2
今日の仕事の失態を抱え、ため息をつきながら蔦葉荘を目指して歩く。
「……この仕事がうまくいったら、キャンプの約束を守ってもらえるのでしょうか」
あの約束をしてから一ヶ月以上経ち、十一月のアトリエデーも終わった。私はローズピンクのマクラメ紐で二個目のコースターを作った。だがこの間、千春さんからキャンプの話題は一度も出なくて、しかも彼はピリピリしている。もう忘れられたのではないかと疑っていた。
そんなことを考えながら、蔦葉荘の前まで帰ってきた。
「あ、芽生くんと、雛子ちゃん」
門の前に二人が立っているのが見える。二人はランドセルを背負った見慣れない男の子と話しているようだ。相手は芽生くんたちと同い年くらいの、マッシュヘアの男の子だ。彼が言った。
「おい雛子、知ってるか? 芽生、テストでゼロ点取ったんだ! バカだろ!」
一年生の芽生くんがテストでゼロ点だと聞けば、衝撃を受けるのはわかる。だが、私はその言い草にすぐ眉をひそめた。
「バカじゃないよ! 悠里くん、ひどいこと言わないで! 先生に言うから!」
雛子ちゃんは眼鏡がずれるくらいの勢いで言い返す。
「芽生くんは、今はまだちょっと、字が読めないだけだもん!」
芽生くんは俯いてしまっている。
「字が読めないとかバカじゃん!」
「バカじゃないの! そんなこと言う悠里くんがバカ!」
悠里くんと呼ばれた男の子は、雛子ちゃんの反撃に口を曲げた。しかし彼は止まらない。
「うるさい、メガネブス!」
雛子ちゃんの息がうっと一瞬止まり、見る間に彼女の目から涙があふれてくる。芽生くんはハッと顔を上げて、雛子ちゃんの前に立った。
「ひ、雛子ちゃんはブスじゃない!」
声が震えていたのによく言ったと、声援を送りたくなる。
芽生くんは目をぎゅっとつむって、たぷたぷの両腕をぐるぐる回して悠里くんに向かって突き進んでいく。
「悠里くんがブスだよー!」
怯んだ悠里くんに、芽生くんの腕が当たっては大変だ。私は彼らの間に体を滑り込ませた。
「芽生くん、そこまでにいたしましょう」
私の声に目を開けた芽生くんが止まる。芽生くんと雛子ちゃんに笑いかけてから、悠里くんの方を振り向いた。
「お話を聞いていましたが、酷い言い方だと思いました。親御さんにご報告させていただきます。お名前は?」
悠里くんはバツが悪そうに下を向いて、小さく「犬沢悠里」だと答えた。今日はよく聞く名字だと思って問いかける。
「もしかして、犬沢巌さんのお孫さんですか」
「じ、じいちゃんに言うなよ!」
悠里くんはマロンクリーム色のランドセルを揺らしながら、走っていってしまった。彼の背中を見送り、雛子ちゃんと芽生くんに向き直る。
眼鏡の奥の目でぼろぼろ泣く雛子ちゃんの隣で、芽生くんも目にいっぱい涙を溜めていた。二人がきゅっと手を握り合う姿は痛々しい。
「二人とも、よくがんばっていたと思います。帰りましょう」
二人を連れて蔦葉荘のアトリエに戻ったが、薫さんはまだ帰っていないようだ。
薫さんは基本的に芽生くんが帰るときに家にいる。だが、仕事が長引く日もあるので、芽生くんは家の鍵を持っているのだ。
しゅんとした二人をアトリエの胡桃のテーブルの周りに座らせた。
「お茶を、飲みましょうか」
私はキッチンへ向かった。先ほど、林さんが私のために自動販売機で温かい紅茶を買ってくれたように、私も彼らにあったかいものを振る舞いたい。
二人が落ち着くように、甘い紅茶をゆっくり淹れた。
芽生くんがまだ字を覚えられないことや、雛子ちゃんに眼鏡が必要なこと。どちらも繊細な事柄で、うまく慰められる言葉が見つからなかった。
けれど二人を放り出すわけにはいかないので、私はできることをするしかない。
子ども用のマグカップに紅茶を注ぎ、温かいミルクを混ぜ、最後に蜂蜜をとろんと垂らす。蜂蜜の香りがするホットハニーティーラテを二人の前に置くと、二人はふーふーと息を吹きかけながら一生懸命飲んだ。
「雛子ちゃん、おいしいね」
「うん、あまあまだね」
赤い目をした二人がふにゃりと笑い合うと、私の緊張が解けた。私は二人の気を紛らわせようと提案する。
「そうだ、私が描いたカマキリの紙芝居、まだ途中ですが見てくれませんか」
八割方完成したまま制作が止まっている紙芝居を持ってくる。
「え、見たい見たい!」
「雛子も!」
二人が私の誘いに軽快に乗ってくれる。お絵描きコーナーに敷かれたマットの上で、私は二人に向けて紙芝居を読んだ。
そういえば、初めてのアトリエデーの日、芽生くんは私が発表した小説を全く読もうとしなかった。きっと字がわからなくて読めなかったのだ。今さらだが、悪いことをしてしまったと思う。
「カマキリの逆襲」の紙芝居が終わると、二人が拍手してくれた。
「最後どうなるんだろう、楽しみだね、芽生くん」
「うん、カマキリかっこいい!」
芽生くんが小鼻を膨らませて、拳にぎゅっと力を込める。小説では芽生くんに見てもらえなかったが、紙芝居という形にすれば伝わった。
相手に伝わりやすいように、彼らが普段から使う語彙に近づけて、想像しやすいように形を整える。
伝えるとはそういうことだと、芽生くんの興奮が教えてくれた。
私は今日、犬沢さんに対してその努力を怠っていたと気づかされる。
二人の気持ちが持ち直したとき、アトリエに薫さんが帰ってきた。
「遅くなってごめんね。お客さんが途切れなくて」
薫さんの明るい声を聞いて、肩の荷が下りる。先ほどのことを報告する前に、薫さんが二人の異常に気づく。
「あれ? 二人とも泣いちゃったの? 目が赤いわ。何かあった?」
親の観察眼の鋭さに感服する。
芽生くんと雛子ちゃんはお互いに顔を見合わせて黙り込む。自分からは語りたくないのかもしれない。
「あの、薫さん実は」
二人に許可を得て、私が見たことを薫さんに報告した。
みんなと一緒にお絵描きコーナーに座り込んだ薫さんは、沈痛な面持ちで言葉を選ぶ。
我が子がバカだと罵られるのは、親も同じように辛いことだろう。
「芽生はアタシと皐月ちゃんの宝物よ。大丈夫、字はそのうち読めるようになるわ」
薫さんは右手に芽生くん、左手に雛子ちゃんの手を握って微笑んだ。
「それに、雛子ちゃんの眼鏡はとってもキュートよ」
雛子ちゃんは照れて微笑み、ずれかけた眼鏡を指先で元の位置に戻す。
「目が見えにくいことはね、昔はすごく困ったことだったの。でも眼鏡があれば、へっちゃらなの。眼鏡はすごい道具よね!」
薫さんの優しい声が、雛子ちゃんに眼鏡を劣等感ではなく、自分を助ける道具として身に着けてもらいたいと物語る。
「ぼく、雛子ちゃんの眼鏡すきだよ。とってもかわいい。にあってる」
芽生くんの純度の高い褒め言葉に、雛子ちゃんはへへっと笑う。
もし眼鏡がなかったら、視力が低いことは障害になる。
けれど今の世の中で、視力が低いこと自体は全く問題にならない。眼鏡が適切な道具として浸透しているからだ。
けれどAIは、人を脅かすことがない道具だと、人を助ける適切な道具であると、私は犬沢さんに堂々と言えるだろうか。ふと、考えてしまう。




