第13話_この先の灯り
夏の実習では、手に小さな水膨れができた。
同じ工具を長く握ったせいだった。教えてくれた職人へ伝えると、持ち方を見直し、休む間隔を変えることになった。
役に立ちたいと思うほど、痛いと言うのが遅れる。テシアはその癖を手帳へ書き、次の日は早めに手を見せた。
作業はまだ遅かった。
説明を聞き直すこともあり、同じ実習の生徒が先に終えると焦った。それでも、わからないまま進めて壊すより、途中で確かめることを選んだ。
四日目の終わり、担当の職人が、秋の実習にも申し込むなら今日の記録を持ってくるといい、と言った。
就職の約束ではなかった。次も来てよいという知らせだった。
テシアは手帳を胸へ持ち、また来たいと答えた。
寮へ戻る途中、中庭にオルヴェがいた。
彼も修繕の見学を終えて、一度実家へ帰っていた。今日から学園の夏季講習へ来ると、手紙で知らせてくれていた。
テシアが近づくと、彼は立ち上がった。
「おかえり」
その言葉を聞いて、テシアは足を止めかけた。
実家へ帰ったときも同じことを言われる。けれど今は、続きを考えずに返事をしたかった。
「ただいま」
オルヴェが手を伸ばし、途中で彼女の指を見た。
水膨れの跡へ布を巻いているのに気づき、痛いのかと聞いた。テシアはもう平気だが、強く握ると少し気になると答えた。
彼は反対の手を差し出した。
テシアはそれを握り、二人で回廊へ上がった。
ベンチで母の菓子を開いた。
家で話したことを伝えると、オルヴェも自分の帰省の話をした。父とはまだ意見が合わないが、兄は店の人手をどうするか考えると言ってくれたという。
彼が戻らない可能性を、初めて話に入れてもらえた。
「俺がいないと困ると思ってたけど、兄貴には、戻ってきてもらうなら仕事を決めないと、って言われた」
オルヴェは少し苦く笑った。
家の仕事があるということと、彼が必ずそこへ入るということは、同じではなかったのだろう。テシアは自分の手紙の返事も思い出した。
どちらの家でも、話は途中だった。
「秋も、勉強すること増えたね」
テシアが言うと、彼は頷いた。
課題も実習もあり、卒業後の話もある。恋人ができて全部楽になるどころか、彼へ伝えたいことや、彼に聞きたいことまで増えていた。
それを面倒だとは思わなかった。
オルヴェが鞄から小さな包みを出した。
誕生日はまだ先だと言うテシアに、彼は頷き、実習を終えたから、と答えた。
紙を開くと、鳥の取っ手の杯があった。
町の店で、二人で見たものだった。
「買ってくれたの?」
テシアは杯を両手で持った。
オルヴェは少し照れた顔で、値段を覚えていたから、と言った。剣術部の道具の手入れを手伝った礼で、買えたらしい。
「前の杯の代わりじゃなくて。これは、俺とお茶飲むときとか」
言いながら、彼は自分で少し笑った。
テシアは取っ手へ指を入れた。飾りは当たらず、持ちやすかった。古い杯もまだ好きだが、この杯で飲む時間も欲しい。
「ありがとう。今度、お茶を持ってくる」
彼は頷き、どんなお茶か聞いた。
テシアは祖母がよく淹れていた香りの弱いものを挙げた。オルヴェは知らない名だと言い、説明を聞いた。
話が終わると、二人で最後の菓子を分けた。
回廊の先では、夏季講習の生徒たちが集まっていた。
笑い声が聞こえ、オルヴェを呼ぶ声もした。彼は手を上げて返し、あとで行く、と伝えた。
テシアはその輪を見た。
そこへ入れば、また話す場所を見つけられないかもしれない。問いかけが遅れて、会話が先へ進むこともあるだろう。
けれどミルカとは夏休みの終わりに手紙を交換する約束がある。秋の実習にも申し込みたい。父とはまだ話すことが残っていて、母がまた言いすぎたら、今度も伝えてみるつもりだった。
すべてがうまくいくとは思えない。
そう思っても、今日の続きを嫌いにならずにいられた。
「何時までここにいる?」
オルヴェが尋ねた。
テシアは時計を見て、夕食まではいたい、と答えた。彼は仲間へ少し顔を出して戻ると言った。
「私、先に部屋へ行くかもしれない。そのときは、ここに書いて置くね」
テシアが手帳を示すと、オルヴェは頷いた。
離れる予定を伝えても、二人の時間が終わるわけではない。彼は戻る場所を知っていて、自分も待つか帰るか選べる。
立ち上がる前、彼がこちらへ少し身を寄せた。
「キスしてもいい?」
テシアは顔を上げた。
近くで見る瞳に、自分の戸惑った顔が小さく映っていた。胸が速く動き、喉まで熱くなる。
彼は待っていた。
テシアは頷き、それから、いいよ、と声でも答えた。
触れた唇は、すぐに離れた。
驚いて目を閉じ損ねたことが恥ずかしく、テシアは杯へ視線を落とした。オルヴェも耳が赤く、立ち上がったあとで一度座り直した。
「……もう少し、ここにいる」
彼が言ったので、テシアは笑った。
笑いながら、自分から彼の手を探した。指が触れ、彼が握り返す。
夕方の風が、庭の花を揺らしていた。
噴水の飾りはもうないが、石畳には三つの灯りが残っている。暗くなれば、曲がり角と段差を照らす。
テシアは手の中の杯を膝へ置き、彼の肩に少しだけ自分の肩を寄せた。
先のことを話すには、まだ時間があった。
終
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