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毎月第一日曜に開催されるアトリエデーから一週間後。
私は自室の畳の上に、渋沢栄一さんの一万円札を並べていた。
昼間の日差しの中に並んだ渋沢さんは、あと十五人。
古い六畳畳部屋に似合いの小さなローテーブルの上には、朝と昼に食べたカップラーメンの空カップが置きっぱなしだ。
正座した私は、渋沢さんと見つめ合う。
「お金がありませんね」
短大を卒業したあと、働いたことも、お金に困ったこともない。
生活の全てを実家の両親に支援されていた。そうやって家に引きこもり、小説を書き続けてきたのだ。
お父さんは中小企業の社長で、訪問看護の事業所を運営している。小さく堅実な会社なので実入りは上々だ。
我が家は小さなお金持ちの家だと言えるだろう。
「お父さんは、彩葉ちゃんが働かなく良いくらい稼ぐからね。結婚なんてしなくていいよ。ずっとお父さんの昆虫採集に付き合ってほしい!」が信条のお父さんに、何の気兼ねもなく甘えてきた。
お母さんも私と似たような裕福な家の育ちだ。お父さんは外に働きに行きたがらず慎ましく家でご機嫌にしているお母さんを、日ごろから愛でている。
そんな環境にいたためか、私には自立すべき、という考えすらなかった。
それがいけなかったのだと、今では思う。
家を飛び出したときに、あえて通帳を持ち出さなかった。デスクの引き出しに入っていた、お年玉をなんとなくまとめた袋をひっつかんで出た。
今頃きっと、私を心配したお母さんが、私の通帳にお金を振り込んでいるだろう。そういうことが予想できたからだ。
「お金を稼がなくては……」
小説しか書いたことがない私は、どこで働けるのだろうか。
スマホを取り出して、何度か検索した求人を再び調べてみる。だが、どれを選んでいいかわからない。
時給が高い方が効率は良さそうだ。
夜のお店でお酒を勧めるようなお仕事の知識は私にも一応ある。だが、私でもできるものだろうか。
求人広告をいくつかお気に入りに入れた私は、とりあえずスマホをしまう。
就職より先に、今晩のご飯を調達しなければいけない。大事な渋沢さんを片づけてから、スーパーに買い物へ行こうと立ち上がった。
九月の昼間は、まだ日差しがじりじりする。
スーパーまで徒歩十五分の道を、汗をかいて歩きながら、実家にいるときは常に車移動だったと思い返す。
東京の都心にある出版社へ向かう車の中で何度も見た、お母さんの横顔を忘れられない。
私が一番輝いていた十七歳の夏の日、運転するお母さんは嬉しそうに言った。
「彩葉さんはすごい子だと、お母さんは知っていましたからね。おばあちゃんもきっと、ものすごく喜んでくれていますよ」
お母さんには数えきれないほど、出版社まで車で送迎してもらった。新作の小説を書き上げるたびに、担当の編集者に会いに行ったのだ。だが、相手から「これを出版しましょう」という色よい返事は、いつまでももらえなかった。
「彩葉さん、焦らなくて大丈夫ですよ。お母さんはずっと、応援しますから」
いつだって笑みを絶やさない横顔。あれは私が二十歳の頃だったと思う。
「彩葉さんのことを、お母さんは信じています。大丈夫ですからね」
二十二歳。十七歳の夏から五年がたち、お母さんの化粧は濃くなり、ほうれい線が深くなっていた。
お母さんの「大丈夫ですよ」に頭痛がしだしたのはいつだろうか。常に頭痛薬が手放せなかった。
八王子の地元スーパーに到着した私は、カップラーメンを手に取って、裏に書かれた食品添加物の表示を読む。
実家でカップラーメンを食べるのは、年に一度くらいだった。実家ではお母さんが常に彩り、栄養バランスを整えたおいしい料理を作ってくれた。
チキン南蛮、煮込みハンバーグ、海老グラタン。
幼い頃は純粋に好きなメニューだったのに、「彩葉さんを励ますために作りましたよ」と暗に想いが乗せられるようになった料理を、食べ切れなくなっていった。
料理は愛情だと、よく言われる。
だが、私にとってその言葉は、濃すぎる隠し味だ。
何の想いも乗っていないカップラーメンをカゴに入れて、レジへ向かう。
きっと私が、一度でも「小説を書くのをやめたい」と、「お母さんもう、ご飯を作るのをやめて」と言えば、誰も強要などしなかった。それもわかっている。
でもそれだけはどうしても、言えなかった。
「あ、お寿司」
お惣菜コーナーでお寿司を見かけて、ふと頬が緩む。
そういえば、先日のアトリエデーで食べた薫さんの歓迎の手巻き寿司は、重くなかった。料理にこもった気持ちを、嬉しいと素直に受け取ることができた。
私はただ、私の劣等感のせいで、お母さんの手料理に向き合えないだけなのだ。
レジで会計を済ませてまた、歩いて帰る。じりじりとした暑さが身に堪えた。
「……しんどいですね」
青い空に浮かぶ眩しい太陽はお母さんみたいだ。明るく照らしてくれているはずなのに、暑すぎて熱中症になる原因も太陽である。
やっと蔦葉荘に帰り着く。
コンクリートの壁に伝う蔦の葉たちは、私に日陰をくれる。
外階段を上って軋む廊下に足を踏み入れると、大きな声が聞こえた。
「うわっ!」
千春さんの声だ。
隣の彼の部屋からは普段、物音ひとつしない。彼の取り乱した声が聞こえてから、ガシャンと陶器が割れる音も続いた。
彼の部屋で、何か異変が起こっているようだ。
私は隣の部屋のドアの前に立った。
「千春さん? 何かありましたか?」
ノックしようと腕を上げると、勢いよくドアが開いて千春さんが出てきた。ばたんと後ろ手にドアを閉めた彼は、青白い顔で私を見る。
「な、何か用?」
「大きな音が続いたので、何事かと思いまして」
「いや、別に何でもない。騒いで悪かったね」
彼は私からぐるりと顔を逸らしてしまう。
何もなければすぐに部屋に入っていくはずなのに、彼はドアに背を預けたまま、なかなか部屋に戻らない。私はピンときた。
「もしかして、出ました?」
彼は答えない。
「視えるタイプだったのですね、千春さん……やはり幽霊と言えば、定番の白い女性ですか?」
「全然違うけど」
心霊現象があったのだと思ったのだが、違うようだ。では残るはこちらだ。
「じゃあゴキブリですか?」
無言は肯定だろう。千春さんは目を逸らしたままだ。
「千春さんは虫が苦手でいらっしゃる?」
「だったら何」
彼の語気は強いままだ。だが、彼には小さな虫に怯える繊細さがあるらしい。つい、くすりと笑ってしまう。彼はムッとしたように言い返す。
「笑うの酷いよね。苦手なものくらい、誰にだってあるでしょ」
「もちろんです。馬鹿にしたわけではありません」
「じゃあ何」
「可愛いなと、思ったのです」
やっと私に視線を向けた千春さんは、整った顔を不愉快そうにしかめる。
「嫌味だね」
「いえ、私はそんな、千春さんのようなことはしません。良ければ、退治いたしましょうか? 父は昆虫採集が趣味ですので、私も虫が大得意です」
「マジで……信じられない」
「好きな虫はカマキリです」
今度は私のことを恐ろしいもののように見る彼は、失礼だ。
けれど私は、日ごろお世話になっている千春さんのために、彼の部屋の黒い侵入者を速やかに葬った。
千春さんの部屋は、私と同じ六畳に小さなキッチンとお風呂とトイレがあるシンプルなつくりだ。
部屋は陶器作品を飾る棚が幅を取っていた。
彼が逃げ惑って割ったお皿の片づけも手伝ってから、私はお暇する。玄関先で千春さんが挨拶をしてくれる。
「ありがとう、助かったよ」
アトリエデーでも思ったが、千春さんはその皮肉屋ぶりに似合わず、お礼は言える。
またくすりと笑ってしまう。
「どういたしまして」
千春さんは一度視線を彷徨わせてから、私を見据えた。
「今夜ロコモコを作るから。嫌でなければ、お礼にご馳走するけど。あの器で」
驚いて二つ瞬きする間、声が出なかった。
「別に嫌なら」
彼が誘いを引っ込める前に、本能で返事が飛び出る。
「嫌じゃないです! 嬉しいです! ぜひ!」
カップラーメン以外のものを食べるのが、珍しくなってきている。この機を逃せない。私の勢いが可笑しいのか、千春さんがふっと笑う。
「ろくなものを食べてないみたいだしね」
千春さんが私の荷物、スーパーの袋に入ったカップラーメンを指さす。彼の観察眼は鋭い。
「場所は彩葉の部屋でいい? 料理は運ぶから」
「私の部屋ですか? かまいませんが、どうしてでしょうか?」
基本的にご馳走と言えば、招いた方の自宅でするものではないだろうか。首を傾げていると千春さんが真顔で言う。
「彩葉の部屋が汚すぎてゴキブリが湧いてないか、確認したいからだよ」
「え?」
「これ以上、僕の部屋にあれが出たら困るからね」
言葉を失いそうになったが、なんとか絞り出す。
「ま、まさか千春さんの部屋にゴキブリが出たのが、私のせいだと思っているのですか?」
「疑ってるだけだよ。じゃあ十九時に行くから。せいぜい掃除して、潔白を証明してよね」
千春さんはバタンと自室のドアを閉めた。取り残された日陰の廊下で、カナカナカナとヒグラシの鳴く声がくっきりと聞こえる。
私の生活能力が低いのは事実だ。だが、これも事実なので言っておきたい。
彼は、性格がひん曲がっている。




