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蔦葉荘のいろは  作者: ミラ
第一章 彩葉(いろは)とAIとお隣さん

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「僕に変なものを拾わせないでくれる?」

 二十時にノックされたドアを開けた私に、お隣に住む彼が放った唐突な一言だ。

 外階段を上る古アパートの二階の廊下に、九月初めの夜風が吹く。

 涼しい風の中に、眉間に皺を刻んだ千春ちはるさんが立っていた。

 彼を前にすると自分の凡庸さが浮き立つ。親から可愛いと言われて育った私だが、丸い垂れ目にぺちゃんこの鼻、印象には残らないだろう平均的な容姿である。

 対する彼は、全く無駄のない整った顔立ちで、横顔のラインが特に目を引く綺麗な男性だ。道ですれ違えば、男性でも女性でもつい振り返って彼に一瞬見入り、その後に会った友人に「綺麗な人がいたよ」と報告してしまいたくなるほどの美人である。

 だが、その美貌を差し引いて余るほど、彼の物言いには棘がある。

「これ、僕の洗濯干し場に落ちてたんだけど」

「な、なんでしょうか」

 私に向かって突き出された長い腕の先には、スーパーの白い袋だ。

 袋を受け取って中を覗く。そこには私が今朝、一階の共同物干し場に干した苺柄のパンツが入っていた。

「わ! え、どうして千春さんがこれをお持ちで?!」

 袋ごと隠すように苺パンツを胸に抱く。彼の形の良い眉がぴくぴく痙攣する。

彩葉いろはは二十二歳、女性の一人暮らしでしょ? 下着を外に干すこと自体が危機意識の欠如、愚かすぎる。今朝干したものをこの時間になっても取り込んでないズボラ感、終わってる。強風でもないのに洗濯物が飛ぶ雑な干し方、全部信じられないんだけど」

 彼の低く不機嫌な声が、私のだらしないところを的確に指摘する。

「彩葉はさ、何なら上手にできるわけ?」

 背が高く、立ち姿だけで被写体として需要があるだろう千春さんが、私を冷たく見下す。

「申し訳ありません」

 私は頭を下げ、古い廊下の床を見つめて顔をしかめる。

 千春さんと初めて会った時、濃い琥珀色の瞳に目を奪われ、まるで映画の中から出てきたかのような人だと感じた。だが私が彼を好ましく思ったのは、最初の一分だけだ。

 ご挨拶が「僕に迷惑かけないでね」だった。

 私の今までの人生には、優しい人しかいなかったと、彼に出会ってすぐわかった。

「変なもの」を拾わせてしまったのは私の落ち度である。三十歳手前だという彼は、女性が放っておかない人生を歩んでいるだろうし、女性の下着を見ても恥じらいはないようだ。

 言い方からして「汚いもの」としか感じていない。いやでも、それはそれでどうなのだろうか。

 少しくらいムフッと口が緩むなどしてくれても──と思いかけて、やはりそういうことをされると気分が良くないので、彼の冷たい対応は正しい。

 私は再度詫びた。

「お手数おかけしました」

「本当にね。箱入り娘なのか、家出娘なのか知らないけど、世話係はもうこりごりだよ。お役御免にしてほしいって、かおるさんには何度も言ったけどね」

「面目次第もありません」

「彩葉って、言い回しだけは豊富だよね」

「上手にできることがあって良かったです」

「嫌味だよ?」

「……承知しております」

 千春さんはくるりと背を向けて、隣の部屋にすっと入っていった。私は顔を上げ、見えなくなった彼に中指を突き立てる。こんなポーズをしたくなる瞬間が私に訪れるなんて思わなかった。

「ムカつきます」

 この「蔦葉つたばアトリエ荘」の二階に引っ越してきて、半月が経つ。

 築四十五年、青々とした蔦の葉をたっぷり巻いた、サイコロみたいな形の古いコンクリのアパート。

 通称、蔦葉荘つたばそうだ。

 蔦葉荘に部屋は四室しかなく、二階に住むのは私とお隣の千春さんだけだ。

 辛辣な彼だが、実は申し開きできないほどお世話になっている。

 蔦葉荘の一風変わった「アトリエ」ルールの指導から始まり、地図アプリの見方がわからず迷子になった私を駅まで迎えに来てもらい、果ては洗濯機の洗剤の入れ方まで教えてもらった。

 迷惑をかけるたびに、彼は私が溺れそうなほどの嫌味を浴びせる。

『こんなことも知らないの? 今までどうやって生きてきたの? ああ、箱入りってことね。そこまでぼんやりしていられたなんて、羨ましい限りだよ』

 彼の皮肉を、頭の中で自動再生されるほど聞いた。

 私だって自分が世間知らずだということくらいは知っている。

 だが、人生で初めて、実家から出て自立しようとしているのだ。もう少し手心があってもいいのではないか。

 大家の薫さんが千春さんに私のお世話係を任命したらしく、彼は私の世話を嫌々ながら続けてくれている。

 感謝している。本当だ。

 でも、これだけは言わせて欲しい。

「千春さんは性悪野郎です!」

 腹の底から出た不満の声が廊下に響く。ぎーっと立てつけの悪いドアの音がして、隣の部屋のドアが開いた。

 しまった、と思ったがもう遅い。

 サンダルを引っかけた千春さんがドアから姿を現した。

 月明かりに照らされた彼の黒蜜色の髪は艶やかだ。しかし、見下す視線は凶器のようだ。

「あのさ、蔦葉荘は古いんだよ? 壁が薄いからよく聞こえるよ、って言わないとわからない? この、恩仇女おんあだおんな

「お、おんあだ?」

「恩を仇で返す女。僕の造語だけど、彩葉にぴったりだよね。これからぜひ自己紹介にでも使って?」

 恩仇女の白崎しろさき彩葉です、と名乗れと言うのか。

 彼の皮肉を言う技術が一級品で感服してしまって、つい口が滑る。

「千春さんって、もしかして嫌味から生まれたのでは?」

「つい、口が滑りましたのノリで言ったら、許されると思ってる? そういうことを言う限りは、僕から反撃される覚悟があるんだよね」

 ないですと言う暇を与えてもらえない。

「彩葉って一人暮らしどころか、人間関係の経験値も低いでしょ? すぐわかるよ」

 彼は迅速、正確に本質を突く。

 その返答の手際の良さはまるで、対話型のAIチャットだと思ってしまった。

 スマホやパソコンの画面の中のAIに何か質問すると、ある時は良き教師、理解あるカウンセラー、親しき友人、はたまた博学な専門家であるかのように、的を射た回答をする現代のツール代表、AI。

 いやしかし、AIは千春さんほど露骨に私を抉らないか。

 あれは意外と、人間に忖度するようにできている。

 罵倒しろと言わない限り、やんわりと言ってくるだけだ。けれど、あれは知らないうちにじわりと毒を注入する。

 そうして私を侵食し、私の夢を──穢した。

 だから、千春さんの嫌味の方が私にとって、わかりやすくて良い。

「人間関係……精進します」

「指」

「あ……」

 千春さんはにこりと笑った。美麗な笑みなのに、怒っていると如実に伝わるのが見事だ。私にもAIにも到底できない芸当である。

 立てたままだった中指をそっとしまって、目を逸らす。

「……ごめんなさい」

 彼は笑顔のまま問いかけた。

「明日、午前十一時。何があるかわかるよね?」

 わからないと言おうものなら、どんな言葉が飛んでくるか。冷や冷やしながら答える。

「わ、わかります!」

 私の返事を聞いた彼は、ドアを勢いよく閉めて帰っていった。

 今回の件、最初から最後まで完全に私が悪い。

 もう余計なことを言わないように、背を丸めて自分の部屋に戻る。

 初めての一人暮らしは、家事も、ご近所づきあいも、前途多難だ。

 けれど、実家にいたらもう、何もかもおかしくなってしまいそうだったから。パソコンを叩き割って、お母さんから逃げるように実家を出た。

 この蔦葉荘で新しくがんばると決めたのだ。ここより先に、もう逃げ場はない。だから、千春さんの嫌味にも耐えてみせる。

 軽く息をついて、玄関ドアの内側に背を預ける。

 六畳の畳部屋一つのワンルームが私の今の居場所だ。天井灯は昭和的な傘型で、紐を引っ張って電気を点けたり消したりする。最初は点け方がわからなくて、千春さんを呼び出した。

 部屋の窓際に置いた小さな本棚に、何冊も並んだ同じ本たちから顔を背け、古めかしい傘灯りを見上げる。

 ぼんやりした光の中に優しいお母さんの顔が浮かんで、鼻の奥が痛んだ。


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