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次の朝、晴れた午前十一時に一階の工房、「アトリエ」へ顔を出す。
アトリエはフローリングで、幼稚園の教室のような、懐かしい雰囲気の部屋だ。
楕円型の胡桃材の作業台を真ん中に据えた広々としたアトリエには、大きなガラス窓から光が降り注いでいる。
アトリエの手前の方は、無数の絵の具と、人の笑顔が描かれた小さなキャンバスが並んだお絵描きコーナー。奥には土の気配が濃いろくろのある陶芸コーナー、そして端には使い込まれた壁付けキッチンだ。
アトリエの名にふさわしく、何かを創る気配が満ちている。
キッチンの前に立つ男性が、ライトブラウンの短いパーマ髪を揺らして振り返る。
彼が大家の薫さんだ。
「いらっしゃい、彩葉ちゃん。ようこそ、九月の『蔦のアトリエデー』へ!」
入口の引き戸の前に突っ立ったままの私に、歓迎の声が降り注いだ。
「朝ご飯はちゃんと食べてきたかしら?」
「はい、食べました」
アトリエには酢の香りが満ちていて、チェック柄のエプロンをつけた彼は寿司桶の前でしゃもじを持って笑う。
四十代に見えないほど若々しい薫さんは、切れ長の瞳が京美人ならぬ京男子の優雅さで、一目で塩顔の男前だとわかる。
短いパーマ髪のセンスの良さも相まって、女性関係も華やかなイメージを受ける。
だが薫さんは男性でありながら、お姉さんのような話し方をする。最初は面食らったが、やわらかい話し方は千春さんよりずっと気さくで気楽だ。
「うんうん、きちんと時間に集合して偉いわ~」
「え……ありがとうございます」
時間に間に合っただけで褒められ、緩みがちな涙腺が刺激される。
千春さんに痛烈な嫌味を浴びせ続けられているので、何気ない一言が沁みる。感激していると後ろから声がかかる。
「入口で立ち止まらないでくれる?」
「あ、千春さん……こんにちは」
「挨拶はできるんだ。へぇ、エラいエラい」
千春さんは私の顔を見ないまま、横をすり抜けて行く。
「そう言うあなたは挨拶ができないのですね」と言ってしまいたくなる。
彼は薫さんに挨拶してから、お絵描きコーナーで一心不乱に筆を握る男の子、小学一年生の芽生くんのところへ歩いて行った。
キャンバスに向かい、立ったまま絵筆で色を塗る芽生くんが筆を振るうたびに、彼のほっぺたがお餅みたいにもちもち揺れる。
芽生くんはぽっちゃりさんで、思わず抱きしめたくなるくらい愛嬌がある。
芽生くんの横に立った千春さんは屈み、芽生くんと目を合わせて声をかける。
「芽生、今月は誰を描いたか当てて良い?」
千春さんは芽生くんが今描いているキャンバスではなく、壁際に立てかけられたキャンバスを指さす。
キャンバスの中で、エメラルドブルーのワンピースを着た女性が笑っている。
芽生くんは顔を上げ、千春さんをくるんと丸い目で見つめた。
「千春くんわかるの?!」
「わかるよ」
「じゃあ、今回ボクが描いたのはだーれだ!」
芽生くんの声がアトリエに響き、千春さんが短く答える。
「彩葉でしょ?」
「せいかい!」
「わ、私ですか?!」
まだ入口に立ったままだった私は、自分を指さして目をぱちぱちする。
まさか自分が絵のモデルにされるなんて、思ってもみなかった。キッチンで酢飯を混ぜる薫さんが明るい声で言う。
「彩葉ちゃんが入居した日からすぐ描き始めてね。一生懸命描いていたから、見てあげてくれる?」
薫さんは芽生くんのお父さんだ。
息子を自慢したい彼の声に押されて、私は芽生くんのそばへ足を進める。
芽生くんは描きかけの筆を置き、小さなキャンバスを私のところへ運んできてくれた。
「見て、彩葉ちゃんを描いたんだよ」
「あ、ありがとうございます! 笑顔がまるで春みたいです!」
芽生くんは小学一年生とは思えないほどの画力で、私の垂れ目の特徴がよく表れている。
キャンバスの中で笑う私は、春爛漫の笑顔だ。
こんなふうに笑えているかどうか、心配になってしまうくらい素敵だった。
「私……こんなに鮮やかな色の服を着ていたでしょうか」
エメラルドブルーのワンピースには覚えがない。
芽生くんに尋ねると、彼は餅が垂れたみたいなほっぺで微笑む。
「彩葉ちゃんかわいいから、この色がにあうかなーと思って!」
芽生くんにそんなつもりはないだろうが、彩度の高いブルーが似合う素敵な女性だと聞こえた。まるで口説き文句のような無垢な言葉をもらって、私もふにゃりと笑ってしまう。
「芽生くんの絵に、励ましてもらったように感じます。いつか、この色が似合う女性になりたいです。それに」
まだまだ語り足りない私の横からひょいと顔を寄せて、千春さんが絵をじっくり覗き込む。
「この色、青の中でも良い色だよね。彩葉の垂れ目がよく描けてるし、狸っぽい笑顔が可愛い絵だね」
私は千春さんの口から出た「可愛い」の単語に耳を疑う。
彼は私に向けて言ったのではない。純粋に絵の評価をしたのだ。だが、驚いた。
芽生くんはにっこり笑って私たちの言葉を受け取る。
「絵を褒めてくれてありがとう、二人とも!」
薫さんがキッチンからお絵描きコーナーにやってきて、芽生くんの頭を撫でる。
「芽生、良かったわね」
「うん!」
「芽生の発表はもう終わっちゃったわね。じゃあ、次の発表をしましょうか。胡桃のテーブルの周りに集まってちょうだい」
薫さんに導かれて、私の絵を抱いた芽生くんがさっそく席に向かう。
私はまだ呆気に取られたまま、千春さんの横顔を見ていた。千春さんが私に視線を寄越す。
「何? 言いたいことあるなら言いなよ」
「い、いえ、言ったら怒られるので言いません」
「そういうこと言って逃げられると思ってるところが、人間関係経験値が低い証拠だよ。怒ってあげるから言いなよ。黙って見つめられると怖いし、言わないつもりなら最初から素振りに出さないで。大人なんだから、察して欲しそうに待つのはやめた方が良いよ」
彼の言うことはチクチクするが正しく、学ぶところも多い。私も彼から黙って見つめられるなんて、怖くて耐えられない。慎重に言葉を選んだ。
「千春さんもその……可愛いと言うこともあるのだなと思いまして」
「ああ、僕みたいな性悪が『可愛い』なんて単語を知ってたのかって言いたいわけだ」
千春さんが鼻で笑う。「性悪」の単語を強調する。彼は昨夜のことを相当、根に持っているようだ。
「彩葉より人生経験が豊富だから、語彙が豊かですみませんね」
そう言い捨てて、彼は胡桃のテーブルへさっさと歩いていく。
どうしてそう皮肉屋なのかと言い返したくなるが、また私の過失だ。言葉をのみ込みテーブルへ向かい、千春さんの隣に座る。みんなが揃ったのを確認した薫さんは、ぱんと軽く手を打つ。
「じゃあ、改めて『蔦のアトリエデー』を始めるわね。いつもアタシが最後だから、次は千春くんにお願いしようかしら」
薫さんが「蔦のアトリエデー」を進行していく。
蔦のアトリエデーは蔦葉アトリエ荘の特別なイベントだ。
アトリエデーでは毎月、住人が創作した「何か」を披露する。
それを住人みんなで鑑賞するというイベントだ。
不動産屋で八王子のとにかく安い物件を探していたら、「蔦のアトリエデーに毎月参加必須」という条件が付いたこの物件を紹介されたのだ。
毎月の条件に渋る人が多く、なかなか住人が見つからないと不動産屋は嘆いていた。
私は今までクリエイターとして活動してきた。もしこれから何も創れなかったとしても、過去に作ったものを毎月発表すれば余裕だ。
すぐに蔦葉アトリエ荘に入居を決めた。
そして今日、初めての蔦のアトリエデーを迎えたのだ。私の隣で千春さんが立ち上がる。
「はい、じゃあ僕から」
千春さんが何を創る人なのか知らない。どれくらいの力量なのか、見極めてやるつもりで厳しい目を用意していた。
彼がテーブルの上に「ぐにゃぐにゃとしたもの」を置く。
縁がぐにゃりと歪んだ、やや底が深いアイボリー色のそれは、おそらく「皿」だ。
ごくりと息を飲む。ろくろの陶芸コーナーは千春さんの作業場だったようだ。
アトリエデーは作品に意見を言い合う場、と聞いている。
どうしよう、千春さんに「下手」だなんて、口が裂けても言えない。冷や汗をかく私の向かいで、芽生くんが屈託なく笑う。
「千春くんのお皿おっきいー! かっこいいー!」
芽生くんの賞賛に、千春さんの品のある目元がふと和らぐ。
「でしょ? 大きいのを作るのは時間がかかって大変なんだけど、カレーに合うのが欲しくてね」
千春さんが製作過程を軽く語ると、薫さんがうんうんと頷く。
「このアイボリー色ならきっとカレールーや緑黄色野菜の色が映えるわ。でもこの縁のぐねりが無い方が洗い物はしやすそうよ」
私の頭には「皿とは思えない」という酷評の言葉のレパートリーがたくさん浮かんでいた。しかし、彼らの会話はポジティブなワードにあふれている。
「それは僕も思っていて。けど、どうも指が動かないんですよね」
千春さんは嫌味を言い返すわけでもなく、薫さんの意見を真摯に受け止める。芽生くんがテーブルに身体を乗り出す。
「ぐにゃりのお皿、ぼくは好き。千春くんのお皿しかぐにゃりってないもんね!」
「ありがとう、芽生」
千春さんが目尻を下げてくすりと笑う。彼の笑ったところを初めて見たような気がする。
どうしてここは、こんなに穏やかなのだろうか。
私が知る、作品を評する場所とはまるで違う光景が目の前にあって、言葉を失った。
三人が次は私の番だと視線を向ける。薫さんが微笑んだ。
「彩葉ちゃんは、このお皿をどう思う?」
「えっと……」
「別に下手なのはわかってるから、好きに言えばいいよ」
千春さんが冷ややかに言う。だがこの場に、「下手」なんて言葉がそぐわないことくらいは、さすがに私にもわかる。
私は千春さんと敵対したいわけではない。新しく生きようと思っているこの蔦葉荘で、私だって馴染みたい。だから、私なりにこのお皿にしっかり向き合ってみようと思う。
私はじっとお皿を見つめる。
「あの、お皿を手に取ってもよろしいですか?」
「……どうぞ」
千春さんの許可を得て、カレー皿に触れる。
皿はとても重い。日常生活で使ったら筋トレになりそうだ。指で縁をなぞってぐにゃりの線を感じてみる。そうやってこの皿に実際に触れてみると、どんどん言葉が出てきた。
「重いです。私が洗ったら落としてしまいそう。でもアイボリー色はとても優しくて好きです。カレー以外にも、ロコモコなんかも盛ってみたいです」
皿の縁を指さしながら、あふれる言葉を丁寧に伝える。
「このぐにゃっとしているところには、小さな花を飾れそうです。どうやってこの皿の魅力を引き出してみようかと、使う側の、料理へのチャレンジ精神を刺激してくれるような皿だと思います」
勢いよくつらつらと話してしまってから、ハッとした。
こんなに熱心に語ったら、この場で浮いてしまったかもしれない。
「い、以上です」
お皿を千春さんにお返しして俯いた。みんなからの反応がちょっと怖い。はす向かいに座る薫さんが明るく言った。
「すごいわぁ、彩葉ちゃんってすごく感受性が豊かなのね」
「彩葉ちゃんのお話、おもしろかった! ぼくもモコモコ食べたい! モコモコ!」
「芽生、ロコモコよ。今度作るわ」
薫さんと芽生くんが盛り上がる向かいで、千春さんの視線が私に刺さる。
「具体的な感想をどうもありがとう。今度この皿にロコモコを盛ってみたくなったよ」
千春さんから出たとは思えない、素直さのある礼だった。
「え……あ、はい。こちらこそ、クリエイティビティ豊かなお皿を見せていただいて楽しかったです」
「どうも」
千春さんがふっと私にも笑みを見せてくれるので、つられてへにゃりと笑えた。私たち、初めて笑い合ったかもしれない。
蔦のアトリエデーは、プロクリエイターのように商品としての価値があるかないかを論じる場所ではないようだ。
アトリエデーは自由に創り、相手の創作に必ず敬意を示す。
そんな場所で、私の感想の言葉が受け入れられた。
空振りし続けた私の言葉たちが、久しぶりに誰かに届いた実感がある。いつからかずっと強張ったままだった体のどこかが、少し緩んだ。
「で、彩葉は? 何を見せてくれるの?」
次は私の発表だ。千春さんがにたりと笑い、薫さんと芽生くんが私に期待を向ける。
私は鞄から紙を取り出して、一人二枚ずつ配った。
「私は、小説を書いています」
小さな声でそう言うと、芽生くんのほっぺが揺れる。
「しょうせつって何?」
「……文字だけで、お話を書いたものよ」
薫さんの顔が急に強張った。
「あ、字だけかぁ……」
芽生くんがあからさまに残念そうな声を出す。
千春さんも無言で、どうも小説が歓迎されない雰囲気であることが肌でわかる。芽生くんは私が渡した紙をしばらく見つめたが、すぐにテーブルに置いてしまう。
アトリエデーには芽生くんがいると知っていたので、小学生でも読みやすそうなものを選んできたつもりだ。ふりがなも振った。
「芽生、読んでみたら?」
薫さんが声をかけてくれるが、芽生くんは首を振って椅子から垂らした足をバタバタさせ始める。
薫さんはそんな芽生くんを見て、軽くため息をつく。
二人の固い空気を、千春さんの声が割った。
「小説はゆっくり読みたいから、感想は来月でもいい?」
ほんの二千字程度の短い小説でも、読む方の負担は大きい。
薫さんが空気を持ち直すように微笑む。
「アタシもじっくり読ませてもらいたいわ。芽生には読んで聞かせるから」
小説の発表はアトリエデーの楽しい流れを止めてしまい、場を白けさせたように思う。
強張らないように注意して努めて穏やかな表情をつくる。
「読んでいただけるだけで、嬉しいです」
テーブルの下で、膝の上に置いた手をきゅっと握った。
私は寝ても覚めても、小説を書いてきた人間だ。
小中学生の頃は教室で話すくらいの友人がいた。だが、本ばかり読んで執筆に打ち込み続けた結果、今は一人の友人もいない。
家から飛び出した私が持っているものは本当に、小説だけなのだ。
それなのに、アトリエデーでも微妙な雰囲気を作り出してしまった。私は小説と関わっている限り、ろくなことがないのかもしれない。
来月には必ず感想をと約束してくれた薫さんは、やや重い空気を切るようにぱっと立ち上がる。
「さ、最後はアタシの番ね!」
エプロン姿の薫さんはキッチンへ足を運び、寿司桶と大きなお皿を運んでくる。
寿司桶には真っ白な酢飯、お皿には豪華なお寿司のネタたちが並んでいる。手巻き寿司の用意のようだが、皿に乗ったネタたちの形にびっくりして声が出た。
「ハート型?! 華やかです!」
卵焼きに鮪やサーモンの刺身、大葉、胡瓜まで全てがハート型だ。彩りは完璧、目にも楽しいサービス精神旺盛な料理である。
「薫さん本当に手先が器用ですよね。でもこれをやりきった根性が……何よりすごいですよ」
立って皿を覗き込む千春さんの声は、心底感心している。
「朝四時からがんばっちゃった~彩葉ちゃん歓迎の意味を込めて、ハートフル手巻き寿司よ!」
薫さんがにっこり笑うと、芽生くんが椅子から下りてぴょんと跳ねる。
「かわいいー! パパすごい!」
「でしょ~!」
先ほどまでの停滞した空気を吹き飛ばして、薫さん親子は手を取り合ってはしゃいだ。
「さあ、みんなで食べましょうか」
アトリエデーの終わりには、薫さんの料理を住人全員で食べるのが恒例のようだ。胡桃のテーブルを全員で囲み、「彩葉ちゃんを蔦葉荘に歓迎するわ」と薫さんは何度も言ってくれた。
二時間後、アトリエデーを終え、一階のアトリエから二階の自室に戻った。
部屋に一つだけの窓の外には、蔦が絡んでいる。
蔦の葉の影の間から光が差す畳に、ごろりと寝転んだ。天井の電灯傘を見上げ、一人でふふふと笑う。
「おいしかったです……」
各自が手巻き寿司を作るために手を動かしながら、薫さん親子が軽やかに話して、千春さんも棘をしまって頷き、私はたっぷり食べて笑った。
はっきり言って、アトリエデーでの私の発表は滑ったと思う。
だが、薫さんの手巻き寿司が、私の憂鬱を上書きしてくれた。だから、蔦のアトリエデーは総評として、楽しかった。
「来月は……」
次のアトリエデーがもう待ち遠しい。
何年も、家の中でモノクロの小説で頭をいっぱいにしてきた。けれど、今日の私の中には、アトリエデーの色がいくつも浮かんでくる。
ハートの黄色い卵焼き、エメラルドブルーのワンピース、アイボリー色のぐにゃり皿。
彩り豊かなアトリエの居心地の良さと、気軽さと、創作の自由さを噛みしめる。すると、来月は小説でなくてもいいかもしれない。そんな新しい発想の蔦が伸びた。
小学校一年生の芽生くんはまだ、文字が好きではない。
でも芽生くんにも私がつくったものを見て、あのやわらかそうなほっぺたで笑ってもらいたい。
「私って、小説以外のものを創れるのでしょうか」
畳でごろりと寝返りを打ち、畳に映った葉っぱ型の影を指先でなぞると、自然に口元が緩む。
何か、色のあるものを創ってみたい。
そう思えた自分を、この小さな蔦の葉の影の分だけ、好きになれそうだ。




