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仕事帰りの私は、カマキリの紙芝居の仕上げをしようと夕方のアトリエに寄った。だが、何も手につかず、胡桃のテーブルに頬杖をついてぼんやりしてしまっていた。
お絵描きコーナーのそばで、芽生くんと、そのお友だちの雛子ちゃんがスマホで遊んでいる。
「芽生くん、これ知ってる?」
「なあに?」
「このAIに話しかけるとね、関西弁で言い換えてくれるの」
薄ピンク色の縁の眼鏡をかけた、黒髪のポニーテールがチャーミングな雛子ちゃん。
近所に住む彼女は、芽生くんと同じ保育所に通い、今も小学校で同じクラスだそうだ。芽生くんが雛子ちゃんのスマホに話しかける。
「どうしてそうなるの」
『なんでやねん』
スマホからAI独特の声がした。近頃は音声入力の精度が上がっている。私も小説のアイデアを口頭でスマホに語りかけて、メモに残していた時期がある。
お絵描きコーナーで子どもたちがくすくす笑う。
「芽生くん、見ていてね。これ、ママに教えてもらったの」
今度は雛子ちゃんがスマホに言う。
「ちがうちがう、チャウチャウじゃない!」
『ちゃうねん、ちゃうねん、チャウチャウちゃうねん!』
「なにそれ~!」
二人が転げ回って笑うので、私もその姿を見てくすりと笑う。こうやって遊ぶだけなら、AIもただのおもちゃなのに。
そんなことを考えていると、がらりと引き戸が開いて薫さんが入ってきた。
「雛子ちゃーん、今日は早く帰る日よ~」
「あ、ピアノだ!」
「芽生、雛子ちゃんを家まで送り届けるのよ」
「うん!」
芽生くんと雛子ちゃんは手を取り合って、外へ駆けていった。朗らかな光景にほっこりする。二人を見送ったあと、薫さんが私の隣に座った。
「彩葉ちゃん、新しいお仕事はどう? 千春くんと同じ部署なんでしょ?」
薫さんは私の方に身を寄せ、好奇心いっぱいのきらきらした瞳を向ける。私もぐいと前のめりになる。
「聞いてくれますか、薫さん」
「もちろんよ」
「千春さんに職場で会うたびに、ひたすらネチネチ言われています」
「まあ……そうなるでしょうねぇ」
「皮肉の質も数も、ものすごいのです。千春さんのあれは、ある種の才能ですよ?」
薫さんは予想通りと言わんばかりに苦笑いする。私は千春さんと一緒にお仕事を始めてからの日々を報告する。
「私、現場ヒアリング員という名目で、介護施設にお邪魔して日々の様子を見せてもらっているのです」
「あら、おもしろいお仕事ね」
千春さんはエンジニアなので現場に行くことは少ないそうだ。彼は会社のオフィスにいるが、私は介護施設に常駐だ。しかも短時間職員としての雇用形態である。
一応、私のデスクは千春さんの隣にあるのだが、そこに毎日座っているわけではない。オフィスに出向いて彼に会うのは三日に一度くらいだ。
「とにかく現場と仲良くなって、現場の困りごとからAIのニーズを引き出しなさいというミッションで」
「現場の介護士さんと仲良くならなくちゃってことね」
「そうなのです。だからお土産を持っていきなさいと指示されて、紅茶を買いました」
薫さんの笑顔がピタリと固まる。
「ま、まさか彩葉ちゃん、ちょっとお高いものを?」
私は神妙に頷く。
「経費だと言われていたので張り切って、良いのを選んだら」
領収書を見た千春さんが「常識で考えてくれない?」と、頬を引きつらせた。彼は怒鳴らない。
だが、信じられないとぶつぶつ繰り返したあと、十五分くらいしてお土産のリストを渡しながら『常識をものともしないその厚顔のコツを僕にも教えてくれない? 僕みたいな小心者にはとてもできない芸当だよ』と冷ややかに笑ったりする。
皮肉の質が高くて、こちらが慄く。さらに十五分後にはまた別の皮肉が飛んでくるので、お叱りが小出しに続くのだ。
私の失態を聞く薫さんが、片手で目を覆ってしまう。
AI商品を扱うスタートアップの小さな会社なので、私の不手際はすぐ社長に伝わった。その後、「千春くんが白崎さんの面倒を見るんだよね?!」と泣きそうな社長に千春さんが詰め寄られていた。
その惨事を思い出しながら、私は薫さんに報告を続ける。
「今日は報告書が小説調なのでAIで直せと指導されました。でも私はAIに抵抗があるので手書きで直していたら、また……」
『彩葉の就業時間って無限なの? 僕のいる会社では就業時間って有限なんだけど。僕たちってもしかして、違う会社で働いてる?』
本日の千春さんの、ベストオブ嫌味が頭の中で再生される。
仕事なので、AIの使用を「怖いから」という個人的理由では拒否できない。私は結局、千春さんに見張られながら、AIを使って報告書を書き直した。
会社の指示としてのAI使用だ。
金色の一文の件のように、後ろめたいことをしているわけではない。けれど、なぜか罪悪感が刺激されて、胃が引きつった。
なんとかこなしたが、ぐったりしていた。帰り支度をした私に千春さんは言った。
「彩葉、AIは人間が使うただのツールだよ。手綱を握るのは常にこっちなんだから、AIなんて優秀な馬くらいに思っておきなよ」
「馬……?」
デスクに向かってパソコンを見たままの千春さんはそう言うと、私に帰れと手だけで指示した。
彼の背中を思い浮かべてため息をつく。すると、薫さんがアハハとごまかすように笑いながら、私の肩にとんと手を置いた。
「彩葉ちゃん、まだ慣れなくて大変よね。仕事でうまくいかなかったときは、何か手を動かすといいわよ」
「手を、ですか」
棚をちらりと見た。薫さんが陶芸コーナーの隣に新しい棚を置いてくれたのだ。私のアトリエコーナーだ。棚の中には、私のクレパスと画用紙が置いてある。
「絵を描こうと思ってきたのですが、どうもやる気になれなくて」
「わかるわ。作るのもパワーがいるからね。じゃあアタシが作るのを見るのはどう?」
薫さんはお絵描きコーナーの端っこから、細いロープと小さなバインダーを持ってきた。
「それは何ですか?」
「マクラメロープっていうの」
マクラメロープは毛糸よりもややしっかりした紐だ。オフホワイトの色合いがやわらかい。
「なんと、これを編むだけで可愛いものをいっぱい作れちゃうのよ」
薫さんはふふっと自慢げに笑ってから、紐の端をバインダーに挟んで、指先をするすると動かす。
「いくわよ~これをこっち、こっちをあっち」
彼の骨ばった指先が、器用にマクラメロープを左右に編む。紐を編み進めると、着実に編み目が連なっていく。紐がどうなっていくのか気になって、目が離せない。
「すごいです……ただの紐が絡み合うことで形になっていくなんて」
「人が作っているのを見るのも面白いでしょう? 手で何かを作っている動画とか、ついずっと見ちゃうのよ」
そのような手芸動画を見たことがない。だが、見てしまう心理はすぐに理解できた。
何ができあがるのかという好奇心が湧き、人の手が動くのを見ているだけで自分が作っているかのような代理の達成感がある。
「編み方さえ覚えたら、あとは単純作業なのよ。同じように編み進めるだけで簡単なコースターができるけど、やってみる?」
彼は簡単、簡単と笑って、作りかけのマクラメ編みを私に手渡す。
アトリエが動画と違うのは、ここに手触りがあることだ。勧められるまま紐を手に取り、薫さんの声に従う。
「これをこっち、そうそう上手」
優しい声に導かれ、どんどん編み目を増やしていく。
私は今まで、手に触れられない文字で、物語という形のないものを創り続けてきた。そんな私にとって、手を動かすことで、物が着実に形を成していくのは新しい快感だった。
「そのまま、どんどん編んじゃって」
紐を編み、編み目を増やすと、成果が目に見え、手で触れられる。
それが単純に、すごく嬉しい。
指先の感覚にだけ集中する心地よさは、私から仕事の重さを吸い取っていくようだった。
「ただいまー!」
芽生くんがアトリエに戻ってきて、薫さんと自宅に帰るのに合わせて、私もマクラメ編みを終えた。
「またやりましょうね、彩葉ちゃん」
「はい、ありがとうございます。楽しかったです」
「ちょっとすっきりした顔をしてるわよ。ふふっ、じゃあまたね」
薫さんたちに手を振って、アトリエを後にする。アトリエを出て、外階段を上る途中でふと足が止まる。
空の薄青と夕暮れの薄橙が混ざった色が視界に入った。いつの間にか口ずさんでいた私の鼻歌が止まり、今日、初めて空を見上げたことに気づく。
少しほぐれた頭と、指先に残る紐の感触が揃って、千春さんの言ったことが腑に落ちる。
「これが、手綱を握る感触か」
千春さんは「ツールの手綱を握っているのは常にこちらだ」と言った。
マクラメロープはツールだ。
人間が動かさない限り形にはならず、何を作るのかは人間が決める。
AIも同じだと、そういうことか。
彼が伝えようとしたシンプルな事実を、今やっと受け取れた。階段を上り切って顔をほころばせる。
「わかりにくいですよ、千春さん」
隣の部屋のドアに向かってそう呟いてから、自室へ帰った。




