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蔦葉荘のいろは  作者: ミラ
第一章 彩葉(いろは)とAIとお隣さん

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 日が暮れてきて、薫さんと芽生くんがアトリエの隣の自宅へ戻っても、私はまだアトリエでカマキリを描き続けた。

 小説を書かず、仕事もせず、渋沢さんが減っていくのを感じながら、私は絵を描いている。仕事も見つかっていないのに、何をやっているのかと思いながら、それでもなぜか心は安らかだ。

 すっかり夜が更けて、黄緑色のクレパスが短くなってきたころ、がらりとアトリエの引き戸が開いた。振り返ると、スーツ姿の千春さんが立っていた。

 スーツ姿の千春さんは、立ち姿の品が驚くほど良い。その口が無ければ、と何度言われてきたか聞いてみたくなる。

「千春さん、おかえりなさい。今からその恰好で、陶芸ですか?」

 仕事帰りの姿でアトリエに来るなんて熱心だなと思っていると、千春さんは首を横に振る。

「アトリエの電気が点いてたから、彩葉がいるのかと思って来たんだよ」

「私に用事でしょうか」

 ネクタイを緩めながら、千春さんはテーブルを挟んで私の前に座った。

「ちょっと話してもいい?」

「もちろんです。紅茶を淹れましょうか」

「じゃあお願い」

 千春さんはドン引きだと言っていたが、紅茶自体は美味しかったのだろうか。

 拒否されなかったのを不思議に思いながら、私は本日何度目かのお茶を淹れに立った。

 家族以外に紅茶を淹れる機会は今までなかった。だが、丁寧に淹れたお茶を誰かに飲んでもらえるのは、なかなかやりがいがある。

 千春さんにアッサムティーを差し出す。一口飲んだ千春さんは息をついてから、鞄から私の本『森のステラ』を取り出してテーブルの上に置いた。

「読んだよ」

「……ありがとうございます」

 胃がきゅっと縮む。読んでもらえて、跳び上がるくらい嬉しい。だが、読んだ後には講評が付きまとう。それが少し怖いのだ。千春さんは居住まいを正して問いかけた。

「この話って、彩葉の体験談が元になってる?」

 『森のステラ』は中世イギリスを舞台にしており、没落した貴族の母娘が、使用人ステラと共に、森の貧相な屋敷で祖母の介護と看取りを行うという話だ。

 今のような介護制度が全くない「中世の介護」をテーマに、介護の在り方の理想と現実を描いている。私は千春さんを見つめ返す。

「その通りです。私の家庭は在宅介護を選び、祖母を自宅で看取りました」

 森のステラの話を椎名さん以外とするのは久しぶりで、高揚してしまう。

「介護制度のヘルパーはもちろん利用しました。さらに、個人的に家政婦を雇い、その方と私たち母娘が中心となって介護に取り組んだのです。私が十五歳の時のことでしたが、その経験を元に、この話を書きました」

 私の家の裕福さを活かし、人の手を増やした介護のやり方だった。祖母との関係は良好のまま終えたと思っている。

 千春さんは私の回答を予想通りだと言うように受け取ってから言った。

「森のステラ、興味深かったよ。僕は介護現場で、AIを活かしたアイテムを作る仕事をしてるんだ。僕が介護現場で実現したい理想が、森のステラに事細かく描かれていて、なんていうか」

 千春さんはアトリエの電灯を見上げて、丁寧に言葉を選んだ。

「こうやって介護者の気持ちや、介護される側の気持ちを明確な言葉にできる彩葉の技術を、尊敬したよ」

 私はカップにかけた手を持ち上げることができないほど、彼の言葉に食い入った。彼は森のステラの表紙に手を置いて、私をまっすぐに見つめる。

「彩葉、今仕事してないよね?」

 千春さんの感想で胸がいっぱいだったのに、急に現実に引き戻された。

「さっき薫さんから連絡がきたよ。彩葉が仕事を探してるって」

 薫さんの仕事が早くて驚いたが、私はこくりと頷く。千春さんは私の返答を確認してから、凛とした声で言った。

「僕のいる会社で、働かない?」

 私は瞬きを増やして、小さな声で確認する。

「私を誘ってくださるんですか?」

 彼は一言の皮肉も挟まずに頷く。

「彩葉は世間知らずだけど、言語化が飛び抜けてる。僕は介護現場の声を吸い上げて、介護に関わる人たちを楽にする、新しいものを創りたい。現場とAIエンジニアの間に立って、互いの意見をすり合わせる『仲介者』を探してたんだ。僕は彩葉が適任だと思った」

 人と人の間を繋ぐ、仲介者。

 そんな仕事の存在すら、私は知らない。しかも千春さんの会社はAIを扱う会社だ。AIに忌避感のある私が行くところではないのでは、と疑念が頭を巡る。

 けれど、あの皮肉屋の千春さんが私の本を読んで、私の能力を見初めてくれたのだ。

 それが今、叫び出したいくらい嬉しい。私の今までやってきたことに、何かの意味が生まれたような気がする。

 テーブルの上に置いた手をきゅっと握る。私にできるでしょうかという言葉が、口を突きかけた。だが、先ほどまで懸命に描いていた画用紙の上のカマキリとふと目が合い、言葉をのみ込んだ。

 やりたいことをやろうと、私の描いた歪なカマキリが言っている気がした。

「やりたいです! お仕事、やらせてください!」

 思わず立ち上がった私を見て、千春さんが目尻を下げてくすりと笑った。

 私の返事を聞いた彼からも、力が抜けたように見える。立ち上がった千春さんが、テーブルを挟んだ向こう側から右手を差し出した。

「じゃあ、よろしく」

 私は手汗を服で拭いてから、彼の手に右手を重ねる。

「こちらこそ、不束者ですがよろしくお願いします」

「お世辞じゃなくて、本物の不束者だって知ってるけどね」

 千春さんの容赦のなさに、私は苦笑いする。

「詳細はまた連絡する」

「はい、がんばります」

 軽く握手して離れたあと、千春さんは手早く本と鞄を持ち上げてくるりと背を向けた。アトリエの出口で靴を履いた彼が振り返る。

「あ、言い忘れてたけど」

 私が首を傾げると、千春さんは綺麗な顔で意地悪そうに笑った。

「彩葉の仕事、僕の助手だから」

 一瞬、私は息を忘れた。

「覚悟して仕事してね」

 千春さんはおやすみと言って、アトリエから出ていった。

 彼の職場で働くということは、彼の皮肉と四六時中ともに過ごすいう意味なのか。私は脱力して椅子に座り、カマキリの絵に語りかける。

「やるしかありませんね!」

 カマキリは不格好なままだ。

 だが、鮮やかな黄緑色はまるで、私を鼓舞してくれているようだった。


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