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薫さんと芽生くんが雛子ちゃんを家に送り、部屋に戻った私は、夜になるまで犬沢さんを説得する筋書きを考えた。
紺色のペンを握って考えていたが、何も浮かばず頓挫してしまう。
「……行き詰まりましたね」
うまくいかないだるさを発散するために、マクラメ編みをしようとアトリエへ下りていった。
アトリエには灯かりがついている。
もう二十二時を回っているので、千春さんかなと予想しつつ引き戸を開けた。
甘い蜂蜜の香りが漂うアトリエにいたのは、薫さんだった。
「あれ、薫さん。こんな時間に珍しいですね」
「彩葉ちゃん、いらっしゃい」
アトリエを見回すが、芽生くんはいない。
「芽生くんは?」
「寝てるわ。もし起きたらアトリエに探しに来るから大丈夫よ」
「薫さんにも、たまには夜更かししたいときがありますよね」
「うーん、アタシ、眠れない日の方が多くて、市販の睡眠薬をよく飲んでるのよ」
「そうなのですか?」
いつも明るい彼が、睡眠薬を常用しているなんて意外だった。よく考えてみれば、薫さんは自分の店と子育てを一人で両立しているのだ。眠れないくらい疲れていてもおかしくない気がしてきた。しかし彼はそんなことを微塵も感じさせない。
「でも慣れっこだから平気。それよりこれ見て、彩葉ちゃん」
チェック柄のエプロンをつけた薫さんは、胡桃のテーブルの上に道具を広げ、何か作っているようだ。テーブルを覗き込むと、白い琺瑯鍋の中に、べっこう色の粘土のようなものが入っていた。
「これは?」
「蜜蝋よ。ミツバチがつくった天然の蝋。これを溶かして捏ねてキャンドルを作るの」
薫さんは手に蜜蝋を取って、粘土のように丸め始めた。アトリエに満ちた甘い香りの正体はこれだったようだ。
「好きな形にして、最後に竹串で空けた穴に灯芯を入れたら完成よ。簡単でしょう」
微笑みながらそう言う薫さんの手元を見ていると、私の指先もうずうずしてしまう。
「彩葉ちゃんも一緒にする?」
「実は誘ってもらえないかと思っていました」
二人で顔を見合わせて笑ってから、薫さんの隣に座り、私も蜜蝋を手に取る。ぬるい蜜蝋は焼く前のクッキー生地のように滑らかで捏ねやすい。むにむにした触感に指先が喜ぶ。
「アタシ、一つ目はリンゴ型って決めてるのよ。皐月ちゃんはリンゴが好きだったから。彩葉ちゃんは何にする?」
大好きな皐月さんの好きなものを作る薫さんを見て、私も好きなものにしようと決めた。
「私は、蔦葉荘にします」
手のひらサイズのサイコロの形を成形し始める。林檎の形を整える薫さんが私の蜜蝋を覗き込む。
「あら素敵な発想ね。アタシも真似していいかしら」
「もちろんです」
蔦葉荘はサイコロみたいに四角くて、周りに蔦の葉が巻いているのだ。私と薫さんはサイコロ型の蜜蝋に竹串で蔦っぽい模様を描いた。
蜜蝋の香りや触り心地が気持ちよく、夜のキャンドル作りに夢中になってしまう。
二人で手の中の蜜蝋を捏ねていると、薫さんの表情も緩んでいく。
「この蜜蝋キャンドルね。皐月ちゃんとよく一緒に作ったのよ」
夜のアトリエに、薫さんの懐かしむ声が響く。芽生くんのお母さん、皐月さんはもう亡くなっている。彼は大切そうに蜜蝋を撫でていた。
「今日、芽生がお友だちに『バカ』って言われたでしょう? アタシ、芽生に字を教えてるんだけど、なかなか成果がなくてね。アタシが親としてちゃんとできてないから……皐月ちゃんに申し訳なくて」
薫さんの広い肩がきゅっと丸まる。子どもたちを頼もしく励ましていた彼にも、こんなに思うところがあったのか。私は普段から思っていることを口にした。
「薫さんは優しいお父さんだと思います」
彼は眉尻を下げて困ったように笑う。
「なんだか言わせたみたいで、申し訳ないわ」
常に周りに気を払う彼には、私の純粋な感想もお世辞に聞こえたのかもしれない。人を励ますというのは、思ったよりも難しい。うまく励ませなかった私は、せめて彼自身のことをもっと聞こうと思った。
「薫さんと、皐月さんのことを聞いてもいいですか。馴れ初めとか」
「あら、そんなの興味あるの?」
「聞いてみたいです」
彼は目を見開いてから、じゃあ惚気ちゃおうかなと嬉しそうに語り始める。
「蔦葉荘はね、ものづくりが好きなアタシのおじいちゃんが作った場所でね。皐月ちゃんもここの住人で、アトリエデーで仲良くなったのよ」
祖父が作ったアトリエに、そこで出会った最愛の人。
そうして薫さんは今も、この蔦葉荘とアトリエデーを守っている。
蜜蝋の香りが満ちるアトリエを見回して、この場所に積み重なってきた時間を想う。
「アタシ、こんな話し方でしょ? だからよく、ゲイに間違われるんだけど、皐月ちゃんはどうしてそうやって話すかわかるよって言ってくれて」
そういえばすっかり馴染んでいたが、男性の薫さんが女性のような口調なのはなぜなのだろうか。
「皐月さんは何とおっしゃったのですか」
「気を遣ってるからでしょ、って」
皐月さんの答えに、私は理解が及ばず首を傾げた。薫さんが秘密を語るように教えてくれる。
「アタシは美容師だからね。美容院ってやっぱり女性が多いでしょ? それにアタシってほら、自分で言うのもなんだけど、男前じゃない?」
「ふふっ、確かにそうですね」
モテる自覚がある薫さんについ笑ってしまったが、事実だ。彼は京美人と言って差し支えない容姿なのだ。そこまで聞いて、やっと理解した。
「女性トラブルを避けるために、あえてやわらかくお話しするようになったということですか」
「そうなの。お客さんにも話しやすいって評判でね。角が立たないから気に入ってずっとこういう話し方よ」
「薫さんは本当に気遣い屋さんですね」
「褒めてもらって嬉しいわ」
彼は蜜蝋の蔦葉荘を完成させて、灯芯を差した。
「アタシのそういうところに、気づいてくれた人が初めてでね。皐月ちゃんのことをすぐに好きになっちゃったわ」
薫さんは完成した林檎と蔦葉荘の蜜蝋キャンドルを眺めて目を細める。
「マクラメ編みも、キャンドル作りも、アトリエでものを作る楽しさも……それから、一番大事な芽生も。全部ぜんぶ、ぜーんぶ皐月ちゃんがくれたのよ」
彼の肌荒れした指先が愛しいものを撫でるように蜜蝋に触れる。
「皐月ちゃんが亡くなって、赤ちゃんの芽生を育てて、自分の店を持って、もうただひたすらなんとか走ってきた感じなの。もう何年も経つのに、今でもすぐ涙が出ちゃうのよ」
細く折れてしまいそうな薫さんの声に、私の方が泣いてしまいそうだ。
「今日みたいな日は特に、皐月ちゃんに会いたくなるわ」
私が泣きそうな顔を蔦葉荘の形を模した蜜蝋で隠していると、突然ドアが開いた。




