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森に夜が満ちて、キャンプ場に備え付けのシャワーを順に浴び終えると、芽生くんは大あくびをした。葵さんが芽生くんの手を握って笑う。
「芽生、俺と寝る?」
「うん! 葵くんお話してよ、キャンプ大冒険!」
「えー、期待されちゃうと張り切っちゃうな~!」
火を操っているとき以外は子煩悩な葵さんが、芽生くんを連れてモカ色のテントの中へと消えていく。
グランピングテントにはふわふわなマットが四枚敷かれていて、今日はそこで雑魚寝する予定だ。
私の寝る場所は端っこで隣は芽生くんだと、千春さんが決めた。
「おやすみなさい、芽生くん、葵さん」
二人を見送って焚火の側へ戻ると、葵さんが持参した座り心地の良いアウトドアチェアに、千春さんが座っている。
千春さんはシャワー後からずっとここで足を組んで本を開いている。森は暗くて、焚火だけではもう文字を読みにくい。彼は手元にだけ小さなライトを当てていた。森で本を読む彼の姿は絵になる光景で、彼は綺麗な人だと再確認した。
私はそっと夜空を見上げる。
森の空には星たちが煌いていて、まだ寝るのが惜しい。
けれど千春さんの時間を邪魔するのも憚られるので、一人で紅茶を淹れてみることにした。
焚火はまだいこっていて、火の上にはケトルが置かれている。葵さんが縦長のケトルに常にお湯を沸かしておいてくれているのだ。
十一月の夜は防寒具があれば凍えるほどの寒さではない。だが葵さんは、温かい飲み物が欲しくなるのを見越していたのだろう。
焚火の前に座り込んで、チタンのマグカップに持参したジンジャーティーのティーバッグを入れる。ケトルに手をかけたとき、上から声が降った。
「彩葉、紅茶淹れるなら、僕もいい?」
顔を上げると千春さんが立っている。本に集中しているのかと思っていたが、私の動きも目に入っていたようだ。私は微笑む。
「もちろんです。シナモンはお好きですか」
頷く千春さんの分もマグカップを用意して、ジンジャーティーの上にシナモンパウダーをかけて完成だ。
白く湯気が上がるマグを、また席に戻って本を開く千春さんに渡す。
「どうぞ」
「ありがとう」
千春さんが本から顔を上げてマグを受け取る。私は彼の隣にあるもう一脚のアウトドアチェアに腰を下ろした。
両手でマグを握り、指にじんと伝わる温さを感じつつシナモンの香りを楽しむ。
一口飲むと、ジンジャーの辛さがぴりっとして喉がぽっと熱くなるのが気持ちいい。
紅茶の温かさに息をついて星空を見上げてから、同じように紅茶を飲んだ千春さんに声をかけた。
「千春さん、何を読んでいるのですか」
ブックカバーがかかっているので、題名がわからなかった。千春さんの目線は文字を追ったままだ。
「森のステラ」
私の著書ではないか。ぎょっとしていると、彼がやっと顔を上げる。
「森に来て星を見るんだから、ちょうど良いと思って」
ステラは星の名前だ。
たしかに今読むのにぴったりの題名で、千春さんは意外にもロマンチストだと驚いた。
「私の本を旅先で読んでくれる人がいるのかと思うと、誇らしいです。ありがとうございます」
彼に少し頭を下げて礼をしてから、マグカップをきゅっと握る。
「けれど、森のステラは私の過去の栄光で、それ以後はひとつも出版できていません。今は犬沢さんに夢を見せる話ひとつ思いつけないのだな、と思うと……」
情けないという言葉をぎりぎりのみ込むと、シナモンのわずかな苦味がする。
「卑屈だね。キャンプは息抜きにならなかった?」
千春さんは本を閉じて、マグカップを長い指で包みながら私を見やる。私は首を横に振った。
「いえ、とても楽しかったです。それに色んな事を考えさせられました。昨日の千春さんの回答も、葵さんに翻訳してもらったりして」
「そんなことしてたの?」
千春さんは怒るでもなく、呆れるように笑ってからマグカップに口をつける。
星空の下の千春さんは、アトリエにいるときと同じ雰囲気だ。
「千春さん……私がAIの文を盗作した話なのですが」
マグを持ちながら靴を脱いだ私は、椅子の上で三角座りをして膝を抱える。
「私はAIが私の小説を侵したと、思い込もうとしていました」
金色の一文のことを、千春さんにだけ話した。だから今、この胸にある気づきを彼に聞いてもらいたかった。
「でも結局は私が……AIの侵入を許したのですね」
千春さんの細い前髪が夜風に静かに揺れるが、彼は眉一つ動かさない。ナイフを扱いながら聞いた芽生くんの勇敢さを思い出す。
「芽生くんのように私も、これ以上は許さないという明確な『線引き』をするべきでした」
森の星を見上げて、眉根を寄せた。
「蠱惑的に美しい金色の一文を切り捨てる勇敢さが、私にはなかった。私がただ、弱かったのです」
自分の愚かさを膝とともに抱きしめる。
千春さんから今さら気づいたのかと皮肉られる覚悟はしている。むしろお前はバカだなと罵ってほしい気持ちもある。
けれど、彼からは予想したよりもずっと澄んだ声が届いた。
「自分が弱かった、間違っていたって言えるのは、勇敢でしょ」
彼の言葉に、私の顔が自然と上がる。
「彩葉にはその勇敢さを手に入れたんだから、今度は自分で線引きなんて余裕じゃない?」
焚火に照らされた彼の琥珀色の瞳が私を見つめる。
思ったよりずっと優しい言葉をかけられて、どんな顔をしていいかわからなくなる。
シナモンジンジャーティーで温まった体の熱が全部、目の奥に集中して熱い。彼が「今度」と言って、私は初めて知った。
「私の小説って、『今度』が、あるのですか?」
「そりゃ、あるでしょ。彩葉はまだ二十二歳だよ?」
当然だというように肯定されて、涙があふれてしまいそうになる。涙をこぼさないように星空を見上げると、一気に視界が開けた。
森を舞う夜風が私の周りをくるくる回ると、私の思考もくるくると回る。
物語を書かなくては──と、強い衝動が湧き、犬沢さんの顔が浮かんだ。
AIとの距離を間違えた私には、まだ次がある。
けれど犬沢さんは、AIとの関係を、福祉の現場で一度だって間違えたくないのだ。それが彼の不安の根っこだ。
だから、私は、どうすればいい。
「今度はAIご利用マニュアルでも作ってから書けば、迷わないし、間違わないんじゃない?」
千春さんはまた本を開き、軽く茶化すように言った。
皮肉の言葉だったが、頭をてっぺんからスコンと叩かれてまっすぐ割れたような小気味よさが体を走る。
「あ……それ! それ犬沢さんの話にいただきます!」
静かな森に私の声が響き、千春さんは顔をしかめる。
「何? 急に」
私は慌てて立ち上がり、マグカップを置いて荷物の中からノートと紺色のペンを取り出す。急いでチェアに戻って、ノートを開き、思いついたことを書き連ねる。
がりがりペンを動かしていると、焚火の音も、千春さんの声も全く聞こえなくなった。あふれ出るアイデアを紙に書きつける。
ノートを文字で埋め続けていると、右手首をきゅっとあったかいものに握られ、強制的にペンを止められた。
「えっ」
思わず顔を上げる。すると千春さんの不機嫌そうな顔が目の前にあった。いいところなのに、なんの用だろうか。
「何回も呼んだよ彩葉、さすがに一回止まって。触るまで気づかないとか、どうなってんの」
「え、今何時ですか?」
「彩葉がそれを始めてから二時間経ったよ。もうテントに入って」
見回すとすっかり焚火は消えていて、マグカップも片づけられていた。千春さんが私の手首を握ったままぐっと引っ張るので、私は力づくで立ち上がらされる。
「どうして僕の連れは、周りが見えなくなりがちなんだろ……」
ぶつぶつ言う千春さんは私の手首を引っ張って、テントの中へ連れていく。
テントの中は暗いが、小さなランタンが一つだけ灯っていた。
四つ並んだマットには予定と違って、左端に芽生くん、右端に葵さんが眠っていた。二人とも寝相が悪かったのかもしれない。
真ん中の二つのマットが空だ。
千春さんが私の手首を強く引く。私は芽生くんの隣のマットの上に放り投げられる勢いで着地した。
「書くのなら寝なくてもいいけど、もう勝手に外には行かないでよ。僕は寝るから」
げんなりしたような声と毛布を私に投げつけた彼は、私に背を向けて寝転んだ。
知らないうちに、私はまた迷惑をかけたようだ。
今さら謝ってもまた怒られそうなので、私は千春さんと芽生くんの間に静かに寝転ぶ。毛布を被ってからランタンの灯りを頼りにまたペンを走らせる。
またどれくらいか経ってふと気づくと、寝返りを打った千春さんが私の方を向いていた。彼の少しだけ開いた口が、彼の深い眠りを教えてくれる。
「……つい、写真を撮ってしまいたくなりますね」
目鼻立ちの均衡が美しい千春さんの顔だが、寝顔はやや幼く見えた。普段は隙のない彼の無防備さが微笑ましく、くすりと笑ってしまう。
書きたい衝動がやっと収まった私は、ランタンの灯りを消した。




