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ロコモコ丼をご馳走になった数日後、私は夕方のアトリエで胡桃材のテーブルに向かっていた。
蔦葉荘の住人全員がアトリエの鍵を持っていて、誰でも好きな時に入って作業してもよいルールだ。アトリエが使いたい放題なのに、家賃も共益費も安いのが不思議だ。
私は黄緑色のクレパスで、画用紙に絵を描いていた。私の隣でほっぺの揺れが可愛い芽生くんが私の絵を覗き込む。
「カマキリかっこいい」
「ありがとうございます、芽生くん。カマキリの体は構造美の極致でして、まずなぜカマキリの鎌がこういう形かと」
「カマが強そう! ぼくも描こうっと、カマキリ!」
父譲りのうんちくを披露する前に、芽生くんはお絵描きコーナーへ向かい、絵の具を出し始めた。私の描いたカマキリを見つめる。芽生くんはかっこいいと言ってくれたが、このカマキリは全く構造美を表現できていない。
「まあ、まずは完成させることを目標に」
自分に言い聞かせながら、黄緑色のクレパスで線をつないでいく。我ながら安直だが、先日の千春さんの感想を聞いて、芽生くんにも私の物語を聞いてもらいたくなったのだ。
小説で伝わらないのなら、絵をメインにして紙芝居を作ってみようと思い立った。私の絵は下手だ。
しかし、千春さんのぐにゃり皿の存在に勇気をもらって、描き始めた。
今まで、上手にできることしか自分に許さなかった。でも、パソコンを壊して家から飛び出したのだから、今までと違うことをしよう。
下手かどうかは置いておいて、やってみたいことをまずやってみよう。
「彩葉ちゃん、芽生と遊んでくれてありがとうね~」
やわらかいお姉さん言葉に顔を上げると、薫さんが微笑んでいた。
「いえ、こちらが絵を見てもらって、お世話をかけたくらいです」
「本当? 芽生ね、家で彩葉ちゃんとお絵描きしたって、喜んでるのよ」
アトリエで絵を描き始めると、すぐに芽生くんが覗きに来てくれた。
芽生くんは学校から帰るとほぼアトリエにいるので、一緒に過ごすことになるのだ。芽生くんが私のことを邪魔に思っていないと聞いて安堵する。
「彩葉ちゃん、豆腐ドーナツを作ったんだけど、おやつに一緒にどうかしら?」
「いいのですか?! ぜひ!」
先週は千春さん、今度は薫さん。またご馳走になるのもどうか、とも思った。だが、せっかくなのでいただきたい。私はふと思いついて立ち上がる。
「私、紅茶を淹れるのが好きなのですが、薫さんと芽生くんにも披露してもよろしいでしょうか」
「あら、いいの?! 嬉しいわ! じゃあお茶会にしちゃいましょうか」
それぞれ用意したものをアトリエに持ち寄って、お茶会が始まった。
私が淹れたアッサムティーと、薫さんの豆腐ドーナツがテーブルに並ぶ。すると、芽生くんがすぐに豆腐ドーナツにかぶりついた。
「おいしー! ふっかふかのお豆腐味!」
芽生くんのふわふわな笑顔を見て笑いながら、私も小ぶりのドーナツを口に運ぶ。
ふんわりした食感で、噛むたびに豆腐の甘みが口に広がる。素朴な甘さが軽くて、いくつでも食べられそうだ。ドーナツを飲み込んでから、アッサムティーを飲む。
アッサムティーの後味にはカラメルのような風味があり、豆腐ドーナツとのフードペアリングは大成功だ。私はカップを手にして感極まった。
「すっごくおいしいです、薫さん」
「ありがとう、食べてもらえて嬉しいわ。つい作りすぎちゃうのよ。それにこの紅茶、良い香り。淹れ方が上手なのね」
互いに賛辞を贈り合い、芽生くんは黙々とドーナツを平らげ、紅茶を飲み干した。
「ドーナツ描く!」
お腹いっぱいになった芽生くんは、一目散にお絵描きコーナーへ向かう。
私もドーナツを二ついただき、紅茶も二杯飲んだ。満ち足りた気持ちで大きく息をすると、力が抜けた。
「お茶に誘ってもらって、ありがとうございました。お茶会が久しぶりで、なおさら沁みました」
薫さんは二杯目の紅茶を飲みながら、細い目をさらに細くして微笑む。
「いつでも誘ってね。こんなにおいしい紅茶はなかなか飲めないから、アタシも楽しみにしてるから」
千春さんには引かれたお茶を淹れる技術が、薫さんには歓迎されているようで良かった。
「もし困ったことがあったら、いつでも相談してちょうだい。お世話係は千春くんだけど、言いにくいこともあるかもしれないから」
「あ……お気遣い痛み入ります」
薫さんは千春さんとの付き合いが長いのだろう。彼の偏屈も知るところのようだ。せっかくの機会なので、薫さんに相談を持ちかける。
「実は薫さん、ご相談があって」
「あら、何かしら」
薫さんがぐいと、私の方に身を乗り出す。聞く姿勢が嬉しい。私はスマホを取り出して、夜のお店の求人広告を見せた。
「仕事を探していて。でも働いた経験がないのです。このお店で面接をお願いしようかと思っているのですが、私にもできると思いますか」
「あら、お仕事の相談ね。任せて。アタシは美容師として何百人もの人とお話をしたことが……」
私のスマホを受け取って画面を見つめる彼の顔が強張っていく。彼はそっと私のスマホの画面をオフにしてしまった。
「ダメー! この仕事ダメー!」
「え、どうしてでしょうか、やはり私の社会人経験のなさが」
薫さんが前のめりになる。
「彩葉ちゃん、このお仕事は男性の横に座ってお酒の相手をしながら、触られたりするのよ?」
「そ、そういう接触はないと書いていますよ?」
「そんなの建前なの! ちょっと肩抱いたり、膝に手を置いたり、ラインでやり取りしたりは普通のお仕事のうちなの! こういうのは!」
「記載しておいてもらいたいです、そういうことは……」
驚いて口元を手で覆う。
「職業に上下があると言うのではないのよ? でも彩葉ちゃんには向いてないと思うわ」
「そうですか……」
小説をたくさん読んでいるので、夜のお店で酔っぱらいに絡まれるシーンを知っている。けれど私は、そういうものこそがフィクションだと思っていた。
いつの間にか立ち上がり、熱弁していた薫さんがすとんと席に座る。
「とにかく、これはやめましょう。仕事ね、知り合いのツテを頼るのが安全で良いのだけれど……アタシの店は、今ちょうど新しい子を雇ったところで」
薫さんは美容師で、カラーリング専門店を経営する店長だ。まずツテを頼るという手があったのか。私は自分の無知とタイミングの悪さに肩をすくめる。
「ご心配をおかけしてしまったみたいで、ごめんなさい」
「むしろ相談してくれてよかったわ。アタシ、知り合いに声をかけてみるから」
薫さんは私の背中を軽く叩いて、落ち着くように言いながらも、自分自身を落ち着けているようだった。私は相当、危うかったようだ。




