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明くる日、私は高齢者介護施設「ルミナス」へ出勤した。
介護施設はホテルのようなものから、最低限の機能を持つだけのものまで様々だ。
その中で八王子の山側にある「ルミナス」のグレードは、上の下といったところで、施設利用料はお手頃とは言えない。
一般的に言えば、高級施設と言えるだろう。その分、介護ロボットや、弊社のAIを使った請求業務システムなど、設備面への投資に積極的なのだ。
「ルミナス」は三階建ての新設の建物で、各フロアは介護度や性別で分けられている。
私は今月、三階の「介護度は低めだが、認知症がある方」が多く在籍するフロアを担当している。
毎月、各フロアを回って現場のニーズ、つまりAIが活躍できる場を洗い出すのが仕事だ。
私は三階までの階段を上りながら、出勤途中に届いた薫さんからのラインの内容を思い出す。
疲れた様子の私を心配した薫さんは、励ましとともに、あるアドバイスをくれた。
「薫さんの言うように、やってみましょう」
呟きながら階段を上り切り、現場介護士たちが朝のミーティングに集う詰め所へと足を踏み入れた。笑顔で明るく挨拶する。
「おはようございます。本日も見学させていただきます」
「はい、おはよう白崎さん。まだ時間あるのに、熱心ね」
夜勤明けの介護主任、小野田さんがパソコンで記録を打ちながら私の顔も見ずに言う。
小野田さんは体格の良い女性で、存在感がある。五十代後半だという彼女は、夜勤明けで特に疲れているのだろう。少し低い声が、近寄りがたい印象を与える。
私がルミナスの三階フロアへ来て一週間が経った。
だが、現場ヒアリング員の私は利用者にケアをするわけでもなく、うろうろしながら現場を見回るのが仕事である。
つまり現場の役に立たない幽霊のような存在なのだ。
だからどうも、誰とも仲良くなれていない。
前任のヒアリング員から、人間関係が一番難しいと引き継ぎを受けている。
まだミーティングまで時間があるので、パソコンで昨夜の記録をチェックする。私は施設の情報をなんでも見ていいと、許可されている。
ルミナスの運営者と、弊社の社長は懇意らしく、ヒアリング員には多くの権限が与えられているのだ。そのため、責任は重いと千春さんから釘を刺されている。
昨夜は突発的な排泄処理がいくつか重なったようだ。小野田さんの疲弊は当然だろう。私はさっそく薫さんのアイデアを試してみることにした。
うー、と低く唸りながらパソコンに記録を打つ彼女に声をかける。
「小野田さん、お茶を淹れましょうか」
「え、いいの? あー、じゃあ頼もうかな」
「私、紅茶を淹れるのが趣味なのです」
「へー、本当かな」
引き継ぎ資料によると、小野田さんはヒアリング員に対して特に態度が厳しいと記されている。主任として、現場を見張られているようで窮屈なのだろう。
詰め所の小さなコンロで湯を沸かし始める。私がお土産として買ってきたブランド紅茶はティーバッグと茶葉の両方だ。
ティーバッグは徐々に消費されているようだが、手間がかかる茶葉はそのまま残っている。これを私が振る舞おう。
大きな鞄に入れて、家からわざわざ持ってきたティーポットに湯を入れ、茶葉を蒸らす。茶こしで濾しながらカップに紅茶を注いでいると、いつの間にか真後ろに小野田さんが立っていた。
「そのガラスポット、まさか持参したの?!」
「はい、お気に入りで」
「へー、本当に紅茶淹れるのが好きなんだ? 私に媚びてんのかと思った」
「こ、媚びる……?」
薫さんから、「紅茶で現場の人に休憩してもらおう」作戦を提案されて実行したのだ。これは、媚びだろうかと考える。
紅茶を注ぎ終え、カップをソーサーに乗せる。角砂糖を二つ添え、小野田さんに手渡しながら正直に言った。
「媚びています!」
すっぴんの彼女は一重の目を瞬かせる。
「小野田さんにおいしい紅茶を飲んで休憩してもらって、あわよくば仲良くなりたいので」
彼女が大きな声でがははと笑う。
「媚びてるんだ?! そういうことまっすぐ言われると、力抜けちゃうわ」
小野田さんはカップを受け取ってくれて、詰め所の中心にある楕円テーブルの前に座る。彼女は紅茶に角砂糖を入れてから、湯気を鼻で大きく吸い込んだ。
「んあー、いい香り。生き返るわ。なんの茶葉なの?」
「イングリッシュブレックファーストです」
「朝用ブレンドね。渋み少な目、こくまろってやつだ」
「よくご存じですね」
台所を片づけながら返事をする。彼女は紅茶に造詣が深いようだ。小野田さんは紅茶を一口飲んで、深く息をした。
「実は私も紅茶が好きでさ。本格的なアフタヌーンティーカフェを巡るのが趣味なの」
片づけの手を止めて、私は彼女の話に飛びつく。
「素敵ですね! おすすめのお店はありますか」
小野田さんが得意げに片方の口端を持ち上げる。
「いっぱいあるよ。どういう系が好きなの?」
「ロマンチックなヨーロッパ風です」
私もカフェ巡りならたくさんしてきた方だ。好みは決まっているので即答した。
「へー、白崎さん意外に話せるね」
彼女の高い声に嬉しさが滲む。
「白崎さんが、妙に値段の高い紅茶の手土産を持ってきたからさ。私の趣味にすり寄ってきたのかと思って構えてたわ! ただのオタクだったか!」
「オタク、かどうかはわからないのですが……この紅茶を買って、上司に怒られました」
「え、何なに? どういうこと?」
経費を使いすぎて叱られた件を話すと、彼女は豪快に笑い飛ばしてくれた。
「白崎さん、おもしろいじゃん。私もこの前さ、ネットで期間限定の茶葉を大量に買って」
紅茶のマニアックな話が盛り上がっているうちに、ミーティングの時間になってしまったので会話を切り上げる。中途半端な会話になったが、今までで一番、手ごたえのある時間だった。
もし、このお茶の時間が広がれば、現場の情報が集まりやすいのではないかと閃いた。




