった。あちこちで自由に弔問客が喋り合い、ぶち抜きの広い座敷はまるきり宴会場だ。修二はその隅で大人しくビールを啜っていた。顔見知りも居るには居るが学校関係者ばかりで、それもみんな好きなように移動してしまっている。小林先生も保護者の奥さん達に連れていかれてしまった。
山本さんの自宅は(それなりに大きい、修二の住むボロ屋敷よりも)大きな邸宅で、玄関の前に巨大な門があった。そこには今、「山本家葬儀会場」と筆書きされた看板が立っている。暗い提灯がいくつも下げられている様子はいかにも非日常的で、縁側に面して座る修二をどことなく不安にさせた。
「……まあ、どうせ兄貴はいつかこういうことになると思ってたさ! だから俺は山に手をつけるのはやめろって言ったんだ!」
がなり声が上がった。修二のすぐとなり、山本さんの親族が集合しているあたりだ。どうやら山本さんの弟がなにかを言っているらしい。それに応じる声も大きく、奥さんがたしなめているのが聞こえてきた。
「こんな席で何を言ってるの! だいたいあんた、牧場の話にはかなり乗り気だったじゃない! ――確かにあのひとはあまり賢くはなかったかもしれないけれど、あんたよりは商才があったわよ!」
「なにおう! まあ、商才は認めるっきゃないけれどなあ……なにせあの牧場、それなりにうまく運営できてたそうじゃねえか。しっかし、あれほどきつく『山を拓くな』って言い含めて死んだ親父の遺言を無視するようなことは、俺にはできねえな」
「まあねえ……」
「それにしてもなんで、親父はあんなにしつこく山のことを言ったんだろうな。そりゃ林業は大事だけど、あんまりうまくいってねえことはわかってたはずなんだが」
修二は手元のビールを啜ってみる。すっかりぬるい。外気は涼しいのだが、室内は人いきれで籠ったようになっているせいだ。その時突然に、奥さんがぐっと声のトーンを落とす。修二はその話題に興味もなかったが、それでも自然に耳をそばだててしまった。
「……それが、お兄さんの死にかた。なんだか変だったそうよ」
「……あぁ?」
弟の声も低くなる。それ以外の親戚は、あるいは酔いつぶれて眠って、あるいは旧友と再会して熱く語り合っており、夫婦の会話を聞いている者はいない。
「『山を拓くな』っていう義父さんの遺言とは関係ないでしょうけど――本当は、お兄さんは土砂崩れで死んだんじゃないんじゃないか。って、消防団の若い子が言ってたの」
「どういうことだよ……?」
「まずね、お兄さんは土砂崩れに埋まっていたんじゃないんだって。崩れた土の上に、倒れてたんですって。それでね、なんだかこう、ひどく苦しんだみたいにね、そこらじゅうの土を掴んで、あげくそれがいっぱいに口に詰まってたって――」
「……そりゃあ、心筋梗塞とか。そういう急性の病気だったのかもな」
「わからないけどねえ。でも、相当に異様な状況だったって、そう聞いたわ」
そこで奥さんはあたりをうかがうように視線を巡らせた。いつのまにかまじまじと話を盗み聞いていた修二と、ばっちり眼があった。
「……あら」
「……いやぁ、すみません」
怪訝な顔をして、奥さんも弟もそれっきり黙りこんだ。
なんだか居心地の悪い気配になったので、誤魔化すためにぬるいビールをあおった。
やっぱりまずい。
○
りゅうじくん。
りゅうじくん。
りゅうじくん。
まただ。また、誰かが僕を呼んでいる。
あなたはなにをやっているの。
あなたの行動はまるっきり無意味。あなたはあいつに敵わない。
――うるさい。
やめなさい。いまならまだ間に合う。
りゅうじくん。
りゅうじくん。
りゅうじくん。
耳鳴りのように響く、遠いような近いようなその声。澄んだ女の声。
山に入ったときから、ずっと聞こえる。
誰だ! と叫んでみる。
私が誰だろうが関係はないわ。
やめなさい。それを捨てなさい。
「うるさい!」
わからないの? りゅうじくん。それはとても恐ろしいものと繋がっている。
りゅうじくん。
りゅうじくん。
りゅうじくん。
○
そんなことはわかってるんだ。わかってるけど、やらないわけにはいかない。
僕の前には、親父の死んでいた場所にあったモノがある。昨日お通夜の晩に、こっそり抜け出して掘ってきた。
きっとそこにあると思ったから。
死んだおじいちゃんが言っていた。あの恐ろしいやつは山にいるって。
なんの拍子にかはわからないけれど、そいつは出てきてしまっている。
それは親父がコレを掘りだしたせいだ。だけど、それに怒ってもいまは意味なんて、ない。考えたって仕方がない。
――どうせ、なんだろうが僕が、どうにかしなきゃいけないから。
掘り出したモノは、ひとつの安っぽい壺。
中身は空っぽだ。
それでも今はこれが大切。「あいつ」にただひとつ、繋がるものだから。
がらんどうの壺の中になにが今まで詰まっていたのか、なにが今まで潜んでいたのかを考えると、僕も少しは怖くなる。
けれど誰にも頼れない。母さんはきっと「あいつ」の存在なんて信じないし、先生たち――小林先生はいいひとだけれど、それでもやっぱり信じてくれるとは思えない。
だから一人でも、この怖さに耐えなくちゃ。
葬式も終わって、親戚もみんな帰ってしまった。おじさんたちが住んでいるのは、もっと都会に近い町だ。そこへ繋がるただひとつの道はどうやら、台風でやられなかったらしい。母さんもひとしきり泣いて、今は眠っているようだ。
家の中は静かで、虫の声も聞こえない。
とりあえず僕が今、考えなきゃいけないことはひとつだけ。
――どうやって「あいつ」を探し出せばいいんだろう?
○
「『りゅうじ』って餓鬼、知ってるかァ?」
「え? なんだよ突然……というか玉簾、いっつも言ってるけどなあ、部屋にいろ部屋に! 何回言ったらわかるんだ? まったく」
「うるせェよ畜生め! だってここ眺めがいいんだぜ? あの部屋は殺風景でいけないんだよ」
「そりゃ確かにあそこは生け垣しか見えないけどな……」
山本さんの葬儀から、一周間後。
例によって真昼間から手酌で酒をあおっていた玉簾は、修二が座敷のふすまを開けるなりにでっかい声を出した。玉簾というのは裏の山に住んでいた天狗だ。
天狗だ。と違和感なく言ってしまえる自分というものに、修二は少々の不安感を感じている。が、先月の末、修二がふとしたきっかけで出会ってしまったこの少女的な妖怪は、いくつかのどうしようもない顛末を経てボロ屋敷に転がり込んで以来、しっかりと居ついてしまった。しばらくは座敷を使わせていたが、いつ襲来するか知れない大家への危機感もあって、修二は自分の使っている部屋の向かいの六畳間を掃除して、そこにいるように言った(というかお願いした。懇願した)。しかしこの天邪鬼な生き物が素直に言うことを聞くはずもなく、玉簾はいつも庭に面した広い座敷の真ん中にあぐらをかいて盃をあおっている(か、もしくは飲んだくれて寝ている)。昼間はそうして酒ばかり飲んでいる姿しか見ない。けれど夜にはどこかへ出かけているようで、ある朝には不思議に巨大な桜鱒を五匹ばかり抱えて帰って来たこともあった。なにをしているのかは、よくわからない。本人の言では「友達ん所に出かけてるだけだァよ」ということだが。
そういうわけで今日もまた、玉簾は座敷に飲み散らかした銚子と酒瓶を転がして、その真ん中に大儀そうに寝転がっているのだった。ありがたいことには、この尋常でない数の洗い物は玉連が便利な天狗の力で見えないどこかへ次々飛ばしてしまうので、流し台が飽和する危険がないことだ。
「ちゃんと掃除もしてやったのになあ。まったく不義理な天狗だよお前は」
「ああぁ! 手前今なんつった!? 不義理って言ったかこの野郎! 義理と情けを秤にかけりゃ義理のが重いこの渡世、不義理ッてェのは私に対する一番の冒涜だァ! だいたい手前は私らもののけのことを舐め過ぎだぞ? 結構怒ると怖いんだぞ? それをなんだよあの私の部屋の前にかけてある可愛らしーぃぃぃい表札! 『ちぃさな天狗ちゃん ぎょくれん』じゃねーんだよコラ!」
「あれ結構手間かけて作ったんだってのに、そんなに気に入らなかったかい! 半日はかかったんだぞ! そうかそんなに小さくはねーもんな玉簾ちゃん、俺の胸までくらいはあるもんな!」
「くっそ! あーあもう朔日呼んでやろうかなァ! そうして手前の恥ずかしい初恋の記憶でも赤裸々に実況中継してもらおうかなァ!」
「おおおおい! それ本気で言ってるのか!? ほんとやめて。それはほんとにやめて」
「わかりゃいいんだよ――あれ、私さっきまでなにを言おうとしてたんだっけな? あれ? いかんド忘れした」
「さっきまで? ……ああ、なんかうちの学校の生徒のこと、聞いてなかったっけ」
「そうだ! そうそう! 『りゅうじ』ってガキ、お前んとこにいるだろ? 知らないか?」
りゅうじ?
――山本竜児、か。
「その子は六年生だよ。それがどうした?」
「どんなガキだよ?」
「どんなって……そうだな、どっちかっていうと大人しい、あんまり馬鹿騒ぎするようなタイプじゃないな。休み時間はいつも本を読んでる。ごついやつをね」
「へえ……そいつ、なんか最近変わったことしたりとか、ないか?」
「え、いやそんなことはない……かな。ああ、でもそういえば先週にお父さんが亡くなったな。あの台風のせいらしいけど。というか突然なんでこんな話を?」
玉簾は答えない。うつむいて何やらぶつぶつ言い始める。
「どうでもいいことだがな。――干渉はしない、はずだったんだが。とりあえず……いや、転でも呼ぶか。でもあいつ固物だからなぁ……朔日にあの汚い釜を借りて、それで……」
独り言のようだ。要領を得ないので、修二はとりあえず夕飯の支度をすることにする。
「独り言はいいんだけど、とりあえずコレかたずけといてな」
「ああ、あいあい」
生返事をして玉簾が指を振ると、たちどころに酒瓶は消えた。
○
――暗い。
夜道がこんなに暗いものだと知っていれば、せめて電灯くらい持ってきたものを。
彼女のユキちゃんが俺を急に呼んだ。理由はわからないが、涙声だった。「お願いこっちに来て……ずずっぐすっ」とか、悲痛に鼻をすする。既に時間は零時を回っていたが、男だったら行かねばなるまい。
俺の家は岐阜市内、ユキちゃんの家は琵琶湖の北側の町にある。素直に関ヶ原を通る道が一番安全だが、しかし俺は急いでいた。
岐阜県側から滋賀県へ抜ける峠の国道、そこが先だっての台風で封鎖されているという情報は知っている。だがそれ以上にその道が、湖北地域への最短距離であることもわかっていた。
地図を見ると、国道のそばには旧道と思われる細い道が描かれており、そこを通過すれば難なく滋賀へ行けるのではないかと、俺はそれなりの予断をして市内を出る。
その結果として。
道は旧道どころか、明らかな山道。バイクの灯火は暗く、道はどんどん細くなっていく。やがて舗装が消え、トラックの轍しかない砂利道に変わったところで不安は極限に達した。引き返そうと、そう思った瞬間に――なんという運の悪さだろうか。エンジンの回転数がぐっと落ちて、ぱんぱんぷすんぷすんという間抜けな音を立てて、バイクは停止。ガス欠だった。ちなみに予備タンクは、ない。
「くっそおおおぉおぉ! 燃料見てなかった俺の馬鹿! 馬鹿!」
叫んだところで何も始まらない。
ヘッドライトが消えると、あたりは外灯さえない、真の闇。
せめて集落まで戻れば、ガソリンは分けてもらえるかもしれないという淡い期待のもとに道を戻るが、最近雨でも降ったのだろうか、未舗装路はひどく柔らかく、俺は何度もひっくり返った。手探りで見るとどうやらブレーキレバーが曲がってしまったらしい。ウィンカーも折れた気がする。俺自身、砂利についた手のひらはじんじんと熱く、膝頭も異様に痛い。泣きそうだ。
それでも眼は暗闇に慣れるもので、星明りに照らされた杉木立がうっすらと見える。しかし、行く先も真っ暗、来た道も真っ暗で、俺の本能というやつはもう、危機信号を止めることがない。
せめてユキちゃんに行けないことを伝えたいと、思って取りだす携帯電話は当然のように圏外。おまけに電池残量はもう残り少ない――あ、電池切れ。
気をとりなおして深呼吸。ついでに胸ポケットから煙草を取り出して、一服つける。
白い煙がもやもやと、暗闇に溶けていく。赤い火種が小さく、しかし暖かく燃えて、俺は少しだけ落ち着きを取り戻した。
「ふぅー……」
がさり。
背後でなにか、音がした。
ここで俺ははたと気づく。そういえば、さっきからなんの音も聞こえない。
人家がないから当たり前、のわけはない。山の中には虫だとかがたくさんいるはずで、秋口の今はうるさいくらいにコオロギやクツワムシが鳴いているはずだ。そう気付くと背筋がぞっと冷えた。風さえ吹いてはおらず、木々の葉ずれもない。
がさり。
静けさの中では、はっきりとわかる。
何かいる。俺の後ろの木立の中に!
重たい音だ。ネズミや猫ではありえない。
がさり。
――また。
がさり。
がさりがさり。
がさりがさりがさり。
歩いている。こいつは歩いているのだ。歩いて、そして俺に向かって一直線に向かって来ている。
やばい。怖いなんてもんじゃねえ。
がさりがさり。
がさりがさりがさり。
深呼吸。意を決して振り向く――そこにいたのは、いや、そこにはなにもいなかった。
視界のいっぱいには、ただ闇ばかりが広がっている。
しかしよく見れば、その闇の淵は実にゆっくりと、そして細かく動いていた。まるで生物のように。
――なんだあコレ……。
恐怖感よりも先にやってくる不信感。
思わず手を伸ばして、触れてしまいそうになる。眼前のものはそれほど近くにあるらしいのだ。
ぐう。
なぜだか腹が鳴った。
緊張感はあまりない。それよりも、唐突にやってきた空腹感と共に、こいつにふれてみたいという好奇心が先に立つ。
ぐう。
また腹が鳴る。
どうしてだろう。さっき遅い夕飯を食べてから、まだ三時間と経ってはいない。
ぐう。
「さわらないほうがいいわよ」
凛。と、今度は反対方向から聞こえる声。
既に上げていた指先を、俺はびくりと硬直させる。
今度は間違いない。人だ。
人の声だ。
――助かった。
謎物質に対する好奇心は瞬間的に消えて、振り向いた視線の先にいたのは少女。
バイクを挟んで約三メートル。黒い着物に赤い帯、そして銀色の髪。びっくりするほどの美貌は暗がりでもわかる。瞳はすこし三白眼気味で、俺の顔面をじっと見つめていた。
「え……と……」
「そいつに、さわってはだめよ――なんとか先回りはできたようね」
「いや、その……なんですかコレ?」
俺はひどくうろたえる。
「動かないでね――すぐに済むから」
話がかみ合っているような、かみあっていないような――と思った時、少女は瞬きと同時に距離を詰めてきた。見間違いではない。音も風も一切立てずにだ。さっき呼びかけられた時にも、足音さえしなかった。
「貴様は誰何? 答えよ物の怪」
鋭い言葉は俺を通り越し、黒いなにかに向かう。つられてまたそちらを見ると、蠢く影はなぜかぴったりと動きを停めていた。
「――応答する智性も無いか。ならば話は早い、のだけれど」
少女は片手に持った(なにか持っていることには今、気付いたのだが)棒のようなものを立てる。ちゃらりと、その先端にいくつかぶら下がった輪が鳴った――これは杓杖だ。山伏とか、坊主がよく持ってる、あの。
「然らば元居た暗の底へ、帰って貰うわ――」
杓杖を振りかざす。それはまるで、俺を打ちすえるかのような構え。
「いや……ちょっと! 待って下さい!」
「黙っていなさい。貴方に用はあんまり無いわ」
「用は無いって言われても!」
「ふんっ!」
ぶんばと振り降ろされた杓杖は、ひどく破壊的な大きな音を立てて地面に叩きつけられる。
「――っ!」
「……あれ?」
杓杖の軌道には間違いなく俺、そしてバイクのタンクが入っていたはずだが――いずれもすり抜けてしまったかのように、俺もバイクも無事だった。
「――あれれ?」
訝しげな声を出す少女は、だがそのことを気にしている風ではなくやはり、俺の背後を見つめていた。
「――こんなに弱かったっけ。こいつ……」
恐る恐る振り返った背後。そこに先ほどまでの視界を覆うような影はなく、ただひと掴みのまっ黒な雲のようなものがふわふわと漂っているだけだ。
「あ、あのー……」
俺の声が聞こえないかのように、少女はなにやら思うところでもあるのか、その雲から眼を離さない。
やがて何かを見つけたらしく、足元へかがみこんでその何かを拾い上げる。
「――ああ、そうかどうやら……間違った、というか、遅かった、みたいね」
と、顔を上げた少女の額には、先ほどまでは間違いなく存在しなかった、もう一つの瞳が輝いていた。鮮やかな緑の、巨大な瞳孔を持つ――眼球がくりくりと。
「……」
「ごめんなさいねおどかして。ではまた、御縁があったら――」
ぱちんと弾けるような音を出して、少女はまるで夢のように消えた。
同時に俺は意識を失ったらしく、山仕事に行く老人に起こされて目が覚めたのは、半日も後のことだった。
○
「……」
「……」
午後の喫茶店「あいどる」。修二はコーヒーを啜り、黒装束の少女は紅茶を啜る。
驚くべきことに、この村には喫茶店があった。修二がその存在に気付いたのは最近の話で、都会から田舎暮らしにあこがれてやって来たというマスターは気の良いダンディな男。村内で文明の灯が感じられる唯一の場所と言っていいので、修二はけっこう気に入っていた。
修二がその喫茶店を発見した時以上に驚いたのは、いつもの通り仕事終わりに小説でも読もうと「あいどる」の押し戸を開けた時――窓際の日当たりのいい席にて、チーズケーキを上品に食べている朔日を見つけたことだ。
朔日は無心にチーズケーキを見つめていたが、修二が立ち尽くしていると顔を上げて、
「あら、こんにちは」
と、まるで普通に挨拶。
「……」
「すみませんマスター、紅茶を貰えますか? ダージリンで」
「はいはい。ちょっと待ってててね」
「……」
「よかったらここに座らない? 少し、お話したいこともあるのよ」
ついつい、と向かいの椅子を指す。
修二は素直に座った。
……まあ、わからないこともない。
そりゃ妖怪だって紅茶くらい飲みたいこともあるよね……。
「あら、そんな、なによ。鳩が村田銃喰らったみたいな顔をして」
「……それ、死んでるってことかな」
「そういうことよ」
少女は真黒い留袖に猩猩緋の鮮やかな帯を締めて、首元に覗く襦袢の襟もまた、赤い。
彼岸朔日。
山に住むもののけ、さとりの少女。
凛としているというか、超然としているというか。その雰囲気はひどく浮世離れしていて、同じもののけと言っても、玉簾とは全く違う気配を持っている。
修二は少し、この娘が苦手だった。
「……すいませんマスター、俺はコーヒーをホットで」
「はいはい」
初老のマスターはやがて、銀の盆にコーヒーと紅茶を乗せてやってきた。
「朔日ちゃん、いつも通り檸檬多めで、ざらめを少なめに入れといたよ」
髯の奥で微笑むマスター。この人は果たして朔日の正体を知っているのだろうか。
「ありがとう。いつも御馳走様」
そしてちょっとぶりっこっぽい朔日。
こいつ……もしかしてそういう趣味なのか?
「それで、何してるんだ朔日。というかもののけも喫茶店とか来るんだな……」
「それはそうよ。だって山にはお茶とか珈琲なんてありはしないんだもの」
「いや……俺の憩いの空間がどんどんお前等に浸食されてるというか、なんというか――」
「結構よく通ってるのよ。マスターもなかなかの威丈夫で、こんな御店ができるなんて長生きもするものね」
「どれくらい生きてるんだ?」
「十七歳と六千カ月くらいかしら。ぴちぴちよ。ぴちぴち」
頬をぺしぺしと叩いて、なんだかご機嫌な様子。
ちょっと可愛い。
「――で、なんかさっき俺に話があるとかなんとか、言ってなかったっけ」
「ああ、これなのよ」
ティーカップを降ろして、朔日は袂をごそごそと探った。
「……なんだいコレ」
「見ての通り、永楽銭。今はもう使われないのかしらね」
朔日の取りだした緑青のひどく浮いたそれは、まぎれも無く古銭だ。浅く「永楽通寶」の文字が浮かんでいるのが、辛うじてわかる。
「永楽銭――確か江戸時代のもんだったかな」
「もうざっと四百年前近い頃。伊賀と近江の国境あたりにひとりの――ひとつのもののけが居たそうよ。もののけというか、正確には幽霊みたいな、魍念みたいな、よくわからないやつだったのだけれど」
修二は黙ってコーヒーを啜る。
「そいつが、どんな顛末を経たのかもわからないままに、百五十年ほど前からかこのあたりにまで流れてきた。べつにもののけに手出しはしなかったから、私達は無視をしていたのよ。ところがそいつは困ったことに、人間を喰らうのね」
「なんか話がいきなり猟奇的になって来たな」
「そんなに強かったわけではないけれど、それでも人間にはかなりの脅威であることは間違いないやつで――当時、私はまだこの土地に来たばかりだったけれど、村人がひどく怯えてね。何人かが殺されて、そこに運よく流れの陰陽師が来たのよ」
「流れの陰陽師? またひどく胡散臭いな」
「最近は見ないわねえそういえば。まあ、あんまりもののけも活発じゃないからでしょうけど」
「今で言うと拝み屋みたいなものかな?」
「そんな感じね――で、陰陽師と村人は協力して、うまくそのもののけを封印したってわけ。この小銭の中にね」
「めでたしめでたし、じゃないか」
「ところがその封印が、このところの大雨でどういうわけか、解けた」
「……」
「また人間が殺されるのは――私も少しばかり長く生きて、妙に情が移ったのかしらね。今は昔のように陰陽師も居ないようだし、せめてもう一度封印でもしてやろうと思ったの。幸いに私のこの目なら、嵯峨野の手を捻るより簡単だわ」
「ああ、見せなくていい。見せなくていいよ」
この目なら、とか言い出した時に、朔日の額が薄く輝く。さとりというやつはものすごく気持ちの悪い瞳を額に持っていて、けして食事時に見られるものではない。しかしこの瞳は千里眼から読心まで、まさにもののけと言っていい能力を備えているのだ。
「人間を喰らうとかいうそいつの封印が解けたっていうから、少しだけ焦ったんだがな……お前等なら誰もその存在に気づかないままに、そいつをぶっ飛ばしてくるだろ?」
「まあ、もう何人かは気付いてしまったようだけれど――とにかく、昨日の夜、それと思しきやつを見つけてね。始末はしたわ。そいつが落としていったのが、要するにこれなのよ」
古銭を指差す。修二はそれをじっと見つめた。
「ところがね、そんなに強くもないけれど、そんなに弱くも無いあいつが何故だかひどく素直に私に、やられてしまったの。せっかく玉簾から杓杖を借りたのに無駄骨だったわ――これが何を意味するのかというと、端的に言えば私が倒したやつは偽物だった。どうも分裂したというか、擬似的な分霊ができるようになったらしいのよ――つまり、百五十年の眠りはやつを強化してしまっていた」
分霊という言葉は、確か神道の用語だったと思う。神を様々な神社に分けて祀る時に、その神威を二つ以上に分離するらしいのだが、これを分霊とか分祀とか言うのだ。すると、その性質の悪いもののけというやつは、どうやら神的なものになっているということなのだろうか。
「私が何を言いたいのかというと、私がやつを取り逃がした以上はまだ、やつがその辺をうろうろしているってことよ。貴方は天狗なんかと仲が良いとはいえ、ただの人間であることは間違いない。夜道には気をつけて」
「――そうか」
先月の山狗の話も大概ぶっ飛んだものだった。今回もまた奇妙な話だ。だが、眼前にそれ以上に奇妙なやつが呑気に紅茶を飲んでいる――この連中がホンモノなのだということは、短い付き合いの中でもひしひしと感じる事実だ。
「しかし、その――危ない奴ってさ、昔より強くなってんだろ? 大丈夫なのか?」
「その心配は貴方がすることじゃない。私達はただ、気にいらないのがうろついてるのが耐えられないだけなのよ。喧嘩売りに行くのよ」
「その言い分は完全にゴロツキだな」
「うるさいわね」
まあ、朔日は修二が知る中でも(と、言っても片手で足りるほどの数だが)かなりえげつない種類のもののけだ。心配するような必要はないだろう。
「ちなみにそのもののけって、結局何なんだ? 話聞いてる分にはよくわからないんだが」
すっかり冷めた紅茶を飲み下して、朔日はぽつりと言う。
「――餓鬼よ」
いつものように縮地で消えるのかと思いきや、立ち上がった朔日はマスターに挨拶して、普通に店を出た。
代金は修二が払った。
○
「――という話を今日聞いたんだけど。朔日に」
「あぁーそうかそうか。やっと聞いたのか――もののけ連中はもうかなり素早く動いていたぜ? やーい気付かなかった嵯峨野のぶぁああああぁぁか」
「わかるわけねーだろ……」
夕方。
玉簾は縁側に座って、杓杖を布切れで磨いていた。修二はこの天狗が酒を呑んでいない姿を久しぶりに見た。
「あー、おかえり嵯峨野。晩飯なに?」
「煮魚」
「やったー! 鰈? 鰈なんだろ?」
どうでもいいので無視してみる。
「見てのお楽しみってかッ? よぉし肴があるなら酒はまかせろぉ――と、いうのはどうでもいい、話を戻すぞ――うろついてる奴について、なんか言ってたか? 朔日は」
「『餓鬼』とかなんとか」
湯呑みに麦茶を注いで、修二は玉簾の隣に並んで座った。台風以来暑さは戻らず、すうすうと抜けるような秋風が庭を涼やかに渡っていく。もとは白砂を敷き詰めた立派な庭園だったらしいこの庭も、今はただの野原と変わらず荒れ果てているが、そのせいでか岩の陰の草むらに鈴虫が住みついたらしく、日が落ちると共に澄んだ声で鳴きだした。山間の日暮れは早く、もう燃える太陽も丁子山に隠れて見えない。
「『餓鬼』……がぁーきぃー、かぁ。まったく面倒くさいぜ。昔なら無視しておくんだが、なに人間が死ぬと朔日がうるせェからなぁ。前も相当数死んだらしいが、今回ももう一人、殺られたようだしな」
「え、そうなのか」
「朔日が言わなかったのか? 先一昨日の台風の日――『餓鬼』を掘りだした男が一人。先代は賢かったが、いやはや当代は駄目だったらしいねェ。山を拓くのも考えなきゃな」
それが台風の日だとするなら、死んだ人間は一人だけしか修二は知らない。
「……もしかして、その死んだ人ってのは山本竜太というんじゃないか?」
玉簾は杓杖を磨き終わったらしく傍らにごとりと置いて、返す刀で徳利を三つも引っ張り出した。指の間に赤い盃も挟んでいる。縮地というやつで、モノとモノの距離を縮めるもののけの基本スキルだそうだが……修二は何度目にしても、その原理に納得がいかない。
「山本ォ? そうだよ。知ってんのか嵯峨野」
「知ってる。そういえばお前、このあいだその息子のことを聞いてこなかったか? 俺に」
「あぁ、聞いた。山本竜児だったか、そんな名前のガキだろう? ――どうもな、次はこいつが危ないらしいんだ。朔日が言うんだから間違いない」
「危ない、って」
「なにをどうしたのかわからんが、そのガキは『餓鬼』――『ひだる』とか『狐音異』とかっても言うが――のことを、知ってて追いかけまわしてるらしい。今まではまだまるで的外れだが、ヘタな鉄砲もなんとやら。糞狭い村なんだ。いずれカチ遭う」
「――どうして、竜児君はその、『餓鬼』だか『狐音異』なんだかなんかを追ってるんだ?」
「敵討ち、ってところかなァ? 勝てっこないのにわからんガキだね。朔日が再三言っても収まらねえそうだから、そろそろ面見て真面目に叱るとさ。教育熱心だよな」
藤色の雲がたなびいて、綺羅星がいくつも空へ浮かぶ。見ているうちに山吹色の大きな丸い月が山裾からぽっかりと昇ってきた。また、満月が近いらしい。
「――そうなのか。まあ、俺からも言っておくことにしよう。教師として、それくらいはできることだよな」
「応! 言っとけ言っとけ! 馬鹿なガキが喰われっちまってからじゃあ、遅いぜェ」
ぐいと盃を開ける。
修二は溜息をついて立ち上がり、卓袱台に載せておいた買い物袋を片手に台所へ歩き出した。そろそろ飯の支度をしないと、この天狗がうるさいのだ。生徒――竜児という子供のことは心配だったが、しかしもののけ連中が動いている以上は、早々に危険もないだろう。しかし、小学六年生という年齢で、親を亡くして敵討ちというのは――あまりにも、あまりにも悲痛な、出来事ではないか。
そんなことを考えていると、突然背中に強烈なドロップキックをかまされた。
「痛ェ……」
「こんばんにゃん☆ 今日はこの莫迦何を作っているのかな? くんくん、こいつぁ鯖だね? やったー大好物」
甲高い声が割り込んでくる。そいつは素早く移動して修二の片手に提げた買い物袋を奪った。
「いっただっきまーす」
「……」
瞬間、玉簾が庭を眺めながらも投げつけた杓杖が直撃する。
「ッぐあ」
「さーがーのー、野良猫が入って来てるよー。というか煮魚って鯖かよ……私は鰈が食いたかったのに」
座敷の真ん中で後頭部を押さえてうずくまる、この魚好きの幼女は確か――躑躅ヶ崎呉羽とかいう、馬鹿猫、もとい化け猫だ。茶斑の短髪、毛の生えた手足はどことなく愛らしい。
あの山狗との夜以来姿を見せていなかったものが、どうしてまた突然やって来たのかは定かでない。しかしそんなことは今どうでもよく、修二に課せられた使命はただひとつ。この馬鹿猫から特売の鯖を死守することだけだ。
「返せこらっ泥棒猫」
強引に袋を握った小さな手のひらを開くと、呉羽はまた敏捷に動いて縁側に飛んだ。
「泥棒? 聞き捨てならんことを言うな莫迦人間! これは猫なら生まれ持って然るべき本性であって本能だよ!」
「あーあ、せっかく磨いたのにまた汚れっちまった。おい猫、これ舐めとけ」
「ば、莫迦にしやがって――ッ」
とか言いつつも、いつのまにか玉簾の手元に戻った杓杖の先がしゃんしゃんと揺れるのをじっと見ている呉羽。これが猫の本能というやつか。
「飯作ってくるから大人しくしてろよー」
「「はーい」」
修二はとりあえず台所に立った。
「鯖、足りるんだろうか……」
○
餓鬼。または狐音異。またはひだる神。
六道輪廻の果てを見て、なおもその欲望の卑しさを――食欲を、性欲を、征服欲を、睡眠欲を、ありとあらゆる欲という欲を捨て切れず、溺れて沈んだ魂が向かう先。
そう、玉簾は言った。
「だから餓鬼ってェのは、私らみたいなもののけじゃあないんだ。奴は魂であり、魍念であり、魑魅であって、存在そのものが罪業を背負っているのさ――此岸にとどまり続けるのも、『生きたい』ってェ欲望が成したことだしな。基本的にはそういう、どうしようもねぇものだ」
「『生きたい』って感情くらい、誰でもあるんじゃないのか?」
「呉羽も生きたいぞぅ!」
「猫は黙っとけ! まあ、多かれ少なかれそういう欲は誰にでもあるし、無い奴なんていやしねえ。人間ももののけも草花も獣も、みんなそうだ。ただな、餓鬼はそういう欲の塊なんだ。それだけを寄せ集めて出来てるんだよ。だからもう、輪廻の理にすら入れねえ。もとは人間だったり、鹿だったり鳥だったりしたかもしれないが……単体では吹けば飛ぶようなもんも、固まりゃ面倒くさい」
座敷の大き目の卓袱台に、膝を突き合わせて座る修二と玉簾、そして呉羽。結局、呉羽は魚が出ると知って帰ろうとせず、玉簾が面白がって酒を与えるために上機嫌に磨きがかかって、ふらふらと「猫又踊り」を床の間で繰り広げては、一人で爆笑する。
修二は玉簾の酒をちびちびと呑みながら、鯖の煮着けをつついて玉簾の話を聞いていた。
「じゃあ、要するに餓鬼ってのはそういう、感情の塊みたいなもんか」
玉簾はあぐらをかいて、巫女服がはだけるのも構わずに手酌をあおった。
「そういうこったな。だから意志といっちゃあ、なんでも喰ってなんでも捕えて、なんでも壊してなんでも殺す。それだけなのさ。そこに原理はない――まあ、阿保だからこそどうとでもなるんだがね」
「そういうもんか」
魂というものがある、のかどうか修二は知らないが、しかし聞く分にはその餓鬼とやらはずいぶんと他のもののけと、毛色が違うものだ。
「まあ、私はもっとなんにも考えてないけどな。気にいらない奴見つけたらブチ殺す。それだけ」
「朔日もそうだったけど、お前らって行動原理が完全に田舎ヤンキーだよな……」
「やんきーってなんだ」
「……こう、徒党を組んで悪さをする若者、みたいな。一概には言えないけど」
「じゃあ私もそれだ、やんきーだな。うん」
巫女服で高下駄履いたヤンキーなんているわけがない。
「まあ、突っ込みはいいや……」
「なんだよう! なんか言いたいことあんなら素直に言え」
「話を戻そうか。その餓鬼ってけっこう、ありふれたやつなのか?」
「ありふれてはいねぇな。そんなもんがフラフラうろついてたら人間なんて危なくて、都大路だって歩けねぇだろうが――まあ、ありふれてこそはいねぇが、たまには出て来る。だから大層な『ひだる』とかいう名前があるんだ。人間が捕まったらどうにもならねぇから、神なんて呼ぶんだろう」
「捕まると、どうなるんだよ」
「聞く話じゃあ、猛烈に腹が減って減って狂い死に、だそうだ。奴も物理的に喰うわけじゃあねぇようだな。意識を乗っ取るというほうが近いのか――」
腹が減って狂い死に――か。
修二は、あの通夜の日に漏れ聞いた会話を思い出す。
『――ひどく苦しんだみたいにね、そこらじゅうの土を掴んで、あげくそれがいっぱいに口に詰まってたって――』
山本さんは飢えていたのか。その空腹感に耐えられずに、手当たり次第に手元のものを口に含んだのだろうか――それがたとえ、土くれであろうとも。
「――怖い、な」
「ビビれビビれェ! お前は最初の時以来、あんまりビビらねェからつまらん!」
玉簾はけらけらと陽気に笑う。
「さっきからなんの話してるんだぁぁあ? 私もまぜろー」
どーん! と駆け寄る呉羽はそのまま修二に衝突し、受け止めきれずに二人ともひどくひっくり返った。
「こらお前! 今は大事な話をしてるんだよ!」
「なんですとー? 私は大事じゃにゃいですとー?」
「大事なわけねーだろこの野良猫が!」
「私もあんたが嫌いだよ莫迦人間! でも鯖は好きだよ!」
緊張が削がれて、修二はなんだか弛緩する。それと同時に睡魔が襲ってきた。
「……ふぁあ、どうも玉簾が持ってくる酒は美味いせいか呑み過ぎるな。おかげですっかり眠い……」
「弱いッ! 腕っ節も弱いが酒にも弱いたァ、まるで取り柄ってもんがねェぜ嵯峨野!」
「そうです俺は弱い弱い人間です……洗い物はしといてね。俺は寝る」
「あ、洗い物だとォ! 気高い天狗をなんだと思ってやがる!」
「私もやるぞー!」
「猫は水嫌いだろうが!」
「おやすみ……」
掛け合いを無視して、修二は座敷を出て自分の六畳間に帰る。布団を乱雑に敷いてすぐに、暗い夢へと落ちていた。
○
黒々と、闇は迂遠に果てるように深く、谷間を蓋う。
朔日はひとりでその闇の底に立っている。沢筋にあたる寒谷は、涼しいというよりも、ひどく冷たい風が流れていた。
「国道の南は荒れてるわね……紀州のやつ、全然働いてないじゃないの。まったく、馬鹿猫と馬鹿犬しかいない場所なんて、まるで琵琶湖わんわん動物園だわ」
独り言をひとしきり呟いてから、朔日は闇を透かして周囲を伺う。そしてすぐに、それを見つけた。
ざわざわと揺れる杉木立に遠く、見えるのは子供――山本竜児の姿。常人には影さえ見えないほどの距離だが、しかし朔日の眼からははっきりと、白いシャツを着た後姿が見える。
縮地。瞬きをすると、同時に周囲の景色は闇に溶け消える。朔日の視界のいっぱいに、竜児の背中がうつった。
「こんばんは。少年さん」
びくりと、小さな背中は震えて、幽かに息を呑む音がした。深夜の山で突然に背後から声をかけられたら、誰だって驚くのはあたりまえだ。
しかし気丈にも、竜児はゆっくりと振り向く。覚悟を決めたように。
「……あなたが、僕にずっと話しかけてきていた人、ですよね」
あどけなさを残す顔の造作は、緊張と恐怖で歪んでいる。それでも強い意志を持つ両目が、夜目にも輝いていた。それは涙なのかもしれなかったが。
朔日が口を開く。
「――それは正確ではないけれど。及第ではある問いね。そう。私は二日ほど前から、あなたを追いかけていたの」
「どうして、ですか」
「あなたの追いかけているものを、私も追いかけているからよ」
「そ、それじゃあなたは……」
「そう、あなたの敵ではない」
どっと、竜児は強張った表情を緩ませた。朔日の言葉が信用できるかどうか、それもまだ竜児にとってはわからないことなのだが、どうしようもなく不安な、たった一人の仇打ちを理解する者がいるというだけでも、彼にとっては大きな安心だったのだ。
――大人ぶっても、まだまだ子供ね。
朔日は溜息をつく。今は千里を見通す額の瞳を見せてはいない。が、竜児の心境は考えるまでもなく、明白だ。
「……よかったあ」
身体の力までも抜けたらしく、竜児は膝を折って、大きな杉の根元に腰掛けた。
「私が来たからには、とりあえず安心していいわよ――その前に、その手のものを見せて御覧」
竜児がこくりと頷いて、ごく素直に持ちあげたそれはただの壺であって、中身は空っぽ。そのことは朔日も理解している。
「あなたはどうして、これを持ちだしたの」
「それは……それは、親父を殺したやつの、すみかなんでしょ? そう爺ちゃんが言ってたから、だから……」
「爺ちゃん? 御爺さんはこのことを知っていたの?」
朔日も、竜児の座る木の根に腰掛ける。竜児はとつとつと、彼の記憶にある祖父の言葉を、語り始めた。
「……爺ちゃんはもう死んだけれど、いっつも言ってたことがあったんです。僕が遊びに行くときも、絶対に山にだけは行くなって。もし入ってしまっても、絶対に地面をほじくったりするなって。理由は言ってくれなかったけど、いっつも言うからなんだか怖くなって、だから僕は山にだけはいきませんでした。けど、親父が牧場を――親父は鹿の牧場をしていたんですけれど、その牧場が出来てからは、僕もたまにそこへ遊びにいってました。その時には、爺ちゃんがいっつも飴を持たせてくれたんです」
「飴――飴玉ね」
「ものすごくマズいハッカ味で、僕はそれが嫌いだったんだけど、こっそり捨てたりするとすごく怒って――もしもなんか、おかしいことがおこったらこれを舐めろ。口に入れるだけでいいから、とにかくいつでも舐められるようにしとけ。って。意味はわかりませんでした。でも、僕が小学五年生に上がった日、爺ちゃんは僕を床の間に呼んで、大事な話をするからよく聞けと言いました。それはヘンな話で、裏の山――牧場がある山には、昔昔に埋められた、怖いもののけがいるっていう話でした。そいつは黒くて、ひとの形をしていて、影みたいに背中にくっついて、くっつかれたひとは死んでしまうって。お前はもう十歳で、山に行かなきゃいけない時があるかもしれないから話しておくけど、そいつに会った時こそ、いつも言ってるだろう――飴を舐めろ。その話を聞いてからすぐに、爺ちゃんは死にました」
「――どうして御爺さんは、亡くなられたの?」
「僕はよくわからないんですけど、事故だったみたいです――それで、僕はあの親父が死んだ日に思いました。親父は爺ちゃんの言ってた、山のもののけに会ってしまったんだって」
「あなたは――あなたはよく頑張ったわ。怖かったでしょうに」
「怖くないです!」
竜児は強がってみせる。
「ぜったいあいつを、山のもののけをぶっ殺してやるって決めたから! だから僕は怖くなんて、怖くなんてないんです!」
「いいえ。あなたは怖がっているわ」
嘘だ! と、言いかけた口を竜児はつぐむ。朔日が傍らから握ったその小さな手はひどく、震えていた。
「でも、怖いのはあたりまえのこと。怖いという感情が無くなれば、人間は生きていけないのよ。だからあなたも、そうやって無理矢理強がる必要なんて、ない――大丈夫。私が、あなたの憎んだもののけを、殺してきてあげるから。もう誰も、怖がらせはしないから」
竜児の震えは大きくなり、それは全身に広がって、やがて嗚咽が漏れる。
月が中天を越えて、西の空へ沈む。朔日は竜児の手のひらを、それほど長くの間、握っていたのだ。
○
竜児が深い寝息を立てる。それは一周間ぶりのまともな睡眠であり、久しぶりの安堵感がもたらした、優しい眠りだった。
「さぁて……と」
朔日は立ちあがって、夜空を見た。星はもう冬の星座を描いており、寒気もまたひとしお。
「流石にもう夜は、けっこう寒いわね」
がさり。
独り言に答えるように、藪を這うような音がした。間髪をいれずに朔日の額が割れる。
「――なによ。盗み見?」
「怒るなよ朔日ィ。こっちも阿保が寝ついたところさ。しっかし、朔日も人間にやさしいとこ、あんだなァ……ちょっと見る目変わっちゃうなァ」
「ふん――あぁーあ、慣れないことすると肩が凝るわ。結局ここにも奴はこなかったし、また無駄骨ね」
「照れちゃってまた……ひゅーぅぅう。朔日ってそういう趣味なのかァ……っッつぅ!」
暗がりからぬっと、現れたのは巫女服の少女。玉簾はしゃんしゃんと杓杖を鳴らして、下手糞な口笛を吹いた。同時に朔日が眼前に現れ、激しい正拳突きを胸に受ける。
「痛ってェな! もう! 洒落じゃねェかよ!」
「あなたの洒落はつまらないのよ」
「へんだ! もしここに餓鬼とかいうあいつが出て来ても、助けてやんねーからな」
「もとより期待なんてしてないわよ。早く帰ったら」
「あれれ? ちょっと顔赤くない? もーぅ、照れちゃってまあ」
どすん!
「……誰にも言いませんよゥ」
「わかればいいのよ」
「で、これがあの話題の『山本竜児』かい?」
玉簾が杓杖で山本を、ついついとつつく。
「そう――子供と死体は巻き込まないのが私の流儀だけれど、百五十年も寝てた怠け者には通じないみたいね」
「そんなこと言って、昔は朔日も暴れてたんだろ? それに比べりゃ可愛いもんじゃねえか。たかが中年男一人を殺したくらい」
朔日の表情に少しだけ、暗いものが浮かんだ――が、それに玉簾は気付かない。そしてそれは、すぐに消える。
「昔の話よ。蒸し返す必要はないわ」
「つれないねェ」
「そういえば、あの馬鹿猫はどうしたの? さっきまでいっしょにいたんでしょ? 匂いでわかるわ」
「あぁ、あいつならまだ寝てるよ。それも本物の飼い猫よろしく、嵯峨野の布団に一緒に入ってるぜ」
乱暴に杓杖が鳴る。玉簾はまた盃と銚子を取りだすと、喉を鳴らして一杯を空けた。
「妬いてるの?」
「なに言ってんだよお前はッ! 人間に興味持ったりしちゃ、鞍馬の僧正坊に法力を取られちまうわァッ!」
「洒落よ。洒落」
「くそッ、笑えねえよ」
「私も笑えないわね……玉簾、煙草をくれるかしら? 久しぶりに喫いたい気分よ」
玉簾の手に、一本の長い煙管と煙草盆が現れる。それを無言で朔日は受け取り、マッチを擦った。
「火種なんて持ってないけれど、最近はこんな便利なものがあるのよね……五位鷺もびっくりだわ」
ふぅ、と、長くふかした煙は細く唇から漏れて、ゆっくりと空の雲と混ざる。
静寂。
この時間には虫も鳴かない。静けさが木立を覆って、闇は一種の圧迫感をもって迫る。
「……ん」
気付いたのは朔日だった。
「玉簾、酒をしまいなさい」
「らんだよぅ! まったくもう!」
呂律の回らない玉簾の声が、いやに籠って聞こえる。
「――ついに来やがったわ」
○
「それ」が生まれたのがいつなのか、どうしてなのか、そんなことはもう、「それ」自身でさえわからないことだった。
或いは「餓鬼」
或いは「狐音異」
或いは「ひだる神」
そう呼ばれたのも、いつからのことだろうか。
わからないことは、どうでもいいことだ。
「それ」は、奇妙に腹を空かしていた。いつもいつも、いつもいつも。
満ち足りない。腹の底が抜けているように、まるで胃袋が膨らまない。もちろん「それ」には実体というものがないから、何を食べるというわけでもないのだが。そう自覚していても、尽きぬ食欲は堪えられるものではない。
人間にとり憑けばなんでも食べられると、知ったのはあまり最近のことではない。
人間には長い手足があって、丈夫な歯も口もある。素早く動いて何でも食べられる。どうしようもなくなっても、それなら自分を食べればいい。実体がなければ、自分を食べることすら出来はしないのだ。
「それ」は、だからそうやって存在してきた。ふらふらと、ゆらゆらと、雲のように風のように動いて、どれほども経った。
ある時、突然に何人もの人間に囲まれたかと思うと、身体が吸い込まれるように足元へ消えるのがわかった。これが成仏なのかとも思ったが、けれどもいつか聞いたように極楽へ行くわけでもなく、ただ暗い狭い湿ったところへ閉じ込められた。
それから「それ」はずっとそこにいた。
何年も、何十年も、百年を数えてもまだ足りず、空腹はいや増して、「それ」は大きくなり、小さくなって、また大きくなった。
「それ」の力は欲望の力。かりそめにも満たされなければ、力は強くなるばかり。
雨の降る日に外へ出た。
雰囲気はもうすっかり変わっていたけれど、「それ」にとってそんなことはどうでもよく、ただただしくしくと痛む胃袋を慰めるために、手始めに眼の前に居た人間を襲ってみた。
もちろん一人じゃ足りない。
ぜんぜん足りない。
だから食べよう。もっと食べよう。
――いつかきっと、満足するから。
「ううううぅううぅ」
朔日がひどく呻いて、玉簾は慌てて駆け寄った。
「どうしたッ!」
「ううぅ……いや……どうしてこんな……」
見ればその額の眼はくっきりと開かれて、闇の先の一点を確実に見据えていた。
「ぁあ……やめて……」
「くおらァッ! 出て来やがれッ! 形も無けりゃ意気地も無えってか!」
玉簾の言葉を聞いたのか聞かなかったのか――多分、まるで聞こえなかったのだろうが――「それ」はゆっくりと、木立から這い出る。
「……ッ」
玉簾は息を呑んだ。
それはぼっちゃりと大きく、闇の色を何十倍にも煮詰めて、濡れた黒い身体には霧のような毒々しい気配を纏っていた。残響のように木霊する呻きは、朔日のものではない。粘菌の持ちあげた触手のような、その頭部から聞こえる。青白い頭骨がそこに埋まっていた。何者のものであるのかは、最早どうでもいいまでに――それは、禍々しい、餓鬼だった。
「……思ったよりも、こいつァ……」
朔日が倒れた。両の瞳は閉じているが、それでも額の眼はまっすぐに餓鬼を見ている。それを強く閉じさせて、玉簾は相対した。
しゃん!
杓杖を鳴らす。鞍馬の法力が詰まった杓杖の音には、邪を払う意味があるのだ。
「……よくも私の大事なツレの気分を悪くさせてくれたなァ。あの犬ッコロでさえそんなこたァしなかったってェのに――おい気持ち悪ィお前、こいよ。バラッバラにしてやるぜッ!」
しゃん!
響いた杓杖の音を残して、玉簾は飛ぶ。
「くォらッ!」
一閃、。ひらめいて杓杖が、金の軌跡を残して奔る。
伸びた首に打撃は叩きつけられ、餓鬼の呻きが高くなった。
「効いてるッ! よッ! なッ! 返事ッ! しねェッ! かッ! 」
一言ごとに打ち込む杓杖と、開いた腕から拳骨の嵐。餓鬼は身をよじって抵抗するが、天狗にとっては遅い。遅すぎる。
「とどめだッ!」
最後の一撃はしかし、餓鬼の頭部をわずかに外れて、空間を薙いだ。
すかさずに餓鬼の腕――伸びあがった触手が、玉簾の浮いた足に巻きつく。
もたついた、その瞬間には既に強く木立の杉に、轟音と共に玉簾は叩きつけられていた。
「……痛ッつ」
餓鬼の身体が、すうと無造作に玉簾へ向かう。
「こいつァ……けっこうヤバいんじゃねェか……?」
鎌首をもたげた餓鬼の頭骨が、玉簾を舐めるように見据える。睨みつけるように、玉簾もそれを見つめた。頭骨の眼窩に瞳はない。
すかさず杓杖を打ちこもうとするが、今度は俊敏な動きで腕をからめとられる。
「おいおいッ……」
手首だけで杓杖を回転させて、玉簾の手元が唸った。ぶうんと竹蜻蛉のような音がして、その鋭利な挙動は餓鬼の触手を両断する。
「ようっしッ!」
すかさず突く。風を切った杓杖は餓鬼の腹部と思しき部分を貫き――ブチ抜いた。
「……ッッツゥゥウゥゥ」
「へッ! 悲鳴を上げられるのかよ! 私ァてっきり口が無いのかと思ってたぜッ! ――なにッ! う、ああぁ」
勝ち誇って叫んだ玉簾を、弾けた触手の塊が覆う。そのまま高らかに持ち上げられた玉簾の、声にならない悲鳴が喉から漏れるより早く、矮躯は地面に螺子込まれた。
「……」
沈黙が満ちる。
餓鬼は、何の感慨も無いかのように玉簾の身体へ圧し掛かった。見る見るうちにその巨体が半透明になり、実体感が薄れていく。玉簾へ溶け込もうと、とり憑こうとしているのだった。
動くものはない。
目覚めている者も、いない。
○
「つっちー、ホントにこっちでいいんだよな!? 何も見えんからお前だけが頼りだぞ!」
「だぁからつっちーって言うなって何回言ったらわかるんだよ? でも『お前だけが頼り』なんて言われたの初めてだから嬉しいなー! だから許しちゃう! 許しちゃいます呉羽ちゃん! 嗚呼、なんて心が広いんだろう私……百万回生きた猫だって、こんなに心が優しくなかっただろうね?」
「しらねーよ! 質問に答えやがれ!」
暗い山道を、修二はミニクーパーで飛ばす。大学からの貯金をはたいて買ったネイビーブルーの可愛い愛車は、今や折れた枝と尖った小石によって無残にキズまみれだった。
その助手席には、白木の短剣を抱いて大人しくシートベルトをしている呉羽。
「にゃん! はやい! うあー! すっげー!」
「無視ですかよ馬鹿猫め……」
夜半を過ぎたころ。修二がふと眼を覚ますと、腹にひどく重いものが乗っていた。それは呉羽が丸まって眠っているのだということに気付くまでは、いくばくもかからない。
「どいてくれ……よっと」
すうすうと軽い寝息を立てる呉羽の、その見た目はまるで普通の幼女なのだが、しかし他人の布団の上で丸まって安眠するという挙動はまさしく猫だ。修二がかまわずに起き上がると、ごろりとその身体は畳に落ちて、にゃむにゃむと不思議な声を出す。
「にゃ……あれ? 人間、ずいぶんと早起きなんだね」
「お前が重くて起きたんだよ――まだ四時か」
目覚まし時計の文字盤を見る。それからぐうっと伸びをして、修二はおもむろに立ち上がった。
部屋を出ると廊下は真っ暗で、その差し向かいにある座敷も暗い。襖を開くと、食器は綺麗に無くなっていた。
「玉簾のやつ、ぶつくさ言いながらもちゃんとやってくれるんだなぁ……」
軽い感動を覚えながら、修二は何気なく縁側に出て、その軒下に座りこんだ。
「寒いなぁ」
「そうだねえ人間。すっごく寒い」
いつの間にか呉羽も隣で寝転んでいる。
「お前、帰らなくていいのか? というか、一人暮らしなのか?」
「いい年こいて群れる猫なんていやしないよ。猫は何時でも孤独を愛するんだ。だから暗い岩屋は寒くて冷たいの」
「要するにあったかい場所にいたいだけか」
図星だったようで、呉羽はぷいと顔をそむけた。
「……ぅあ? なんだぁ」
ずぶり。
まったく突然に、修二の背後の障子が音を立てて裂ける。見ればそこには、部屋に置いてあるはずの白木の短刀が突き刺さっていた。
「おいつっちー! お前またなんかやったのか?」
「しらないよ莫迦人間! だいたいそれにさわったら私、死ぬからね。天狗がくれたやつでしょ? それ」
山狗の事件の時。玉簾が修二に非礼を詫びて寄越したのが、この短刀――小烏丸、だった。見た目は普通の刀なのだが、結局、山狗を追い払ったのはこの短刀のおかげと言えたので、修二はけっこう大事にしていたのだ。
それが今は、なぜだか鞘が抜け落ちて。修二をまるで刺そうとするかのように鋭利に、その切先が光っている。
「勝手に飛んできたのかな?」
「いやー、わかんないよ人間。天狗の懐刀だったから、あんたになついてないのかも」
「なつくって……刀がなついたりするか!」
「するよ莫迦――とすると、もしかしたらこいつ、主人のところへ戻してほしいとか思ってるんじゃないのかな? 天狗は今宵何処へ行ってるか知ってる?」
「知らねえけど……まさか」
玉簾が夜中にうろつくのはいつものことだが、しかし今日はいろいろと引っかかりがある。
『餓鬼』のこと、竜児のこと、朔日のこと――まさか、まさかとは思うが、今ごろ玉簾はその『餓鬼』と、対決しているのではないだろうか。前の持ち主の危機を察知した懐刀は、玉簾の処へ連れて行けと、そう言いたいのだろうか。
「――わからん、わからんが……しかしなあ、いろいろ心配だしなあ。でも行くにしても、玉簾の居場所なんて想像つかないしなあ……」
「まあ、私ならわかるんだけどね。莫迦人間には無理な芸当かな、にゃはは」
「え、わかるのか」
ころころと笑う呉羽は、しかしなんだか獰悪な瞳で修二を見た。
「鼻だよ、鼻。犬ほどじゃないけれど、私もきちんと鼻があるんだよ? ――で、案内してやってもいいけど……御代は如何程」
「な――金とるのか!」
「金なんていらないいらない。なにかこう、実利的なやつをね」
にやにやと口が耳まで裂ける。けっこう怖いぞ――だが、それでも背に腹は変えられない。仕方がないのだ。
「――そうか。わかった! なんとでもしてやろう。とりあえず玉簾が心配だ。行くぞ!」
「でも人間は縮地も飛行もできないよね? どうするの?」
「文明の利器ってもんがあんだよ!」
急いで服を着て、小烏丸を掴んで。
夜明け前の静けさを裂いて、ミニクーパーのエンジン音が轟いた。
「うわあああぁああぁああ! すっげええええぇええ」
「いいから乗れ! 早く!」
出発! どうか無事であってくれと、修二は祈る。
「いくぞ!」
○
初めて見る自動車という機械に興奮しきりだった呉羽は(ちなみにまだ、縮地ができないらしい。だからこそこんなスピードで動くのが新鮮なのだ)、まるで落ち着く様子を見せずに、あちこちのボタンやレバーをさわりまくった。
「これなんだい? ――うわぁあぁ」
ぷぅーーーっつ! ぷぅーーーっつ!
「それはクラクションって言ってな、ああもう面倒くせえ、黙ってろ! そして道を教えろ!」
「たぶんそこを右だよう!」
甲高いスリップ音をたてて、修二は凄まじいコーナリングを見せる。マフラーが派手に唸って、車体はがたがたと揺れる。
「伊吹山の走り屋時代を思い出すなあ! おい!」
「やっほおぉおぉー! いけいけー!」
道はすぐに細くなり、やがて舗装路も消えて、浅い轍の残る林道になった。
「このへんは――寒谷とかいう場所だったかな」
「私のすみかの近くだよ!」
飛び出した杉の枝がボンネットを叩いて、砂利が猛烈に回転するタイヤの下で弾けた。
「もうすぐだ! 気張れ莫迦人間!」
「よっしゃあ!」
林道に沿った藪を突き抜け、唐突に視界は開ける。
「……なんだありゃ!」
「……きもい! きもいよう!」
開けた広場の真ん中に立つのは――黒々とした、修二が今までに見たことのない形状の物体だった。雰囲気でいうとプリンに近い。ただ、それがどうしようもなく禍々しいということは、そういった感に疎い修二にもはっきりとわかることだった。
そして、その足元と思しき場所に倒れ伏しているのは――
「玉簾!」
「突っ込んじまえ! にゃあああぁあぁああん!」
何も考えず、アクセルペダルを思いっきり踏み込む。
餓鬼の巨大な姿が、フロントガラスいっぱいに広がって――しかし、感触はなかった。
一拍遅れて、強烈な衝撃。
「……くそうッ! やっちまったぁ!」
ミニクーパーはなぜか、外しようも無いその巨体をすり抜けていたのだ。そのままの勢いを持って、ひどく嫌な音を立てて杉木立に突っ込む。タイヤの焼ける匂いと、空転するエンジンの音が響いた。
「買ったばっかりだぜ……これ……」
「忘我してる場合じゃないよ! あいつが、あいつが来る!」
バックミラー越しには、まだしっかりと餓鬼の姿を見ることができた。思考が無いとはいえ、突然の闖入者に驚いたようで、その動きは止まっている。しかし、すぐにまた蠢き始めたかと思うと、圧し掛かっていた玉簾の身体からずりずりと離れた。
「死んでるのか!? 玉簾は!」
「大丈夫だよ! まだ死臭はしない――けど、ひどい匂いがするよ……瘴気だ。あいつ、どれだけ人を喰ったんだろう」
どうやら、餓鬼の興味は修二たちに移ったようだった。修二が小烏丸を片手に車を降りると、餓鬼は奇妙に身体を揺らしてこちらを向く。頭骨が見えた。同時に黒い霧のようなものが、あたりに立ち込める。
ぞわり。
ひどい悪寒が修二を襲う。
「……なんだこいつ……」
「それが瘴気だ莫迦人間! 吸うな! 息を止めるんだ!」
そうは言っても。
もう遅い。
修二の背骨がみしみしと鳴る。手足の感覚が薄くなる。猛烈な空腹を感じた。
「うぅ……ぐぅ」
「そこまでよ」
澄んだ声が闇を奔る。修二は消えかけた視界を、そちらに辛うじて向ける。
「嵯峨野、来てくれたのね――呉羽もいっしょなの。ありがとう、ちょっと拙い状況だったわ」
「莫迦人間、隠れろ! もう私らの仕事はおしまいだよ!」
「いや……まだ、まだだ……」
餓鬼の注意が、今度は声の主へ向かう。
そこに居るのは、黒々と――餓鬼のような禍々しい闇ではなく、清冽な色味を持った少女。
「私はさとり、彼岸朔日。怖がる必要は無い――来なさい。飢えも苦しみも、悲しみも怒りも無い世界を――教えてあげるわ」
○
「朔日! 大丈夫なのか……」
「流石に天狗は回復が早いわね――もう、大丈夫よ。そこに貴方の『いいひと』がいるから、一緒に下がっておいでなさい」
「『いいひと』ォ? ――誰かと思ったら嵯峨野かよッ! 何考えてんだ手前ッ!?」
玉簾は無事だったらしく、餓鬼の足元から倒れたまま、大声を出した。
「どうしてここがわかったんだッ?」
「いや……第六感……的な……?」
「私のおかげだろうがっ――それはどうでもよくないけど、やばいよやばいよ天狗! こいつ登場と同時に瘴気吸いまくったんだよ!」
「馬鹿猫も一緒かよ……とりあえずこっちだ、自動車の陰に隠れろ」
土くれを弾き飛ばして、玉簾が立ち上がる。餓鬼はそれに見向きもしない。餓鬼はただ、眼前の美味そうな――とり憑き甲斐のありそうな、獲物だけを見ているのだ。
「あ、嵯峨野。ちょっとそれ、貸してくれない?」
朗らかに言うその声音には反対に、朔日の激烈な緊張を感じた。
こいつでさえ――恐怖しているのか。
「呉羽……頼んだ」
「わかったよっ!」
呉羽は修二から小烏丸を受け取り、俊足で朔日の元へ向かう。朔日は無言でそれを受け取ると、白木の鞘を抜きはらった。殺気がすうすうと、切先から漏れる。
額の瞳は、閉じている。
「さっきは不用意にも、あなたの心を覗き見しちゃったけれど――いや、心ですらないわね。なんであなたみたいなものが、人界を闊歩しているのかまるで見当がつかないわ。おかげで倒れちゃって、玉簾に助けられちゃって」
餓鬼は動かない。本能的なものなのか、滲む朔日の殺気のせいなのか。
数秒、見つめ合って――餓鬼が動いた。伸びる触手のようなものはどこまでも俊敏く、朔日の喉、腋、腹、足、手先を――抉る為にしなる。
朔日は動かない。ただ、手先だけが奇妙に消えた。と、思えたのは、修二の視力がその挙動に追いつけなかっただけのこと。一拍後には、どさりどさりと山を成して落ちる触手。
「自動車が効かないのは当たり前ね。あなたに実体はない。天狗や私達なら触れられるけれど――嵯峨野のような人間には、本来なら見ることすらかなわないはず。でもね、この刀は空間を、意志を切る刀。切れないものは多かれども、あなたを斬るには、この上なくぴったりなのよ」
「はらがへったんです」
誰かが何かを言った。
それがどの口から発された言葉なのか、修二が理解するまでに時間がかかったが、すぐに気付く。
「おなががへったんですすいたんですはらがへったんです」
ぞわぞわと蠢く身体の様々な所から、青白い頭骨が浮かんだ。
「すいたんですはらがひもじいんですみたされないのです」
伸ばされた触手は集合し、胴体へ呑みこまれていく。
「ひもじいひもじいひもじいひもじい」
「――私達じゃなく、獄卒に言いわけをすることね」
朔日は風と共に動いた。
閃く小烏丸は閃光となって、白み始めた空の色を歪ませた。
――答えは無い。
両断された餓鬼は、一瞬だけ人間のような影となって、すぐに消える。
ちゃりんと、古銭が落ちた。
○
「げに恐ろしきは人の欲ってェ、そういう話だったねえ」
朝日が東の空に、真っ赤な暁天を描いている。藤色の雲はいつものように呑気に浮かんで、涼しい風が吹き下りてきていた。息も絶え絶えだった修二は、玉簾が出した酒を一口含まされてからは何事も無かったかのように元気になった。
竜児は、餓鬼が消えてから幾許もなく眼を覚ました。いったいどこで眠っていたのだろうかというような不思議そうな表情は、眼の前に居た朔日を見ると、何かを理解した色に変わった。
「――あの」
「――あなたの御父さんの仇はとったわ」
そう言って、朔日は古銭を投げる。
「壺の中にはこれが入っていたの。銭は人の欲の象徴、餓鬼の象徴なのよ」
竜児は何も言わない。ただ古銭を受け取ると、しげしげと手のひらの中のそれを見つめる。
「欲界にある以上、人間の、いや生きとし生きる者はみな慾望から離れられぬものだけれど――あまりにそれが過ぎると、『ああなる』の。そして、それは避けられることだわ。だからわかって。もののけも人も、ああなっては御仕舞なのよ」
竜児は頷いた。細かな言葉の意味はわからなくとも、その言わんとする意志というものを、はっきりと感じたのだ。
やれやれとあきれたように、玉簾は肩をすくめた。
「人の子に説教たァ、婆さんらしくなったじゃねェか」
「な、なに言ってるの玉簾! こういうことは小さい頃からわかっておかなきゃ駄目なのよ? 特にこの子は片親を無くして――それで――」
「――あの」
朔日の語尾を、竜児は打ち消した。
「――あの、ほんとうに、ありがとうございました」
深く頭を下げる。
「まあ、気にすんなよゥ。今度なんかおいしーいもんでも持ってきてくれれば、いいからさァ」
「あんたなんにもしてないでしょうが……竜児君、とりあえずはお礼を受けておくわ。じゃあまたいつか、御縁があったら会いましょう――さすがに私も疲れたわ。帰って眠ります。おやすみなさい」
ぱちん。
消え去った朔日の影を、竜児は信じられないものを見る眼で見た。
「え、あ……え?」
「なあガキ! 世の中にゃわからないことが、いーっぱいあるのさ!」
呉羽がなれなれしく肩を叩いて、竜児はその奇妙な髪型と、毛の生えた手足をも見た。
「……」
「ありゃ、気を失いやがったよ! なんだ人の顔見て気絶って! 私ぁそんなに不細工かなあ? ねえ莫迦人間! 私不細工かなあ?」
「知らん。俺も帰って寝よーっと。嬉しいことに今日は日曜日だ。やったね俺――って、あああぁぁあぁそうだったあああぁあぁ」
「どうしたんだァ嵯峨野。餓鬼に憑かれたか?」
珍しく、玉簾は心配そうな声を出す。
「ミニクーパー……俺のミニクーパー……」
「なんだよッ! 自動車の話かよッ! くそう心配して損したぜ」
「とほほ……まあ車は仕方ないか……。玉簾、お前は大丈夫なのか? 俺たちが来た時お前、地面に突き刺さってたぞ。マツタケみたいに」
「だ、大丈夫だよッ馬鹿にしやがって! 手前こそテングダケみてぇな面構えのクセしやがって、生意気にも程があらァよ!」
顔を赤くして憤慨する玉簾は、その恥ずかしさにまかせてか、気絶している竜児の腰を掴んだ。
「こいつを送ってってやるよ。まったく、今回もひっでェ気分だ」
「ぐふふ! 天狗ったら照れてるよ! 褒められて照れているんだよ莫迦人間! よかったねえモテモテだねえ」
「百万回殺してもまだ足りねえよッ! 今度手前の面見たら、間髪いれずに二千分割してその毛で光明真言を織ってやるッ」
ぱちん。
朝日の照らす広場には、修二と化け猫だけになる。
「とりあえず車、なんとかしないとな」
「にゃ、じゃあ私は帰るよ!」
掴んだ手のひらはうまく呉羽の襟首をとらえた。そのまま子猫のように持ち上げてみる。
「うわわわわ、それやめてそれすごく恥ずかしいんだよ! 御母さんがよくやるやつだよそれ!」
「まあ、一件落着ってことで――今日はなんか美味い物、あいつに作ってやらないとな」
「私も食べるよ! 魚がいいねっ魚! お魚っ!」
竜児が今夜のことを信じていけるのかどうか、それはわからない。
大きくなれば、親の死んだショックで夢を見ていたのだろうと、そう思ってしまうだろう。現実を知れば、そんな理解の仕方へと変わっていくだろう。
ただ、間違いなくそこにあった――もののけの、愛。
これを忘れることは、きっとない。
朝焼けの中でそう、修二は思った。




