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蔦葉荘のいろは  作者: ミラ
第四章 彩葉とAIと里帰り

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28/41

2

 日付が変わる真夜中の頃、私はアトリエで黒焦げの塊を前に、放心していた。

「どうしてこんなことに……?」

 エプロンを着けたままテーブルの上に乗った塊に語りかけていると、ものすごい勢いで入口の引き戸が開く。

「彩葉いる?!」

「え、はい! います!」

 ほのかに紅潮して酔った頬の千春さんが飛び込んできた。勢いよく呼ばれたので勢いよく返事をする。彼は飲んだ帰りにアトリエに寄ったのだろう。

「焦げ臭いんだけど?!」

「あ、それはこれで」

 声を上げた千春さんだったが、私の顔と、黒い塊を見比べて黙り込んだ。焦げ臭さがアトリエの外まで漏れ出ていたようで、千春さんは火事かと勘違いしたらしい。

 彼はアトリエの窓を片っ端から開けて回る。

「何があったかとか聞くまでもないけど、換気くらいしろって言われなきゃわかんない?」

 失敗して情けない気持ちより先に、やるべきことがあった。それをきちんと正す彼の厳しい声に頭を下げる。

「ご迷惑おかけしました……」

「勘弁してよ。これだから年末は嫌なんだ」

 ぶつぶつ言う千春さんのおかげで外の冷たい空気が入り、アトリエの空気が一新する。千春さんは黒い塊を挟んで、私の向かいに座った。

「何、これ」

 彼が黒い塊を指さす。

「シュトーレンになろうとしたものです」

「あのさ、彩葉って料理経験あるの?」

「ほぼありません」

「だよね。素人が最初から難易度の高いレシピにチャレンジしすぎ。今回の敗因はそこね」

 ごもっともな指摘が胸に刺さる。情けなくて彼につむじを向けてしまう。すると、彼がスマホを取り出した。

「焼きプリンなら、教えられるよ。おばあちゃんのレシピがあるから」

 彼はおばあちゃんっ子なので、伝わるレシピがいくつもあるのかもしれない。私は顔を上げた。

「教えていただけるのですか? 千春さんが?」

「横で口出ししてあげるよ。僕が両親にお土産って言ったから、作ってるんでしょ?」

 その通りだ。千春さんのアイデアを聞いて、お土産作りを始めた。私が頷くと千春さんが立ち上がる。

「言い出した責任くらい取るよ。やるの? やらないの?」

「やります!」

 本当はお母さんの好きなシュトーレンを作りたかった。けれど、私はまだ独り立ちしたばかりで、背伸びできないところもある。

 でも、何か、作ったものに気持ちを込めて贈りたい。

 だから、私の手でできることをしよう。

 千春さんとキッチンに立って、彼の監視のもと、正確に計量した材料を混ぜ合わせる。ぐるぐるとボールの中で泡だて器をかき回す。

 ぐるぐる回る渦を見ながら、私はぐるぐるする気持ちを言葉にした。

 真夜中、お酒、アトリエの千春さんが揃うと、私は心の内を吐露したくなる。

「書いた小説が認められなくて落ち込んでると、お母さんは必ず私の好きなものを作ってくれていました」

 家を飛び出したあの日も、お母さんはチキン南蛮を作ると言っていた。千春さんは黙ったままだが、それが彼の聞く姿勢だ。

「でも……私を励まそうとする気持ちが重かったのです。プレッシャーの味しかしなくなっていて」

 お母さんの手料理がしんどかった。パソコンをなぎ倒した夏の日の息苦しさが蘇る。

 暑い中、逃げるようにタクシーに乗り込んで、今晩はお母さんの料理を食べなくていいことに安堵した。卵色の生地をかき混ぜる私の手を千春さんが静かに見つめている。

「でも今、私はこうやってお母さんに……ごめんなさいとか、ありがとうとか、大好きだよとか重い気持ちを込めたプリンを作っているのです」

「母娘でやってることが一緒なの、皮肉だね」

 混ぜている生地に、千春さんがバニラエッセンスを三滴落とす。

「お母さんも今の彩葉みたいに、言いたくて言えないことがあったんじゃない?」

 ふと、生地をかき混ぜる手を止めた。

「お母さんが言えなかったこととは、なんでしょうか?」

 夢を追って疲弊する私のそばで、微笑み続けてくれていたお母さんの気持ちはどんなものか。千春さんが顎をくって手を動かせと示す。

「そんなの僕にはわからないよ。小説家でしょ? 想像しなよ」

 またぐるぐると生地と気持ちを混ぜてから、小さなカップに生地を丁寧に注いだ。

 丸みのある耐熱ガラスカップをオーブンに入れる。じりじりと赤い熱に焼かれるプリンを見つめていると、お母さんの気持ちにやっと出会えた気がした。

 私の心の内側にも、じりじりと熱がこもる。

 お母さんが見続けただろう、小説しか抱きしめるものがなかった私の孤独な背中が、頭に浮かぶ。

「お母さんは私に……頑張れ、だけじゃなくて『もう、やめてもいいよ』って気持ちも込めてくれてたのかも」

「それは、そうなんじゃない?」

 私の小さな声に、千春さんは頷く。

「『大好きな娘』が苦しんでたら、もうやめろって言いたくもなるよ」

 両親にとって私は、「大好きな娘」だと、さっき私が言ったのだ。

 千春さんの予想外に丸い声を聞いて安心したのか、私の睫毛を涙が縁取ってしまう。

「出版を目指した執筆をやめる」という選択肢の存在を、私が私に許したからこそ、お母さんの気持ちが見えるようになったのかもしれない。

 今まで自分しか見えていなかったことが悔しくて、申し訳ない。そして夢を今また、改めて失ったかのようで、切なかった。

 頬を伝う涙を両手で覆って隠したが、千春さんが私の横顔を見ているのを感じる。

「泣かないでよ、僕が泣かせたみたいでしょ」

 その声は責めるでも呆れるでもなく、仕方ないなと聞こえてくる、どこか優しい響きだった。千春さんは私が泣き止むまで隣に居て、オーブンの中で熱が生地を固めるまでずっと、一緒に待っていてくれた。


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