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受動的な旅と、能動的な招待

直感のようなものに背中を押され、旅行同好会が気になった僕は、翌日、講義と講義の合間の空き時間を見つけてサークル棟の前に立っていた。

年代を感じさせる二階建ての建物は、これまでの大学の歴史をそのまま物語るような古びた佇まいを見せている。僕はポケットからスマホを取り出して、活動場所をもう一度確認した。

サークル棟の入り口は開いていて、そのまま中に入ると、一階は中央に一直線の廊下が伸び、その左右に部屋が4つずつ並ぶシンプルな構造だ。『旅行同好会』は、正面入口から入って右手側、一番手前の部屋だった。

(……誰かいるな)

ちょうど僕が行こうとしていた部屋の前に、ひとりの女の子がポツンと立っていた。同好会の先輩部員だろうか? 一瞬そう思ったが、彼女は手元の紙に目を落としては、また正面の引き戸をじっと見つめている。その迷うような仕草を見て、直感的に「同学年かな」と感じた。

長い黒髪の隙間から覗く横顔。すっきりと整った美しい顔立ち。落ち着いたネイビーのカーディガンに、風にふわりと揺れるシフォン素材のロングスカート。飾らないシンプルな装いだからこそ、彼女の凛としたシルエットと透明感が際立って見えた。

自慢にもならないが、まともに女子の友達ができたことのない僕にとって、そんな洗練された美人に自分から声をかけるのは相当な勇気が必要だった。

だが、このまま薄暗い廊下に突っ立っているのも、それはそれで不審者極まりない。頭の中でグルグルと葛藤していると、気配を察したのか、彼女がクルリとこちらを振り返った。

横顔も綺麗だと思ったが、正面から見ると、彼女は「可愛い」というより「美人」という印象が先に立つ。なぜだか自分でもわからないまま心臓がドキンと跳ね、僕は焦って何か言わなければと口を開いた。

「……君も、旅行同好会の見学に来たの?」

なんてことない一言だったけれど、我ながらよく言葉が出たと思う。

「その言い方だと、あなたもですか?」

「うん。ちょっと気になって」

僕がそう言うと、彼女の硬かった表情がほんの少しだけ和らいだ気がした。

「私もそうです。……せっかくなら、一緒に入りましょうか」

名前も知らない彼女にそう促され、僕は隣に並んでドアをコンコンとノックする。

少し待っても何の反応もなかった。引き戸に手をかけて横に動かそうとすると、スッと滑らかに開き、鍵はかかっていないようだった。

踏み込んだ室内は、30平米ほどの広さだ。中央には大きなテーブルがひとつ置かれ、それを囲むように年季の入ったソファが並んでいる。テーブルの中央には何かの地図が広げられ、部屋の隅の棚にはコーヒーメーカーとカップが置かれていた。

そしてソファの上には、開いた本を顔に載せたまま横たわる人物がひとり。片膝を折り、もう片方の足をピンと伸ばした独特のスタイル。色落ちした青ジーンズに無地の白Tシャツ。

僕たちが部屋に入った気配に気づくと、その人物は顔に載せていた本をどけ、机に置いてから体を起こし、こちらを振り向いた。

少し乱れた髪を指先で整えながらこちらを振り返った女性は、太陽のように眩しい笑顔が似合いそうな、くっきりとした目元の美人だった。飾らない装いだが、内側から溢れ出るような健康的で快活な印象を与えてくる。

「もしかして、入部希望者?」

少し眠たげに女性は尋ねる。

「いえ、見学に……」

「そっかそっか。もしかしてチラシ見てくれた?」

「はい」

僕と一緒に来た彼女は、右手に折りたたんで持っていた紙を広げて、中央のテーブルにそっと置く。

僕は見つけられなかったけれど、旅行同好会もチラシを作っていたらしい。そのチラシには、どこかの街の写真を背景に『旅行は新しい自分に出会えるきっかけ!』という文言や部員募集の文字が書かれていた。

「あ、僕は大学のサークル紹介ページを見て」

「そなんだ、二人ともありがとう。ちょっと待っていてね。寝起きでちょっと頭回ってなくて」

そう言って、その人はよろよろと壁際のコーヒーメーカーへ歩み寄り、サーバーに残っていたコーヒーをカップに注いだ。一口飲んで、ふぅと息をついてから、僕たちの方を向く。

「ごめんね、立たせていて。そこのソファに適当に座って」

中央の机を囲むように配置されたソファに向かい、僕はなんとなく左側のソファに腰を下ろした。すると、僕と一緒に来た彼女は、入り口側のソファにさっと静かに座った。

「二人ともコーヒーと紅茶と緑茶、何がいい? 作るよー」

「それじゃあ、僕はコーヒーをブラックで」

大人を気取っているわけではないけれど、朝方までゲームをすることもある僕にとって、コーヒーは飲み慣れたカフェイン飲料だった。

「私は紅茶で、砂糖をお願いします」

「りょーかい」

先輩は手際よく、耐熱の使い捨てカップにサーバーからコーヒーを注ぎ、横で沸かしたポットのお湯で紅茶のティーバッグを浸していった。

「はい、どーぞ」

よいしょ、と小さな声を出して、先輩は僕の正面側に腰掛け、僕と、僕から見て右手側に位置する彼女にカップを渡す。

「あ、挨拶がまだだったね。私は八標薫(やしるべ・かおる)。よろしくね!」

「道草喜多乃(みちくさ・きたの)です」

「街道弥次(かいどう・やじ)です」

「道草さんと街道くんね。二人ともよろしく! ……あれ?」

八標先輩は、僕の右手に座る道草さんの方を見てハッと目を見開いた。

「もしかして、図書館で起こしてくれた子?」

「そうです」

「あの後、バイトが入っててさ! あなたのおかげでギリギリ間に合ったの。ありがとうね!」

「いえ、大したことはしていませんから」

二人は知り合いなのだろうか? 先輩は親しげに話しかけている。

「っと、話が逸れたね。二人とも見学希望なんだよね?」

「はい、旅行同好会って、普段どんなことをやっている場所なのか見てみたくて」

僕が言うと、八標先輩——のちのマップル先輩は、ソファの上で膝を抱えながら微笑んだ。

「うちの場合はね、部員がそれぞれ自分なりの『旅行愛』みたいなものを持っていて、好き勝手に旅に出かけるの。気が向けば誰かと一緒に行くこともあるよ。だから、旅行以外は特に決まった活動はなくて、この部屋にも来たい人が来たい時に来るくらいかな」

旅行愛? なんか変な単語が出てきたような気がするけれど気のせいだろうか?

ただそれを抜きにして、旅行に行く以外は、それほど活動がないのならば、ゲーム生活にはそれほど支障がなさそうだな。

そんな考えを頭の中で巡らせていると、先輩がどんどんと言葉を重ねていく。

「ほら、旅行って色々な楽しみ方があるでしょ? 知名度のある観光地にみんなで行って、美味しいものを食べて、温泉に泊まって、体験アクティビティやお土産を楽しんだりさ。別にそういうのを否定するわけじゃないんだけど……私たちの旅行同好会は、それぞれの趣味嗜好がちょっと極端だから、それぞれ自分のマニアックな旅行を自由に行うっていう集まりなんだ」

「極端……ですか?」

「そう! 例えば私の場合だと、この『ツーリングマップル』っていう本に載っている場所を巡る旅行が三度の飯より好きだし、他の部員だとアニメに出てきた場所の聖地巡礼ばっかり行ってる人もいるの。それぞれこだわりが強すぎるから、その時々で『あ、そこ一緒に行きたい!』って重なった時だけ一緒に行く感じかな」

先輩が中央のテーブルに置いていた本を手に取って、本の表紙を僕と道草さんに向けて、熱く説明する。その表紙には、バイクに乗った人が景観の良い場所を運転している写真が付けられていて、タイトルにツーリングマップルと書かれていた。もしかして、先輩はバイクに乗るんだろうか。

「先輩はバイク乗るんですか?」

疑問をそのまま先輩へと向ける。

「うん? ああ、この表紙見てそう思ったのかな。ううん、私は車の免許は持ってるし車はあるけど、バイクには乗ってないよ。このツーリングマップルってバイクに乗る人がメインで見ていると思うけど、私にとってはすごく面白くてさ、どこに行くかをこの本を見ていつも決めてるの」

今時、ネットでいくらでも観光地の情報なんてウェブ記事でも動画でも調べられそうなものだけど、物好きな先輩だな。というのが僕の感想だけど、人の趣味にあれこれ言うのもお門違いだ。僕もネット上ではそれほど評価が高くないゲームやライトノベルでも、なぜか好きになってしまうことがあるから。

先輩の話を聞いていた隣の道草さんが、ふと真面目な顔で手を挙げた。

「あの、八標先輩。私、募集チラシの『新しい自分に出会える』っていう言葉が気になって見学に来たんですけど、あれってどういう意味なんですか?」

道草さんがテーブルに置いたチラシをもう一度見てみると、確かにそんな言葉が載っていたけれど、どこにでもありそうなフレーズで、正直、僕にはあまり響かなかった。けれど、彼女の心には何か引っかかるものがあったらしい。

先輩は腕を組み、首をひねった。

「うーん、言葉にすると分かりづらいというか。百聞は一見にしかずというか」

先輩は困ったように笑うと、僕と道草さんの顔を交互に見つめた。

「ねえ、今日二人とも午後は時間ある?」

唐突にそんな提案があった。いや、今日は午後の講義が終わったらすぐにアパートに戻って、スマホゲームのイベントをやる予定が……。

そう思って時間がないと伝えようとしたが、

「十五時以降でしたら大丈夫ですが……」

僕が言葉を発するより前に道草さんがそう言った。

八標先輩は道草さんの言葉に「ありがとう」と言うと、僕にくるりと顔を向け、

「街道くんはどうする?」

と質問を投げかける。横を見ると道草さんもこちらを見ている。

正直、今日出会ったばかりの人たちと一緒に何かをするのは、僕にとってかなり気疲れする状況だった。

それでも、人からの頼みや誘いを断れない気質の僕は、結局「はい」と頷いてしまった。

「よし! じゃあ入会するかどうかは別として、二人に『いい場所』を教えてあげる。十五時にまたこの部屋に来てくれるかな?」

*

そのまま同じタイミングで部室を出ることになった。お互いに名前は知ったものの、まだ知り合いと呼ぶには微妙に遠い距離感。これといった会話もないまま、気まずい空気のままサークル棟を出る。

「……じゃあ、私はこれから社会学の講義だから」

「あ、僕は英語の講義」

「そう。それじゃあ、また午後に」

そう言って、道草さんはすっと背を向けて去っていった。

ああ、今日のゲームイベントには参加できないのか。そう思っても、今となってはもう手遅れだ。周りの雰囲気に流されやすい僕は、結局断ることもできず、約束の十五時に再びあの部室へ足を運ぶことになるのだった——。


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