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一、丁子山の天狗倒


 壱 丁子山の女天狗



 これはとある山間の寒村、その一番奥にぽつりと建った俺の家が、いかにして近隣住民に、「妖怪屋敷」という不名誉な異名で呼ばれるようになったのかを、釈明を兼ねて語る物語だ。俺はそこに、転勤までの六年間家主として生活した。そして離れた。今はどうなっているのか、誰か棲んでいるのかそれとも取り壊されているのか、よくわからない。

 かつてそこの縁側で、俺と彼女は月見酒をした。

 低い赤い満月が煌々と辺りを照らし、どこかで鹿が悲鳴染みた鳴き声をあげて、山並みは青白く輝いていた。

 彼女は鹿の鳴き声にいちいち機敏に反応し、次は紅葉鍋をしようと言って騒いだ。結局、やることはなかったけれど。

 彼女はどうしているだろうか。

 まだあの山に棲んでいるのだろうか?

 ただひとつ言えることは、俺が彼女と見た月を忘れることはけしてないということ。

 しかし今はもう、昔の話だ。



平成に入ってもう二十年以上が経ったというのに、この小学校の校舎は古めかしい木製だった。白いペンキ塗りの柱は長年の風雪によって、今では触れる度にぱらぱらと塗料の破片が落ちる。

 修二は校舎一階の窓枠にもたれ掛り、ぼうっと夏空を眺めていた。この木造校舎には当然、冷房装置は一切無く、唯一の冷却機械である扇風機は二日前、用務員の飯島さんが手を滑らせて麦茶をぶちまけてから、ぢぢと嫌味な音を出すばかりで動かない。仕方なく教室のすべての窓を開け放ち、少しでも外気を取り込もうという努力はしているが、今は完全に風も止んでいる。唯一幸いなのは、暑苦しい生徒共は全員、夏休みでここに居ないということだった。

「暑っついなあ――」

 修二は誰に言うわけでもなく、つぶやく。


 嵯峨野修二は今年の春に大学を卒業し、この山村の小学校へ赴任して来た新米の国語教師だ。本当は修二自身の母校である岐阜市内の学校に配属されるはずだったのだが、急に先任の教師が倒れたとかでこんな所に来てしまった。今年は新人余りだから、先生になれただけ君は結構運がいいかもしれないぞと、大学の就職課のおっさんはにやにやと小馬鹿にした笑い方をした。

「こんな、クーラーも無いような土地で、コンビニも無いような村で暮らせってか……」

 汗が無尽蔵に垂れる。多くの現役学生が勘違いしていることだが、学校が夏休みでも教師の仕事は休みにならない。家に帰れば、多少なりとも日陰に寝転がって冷気に浸ることができるのだが――といってもやはり家にも冷房は無いのだけれど――とにかく早く日が沈むことを修二は願った。日が落ちれば、川筋からの冷気で村は急激に冷やされる。

 岐阜県と滋賀県の県境には伊吹山があり、そこから北は伊吹山地と呼ばれる山並みが日本海に至るまで続いている。その真ん中辺りの、車通りのない国道が通るだけの小さな村が、修二の赴任先だった。若者はみな都会へ移り住み、残った老人が猫の額ほどの畑を耕し、コンビニは無く、スーパーも無く、自動車が無ければ生活出来ない、そういう村だ。車を全速力で飛ばしても、コンビニがある町まで下りるには一時間以上の時間がかかった。

 修二はこの三百六十度パノラマで山奥の村が、赴任してきた最初の日から大嫌いになった。生まれも育ちも岐阜県の修二は、多少の田舎になら慣れているつもりだったが、実際のところ本当の田舎暮らしは経験が無かったせいだ。

 春、貸家を学校側が手配してくれるということで、修二はさして住居には心配していなかったのだが、禿頭の教頭の運転する車に案内されて向かったそこは、廃屋と見まごうばかりの(事実、それまでは物置だったらしい)、崩壊しかかった日本家屋だった。ぶち破れた障子や、クモの巣まみれの玄関が寒々しいことこの上ない。無駄に大きな、そして相当に古い家だけにひどく悲しくなった。

「……」

「家賃は学校が出すから、そこは安心しろ。なんせ貴重な若い先生だからな、逃げられちゃかなわんってんで大盤振る舞いよ。ガスはプロパンだから、値段に気を付けてな――嵯峨野君は、大学時代一人暮らししてたのか?」

 惨状に唖然とする修二に、筋肉質な教頭はにこやかに語りかけた。

「え?――ああ、大学も実家から通ってましたけど」

「そしたら初めての一人暮らしか。ま、困ったことが有ったら、さっき通り過ぎたあそこ、大家さんの家だから、なんでも聞くがいいぞ。田舎の人は親切だからな」

「そうですか――教頭先生は通いなんですか?」

「そうだ、岐阜市からだ。こいつで毎日通ってるぞ」

 市内からここまで三時間は優に掛かるだろう。教頭はつやつやした緑色のロードスターをばしばし叩いて豪快に笑うと、それじゃあなと言ってサムズアップ。軽快なエキゾーストノートを上げて去って行った。引っ越し荷物を積んだトラックがやって来るまでの時間、とりあえずはこの廃屋を人が住めるように掃除せねばならないのだが、どうやらそれは修二ひとりの仕事になるようだった。

 がたがたと鳴る玄関の引き戸を開けると、巨大な蜘蛛の巣がちぎれて舞った。修二は虫が嫌いだ。蝶や蟻は触れるが、蜘蛛や芋虫は見るのも嫌なのだ。雨戸が閉まっているせいでか、家の中は異様に暗い。春のうららかな陽光がぽかぽか差す外とは別世界だ。靴を脱ぎ廊下に足を乗せると、新雪を歩くように埃の足跡が出来た。戦慄した。

 掃除がひとまず終わったのは夕方だった。途中でやってきた引っ越し屋の運転手に手伝ってもらいながら、修二は埃と汗まみれになって、ようやく一息ついた頃には既に辺りは薄暗い。それでも掃除できたのは玄関と廊下とふたつの座敷だけだ。外観でもわかったものの、この家は尋常でなく広い。離れや蔵もあり、かなりの規模の庄屋かなにかの家だったのではないかと思った。

が、今はそんなことはどうでもよく、修二は強い空腹を感じて、そういえば昼飯も食べていないことを思い出し、コンビニにでも行こうかと考えて、そんなものは無かったのだということも思いだした。観光客向けの店も五時には閉まるし、だいたい店まで行く為の交通手段が無い。自動車免許はあったが車を持っていないのだ。

 最初の夜を修二は飢えて過ごした。割れた窓ガラスから吹き込む風が春とはいえ冷たくて、修二は冬用の毛布を何枚も出して凌いだ。おまけに何度か隙間から蝙蝠が入って来て追い出すのに苦労し、まどろんだころには既に戸外は明るかった。



 幸いなことに、職場の小学校は楽しい所だった。子供たちは獰悪だったが田舎ゆえに人数が少なく、休み時間になると皆外に遊びに行ってしまい手が掛からない。同僚の教師も親切だった。一週間もすると、修二は村にも学校にもそれなりに慣れることが出来た。

 しかし慣れると今度は、今まで見えなかった村の別の面が見えてくる。ある日修二が買ったばかりのミニクーパーで帰宅すると、見知らぬ老婆が家に上がり込んでいた。修二が狼狽していると、大家さんが奥からひょこり顔を出し、今客間が空いてないから一寸御邪魔していますよと、悪びれる様子もなく言う。大家さんは、「ここは自分の家のものなんだから自由に使って何が悪い?」という認識だったらしい。人がせっかく綺麗にしたというのに、だ。

老婆と大家さんは二時間余りも雑談に花を咲かせ、修二は翌日までに終わらせねばならない宿題の採点が出来なかった。その後もこの老婆と大家さんは、週に二回のペースで修二の家にやって来た。一度などは、仕舞い忘れたエロ本をこの二人の話のタネにされ酷く恥をかいたこともある。

 村の寄り合いがあるとのことで、大家さんが七時に公民館に来るようにと言ってきたこともあったが、その日は丁度家庭訪問が遅くまでかかり、絶対に時間に間に合わせることなど出来なかったので、修二は行かなかった。その結果、翌日から村人たちは顔を合わせる度に、お忙しいようで大変ですねぇと嫌みたらしく言う。

 ストレスを解消する手立てもなく、鬱屈した精神を抱えたまま、何時しか季節は夏になり、小学校は夏休みになった。

八月、そして修二はこうして、うだるような暑さの中で書類整理に勤しんでいる。



「大変ですね。こう暑いと――でも、この村は日没が早いですから」

 急に話しかけられ、驚いて振り向くと小林先生が居た。

 白いワイシャツに細身のパンツ、何気なく後ろでまとめた黒髪。小林眞美先生は、化粧気のない勝気な顔をした社会科の若い教師だ。彼女はこの村の出身であり、かつこの小学校の卒業生だった。自ら望んでこんな場所で働こうとは、まったく見上げた根性だとしか言いようがない。

「山間の村は日暮れが早いなんて、俺はここに来るまで知りませんでしたよ」

 修二はうんざりした声音を出さないように、気を付けて発音する。

「嵯峨野先生は岐阜市の方でしたっけ。じゃあこんなものも珍しいですか?」

 見ると小林先生は、小ぶりな瓜と包丁を持っていた。

「向かいの里中さんから頂いたんです。今年は真桑瓜が豊作だって言ってらして」

「里中さんですか――迷惑をおかけしたのに、ありがたいですね」

 最初は純朴に見えた生徒たちは、実は手のつけようが無い悪餓鬼共だったということを、そう時間を置かずして修二は知った。窓ガラスは三日に一枚は割れたし、流血沙汰はほぼ毎日あり、校舎の至るところになんらかの落書きがしてあった。夏休みに入る直前、修二のクラスの五人の男子生徒が、学校の向かいの畑に侵入し、実り始めたスイカを全部盗んだあげく、食べあぐねてすべてその場に捨てた。翌日里中さんは学校に怒鳴りこんで来て、修二と教頭と保護者は一同雁首を揃えて菓子折を持って行く羽目になったのだ。

 小林先生は、生徒の机の上で瓜をすとんと器用に割る。

「はいどうぞ、さっきまで冷やしておいたので美味しいですよ。食べたことあります? 真桑瓜」

「いや、ないです。というか、まだ瓜なんてあるんですね」

 瓜なんてスーパーには並んでいない。修二は瓜の形は知っていたが、実物を見るのは初めてだ。

「そんな、瓜は立派な果物ですよ。ほら、この真桑瓜がなんで真桑瓜って言うかっていうと、それは岐阜の真桑で昔よく作ってたからなんですよ」

 真桑という地名は聞いたことがあった。がしかし、品種までは知らない。前時代的な果物だと思っていたので、興味もなかったというのが本当だ。

 瓜は冷たく、野生のメロンのような薄い味と香りをしていて、種が多いがけっこう美味い。修二が窓から種を吐くと、小林先生は行儀が悪いですよと笑った。

「この種は柔らかいから、飲み込んでも平気なんですよ」

「へえ――おいしいですね――そういえば、昔話にこんな話がありませんでしたか?」

 瓜の話題から、修二はいつかどこかで読んだ昔話を思い出す。いつ読んだのかは忘れてしまった話だが。

「都に瓜を運んで行く瓜売り達が、とある夏の日に木陰で休んで売り物の瓜を食べていると、一人の老人がやって来て、瓜を一つくれと言うんです。まあ売り物ですから、金を払わなきゃやらんと瓜売りは言うわけですが、老人はしゃがみこんで、さっき瓜売り達が食べた瓜の種を拾うと、それを地面に埋めるんです。するとなんと、そこからぐんぐんと瓜のつるが伸びて、やがては葉が茂り沢山の実が実りました。

 瓜売り達は喜んで瓜をもいで食べ、もいでは食べているうちに、ふと気付くと老人はどこにも居ない。そして売り物だった瓜は全部無くなっているんです」

「え、その老人が瓜を盗んだんですか?」

「違います。実はこの老人は幻術使いで、瓜売り達をだまして商品の瓜を食べさせていたのでした――ああ、これあれですね。今昔物語です」

 修二は食べ終わった瓜の皮も外に捨てた。窓の向こうは空き地で、今は背の高い草が生い茂っている。草いきれがむわむわと暑苦しい。

小林先生はなにか考え込むような顔をする。

「さすが国語の先生ですね……その話は知りませんでしたが、きっとその老人は狐か狸でしょうね」

「なんでそう思うんですか?」

 小林先生も窓際にやって来て、皮を空き地にぽいと投げた。

「だって、昔話でそういう悪戯をするのって、たいていはそういう、けものというか、もののけでしょう――」

 どこからか風鈴の音が聞こえる。風が吹きこんで来て、教室は一瞬のうちに涼やかな気配で満ちる。

「このあたりでは、やっぱり狐とかいまだにいるんでしょうか」

「たくさんいますよ。車に轢かれてるのなんか、よく見るじゃないですか」

 よく見るじゃないですか、と言われても、修二はいまだそんなものを見たことは無かったし、見たくもない。

「まあ、数は多くても今の狸なんかは、人を化かすようなのなんていないでしょうけれどね――あ、そういえば急ぎで教育委員会に電話しなきゃいけなかった。会長が狸に似てるから、今思い出しましたよ。ちょっと行ってきますね」

 ふふふと声を出して笑いながら小林先生は教室を出て行く。いつの間にか風はやんでいて、教室はもとどおりに暑苦しくなった。



 夜。修二は自宅の六畳間に寝転んで天井を眺めている。この家の部屋は八つほども有ったが、修二はそのうち二部屋だけ使っていた。庭園なんかもあるのだが、荒れ放題でとても見られたものではない。

 日が沈むと気温はぐっと下がり、開け放った窓からは網戸越しに涼しい夜風が吹きこんで来る。なんとなく点けたテレビから、騒がしい芸人の笑い声が絶えまなく続いていた。いつも思うことだが、この家に電気とガスと水道とテレビが繋がっているのは奇跡でさえある。

「走りたいな――」

 修二はぼそりと、誰にでもなく呟く。修二は高校生の頃に陸上部に入って、長距離走にその青春の全力を注いでいた。その頃にはこんな風に涼しい夜になると、たとえ昼間走り込み過ぎてへとへとだったとしても、誰もいなくなった公園や住宅街をランニングしたものだ。誰も居ない暗闇の中を駆け抜けることには、独特の快感がある。静かな夜は好きだった。そして特に今は面倒な村人と昼間に関わりたくなかったこともあって、夜に出歩くことがことさらに魅力的に思える。

 高校を卒業してからもう、四年間もまじめに走っていない。体力は落ちてしまっただろうか。そんなことを考えながら、修二はジャージを着てスニーカーを履き、戸外へ出た。

 田舎に来て驚いたことの一つに夜空の綺麗さがある。修二はいわゆる「満天の星空」というものを見たことがなかった。もちろん星座が解るほどの星は県内ならばどこでも見ることが出来る。しかしこの村の夜空はまったく曇りが無く、そして微細な星の粒が全天に散りばめられてとても綺麗だ。もしこの村にプラネタリウムが出来ても、誰も入りはしないだろう。

 玄関を出た修二はその夜空に眼を細める。半月に雲が細く流れていたが、その光はぼんやりと、外灯の明かり一つない田んぼと野山を照らしていた。天の川が空を縦に横断して、その天頂に光っているのは夏の大三角形だ。

 とはいえ、外灯一つない道を星明りのみで走るのは不可能だったので、修二は右手に発光ダイオードのペンライトを持っていた。

 民家のある集落へ向かうと、万が一夜更かしな住民に見られた際に「深夜徘徊をする怪しい教師」という、新しい噂話の格好のネタを提供してしまう恐れがある。修二の足は自然に、家の裏手にある山へと向かった。

 その山は丁子山と呼ばれていた。丁子とは薬草の一種で、ここではその栽培が行なわれていたと大家さんは言った。行われていたと言っても、それは明治より前の時代までの話だ。山の持ち主が早くに都会に出てしまい、今では荒れ果てた雑木が茂るばかりである。当然、今山に入る人間などはほとんど居ないはずだが、不思議なことに修二が今踏み進める小道は、軽トラックの轍こそないが、それなりに人通りがあるように見える道だった。雑草は小さく少ないし、蜘蛛の巣も張っていない。誰かが手入れをしているのだろう。

 修二は引っ越してきたばかりの頃に一度、好奇心でこの山を登ったことがある。その時にも思ったことだったが、木々は茂っているのに蛾や蠅などの不快な虫が妙に少ないのだ。蜘蛛の巣も張っておらず、綺麗な蝶こそ何度か見かけたが、なんだか清潔な森のような気がして、虫嫌いの修二はこの山が好きだった。今こうして真夏の夜に歩いていても、蚊や羽虫の不快な感触は、まったく無い。かつて作られていたという丁子には、虫除けの効果があったというし、もしかするとそれがどこかに残っていてその作用なのかもしれない。  

木々の葉によって星明りは完全に失われて、あたりは真の闇と言っていいほどに暗いというのに、ペンライト一つの修二は、不安感をまったく感じない。これも不思議と言えば不思議だったが、森の闇の中にばけものがいるなどとは考えるだに馬鹿らしかった。野犬なども見たことがないので、きっとこのあたりにはいないのだろう。

やがて、つづら折りの急な坂に差しかかった。修二は鼻歌でも歌えるような気分でここまでやって来たが、この坂はかなりきつく全身が汗ばんできた。坂を越えれば古い神社がある。そこで休憩をしようと思った。

息をつきながら修二が坂を越えると、そこには春に来た通りの神社があった。今は使われていない、廃神社だ。なんでも戦国時代からここに祀られており、かなり前には御神体が麓の集落に移転した為、山の持ち主は作物を作りつつも建物だけは管理していたらしい。神聖な建物だから、不要になったからと言ってほったらかすわけにもいかなかったのだろう。小さな拝殿の前に、ひびわれだらけの石造りの鳥居が今にも崩れそうな風情で立っている。神社の名前を表す、扁額は無かった。



修二は拝殿の縁側に坐りこんだ。木々の隙間から、丁度半月が見える。長く息を吐いて、これからはここまでのランニングを日課にしようと決めた。この程度の上り坂で息を上げる程に体力が落ちているとは、正直思っていなかった。

その時、不意に何かが地面に落ちるような、どさっという重い音がした。なにかがざわざわと動きまわる気配もする。甲高い、怒号のような声がそれに続き、今度は殴りつけるような鈍い音と、じゃらじゃらという金属音が聞こえ始めた。こういう廃墟染みた場所には不良が溜まるものだし、もしかしたら喧嘩かもしれない。修二は身構えつつ周囲を慎重に見まわした。音は続いている。背後の、拝殿と本殿との空間部分からその音は聞こえてくるようだ。

 何も考えずに帰ろうかとも考えたが、好奇心が先に立ち、せめてその正体だけでも確かめる為に、修二は拝殿の裏へ回り込み、柱の陰から様子を伺ってみる。

 月明かりに目は完全に慣れ、それなりに明るい視界の向う側には、御神体の置かれる大きな本殿が見える。修二のいる拝殿とはそれなりの距離があった。そして、その間では、少女と巨大な犬が死闘を繰り広げていた。

少女は十六、七の、高校生くらいの背格好で、白い着物と袈裟、そして頭には小さな六角形の頭巾を身につけていた。修二は少し遅れて、それが山伏の装束であることを理解した。短い黒髪を振り乱し、手にした長い錫杖を、気合と共に犬の身体に打ちつける、それが犬の体に当たるたびに、じゃらんじゃらんと高い金属音が響いた。対して犬は、少女の背丈ほどもある巨大さで、真っ白な毛並みを振り乱してこれに抵抗する。修二は今までにこれほど大きな犬を見たことがない。形から見ると日本犬のようだが、こんなバカでかい種類の犬がいるものか。

野犬が少女を襲っているのかと瞬間的に考えてみる。が、よく見ているとどうも様子がおかしい。少女は明らかに武器を持っているし、しかも犬を圧倒するほどの攻撃を繰り出していた。少女の細い喉を噛み裂こうとする犬の顎を巧妙に錫杖でかわし、眉間や耳、喉元、わき腹など、およそ考え付く限りの動物の弱点を容赦なく突く。見ているうちに犬は傷だらけになり、白い毛は赤黒いもので汚れ、足取りがおぼつかなくなって、やがてどうと音を立てて地面に倒れた。犬が完全に動きをやめて、初めて少女は攻撃の手を止める。

「ふう……手間取らせやがってェ、このクソ狗め」

修二には理解のできない光景だが、無理やり解釈をしようとしてみる。この少女、酷い動物虐待をしているのか? 未成年の起こす猟奇事件の発端として苛烈な動物虐待が見られることがあると、修二は大学の教育系の講義で聞いたことがあった。もしもこれがそうだとすれば、教育者として未然に止めねばならないことであるのに、間違いない。

「なにをしてるんだ!」

 修二は声を上げた。少女がはじかれたように修二を見る。犬はびくんびくんと激しく痙攣していた。今にも死にそうだ。

「その犬はきみの飼い犬か? なんでそんなことをするんだ! もう死にそうじゃないか!」

 少女はなにか、ひどく面倒くさそうな表情を作る。

「――なんか用か?」

「は?」

「見ての通り取り込み中だよ。後にしてほしいんだけど」

 少女は犬に向き直る。

「いや――君はここの娘? だったら――」

「後にしろっつってんのが聞こえねえかァ? 手前の役にたってねえ耳をちぎられたくなけりゃ、黙って回れ右して帰れッ! それか手前アレか? こいつの――」

 錫杖で犬を指す。

「こいつの仲間だなッ? 堂々と出て来るたァ、いい度胸してやがる」

 振り返った表情が本当に他人の耳をえぐりそうな剣幕を作っていたので、修二は二の句を言い淀んだ。犬は白い泡を口から吐いている。痙攣もしない。

「犬、死んじまったぞ――」

修二はそれだけ言った。言い終わると同時に、少女は無言で錫杖を修二に投げつけてきた。すんでのところで避けると、錫杖は背後の拝殿に轟音と共に突き刺さって柱をめちゃめちゃにした――冷や汗が背中をつたう。

「耳を削いでやろうとしたんだが失敗だ。運が良かったな」

 吐き捨てて、少女は犬の死体に再度向き直る。が――そこには何もなかった。

「――え?」

 同時に、頭上から高らかに別の声が響く。

「――ありがとうよ人間。今宵は本当に運が良いわ――仕掛けられた結界に気付かぬとはいえむざむざ入りこみ、満足に動けぬまま不意打ちを受けた。あわや絶体絶命というところで、とんだ助け舟よの」

 拝殿の上、半月をバックに坐り込んでいたのは、先ほどまで倒れ伏していた犬。たった今投げつけられた錫杖を咥えている。そしてどういわけか、犬は修二に向って話しかけていたのだ。

「なにか礼をしたき所じゃが、今宵はこのざまゆえ簡便して欲しい。それから、この山にはもう入らぬが良いぞ。さもなくば」

 少女も修二も唖然として犬を見る。

 犬は口元を歪めた。剥き出しの犬歯が光る。笑っているのか。

「性悪な天狗に喰われてしまうぞ。では天狗、人間、またいずこかで――」

 ふ、と、犬が消えた。獣臭さが濃厚に大気へ残っていたが、毛の一本をも残さない。

「――は?」

 修二が忘我していると、突然背後から何かを叩きつけるような爆音が聞こえた。また爆音。思わず振り返る。

それは少女が地団太を踏んでいるのだった。その威力はすさまじく、一発ごとに神社全体が揺れた。がらがらと凄い音とともに、崩壊寸前だった鳥居がついに崩れて、少女はやっと地団太をやめる。

「――おい」

少女が恐ろしい形相で修二を睨んでいる。さっきの表情はあくまで威嚇的だったが、今度は本当に、腹の底から怒っているのだということがわかる。

修二は返事をせず、目を合わせないようにしながら、震える足を必死で動かして逃走を図った。

――なんだ。

――なんなんだこの状況は。

「わけわかんねぇってか……なんだよあの娘!」

「おいっっつってんだろァ逃げんなぁあぁああああぁあ!」

 崩れた鳥居をまたぎ、一目散に走る。登るのに苦労した坂は、今度は急な下り坂となって、修二の足をもつれさせた。

しゃべる犬とか怪力娘とか、そんなもんは――

漫画のなかだけにしといてほしいが。

実際俺の前に居るのは――居たのは。

――なんだ?

ただひとつ、修二が理解したこと。

どうやら、気付かないうちに越えてはならない一線を、踏み越えてしまったらしい。



それでも疑問符が脳内に充満して、まともな思考が出来ない。

何かに躓いて、修二は派手に転んだ。闇の中を転ばすに走れるほうがおかしいのだと、自己弁護しながら立ちあがってみると、躓いたのはさっきの崩れた鳥居だった。なぜか神社の境内に戻っている。

「おい、なんだよこれ!」

「なんだはこっちの台詞だコラッ! 手前ェ人の邪魔をしてよぉ! これで無事に帰れると思うなよ!」

 少女がわめきながら近寄って来た。一本歯の高下駄をがらがら鳴らして、殺意が全身から滲み出ている。台詞のひとつひとつはどこかの任侠映画のそれだが、しかしあまりにも理解不能な状況。滲む油汗、しびれる背筋――恐怖。恐怖。恐怖!

 立ち上がれないまま、声にならない呻きを発している修二は、なんだか下半身が暖かくなったのを感じる――失禁したのだ。

「あァ? 手前小便漏らしたのか――このド畜生が」

「うわぁああぁあああぁ」

 情けなさと恐怖で訳が解らない。とにかくこの窮地を脱したい。そういえば今年は厄年だったのに、正月に厄払いに行かなかったななどと、無意味な発想が浮かんで浮かんで、修二は涙と鼻水を決壊させる。まさに大洪水、凄惨の極み。

「勘弁してくれ! なんだお前は! なんなんだよ!」

「そこまでにしといたほうがいいんじゃない?」

 凛、と。

背後の山桜の上から、不意に声がした。朗々とした、これも女性の声。

「こいつは人に化けてるんだよ! 紀州の糞狗を逃がすための捨駒なんだ!」

 見上げる少女はそこに向かって叫ぶ。修二は首を動かすこともできない。

「それは本物の人間よ――そんなこともわからないようで、何が一山のあるじかしら」

「あァ?」

 少女は傲然と修二を見つめた。触れられるほどの殺気はようやく収められる。いぶかしげにくりくりと動くその眼は金色だ。やがて、はっと気付いたような表情を作った。

「うぁ、本当だ――どどどどどどうしよう、めちゃくちゃビビらせちゃった」

「まだ手は出してないでしょ? だったら何も言わないわよ――んん? 怪我はさせてないけど、錫杖を投げたのね」

 山桜の上の何者かは、探るような声音を出した。

「まあ、当たっていない以上は不問だけれど――縮地も使ったの?」

「だ、だってこいつ、逃げようとしたから――」

 なにやら情勢が変わり、逃げ出していた修二の思考力が帰ってくる。

――雰囲気からすると、樹上の何者かは、眼前の少女の上司だろうか。とすると、何かの組織か。非行グループとか? いや、こんな田舎に非行グループなんて存在はしない。というより若者がいない。またも疑問符。理解不可能。

 葉擦れのざわざわという音が騒がしくなった。修二は突然耳元で話しかけられ、びっくんと身体を反射的に跳ねさせた。何者かはいつの間にか修二の背後に接近していた。

「ああ、ああ、こんなに震えて――今日は人間がちょっかいを出してきたみたいだし、とりあえずは眼を瞑ってあげる。片づけはきちんとするのよ」

「朔日は優しいな! もちろん片づけはするよ」

 少女は安心したように言った。朔日と呼ばれた何者かは、へたりこむ修二に正対する。

修二は初めてその声の主を見た。銀の髪が長い、極端に色の薄い少女だ。しかし常人と明らかに違うのは――極端に大きな緑色の眼球が額にもう一つ有ることで、それが修二の顔をぐるりと覗き込む。と、思った途端にそれは、瞬きをするように消えた。

「怖い思いをさせて申し訳ないわ。もう大丈夫だから、気を確かに持って。詫びはこの者がしっかりとするはずだから」

 彼女は普通の二つの眼でしっかりと修二を見つめると、今度は自身もまた、ぱちんという鞭の弾けるような音を立てて消えてしまった。同時に修二はすさまじい疲労感を感じ、意識がふっと薄くなったと思うと、やがてなにもわからなくなった。

 そして暗転。



 瞼を開くと見知らぬ天井が広がっていた。状況をつかむために、眼球だけを動かして周囲を探る。部屋は広い板の間で、格子状の目の引き戸から眩しい日光が入り、床に濃い影を作っていた。どうやらここは神社の本殿らしい。ぼんやりと上を向くと、昨夜の少女が枕元に仁王立ちしていて、修二は心臓が止まりそうになった。少女は、修二の顔をじっと見下ろしている。

「おう、目ェ覚めたか――もう昼だ」

 昨夜のことを思い出した。するとここは、丁子山の廃神社か。

「あ――、あの、えっと――」

「ん? なんだ」

 混乱して、問いかけすら上手くできない。辛うじて喉から言葉を絞り出した。

「――、君は、いったい」

 少女は鼻を鳴らして、この問いには答えずつかつかと部屋を出て行った。すぐに戻って来たその手には、二つの御膳が乗っている。

「とりあえず飯でも御馳走すっから、まずは立ちなよ」

 身体を起こすと、掛けられていた布団が落ちた。修二は全裸であることに気付いた。

「ふ、服は」

「ああ、着物は表にあるぞ。なんせ汚かったからな、洗った」

 異性の全裸を見ても動じない、少女の態度を見て修二は恥ずかしがる気も失せた。布団を身体に巻いて格子戸を開き、縁側に干されていた服を見つけ着替えた。むっとする暑さの戸外は、嘘のような好天で、入道雲が遥かに伸びている。いつも通りの夏の昼時だった。

 薄暗い社の中に戻ると、少女は自分一人でもう食事をしていたが、服を着た修二に気づいて、茶碗を御膳に置いた。

「とりあえずそこへ」

 示された御膳の前に坐ると、少女と正対する形になった。

「えー、えへん。えっと、昨日は迷惑をかけちまったね。とりあえずは詫びておく。私らは人間に手を出しちゃいけないんだ」

「すまないけれど、状況がまだ――全然わからない」

「そういえば説明がまだだったな――まぁ、端的に言うと、私らは人間じゃねえんだ。私は玉簾って呼ばれてる、天狗だ。」

「え」

 理解をしようと意気込んで問いかけてみたはいいが、出鼻からこんなにも意味不明な回答が来るとは正直、考えていなかった。

 人間じゃない?

「普段は里に降りないだけで、まぁそういう、いわゆる人外ってぇのは案外に多くってね。でも安心するがいいよ。私はちゃんと鞍馬山で修業を積んで、僧正坊から免許皆伝を貰ったきちんとした天狗だから。そこいらの烏天狗とは違う」

 かかと笑って、少女――玉簾は誇らしげに言った。その顔は昨夜と違い無邪気そのもので、とても人外には見えない。もしかしたら、と修二は考える。この玉簾という少女は、いわゆる妄想癖の強いタイプなのではないだろうか。夏休み、暇を持て余して山中の廃神社に起居し、女天狗を自称する少女など居る気がしなかったが、現にこの状況は、そうとでも言わねば説明がつかない。

「ん? 疑ってるね。その眼は疑ってる眼だ。朔日程じゃぁないが、私もそれッくらいわかるぞ――そうだな、ちょっと来てみろよ」

玉簾は立ちあがると、社をぷらぷらと出て行った。修二が付いて行くと、そこには昨夜崩壊した鳥居があった。今やもとの形は判別できず、直すことなどは不可能であるように見えた。玉連はその瓦礫を指さしながら言う。

「昨日私がぶっ壊しちゃった鳥居――もともと壊れかけてたけどね。新しいのが欲しいけど、金が無いから直すしかないね」

 ぱんぱん! と玉簾が、柏手のように平手を合わせると、眼の前の藪ががさがさと騒がしくなり、杓杖が飛び出して来た。昨夜、玉簾が犬を突きまわしていたものだろう。日の光の中で、杓杖は金色に輝いた。

「おお、あったあった。あの糞狗っころが持って行ったかと思ったよ。こいつが有れば、仕事が早く済む」

 ひとり言のように玉簾は呟きながら、今度は杓杖を両手で掴むと、それをおもむろに地面に立てた。そして、ちゃらちゃらと前後に軽くそれを揺らす。すると、またも藪が騒がしくなり、今度は何やら黒いものが複数飛び出して来た。それらは玉簾の頭の真正面に、空中で停止した。見るとそれは小さな烏だった。不思議にどれも、鳩ほどの大きさしかない。

「貴様ら、明日の朝までにこいつと」

 玉簾は向き直って、柱がへし折られた拝殿を指した。

「あいつを始末しといてくれ。綺麗にだぞ。ヒビひとつでも残ってたら、全員焼き鳥にして夕餉にすっからなぁ」

 小烏達は何やら鳴き交わしながら、瓦礫の上に飛び乗った。黒い嘴で瓦礫をつついている。当然というか、見ていても作業が進展することは無かった。

「ほらどうだ? 烏天狗を使役出来るのは、天狗でもけっこう偉い方なんだぞ」

 玉簾は小烏共を烏天狗と言い張った。修二は何も言う気が起きなくなった。烏を手懐けるのはすごいと思ったが、もし、もしも本当に天狗だと言うならば、もっとこう神通力的なパワーを見せてくれるのかと思った。昨夜の地鳴りを引き起こすような馬鹿力から、少々の期待を修二はしていなかったわけではなかったが、現実はこんなものである。錯覚や、トリックで説明がつきそうだった。

 修二は少しだけ自分を取り戻した。

「あの――、とりあえず聞いてもいい? あの犬はなんだったんだ? それと朔日とかいう娘は友達?」

「はァ?」

 玉簾が急に大きな声を出したので、修二はかなり驚いて、言いわけ染みたことをぼそぼそと言った。

「あ、いやその、天狗、それはいい。うん、君は天狗だ」

「会話になってねェよ――あの狗っころはあれだ。道の向かいの谷に陣取ってる山狗だな」

「道ってのは国道のこと?」

 丁子山のすぐ麓には、村を貫通する国道が走っている。

「ああ。御前らはそう呼ぶのか。大きい舗装されてる道だ。物の怪なんかは、たいていあれを棲家の境にしてるんだ――しかしここは蒸すな。屋根の下に戻るか」

 玉簾は言うなり社に戻って行った。なにかの視線に気づいて、修二がそちらに目を向けると、小烏達がじっと修二を見つめていた。修二はなんだか気味が悪くなり、玉簾を追って社に戻った。



「話の続きだ。まァ人間の御前に信じ難いのは分かるが、さっきも言った通り人外――物の怪って言った方が良いか。とにかくそんな連中が、私ら。それは分かるな?」

「はぁ。それで?」

 修二は短くうなずいた。

「なんだかあんまり感慨が無ぇな。それはそれとしてだがな、物の怪には強いのと弱いのとがある。これは人間も同じだろ?腕力ばっかりじゃないところもな。

強けりゃ縄張りが持てる。私はこの辺じゃ強い方だから、こうして山一つ貰って、呑気に暮らしてる。他の山にも大概、なんやらかが棲みついてるもんだ。勿論山ばっかりじゃぁ無ぇぞ。沢なんかにゃ河童がいるし、川獺もけっこう居るな。海は知らねえが、多分なにかは居るんだろう。そこはそれぞれだな」

玉簾は本殿の奥に据えてある祭壇の前に、あぐらをかいて坐っている。話の途中で玉簾が手をたたくと、どこからか小烏が飛んできた。徳利と杯を足にぶら下げている。

「夏にゃ日陰で冷酒をちびちびいくのが無上の幸せだね――で、朔日。昨日いただろ? 木の上に乗ってた奴だが、あれは私より遥かに強くってね。一度手を出したが、神社が鳥居だけになっちまったりしたから、懲りた」

「その朔日は、なんの物の怪なんだ?」

玉簾は嬉しそうに手酌で酒を注ぎながら、さとりだよと短く言った。修二は手持ち無沙汰だったので、さきほどの御膳に箸を付けた。ただの白米だったが、なんだか異様に旨かったので驚いた。

「さとり?」

「さとりの怪って話を知らないか?」

 修二はその昔話を知っていた。猟師が一人、夜を越そうと山の中でたき火をしていると、さとりがやって来て火にあたり始める。猟師が気味悪がると、さとりは気味が悪いと思ったろうと言って笑う。怖いから殺してやろうと考えると、さとりは殺してやろうと思ったな、と言ってまた笑う。そのとき不意にたき火が爆ぜ、焼けた破片を受けたさとりは、人間は思いもよらぬことをするのか、と言って逃げて行く。という話だった。

「心を読むんだなァ。さとりは。御前も見たろ? 朔日のデコにある気味悪いでかい眼を。あれで睨まれたら、隠しごとなんてしようとも思わないさ」

 妄想癖にしちゃ懲りすぎた話だと修二は考えたが、今は好奇心が先に立っていた。

「さとり――朔日はどこに棲んでるんだ? もしかしてここか?」

「朔日はもっと良い所に棲んでるよ。権現山って、ここを東に行ったところのでかい山だ。朔日はこの辺で一番強いし、賢いから、名代をやってる」

「名代?」

「それは私が御話しましょう」

 いつの間にか、社の格子戸が開かれていた。そしてそこに一人の男が立っている。メガネをかけた真面目そうな男だが、時代錯誤な着流しを着ていた。

「おう転か! 遅いじゃねぇかよ」

 転と呼ばれた男は、音を立てずに歩いて修二の隣に坐った。

「朔日さんから話は聞きました。人間の――あなたの、御名前はなんと申されるのですか?」

 得体のしれないものに名前を教えることには抵抗があったので、修二は名字だけを言った。

「嵯峨野、だ」

「嵯峨野、京都の地ですね。僕も玉簾さんも、一時京都にありましたので存じておりますよ」

「私は知らねえ」

「嘘をつかないでください」

 修二が生まれたのは京都だった。だが、物心つく前に引っ越したので、その記憶はあまりない。

「御前、嵯峨野っていうのか。こいつは転っていうんだ。おい転、そんな格好やめて、こいつに正体見せてやれ」

 玉簾が徳利片手に言う。もう酔っているのだろうか。

「御察しかと思われますが、僕はこういうものです」

 転は、その場で前転をするような奇妙な動作をした。見る間に人の形は消え、現れたのは真っ白で巨大な狐だった。

「こいつはなぁ、山科辺りでネズミを喰ってるだけの野狐だったのが、稲荷明神の御眼鏡に掛かってな。伏見で霊力を表し、今ではこんな芸当も出来るんだ――年だけなら私より上だ」

 白狐姿の転は、これではお酒が呑めませんのでと言い、玉簾は豪快な馬鹿笑いをした。

 陽気な二人――一人と一匹か。に対して、またも修二は事態に対応出来なくなっていた。今の変身は断じて、見間違いなどではなかったし、修二は酒も呑んでいない。判断力は正常なはずだ。しかしそうやって自分を信じるならば、今までのすべてを信じなければならなくなる。

 天狗? さとり? 化け狐? 出鱈目だと叫びたいのを押し殺し、修二は眼の前の御膳の飯を掻き込んだ。

「おーい嵯峨野、飯ばっかり食ってないでこっちこいや。酒呑まないとつまらんだろ?」

 玉簾の隣で、転は人間姿に戻っていた。

「いや、ここは涼しくてですね、夏はいつも玉簾さんの世話になってるんです」

「ここが涼しいんじゃねぇよ! 私が涼しくしてるんだよ! 蚊だって撲滅したしなァ」

 そうだったのか。修二は今更ながら、この丁子山の異常さに気付かなかった自分を恨んだ。

「嵯峨野さん、名代の話でしたね。名代というのは、簡単に言うと顔役です」

 転も片手に盃を持った。

「物の怪には上も下もありませんが、力量の差というのは間違いなくあります。この辺りで一番力を持っているのは伊吹山ですね」

「そうそう、伊吹の多々美比古な!」

 転の語るところによると、周辺の最高峰である伊吹山に棲むのは、物の怪どころではなく、神なのだという。その名を多々美比古命というそうだ。

「といってもですね、神とはいえど本質的な部分は我々と変わりません。力が並はずれたもののけを、神と呼ぶと考えても差し支えないわけですね」

 もののけの間にも、ピラミッド状のヒエラルキーがあるのだという。その上位は人間にも多大な影響を及ぼすため、神として崇められているのだった。

「べつに支配されているわけではないんですよ。ただ、逆らえないというだけの話です。圧倒的な力量差のせいで、ですが」

「だァからたまには、力自慢の馬鹿が下剋上を狙うわけだなァ――どこのどいつかとは言わねえが、な」

「殿又谷の紀州ですか――」

 二人の高かったテンションが、急に下がった。

「それって、昨日の白い犬のことか?」

 修二が尋ねると、ああ嵯峨野さんは遭ったのでしたねと言って、転がうつむいた。

「今年に入ってからのこと、南側の殿又谷という谷に、どこからかやって来たのが紀州です」

「前にあそこに居たのは何だッけ?」

「狸の団三郎ですよ。紀州が来てから姿を見てないので、奴にここを追われたか、はたまた死んだか――団三郎は南側の名代だったので、それを追った紀州は、自動的に次の名代になったのです」

「団三郎は寿命で死んだんだよ。なんでももう四百歳だったそーだ――紀州の野郎、皐月の頃には北に手を出してくるようになったんだ。だが奴にとって不幸だったのは、この私が最前線に居たことだね――見ての通り、まだ北は破られちゃいない」

 楽しそうにに玉簾は言うが、転は沈んだままだった。

「玉簾さんが強いのは、僕は勿論否定しませんよ。でも、見る限り紀州も、同じぐらい強い。頭も良いですし」

「手前、私の頭が悪いってェのか? 昨日はなァ! あいつをあと一歩で始末するところまで行ったんだ! 丁寧に罠を仕掛けてな。一週間掛かったんだぞ! それを御前、ここにいる嵯峨野がふいにしちまったんだ! 聞いてんのかおい!」

 手足をばたつかせた拍子に、玉簾は杯を落とした。からんと乾いた音がして、皆が沈黙した。

 知らなかったとはいえ、悪いことをしたとしか言いようがない。ただ今は、情報を整理する時間が欲しかった。短時間であまりにも多くの、信じ難いことを聞き過ぎた。修二が格子戸の向うを見ると、いつの間にか日は落ち、黄昏の薄明るさになっている。

「あの、どういうふうに詫びたらいいか分からないけど――とりあえず落ち着きたい。一度家に帰らせて欲しいんだが」

 それを聞き転は立ちあがった。玉簾は横になって不貞寝をしている。

「ああ、もう黄昏時ですか。では玉簾さん、僕が嵯峨野さんを送って行きますので」

「もうこっちの詫びは終わったぞ――やい嵯峨野、私は怒ってなんかないからな。天狗は後腐れをしねえんだ。これを転に持たせるから。詫びの品だァ」

 小烏が何か運んできた。見るとそれは白木の鞘の短刀だった。

「小烏丸――とでもしておいてくれ。それから、もう山には来ねえほうがいいぞ。怖ぇえ山狗に喰われっちまうからなァ」

 玉簾はぱたぱたと手を振った。別れのあいさつというよりも、早くどこかへいけといった風情だった。修二と転は格子戸を開き、外へ出た。鳥居は相変わらず瓦礫の山で、直る気配は全くない。

「さっき、玉簾が烏天狗を使って鳥居を直すとか言ってたけれど、なんなんだ?」

「天狗には階級がありましてね。最上位の大天狗はもう神みたいなものですが、最下位の烏天狗は普通の烏と大差ありません。しかし、烏天狗の中でも霊力の有るものは、あまり体が大きくならないんですね。玉簾さんが使役してるのはそういう連中です。連中は夜しかまともに霊力が出せないので、まぁ日のあるうちには何もできないでしょう」

 修二の脳内にある烏天狗像は、嘴が生えた人間型のものだったが、どうやらこれは間違った認識であるらしかった。

「雀くらいの大きさにまでなると、これが京の鞍馬山とか出羽の羽黒山とか、そういった天狗の組織がある山へ向かいます。そこで才覚が開花すれば、晴れて人間型になれるんですね」

「へぇ、そりゃ面白いけれど、それじゃあ玉簾はもともと烏だったのか」

 山道を下りながら、二人はゆっくりと進んだ。さきほどまでの夕暮れの明るさは、今や西の空に藤色の光を残すばかりだった。

「玉簾さんは――、彼女はまた違います。烏天狗はどこまで行っても烏、大天狗だとかには、けしてなれません。上位の天狗は大概、もと人間なんですよ。玉簾さんは中の上といった位階ですが、やはり人間だったと聞いています」

「もと人間? じゃあけっこう若いのか?」

「天狗だけじゃなく、物の怪はみんな長命ですから、玉簾さんも最近の人ではないんですけれどね。年齢の話をすると彼女怒るので、正確には分かりませんが――朔日さんが来るちょっと前だから、ええっともう軽く百年はここに棲んでいますね。彼女は。この辺では新入りの内に入りますが」

「百年で新入りって――」

 きちんと理解しようと思って聞いているのに、現実離れしすぎていて、まるで架空の設定にしか聞こえない。

「山を下りてすぐの所に空き家がありますよね。あれがもしかして、嵯峨野さんの家ですか?」

「貸家だけどな。ボロくて困るよ」

「昔、あそこに棲んでいた物の怪も居たんですよ。もう五十年くらい前ですけれど。なんだったかな――」

 話ているうちに木々が途切れ、半年だが見慣れた我が家が見えて来た。転はそこで立ち止った。

「見送りはここまでにさせていただきます。これが、一応の詫びの品ということで御納め願います。別に特別なものでもありませんが」

 転が突き出した手に握っていたのは、先ほどの短刀だった。断わる気も無かったので、修二は素直にそれを受け取った。

「それから玉簾さんも言っていましたが、これからは山に入らぬようにした方が、お互いの為となりますので」

 宜しくお願いしますと、呟いて転は白狐に変じた。そしてそのまま風のように、道を駈け戻って行った。修二には短刀だけが残った。

 どっと疲れが襲って来た。重い足を引き摺って、修二は家に帰る。部屋に入ったかと思うと、倒れ込むように眠ってしまった。夢は見なかった。



 それから一週間。修二は山に行くことは無かった。もののけ共の音沙汰も、全くない。まるで夢のような話であり、うすうす本当に夢ではないかと修二は思い始めたが、例の短刀はそこにあった。銃刀法に違反していたらどうしようかと怖くなったので、関連の資料を片っ端からひっくり返して調べた結果、一応は問題が無いことが分かったので、今は本棚の上に放置されている。

 小烏丸、と玉簾は言っていたが、そういう名前の刀は別にあるらしい。なんでも皇室伝来の小刀で、刀身の中ほどまでが諸刃になっているという特徴的な代物だという。修二は目前の小烏丸を手に取り、鞘を抜いて見た。案外に普通の形をしていたので、少し落胆した。しかし刃は研いであるらしく、不用意に触れた指先がすっぱり切れた。血が出始めるまでに時間がかかるほどの異様な切れ味だったので、不意に怖くなり鞘を戻した。


 学校でそれとなく、小林先生に天狗の話を聞いて見たが、小林先生は生粋の社会科教師で、民話や伝承にあまり興味が無いらしく、地元の昔話すらあまり知らなかった。

「あ、でも私知ってる話がありますよ。話っていうか、まあ天狗とか関係ないんですが、満月の夜に山に入っちゃだめなんです。うちのじい様が猟師をやってたので、よく言ってましたね。もう死んじゃいましたが」

 麦茶を啜りながら、小林先生は笑った。

「嵯峨野先生、そういうの御好きなんですか?私はわかんないですねーそういうのは。ただ、満月の夜に山に入っちゃいけないっていうのには、理由があるんです。神隠しにあうんですよ」

「神隠し? 子供が居なくなるとか、そういう話ですか?」

「子供もそうですが、大の大人も居なくなるんですって。それが何時の頃だったか、じい様が子供時代に一人、そうやって居なくなった人が居たそうです。帰ってきたらしいですが」

「帰って来たんですか? 怪我をしてたりとか」

「無傷で、いたって健康だったそうです。それがですね、その人の語るにはですよ。なんでも、どうしても用事があって山へ入り道を進んでいくと、下駄がついて来たそうです。からーんころーんって、下駄だけが」

 下駄だけが歩いてくるというのは、想像するとけっこう怖い。

「こりゃあもののけだってんで、後ろも見ずに走って走って、すると山が途切れた。眼の前に巨大な楼門が現れたんです。神社とかの前にあるやつですよ――助かったと思い、でもこんな所に神社なんてあったか? と訝しんでいると、その楼門には稲荷大明神と書いた扁額が掛けられていて、気づいたら山なんて無くて、背後は町だったそうです。なんとその人、いつのまにか、京都の伏見稲荷にいたんですよ。嵯峨野先生御存じですよね?千本鳥居」

「伏見ぃ?なんでそんな所に」

「さぁ、だから神隠しなんです。その人は、それから汽車で岐阜まで帰ってきたそうですよ――おかしな話ですよねぇそんなの。でもじい様は確かに騒ぎになったと、酒を呑む度に熱弁していましたねぇ。それに、その夜には山の中から遭難者も出て、それがやっぱり京都の人で、なぜか岐阜の山の中にいたそうなんです。不思議です」

 懐かしむように小林先生は言った。きっとおじいちゃんっ子だったのだろう。

「そういえば、じい様は狸に好かれる人だったんですよ」

「猟師が獲物に好かれるんですか?」

「やだなぁ、今日日の猟師は狸なんて獲りません。じい様はですね、毎朝狸に起こしてもらってたんです。いつも庭に入りこんだ狸が、じい様の部屋の窓をこつこつ叩いて、です。その為か、じい様は猟師なのに犬を飼いませんでしたね。狸が嫌がるからって」

 奇態なじいさんだなと、修二は漠然と考えた。



 家に帰ると鍵が空いていて、また大家さんとお客が来ているのだと思い、修二は酷く気が滅入った。何者かの喋り声もする。しかしその声は、普段使わない座敷から聞こえて来ていた。訝しんで見ると、玉簾と転が居た。修二は狼狽した。

「え、なんでここに――?」

「酒を飲むにゃら畳のが良いと思ってよォ。うちにゃ板敷きしか無ぇからさ」

 玉簾はやはり酔っているらしく、片手に徳利を持ち、呂律が危うい。転はくすくす笑っている。妙に呑気なので、緊張が削がれた。

「玉簾さんが行こう行こうとあんまり言うので、昼間から来てしまいました。山には来るなと言っておいて、調子が良すぎますね。すみません」

「えーと、まあそれはいいんだが、山は見てなくていいのか? ほら、紀州とかさ、なんか言ってたじゃないか」

 玉簾が何もない空間に手を突っ込み、なにか引っ張り出すような動作をすると、そこから新しい徳利が現れた。そのまま盃に酒を注ぐ。

「気分の良い時に気分の悪い奴の話をすんなよ――まぁ、心配は無ェな。今日はあれが来てるから」

「あれ?」

「失礼してるわ。少し中座しているうちに、家主の方が帰って来たみたい」

 襖が音も無く開いて、現れたのはさとりの少女、朔日だった。初めて見たときにも思ったが、本当に色素が薄い。髪は白く長く、喪服のような黒い着物を来て、モノトーンの身体に締めた朱色の帯が鮮やかだ。あの額の眼は、今は全く見えない。

「仮にも名代をあれ呼ばわりするのは、止めて欲しいわね玉簾」

 玉簾はその言葉を無視した。変わりに徳利を虚空からどんどん出した。

「さァ呑め呑め! こいつは旨いぞぅ――転が持ってきた伏見の酒だ」

 修二はその盃を受け取り、軽く啜ってみた。今までに呑んだことの無い、爽やかな果物のような、強烈に旨い酒だった。朔日も隣に坐り、盃を喉を鳴らして空にする。その華奢な印象からは想像もつかないような呑みっぷりは、まさに妖怪染みている。

「嵯峨野修二ね。私についてはもう聞かれたと思うけれど、彼岸朔日というもの――」

「朔日のデコの眼はなァ、千里眼も出来るんだぞ。私も出来ねえわけじゃ無ぇが、まあ全然、苦手だからな。朔日が見張ってるから、何の心配も要らずに私らは酒が呑めるってわけだ」

 玉簾が朔日の発言に割り込んだ。

「眼上だとか言って無かったっけ」

「一応だよ一応。い! ち! お! う! うーッ! うーいッ!なんだか酔って来たぞうぅ――さてさてさァて、さては南京玉すだれェ、ちょいと捻れば妖怪天狗、ちょいと伸ばせば化け狐ェ――」

 なんだか意味の分からないことをひとしきりわめいて、玉簾はそのままぐったりと寝転がった。

「昼間っから呑んでるから、まだ日も沈んだばかりだというのにこの有様ですよ。いつもそうではあるのですが」

 転が何かを齧っている。見るとそれは揚げた鼠だった。というか、その鼠が山盛りの器は、修二のものだった。こいつは勝手に上がりこんで何をしているのだ。真面目な物腰から、もっと常識があると思っていた。

「ここで鼠を揚げたのか? あんなに汚いものを」

「他人の――否、他狐の喰ってるものを汚いとは、言ってくれますね。けっこういけるんですよ」

朔日は黙って、ひたすら盃を空けていた。もう何杯目だろうか。ざるとかわくだとか、酒豪にはいろいろ表現があるが、こいつはそれらを超越して、もう排水管レベルだ。

「ふぅ、久しぶりに御酒を呑んだから、ちょっと酔ってしまったかも」

 そんな風には全く見えないが、確かにほんのりと頬が赤くなっている気が、しないでもない。

「良いのか? いつ山狗が来るかわからないんだろ――そんなに呑んで」

「奴もそんなに無粋じゃあ有るめぇよ。もののけは仁義を守るもんだから、酒宴の場に殴り込みなんて、力量に自身の無ぇクソみたいな連中だけだ――紀州だって、そこまで落ちちゃあいないはずだぞぅ」

 寝転がったまま玉簾が言った。どうもこの物の怪の社会というのは、殺伐としているのか呑気なのか、検討がつかない部分が有る。

「そういえば、今日同僚の先生が言っていたんだけど、満月の夜に神隠しがおこるっていう話には、なにかもののけが絡んでるのか?」

 修二は昼間の小林先生との会話を思い出し、下駄に追いかけられて神隠しにあった男の話を尋ねた。それには朔日が答えた。

「満月――私たちもののけは、確かに満月になったら活発に動くけれど、それは別に力が漲るからとか、そういうわけではないわ」

「月が綺麗だからだろぅ――そら見ろ今宵も満月だ」

 開け放たれた障子の向うには、黒々そびえる山の稜線をくっきりと浮かび上がらせる満月があった。美惚れてしまうほど、美しい月だ。

「神隠しというのも、このあたりじゃあもう、そんなことをしでかす奴は居ないはず――それ、いつの話?」

「さぁ、五、六十年前のことらしいけれど」

「ぶっふお」「うっふぇ」

 玉簾と転が同時に吹き出した。そしてくつくつと、こらえるように笑う。

「多分それは私らだ――すっかり忘れてた」

「伏見稲荷で満月というなら、間違い無いですね」

 天狗には縮地という、一種瞬間移動染みた能力があり、玉簾などはこれを使って、短距離の移動が出来るそうだ。さっきからやっている、徳利の調達もそれだった。

「あの時はあれだ、転が急ぎで伏見に帰らなきゃならないってんで、でも縮地じゃ京なんて遠すぎて無理だった。だからちょっと横着したんだな」

「人間をこう――まぁこにょこにょとして、位置交換をしたんですよ。僕と」

「だから往復分、こっちの奴が向うに行って、向うの奴がこっちに来た。朔日、もう時効だよな? 五十五年前の話だ。というか、知ってたかな、さとりだし」

「今知ったわ。なるべく貴方達の中は覗かないようにしていたのに――それはもう時効だけれど、これからはいろいろ、考えなきゃいけないみたいね」

 なんだか怒っていた。見ると額の眼が開いていて、それがあまりにもグロテスクなのでか、転がちょっと失礼と言いながら縁側に嘔吐する。幸いなことに庭側だったが、修二も未消化の鼠の頭を見て、せりあがるものに堪えながら便所に駆け込み、一同はそれを見て爆笑した。とりあえず朔日の怒気は収まった。

 その後も玉簾は、不意に起き上がっては酒を虚空から取り出し配り、またひっくり返ってはいろいろわめく。転は鼠の素揚げをしゃぶり、朔日はざばざば酒を消費し、修二はちびちび酒を呑んで、やがて時刻は夜半を過ぎた。



 軽い酔いに身をまかせ、修二がうとうととしていると、朔日がぼそりと、馬鹿が一匹来るわねえと言った。玉簾は大の字になって幸せそうに眠っており、転はその言葉を聞いて身を起こす。

「――紀州ですか」

「否、けもののようではあるけれど」

 突然、庭でロケット花火のような炸裂音が聞こえた。障子が眩しく輝く。何かが落ちて来たのだった。

「こんばんはぁ。こんなに月の良い夜だから、さっそくだけどそこの天狗、さとり、狐、ついでに人間! お命ちょうだいつかまつるわ――って、酒くっせぇええぇええぇ」

 転が無言で障子を開いた。庭先に居たのは奇妙なものだった。小学生並みの小さな体格だが、白と茶色と黒のまだらに髪を染めている。男とも女ともつかない能面のような顔の、その頭部にはふさふさの耳がちょこんと飛び出し、四肢は髪と同じような色の毛が生えていた。今は前足を揃えて顔を隠し、何をしているのかと思えば、鼻を押さえているのだった。

「――化け猫」

「狐って一応イヌ科でしょ、なんでこの匂いに耐えられるんだ――」

「貴様のような不完全な変化しか出来ぬ者と、同じにしないでほしいですね。人間並みの嗅覚ならば、堪えられぬものではありませんよ」

「ふ、不完全だと? ちゃんと出来てるだろ? 見ろよ尻尾だって無い」

 人もどきの化け猫は、かなり不安げな声を出した。しかし転はそれを無視する。修二は不安になり辺りを見回すが、朔日は何事もなかったかのように酒を呑んでおり、玉簾はまだ眠っていた。というか、いびきをかくな。

「だいたい招かれもせずに、なんの用ですか? 下郎と立ち会うほど、我々は安くありません」

「な、なんだとぉ。あたしは手前らみてぇな有象無象とは違うぞ。先の鍋島猫騒動、黒部谷の化猫騒ぎ、いずれもあたいのひいばあさんがやったのさ――おっと、自己紹介がまだだったな。遠くば音にも聞いてみよ! 近くば寄って眼にも見な! 九州阿蘇は御寝子山で、苦行の夜を幾星霜! あたしこそは、山乃谷の化け猫総大将、その名も躑躅ヶ崎呉羽だ! つっちーとか呼ばないでね!」

「何処から来たのか知らないけれど、鏡をあげるからさっさと帰って、その不細工な顔を直してきたら、相手をしてあげないこともないわよ」

 朔日が酷いことを言った。

「朔日、それはちょっと可哀そうなんじゃないか。この呉羽とかいうのだって、こうあれだ、一応意気込んで来てるわけだし」

「だって不細工だもの。化け猫は顔を自由に変えられるのが取り柄なのに、それすら出来なくていったい全体、なにが楽しくて生きてるんでしょうね――」

 酔っているせいか、朔日は異常に口が悪くなっている。玉簾が可愛く見えるくらいだった。転が言葉を引き継いだ。

「――そういうわけで、出直してきたらどうですか?」

 呉羽はいつの間にかうつむき、肩をぷるぷると震わせていた。やはりもののけとはいえ、この人格否定には堪えられなかったのだろうか。

「くぅ――くす――くすくすくす」

 いや、呉羽は傷ついていたのでは無かった。笑っていた。

「――こいつ、真正のマゾかしら。言葉攻めで感じているわね」

「誰がマゾだってぇ? マゾは御前らだよ、この阿呆妖怪共! こうも綺麗に引っかかるとは思わなかったぞ! あたしが顔面整形なんて初歩の初歩、しくじると思ったか?」

 呉羽が頭を上げ顔に爪を立てると、その皮はゴムのようにめくれて落ちた。その下から現れるのはごく普通の、幼さを残した少女の顔。

「嵯峨野、転、見てぇ面白い、猫が脱皮したわ」

「マスクはルパン三世がよくやるやつですね――あの素材は何なんでしょうか」

「最近は樹脂加工の技術が発達して、ああいうのもできるらしいわよ」

「うぁああぁあああぁ! 馬鹿にされてるわあたし! っていうかやっぱり臭いよおまえら!」

 可哀そうな顔の呉羽を置いてけぼりにして、二人は勝手な話を始める。仕方が無いので、修二は呉羽に話しかけてみた。

「えぇーと、呉羽――ちゃん?」

「あぁん?――ちゃんとか言うなよ! お願いだからさぁ」

「つっちーちゃん」

「ああぁあぁああぁ! あたし消えちゃいたいわぁ! 人間にまで馬鹿にされて!」

「ごめん。じゃあ呉羽」

「それならまだよし」

「なんの用? 一応ここは俺の家なんだけれど」

 呉羽は胸をはった。身長が足りないので、背伸びをしている。

「貴様らの虐殺だ! 豚のように悲鳴を上げろ!」

「言っちゃあ悪いけど、この人ら――このもののけさんたちは、かなり強いと思うんだけど」

「あたしはもっと強いわ! っていうか今思い出したけど、あたしは格下と会話しない主義なの。そういうわけで人間もとい下郎! 下がっていなさい。いらぬ怪我をするよ!」

 そうですか。

 語る言葉を失ったので、玉簾を起こすことにした。肩を揺すったが、眼を開けない。

「玉簾さんは、そこの杓杖を鳴らすと起きますよ」

 転が言った。修二は立てかけてあった杓杖を持ち上げ、ちゃらちゃらと鳴らす。すると玉簾はばちんと、弾かれたように身体を起こし、そのまま修二を殴った。右頬が痛むより早く襖に叩きつけられる。

「痛ぇ――」

「人のもんを勝手に触るんじゃぁねえよ!」

「僕がそうしろと言ったんです――ほら玉簾さん、表に敵が来てますよ。なんでも僕らを皆殺しにしたいとか」

「はァ? どこのどいつだァそんな身の程知らずは」

「あたしだよッ! さっきから酷い扱い、許さねえからね!」

 なんだか悪者のアジトに乗り込む、少年漫画の主人公のようだった。

 というか我々、悪者か?

「誰かと思ったら、山乃谷の子猫じゃねェか――紀州の指図か?」

「ふんっ! そうだとしても、そんなこと言うわけが無いだろ――あッふッぐぅ」

 玉簾の姿が消えたと思うと、瞬きをするほどの間で、既に呉羽の首根っこを抑え込んでいた。呉羽は声にならない呻きを上げる。

「さっすが天狗は違うわね――玉簾、痛めつけなくていいわよ。でもしっかり押さえていてね」

 生きている尋問装置と言うべき朔日は、何も履かずに静かに庭に降りた。呉羽の正面に立つ。額がぱっくりと裂けて、現れるのは緑色の、不気味に光る巨大な瞳。

「ひぃッ――うっわぁッ――」

「やれやれ、必要でないときにはよく喋るくせに、大事なときには喋らないのね。でも大丈夫、なにも言う必要は無いわ」

 朔日の額の視線が、震える呉羽の顔を舐めまわした。そしてぐるんと回転し、丁子山の方角を見る。

「――馬鹿猫につきあっているうちに、馬鹿狗が神社に小便をしているわ――転、こいつをよろしく」

「おい嵯峨野、杓杖を寄こせ」

 朔日がいつかと同じように、ばちんと弾けるように消えた。修二は杓杖を玉簾に投げ、指に触れるかという時には、玉簾も消えた。

「こ、こいつは囮か?」

「そのようですね――、もっとも、なんでこんなに弱いのを寄越したのか、わからないところですが」

 押さえつけられていた腕が離れ、安心したのか呉羽は少し、ほっとした表情を作った。

「天狗もさとりも、きっと紀州さんに喰われっちまうんだから」

「――少し黙れ」

 転が白狐に変化していた。その鋭い視線に射すくめられた呉羽は、再び縮こまる。

「あの二人が揃っていれば、紀州なぞどうとでもなります。しかし怖いのは、奴が別のもっと強いもののけを連れていた場合――そうであれば、こんな風に戦力にならぬ者を送りこんで、油断させようとしたことも、理解できます」

「それじゃあどうすれば――」

「嵯峨野さん、この猫をしばらく見張っていただきたい。僕は呼べる連中を連れて、玉簾さんたちの応援に行きます。それと、こいつには何も出来ないとは思いますが、念のためこの間の刀を持っていてください。では」

 転は大きく跳ねるように飛び、屋根を越えて見えなくなった。呉羽がにんまりと、嬉しそうに笑った。



「おい」

 修二は手にした小烏丸に眼を落とす。普通の工作ナイフなどよりは遥かに大きいが、それでも人外のもののけに、通用する気は全くしない。

「おいって」

「なんだよ呉羽」

 呉羽は座敷の柱に縛り付けられている。転が消えた途端に呉羽は、塀を飛び越えて逃げようとしたが、それを見越して死角で待ち構えていた転に、空中で子猫のようにキャッチされた。以降はこうして縛り付けてあったが、呉羽は化け猫とはいえ、見た目は幼女のようなので、修二の中の罪悪感は激しいものがあった。

「喉渇いたなぁ」

 呉羽はもじもじと身体をくねらせている。縄を抜けようとしているのかとも思ったが、男が二人がかりできつく縛ったものが、そう簡単に緩むはずはない。

「なんだよ」

「あたし喉が渇いたなぁ!」

「それはさっきも聞いたぞ」

「なんか頂戴よ! ほら、そこに徳利あるじゃない!」

 その徳利は八割がた空だった。それに物の怪とはいえ、幼女に酒を呑ませるわけには、教育者として断じていかないのだ。

「だめだ! あれはお酒だぞ」

「御酒が良いなぁぁあああぁあああぁ」

「うるさいっ! 水持って来てやるから我慢しろよ」

「御酒ぇ御酒ぇっ! にゃあぁあぁああん!」

 鳴き声を無視して、修二は台所で水を汲み、後ろ手に縛られている呉羽の為に、コップを口元に持っていく。呉羽はちゅぅうーっと水を吸い込み、そのまま勢いよく修二に吹きかけた。 修二はびしょぬれになった。

「こ、この糞猫が――」

「にゃははっ! どうして濡れてるの? ここのおうちがボロだから、雨漏りが酷いのかな? 人間さんは修理のお金も無いのかな?」

「ぬぅおおぉおぉ! いちいちイラつくなお前は!」

「にゃははははっ! お前面白いわ!」

 ひとしきり人を馬鹿にして、呉羽は捕まっているというのに上機嫌だ。

「しっかし、なんで人間が天狗とか狐とつるんでるんだ?」

「つるんでる気はないけどな。今日も連中、突然押し掛けてきただけだし――なんか、気に入られてるみたいだけど」

「まぁ、その気分は分からんでもないね。なんせ我々物の怪にとって、友達ってのは大事だから――」

 急に、呉羽がしゅんと落ち込んだ。

「どうした? 具合でも悪いか?」

 修二は仕事上、どうしてもこういう子供が落ち込んでいたりすると、気になってしまうのだった。

「いや――嫌なことを思い出しただけ。あたしにも友達が居たんだ」

 先ほどまでの元気なそぶりとは打って変わって、呉羽はとつとつと語る。

「紀州のことは聞いてるよな? 紀州の野郎は、最初あたしの棲む谷に来たんだ。それであたしは戦った。まぁ、勿論負けちまったけれど。

 野郎、あたしの谷を荒らしておいて、あげく言ったのさ――こんな小汚い所にゃあ住めねえって。それであたしの友達、鈴蘭っていったけど、そいつが怒っちゃってさ」

「――それで?」

 呉羽のひげが力無く垂れさがった。

「その夜、あたしはいつも通り遊ぼうと思って、そいつの住む洞に行ったけれど、もう居なかった。紀州の闇討ちに行ったんだ。気が短い奴だったからな――次の朝には、洞に首が置いてあった――鈴蘭の」

 見ると呉羽は、薄く涙を浮かべている。鼻を啜りあげて、仕方無いだろ弱いんだからと、消え入るように言った。

「悪いこと、聞いたな――」

「ぐすっ――あたしは紀州を恨んでるんだ――ここに来たのも、言われて仕方が無くて。ううぅうう! くそう紀州の野郎! だいたいあたしは犬が嫌いなんだよ! 臭いしな! 人間、あんたの方がかっこいいよ! なあ! だからこの縄を」

 後半がなんだかわざとらしかったので、修二は一瞬だけでも同情した自分が恥ずかしくなった。縁側に出て、丁子山の方を眺める。玉簾達は今、戦っているのだろうか。

「――うへへ」

 呉羽が気持ちの悪い笑い声を出した。

「やぁっぱり人間は阿保だな! こんな典型的な時間稼ぎに引っかかるなんて! あたしに鈴蘭なんて友達はいないよ?」

「じ、時間稼ぎ?」

 ぶぶぶと、どこからか奇妙な虫の羽音のような音が聞こえる。

「来るぞ! あたしの可愛い手下どもが!」

 同時に、怒涛のような地鳴りがして、玄関の引き戸が打ち破られる音がした。ほぼ同時に、襖も吹き飛ばされる――それは猫の群れだった。何百匹、いや何千匹いるのか分からない。波のように座敷に流れ込むと、猫たちは一斉に呉羽に飛びかかり、縄を引きちぎった。

「にゃにゃにゃー!」

「なおなおーぅ!」

「うにゃっ!」

「よーしよーし、後で鰹節を撒くからな――」

 自由になった呉羽は、腕をぽきぽきと嫌味に鳴らしながら修二に迫った。

「さて人間、あたしを縛り付けて拷問をして、あられもない姿にしたことを許すわけにはいかないねえ」

「拷問もしてないし、あられもない姿にもしてないぞ」

「精神的にだよ! あたしは傷つきやすいんだよ?」

 形勢は圧倒的不利だ。呉羽の力量がどんなものかは分からないが、少なくとも修二よりは十分に強いだろう。おまけに無数の猫がいる。人間は日本刀を持って初めて、猫と互角に戦えると言ったのは誰だったか。

「――お、俺をどうするつもりだ」

「これから人間、手前をばらっばらにして琵琶湖に運んで、小鮎共のえさにしてやるのは簡単だ――でもあたしはそんなことはしないよ。なんせこれでも、名のある誇り高い化け猫だからね! 仁義を欠いちゃあ生きてはいけないんだよ?」

「さっき恥も外聞もないようなことをしてたよなお前――」

「うっるさい!」

 今夜二発目の殴打だった。こんな小さな身体のどこに力があるのか、またも修二は仰向けに吹き飛んで、猫の群れの中に落ちた。猫がクッションにならないか期待したが、全員がうまく避けたので、受け身も取れずに転がる。

「痛ぇ――」

「殴られたときの対応がさっきと一緒だなお前! ぼきゃぶらりーが少ない男は嫌われるぞ――お前ら! 作戦は大成功だ! 次は紀州の旦那の助太刀だ!」

「にゃー!」

「うにゃぁ!」

「なあぁーッ!」

 右頬が痛む。修二が悶えているうちに、呉羽は庭に飛び降りジャンプして、山に向かって消えた。猫どももそれに続いて、黒い砂嵐のように飛び上がる。あっと言う間に、そこに居るのは修二だけになった。



 修二は月明かりの下、一週間前に歩いた道をたどった。持つのは小烏丸だけだ。心細いことはこの上ないが、引き返すことはできなかった。満月は天頂に至り、真夏だというのに風は涼しい。

 妖怪やもののけといった話は、修二はいまだに理解することが難しかった。日が昇ればいつも通りの、今まで過ごして来た世界がある。小林先生はこんな話を聞いたら、なんと言うのだろうか。正気が疑われそうだ。

 だが、間違い無く修二の前には、玉簾が居て朔日が居て、転が居た。きつく握り込んだ小烏丸がそれを証明する。彼らがなんなのかということはこの際、無視してもいいが、彼らの存在を無視することなど、できない。

「知り合っちまった以上は、仕方がないよな――」

 最後の上り坂を、修二が息をつきながら越えると、石の鳥居が立っていた。ヒビ一つない、まっさらな鳥居だ。

「やっぱり天狗なのかねぇ?」

 一人ごちて、修二は拝殿の裏へ回りこむ。そこに居るのは、白い狗と少女だ。

「――嵯峨野か――」

「うん?――ああ、いつかの人間か。この間は世話になったの――今宵は下らない結界も無いからな、生意気な女天狗を仕留められそうだ」

「玉簾、朔日や転は?」

「この糞狗が手勢を連れててな、そっちに掛かりきりだ――なに問題ねェ、狗コロ一匹、邪魔にもならねェからよ」

 何かが落ちて来て、拝殿の屋根に巨大な穴が空いた。転だった。かなり傷付いている。その頭上には、猫に乗った呉羽がいた。

「にゃははは! 他愛無いねェ狐ッ子! さっきの威勢はどこ行ったよ?」

「くぅ――貴様」

「人間の家では不覚をとったが、ここにはあたしの部下も居て、居心地のいい闇もある! 負ける気がしないねぇッ」

 そのまま黒い渦と化した猫の群れが、拝殿に突っ込み転を隠した。それに気をとられた玉簾の、背後に紀州は回り込む。

「どうした天狗、なぜそんなに遅い――烏より遅いな」

 玉簾は迷わず杓杖を振り下ろすが、それをがっきと紀州が噛み込む。筋力の差か、顎を激しく振った紀州に耐えられず、玉簾の手から杓杖が離れた。

「ふん――鞍馬の法力を込めた、この杓杖は恐ろしかったが、手を離れてはどうしようもないの――この間は捨て置いたが、今度は二度と触れさせぬ」

 杓杖が消えた。縮地だ。

「この野郎ォ!」

 殴り合う少女と獣。だが体格で勝る紀州は、一歩また一歩と玉簾を押してゆく。

「おっるぁっ!」

 気勢を上げた玉簾の一撃が、紀州の脇腹に直撃した。二人は絡まり合って本殿に転がり込む。

「玉簾っ!」

 後を追った修二はしかし、縁側が音を立てて崩れ落ちた為に、中へ入ることが出来なかった。見る見るうちに柱は曲がり、屋根は吹き飛び、本殿は崩壊した。

「はぁっ――」

「ふうううっ――」

 祭壇の前に正対する二人は、互いに息を吐いた。

「――儂がここで、この人間を人質にとったなら」

 紀州が言った。

「情の厚い貴様のことだ。きっと私は勝てようぞ――しかし、しかしだ。儂も山狗のはしくれ、誇りを失うわけにはいかぬ」

「――よくぞ言った紀州。貴様は大ッ嫌いだが、その覚悟には敬意を表する」

「では!」

「応!」

 がっぷりと、紀州の顎が玉簾の首を噛み。

 ずっぷりと、玉簾の拳が紀州の胸を貫いた、かに見えた。

 玉簾の拳はわずかに外れていた。全身の力が抜け、細い腕が落ちる。

「――いまだ――やれ、嵯峨野」

 ああ。

 返事は言葉に出なかった。修二は板の間に飛び上がり、白木の鞘を抜きはらう。そのまま紀州の柔らかそうな胸に、小烏丸を突き立てた。ずっぷりと、今度こそ深く、心臓を貫く。

「――人間よ」

「――なんだ」

 紀州が思いのほか、優しい声音で言った。

「情に、負けたのは儂だ――儂を刺させた天狗を恨むな。人間よ」

 どう、と、音を立てて紀州は倒れた。歯を見せつけたその口元は笑っていた。



「――玉簾! 玉簾!」

 血まみれの玉簾は動かない。修二は紀州の顎を緩め、玉簾をそっと横たえさえた。口元に手をかざす――息はある。

「転! 玉簾が――」

「糞猫が――手間取りました」

 傷だらけの狐姿の転が、板の間に上がった。軽く玉簾の身体に触れ、傷の具合を確かめる。

「お前も傷だらけじゃないか」

「なに、猫の引っ掻き傷なんて、血が出るだけで浅いもんです――玉簾さんも、多分大丈夫ですね。天狗は回復力が高いし」

「うむ。儂も大丈夫だ」

「え」

 紀州がごろりと大儀そうに起き上がった。唖然とする修二たちの前で、口を大きく開く。あくびだった。

「そんな脇差で死ぬるはずがなかろうが――人間はともかく、狐は阿保も極まれりじゃな」

「はあああぁあぁあ? さっきお前、なんか良いこと言ったよな?」

「忘れたのう――呉羽は何処だ」

「化け猫なら僕がしばらく目を覚ませないくらいには、痛めつけましたが」

 転も動じずにいる。

 修二は理解不能だ。

「ちょ、ちょっと待ってくれ――俺、さっき刀を刺したよな」

「痛かったわい」

「なんでそんな、昨日小指をたんすの角にぶつけました。みたいな反応なんだ?」

「箪笥の角にぶつけたぐらいのものだったからだ」

 紀州はどこ吹く風という具合に、夜空を見上げた。

「もののけはそう簡単に死にはせぬよ。だが儂は負けた」

「負け、って――」

「勝負に負けておる。山狗は引き際も潔くなければのう――天狗が目覚めたら言ってくれ。山狗は南に居座るとな」

 紀州は月に向かって飛び上がると、風に乗って飛んで行った。優雅な退却だった。

 入れ替わりに、暗闇から朔日が現れた。傷は一つも無い。右手に異常に大きな釜を抱えている。

「無機物の中身って見えないのよね――けっこう手間取ったわ」

「敵はその手に持ってる、それですか?」

「自称吉備津の釜だそうよ。でもこんな気持ちの悪い釜で御飯なんて炊きたくないわね。占いだって嫌だわ」

「じゃあ、僕にくれませんか?」

「い や」

 物欲しげな声を出した転を、朔日は軽くあしらう。

 九十九神というもので、古い器物が霊を得て物の怪となることがあるのだというが、しかしどうやって釜が戦ったのだろう。手足が生えたのか?

「――もう終わってるのね。紀州は帰ったの?」

 横たわる玉簾を一瞥して、朔日は言った。

「嵯峨野、手助けをありがとう。にしても、なんか異様にあっさりしていたわね」

「なんか、ぬるいというか――呑気というか」

「物の怪とはそういうものよ、と言いたいのだけれど。容赦のない部分は本当に容赦がないのが物の怪でもあるわ。あまりにもあっさりしてる――納得できないわね。なにかあの山狗、裏がありそう」

 玉簾が起きたらまた来るわと言いながら、釜を担いで朔日は消えた。

「では、僕は玉簾さんを運びます――いい釜だったなあ」

 転が背中に玉簾を背負い、修二はなんだか納得できないまま、二人は崩壊した神社を出て、山を下りた。



朝もやが薄くなった明け方に玉簾は目覚めた。転は既に山に帰っていた。

「ぐぅあ!」

 うめき声に驚いて、隣で眠っていた修二は飛び起きる。

「ど、どうした?」

「うあ――? ここはどこだ?」

「俺の家だ。この部屋は無傷だが、お前らのせいで座敷は酷いもんだ」

 座敷の襖には巨大な穴が空き、障子は破れ畳おもてはずたずただ。大家さんに見せたらなんと言われるかわからない。

 きょろきょろとあたりを見回して、玉簾は自分の居場所を確認した。修二は立ちあがってお茶を出してやった。すでに冷めていたが。

「あ、ありがとう」

「傷はどうだ? 痛む?」

「大丈夫だけど――紀州はどうなったよ」

「なんか、負けを認めて帰った。すごくあっさり」

 玉簾は嬉しそうな顔をして、湯呑みを強く握りしめる。

「そうか認めたかぁ――じゃあ私の勝ちだな。うん」

 朔日が釈然としなかった紀州の引き際の良さを、玉簾はまるで意に介していないようだ。それが少しだけ気になったが、納得しているのならばそれでいいのだろう。

「なんでもののけっていうのは、そんなに勝ち負けに厳しいんだ? 誰が判定するわけでもないのに」

「そりゃあ御前、天網恢恢疎にして漏らさず、誰が見てなくとも負けは負けで、勝ちは勝ちだろうが――というか、物の怪だけじゃねえよ。人間だって昔はもっと、矜持が堅かったもんだが」

 最近は名誉も糞もありゃしねえと、玉簾は不快そうな顔をする。

「人間世間が変わっても、物の怪は長生きだからな。そうやすやすと変わらねぇ。そんだけの話だ」

 修二は黙って、自分のお茶を啜った。山の稜線から日が顔を出し、橙色の旭光がさっと窓から射した。

「それはそうと、神社はどうなった? あまり思い出したくないんだけど」

「神社は無くなったよ。お前らの妖怪大戦争のせいで、今は鳥居しか立ってない」

「そんな予感はしてたが、うわぁ――朔日と喧嘩した時の再来かぁ――」

 玉簾は頭をかかえた。

「くっそう、鳥居なんて柱だけだけど、建物はなぁ――そう簡単に直らねえからなぁ――」

「まあ、神社が直るまで少しぐらいなら、ここに住まわせてやる。関わっちまった以上は仕方ないからな」

「本当か! やったありがとう――転の棲家は嫌なんだ。暗くて」

 嫌がるかと思ったが、本当にうれしそうに、玉簾の表情が変わった。

「だけど、本当に少しだけだぞ! 居座られても困る」

「ああん? こんだけ部屋がありゃ、そう困らねえだろ? ケチだな」

「お前は硬派なのかずうずうしいのか、どっちなんだ」

「硬派でずうずうしいんだ!」

「いいから騒ぐなよ――腹減ったろ?」

 もうちょっと、人外共と関わるのも面白いかもしれない。修二は口の端で微笑んで、朝食の準備のために台所に立った。


読んでいただけたならまず、ありがとうございました。だいぶ前に書いたものなのですが、最近また小説を書いてみようと思い立ち、ひとまずは以前のものを投稿してみた次第のものです。


ルビがうまく打てていない部分など、ありましたらご容赦ください。次回から気をつけます。また感想をいただけると幸いです。


この小説は、本章含めて三部で完結となっています。引き続きよろしくおねがいします。

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