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日付が変わる真夜中の頃、私はアトリエで黒焦げの塊を前に、放心していた。
「どうしてこんなことに……?」
エプロンを着けたままテーブルの上に乗った塊に語りかけていると、ものすごい勢いで入口の引き戸が開く。
「彩葉いる?!」
「え、はい! います!」
ほのかに紅潮して酔った頬の千春さんが飛び込んできた。勢いよく呼ばれたので勢いよく返事をする。彼は飲んだ帰りにアトリエに寄ったのだろう。
「焦げ臭いんだけど?!」
「あ、それはこれで」
声を上げた千春さんだったが、私の顔と、黒い塊を見比べて黙り込んだ。焦げ臭さがアトリエの外まで漏れ出ていたようで、千春さんは火事かと勘違いしたらしい。
彼はアトリエの窓を片っ端から開けて回る。
「何があったかとか聞くまでもないけど、換気くらいしろって言われなきゃわかんない?」
失敗して情けない気持ちより先に、やるべきことがあった。それをきちんと正す彼の厳しい声に頭を下げる。
「ご迷惑おかけしました……」
「勘弁してよ。これだから年末は嫌なんだ」
ぶつぶつ言う千春さんのおかげで外の冷たい空気が入り、アトリエの空気が一新する。千春さんは黒い塊を挟んで、私の向かいに座った。
「何、これ」
彼が黒い塊を指さす。
「シュトーレンになろうとしたものです」
「あのさ、彩葉って料理経験あるの?」
「ほぼありません」
「だよね。素人が最初から難易度の高いレシピにチャレンジしすぎ。今回の敗因はそこね」
ごもっともな指摘が胸に刺さる。情けなくて彼につむじを向けてしまう。すると、彼がスマホを取り出した。
「焼きプリンなら、教えられるよ。おばあちゃんのレシピがあるから」
彼はおばあちゃんっ子なので、伝わるレシピがいくつもあるのかもしれない。私は顔を上げた。
「教えていただけるのですか? 千春さんが?」
「横で口出ししてあげるよ。僕が両親にお土産って言ったから、作ってるんでしょ?」
その通りだ。千春さんのアイデアを聞いて、お土産作りを始めた。私が頷くと千春さんが立ち上がる。
「言い出した責任くらい取るよ。やるの? やらないの?」
「やります!」
本当はお母さんの好きなシュトーレンを作りたかった。けれど、私はまだ独り立ちしたばかりで、背伸びできないところもある。
でも、何か、作ったものに気持ちを込めて贈りたい。
だから、私の手でできることをしよう。
千春さんとキッチンに立って、彼の監視のもと、正確に計量した材料を混ぜ合わせる。ぐるぐるとボールの中で泡だて器をかき回す。
ぐるぐる回る渦を見ながら、私はぐるぐるする気持ちを言葉にした。
真夜中、お酒、アトリエの千春さんが揃うと、私は心の内を吐露したくなる。
「書いた小説が認められなくて落ち込んでると、お母さんは必ず私の好きなものを作ってくれていました」
家を飛び出したあの日も、お母さんはチキン南蛮を作ると言っていた。千春さんは黙ったままだが、それが彼の聞く姿勢だ。
「でも……私を励まそうとする気持ちが重かったのです。プレッシャーの味しかしなくなっていて」
お母さんの手料理がしんどかった。パソコンをなぎ倒した夏の日の息苦しさが蘇る。
暑い中、逃げるようにタクシーに乗り込んで、今晩はお母さんの料理を食べなくていいことに安堵した。卵色の生地をかき混ぜる私の手を千春さんが静かに見つめている。
「でも今、私はこうやってお母さんに……ごめんなさいとか、ありがとうとか、大好きだよとか重い気持ちを込めたプリンを作っているのです」
「母娘でやってることが一緒なの、皮肉だね」
混ぜている生地に、千春さんがバニラエッセンスを三滴落とす。
「お母さんも今の彩葉みたいに、言いたくて言えないことがあったんじゃない?」
ふと、生地をかき混ぜる手を止めた。
「お母さんが言えなかったこととは、なんでしょうか?」
夢を追って疲弊する私のそばで、微笑み続けてくれていたお母さんの気持ちはどんなものか。千春さんが顎をくって手を動かせと示す。
「そんなの僕にはわからないよ。小説家でしょ? 想像しなよ」
またぐるぐると生地と気持ちを混ぜてから、小さなカップに生地を丁寧に注いだ。
丸みのある耐熱ガラスカップをオーブンに入れる。じりじりと赤い熱に焼かれるプリンを見つめていると、お母さんの気持ちにやっと出会えた気がした。
私の心の内側にも、じりじりと熱がこもる。
お母さんが見続けただろう、小説しか抱きしめるものがなかった私の孤独な背中が、頭に浮かぶ。
「お母さんは私に……頑張れ、だけじゃなくて『もう、やめてもいいよ』って気持ちも込めてくれてたのかも」
「それは、そうなんじゃない?」
私の小さな声に、千春さんは頷く。
「『大好きな娘』が苦しんでたら、もうやめろって言いたくもなるよ」
両親にとって私は、「大好きな娘」だと、さっき私が言ったのだ。
千春さんの予想外に丸い声を聞いて安心したのか、私の睫毛を涙が縁取ってしまう。
「出版を目指した執筆をやめる」という選択肢の存在を、私が私に許したからこそ、お母さんの気持ちが見えるようになったのかもしれない。
今まで自分しか見えていなかったことが悔しくて、申し訳ない。そして夢を今また、改めて失ったかのようで、切なかった。
頬を伝う涙を両手で覆って隠したが、千春さんが私の横顔を見ているのを感じる。
「泣かないでよ、僕が泣かせたみたいでしょ」
その声は責めるでも呆れるでもなく、仕方ないなと聞こえてくる、どこか優しい響きだった。千春さんは私が泣き止むまで隣に居て、オーブンの中で熱が生地を固めるまでずっと、一緒に待っていてくれた。




