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翌日の昼頃、自室で寝過ごした私は慌ててアトリエへ下りた。昨夜焼き上げてから、アトリエの冷蔵庫に冷やしていたプリンの味見をする。
カラメル色の焦げ目がついた固めのプリン生地を、スプーンですくって一口ぱくりと食べる。
寝起きの目が、ぱっと見開く。
「うん、おいしいです。しっかり卵の風味」
表面のビターな焦げ目と甘い生地がまろやかで、懐かしい味だ。両親へ贈るために、ひとつずつプリンを箱につめる。自室に戻って用意を済ませてから、一つ余ったプリンを持って、千春さんの部屋のドアをノックした。
のそのそと部屋から出てきた千春さんはスウェット姿で、寝起きのようだ。千春さんはまぶしそうに眉根を寄せる。
「何?」
千春さんに、プリンを一つ手渡す。
「昨日はありがとうございました。おいしくできたので、味見してください」
「……ああ、どうも」
プリンを受け取った反応は鈍く、寝起きの彼には棘がないと初めて知った。彼はごしごしと腕で目をこする。
「行くの? 実家」
「はい、プリンを届けてきます」
千春さんはだるそうにドアに身体を預けて言う。
「あのさ、昨日みたいなことやめて欲しいんだよね」
指摘を受けて、昨夜の焦げ騒ぎを思い出す。
「も、申し訳ございません」
「だから、何か少しでもリスクありそうだなって思ったら、先に連絡くれない?」
「リスク……とは?」
「夜に出歩いて迷子。酒飲んで酩酊。ボヤ未遂とか。今まで誰かさんが全部やったやつだよ」
全て千春さんがフォローをしてくれた私のリスク案件が並び、恐縮する。
「後処理するの面倒だから、先に連絡入れて。行動する前に一回考えて」
千春さんが目を細めて私を睨む。
「年末は事件とか急病とか事故とか。救急車が出動するようなトラブルが多いからね」
妙にじっとりと実感がこもった声だ。
「わ、わかりました」
注意事項が多かったが、とりあえずのみ込んだ。今まで迷惑をかけているのだから、千春さんが先手を打つのは当然だろう。年末くらいゆっくりしたい、という意味で受け取った。
「いってらっしゃい」
千春さんはばたんとドアを閉めて部屋に入ってしまう。愛想はないが、連絡してくるなとは言わないのが千春さんだなと思って、小さく笑ってしまった。
「いってきます」
蔦葉アトリエ荘の最寄り駅、西八王子駅から電車で一時間かけて、横浜へ向かった。異国情緒あふれると評判の閑静な住宅街にある、コーラルピンクの外壁が可愛いメルヘンハウスが私の実家だ。
「どんな顔をして、帰るものでしょうか」
門扉に手をかけて、何度も深呼吸をしているうちに蔦葉荘に帰りたくなってきた。
実家のメルヘンハウスを前にすると、夢だけを追い続けた自分と向き合わなくてはいけないような、どんよりとしたものを感じる。門扉から手を放そうとすると、玄関が開いた。
「……お母さん」
中から出てきたのは、余所行きの恰好で栗色の短い髪を綺麗に整えたお母さんだ。はたと目が合った。お母さんが静かな住宅街に響くほど大きな声を出す。
「彩葉さん!」
お母さんが玄関から慌てて駆けてきて、中から門扉を勢いよく開けて私に飛びつく。こんなに俊敏なお母さんを初めて見た。
お母さんは私をぎゅうと抱きしめる。そうやって力いっぱい細い腕で抱きしめられると、昨夜のじりじりとした熱さがまた目に溜まってしまう。彼女の背に手を回して、私も抱きしめ返す。お母さんの肩に顔を埋めて懐かしい香りを感じると、何も言えなくなる。
「彩葉さんの帰りをずっと……ずっと待っていましたよ」
お母さんの震える声と涙につられて、私は子どもみたいにしゃくりをあげて泣いてしまった。
冬空の下でひとしきり泣きつくした私たちは、顔を見合わせる。
「冷えてしまいましたね、中に入りましょうか彩葉さん」
お母さんは門扉を開けて私を招く。
「おかえりなさい、彩葉さん」
彼女の心から嬉しそうな顔を見て、薫さんが顔を見せるだけでいいと言った意味がよくわかった。私は明るい声で言った。
「ただいま戻りました、お母さん」
夕暮れには職場の制服のポロシャツを着たお父さんが帰宅して、お母さんよりも泣きながら私を抱きしめてくれた。
「彩葉ちゃん、おかえり! もうお父さん、心配で……!」
お父さんが黒縁の四角い眼鏡を外して号泣するのを見て、私とお母さんはなぜか一緒に笑った。
高い天井でシーリングファンが回るダイニングで、親子三人揃って夕食を食べた。食後はリビングのソファで寛ぐのがお父さんのお決まりだ。今夜は私も一緒だ。
お母さんと一緒に紅茶を淹れて、お土産の焼きプリンを食べてもらう。ローテーブルを挟んだ向かいのソファに座る両親は目を丸くする。
「これを、彩葉さんが作ったのですか?」
「お父さんは感動したよ……!」
プリンを食べたお父さんが鼻を啜ってずびずびと音を鳴らすので、私とお母さんはまた笑う。プリンを食べてから、私は家を出てからの暮らしについて積もる話を続ける。
お母さんは朗らかな笑みを浮かべ、たまに涙ぐみながら私の話を聞いていた。
「彩葉さんが立派に一人で暮らしていて、とても安心しました」
「お母さんは、近頃どうしていましたか?」
私が尋ねると、お母さんは恥ずかしそうに本棚からテキストを出して見せてくれる。
「英会話教室に通い始めたのです。実は昔、留学をしていた時がありまして。また英語に触れてみたいなと思って」
「留学経験があったと言っていましたね。また勉強を始めるなんて、素敵です」
お母さんは今日、本来なら英会話教室の日だったのでお洒落をしていたそうだ。けれど、私が急に帰ってきたので、レッスンをお休みしてしまった。
「わからないことばかりですが、充実しています」
楽しそうに話す顔を見て、私の夢が、お母さんを家に縛りつけていたのだと気づく。お母さんは居住まいを正してから、静かに言った。
「彩葉さんがお家を出てから反省しました。彩葉さんがパソコンを壊して、家を飛び出すほど追いつめたのは、お母さんですよね」
「え……?」
「もう……諦めても良いと言ってあげるべきでした。でも、彩葉さんがあまりに頑張っているので、言えなかったのです」
お母さんは自分で言ったことを否定するように、軽く首を横に振って言い直した。
「違いますね。本当は、お母さんの一言で、夢を諦めたと言われるのが怖かったのです」
お母さんは語尾を小さく震わせながら、私に向かって頭を下げる。
「母親として、意気地がありませんでした。彩葉さんを助けてあげられなくて、ごめんなさい」
お父さんが、お母さんの背に優しく手を添え、情けなく顔をゆがめる。
「二人がそんなに思い詰めているなんて知らなくて、本当にすまなかった」
両親が二人そろって私に頭を下げる。私はふるふると首を横に振った。
「違います。私が、二人にただ甘えるだけの子どもだったのです。謝るのは私で……やめるという勇気もなく、察してほしいばかりでした」
蔦葉荘で暮らし始めたばかりの頃、千春さんに「察してほしそうに待つのはやめたほうがいい」と言われたのを思い出す。私は立ち上がってお母さんの隣に座り直し、お父さんと一緒に、お母さんの背に手を添える。
「お母さん、夢だけを追った時間は正直に言って、辛いことが多かったです」
出版に値する小説が書けなくて、金色の一文の誘惑に負けて人生が壊れた気がした。
「けれど、私の限界までやりきりました」
蔦葉荘で暮らす今の私はもう、大丈夫だ。
アトリエデーのおかげで私が作れるのは小説だけではないと知り、お仕事のおかげでAIは敵ではないと学び、友だちができて世界に彩りが満ちた。
きっと私には家の外で学ぶこと、楽しいことが、まだまだたくさんある。
「悔いはないと、そう言えるだけの時間を私に与えてくれて……本当にありがとうございました。私は今とても、楽しく暮らしています」
お母さんはまた肩を震わせて泣いてしまったが、お父さんは微笑んだ。
「彩葉ちゃんが笑顔でいてくれたら、お父さんたちはそれが一番嬉しいよ」
お父さんの優しい言葉に鼻の奥がじんわり熱くなった。
「二人とも、大好きです……!」
二人はめそめそする私の頭を撫でてくれる。両親のぬくもりをもらって、夢にかじりついた時間と、蔦葉荘で奮闘してきた時間の両方を、愛しく感じた。
家を出てよかった。
顔を見せに帰ってきてよかった。
離れてみて初めて知る、ずっとそこにあったものの尊さを抱きしめることができた。




