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アフタヌーンティーを終えて蔦葉荘の自室に帰った私は、報告書と、それを書くにあたって残した、膨大な日々の所感メモを全部ひっくり返して読み直す。
職場から借りたノートパソコンもあるが、まずは思いついたことを手で紙に書き出す。私の場合、その方がうまく物語の枠組みを作れることが多いのだ。
現場にいた時間の中で、私の目が捉えた現場の断片的な記憶を繋ぎ直して、全てを排泄予知のための「伏線」として捉え直す。
排泄予知を達成するという到達点を目指し、同時に介護士の負担を軽減する。
「欲しいのはそういう、『筋書き』です」
六畳の畳部屋に置いたローテーブルの上に資料と白い紙を並べて、紺色のボールペンで思い浮かぶ可能性を全て書き留める。
取り残さないように全ての要素を拾い集めて、まるで物語を紡ぐように、編み直すことに没頭した。
ふと、紙が散らばった部屋が視界に入り、顔を上げる。
ペンを動かし始めたときから、ごっそり抜け落ちたように時間が過ぎていた。窓の外、蔦の向こう側には、月が浮かんでいる。
「集中が途切れてしまいましたね」
しばらく寝転がったあと、伸びをして立ち上がる。
仕事がうまくいかないときは、手を動かすといいという薫さんのアドバイスを思い出した。私はアトリエの鍵を持って、部屋を出る。
外階段を下りると、アトリエの電気が点いているのが目に入った。アトリエの前で立ち止まる。
「いるのは千春さん、でしょうね」
真夜中のアトリエに、薫さんや芽生くんがいることはない。千春さんは休みの日にしかアトリエに来ないので、邪魔をしてはいけない気がする。
私が世話をかけているせいで余計に仕事は忙しくなっているはずだ。なので、プライベートでまで私の顔を見たくないだろう。
「……やっぱりやめましょう」
アトリエの前で踵を返す。
すると、背後でがらりと引き戸が開いた。つい立ち止まって振り向くと、オフホワイト色のゆったりパーカーを着た千春さんがだるそうに立っている。
スーツ姿ではない彼に会うのは久しぶりだ。
「入らないの?」
「お邪魔しては悪いかと思いまして」
「そういう気を回されると、めんどくさい」
千春さんは真顔で言い捨て、アトリエに戻っていく。気にしなくていい、という意味に取っていいのだろうか。
曖昧だったが、私も息抜きがしたかったので、アトリエに入った。
千春さんは電動ろくろが置いてある陶芸コーナーではなく、私がいつもいる胡桃のテーブルの半分を陣取っていた。
テーブルの上には新聞紙が敷いてあり、その上で千春さんはカフェモカ色の粘土で何か作っているようだ。気を遣われると面倒だと言われたので、もう遠慮はやめて問いかける。
「豆皿……醤油皿ですか?」
千春さんは手びねりで成形している粘土を見つめたまま頷く。
「そう、この前、割っちゃったからね」
この前とは、彼がゴキブリから逃げ惑った日のことだとわかり、つい笑みがこぼれる。千春さんが顔を上げ、眉根を寄せる。
「人の弱点を思い出して笑うなんて、彩葉は性格が悪いよ?」
「千春さんにはどう抗っても勝てませんよ?」
軽く言い合うと肩の力が抜けたので、彼の向かい側に座りやすい気持ちになった。
私はマクラメ紐を編み始める。偶然にも彼のパーカーとお揃いの色の紐だ。感触が優しくて、触るだけでなんだか楽しいのだ。彼の視線が手元に刺さる。
「何を作ってるの?」
彼は職場では無駄なことを言わないが、アトリエでは人が何を作っているのか気になる性質らしい。芽生くんが絵を描いていると必ず寄っていって、何を描いているのかと問いかけている。
人が何か作るのを見るのが好きなのだろう。
私も薫さんがマクラメ編みをしているのを見たので、その快感を知っている。
「マクラメ編みというやつで、最後にはコースターになる予定です」
「へぇ、紐がコースターか」
ここ最近聞いた彼の声の中で、最も素直な返答だ。真夜中のアトリエでは、彼も気が緩むのかもしれない。だが、理由はそれだけではなさそうだ。
千春さんが粘土を捻るそばに、爽やかなエメラルド色の缶ビールが置かれている。
「千春さん、お酒を飲んでいますね。お酒はいけませんよ」
顔を上げた彼が、珍しく角のない声で言う。
「大人がお酒を飲んで、何が悪いの?」
彼は背が高いので、それにともなって手も大きい。千春さんは長い指先で粘土を伸ばす。つい指先に目がいく。
「お酒を飲んでいたら、手元が狂いますよ」
「こういうのは、ほろ酔いで適当にふわふわやるものだよ」
バカだなあとでも言いたげに、千春さんは手を拭いてビール缶を手に取る。
彼は普段、AIを武器に効率を突き詰めて、正確無比なものづくりを仕事にしている。
けれど、アトリエで手に吸いつく土の感触で遊ぶ彼には、正しさより楽しさが大事なのか。
そういう線引きが、彼の中にはっきり見えた。
千春さんのゆるくほどける口元を見て、そういうのいいなと思いながら手元の紐に視線を戻す。
「千春さんが楽しそうで羨ましいので、私も今度お酒を飲みながらやってみます」
「勝手にすれば?」
短く答えた彼は、ややいびつなお皿を整えているようで、また乱している。私も紅茶を淹れ、飲みながら順調に紐を編む。
静かなアトリエの夜に、向かい合って互いに手を動かす。
考えに煮詰まっていた頭が、アトリエの空気のように静まっていくのが気持ちいい。私は手と一緒に口も動かしたくなって、千春さんに訊いた。
「前から疑問なのですが、千春さんはどうして、蔦葉荘に住んでいるのですか?」
「どういう意味?」
互いに手元だけを見て会話を交わす。
「短時間職員の私でも十分なお給料だと感じたので、千春さんならもっと家賃の高い、言わばグレードの高いおうちに住めるのではないかと思いまして」
「給料ランクと住居レベルのギャップがでかいって話ね」
先日、初めての給料をもらった。月の途中で入社したので満額ではないとの説明だったが、それでも渋沢さんがたくさんだ。
私よりよほど重要な仕事を担う千春さんが、私と同じ家賃の蔦葉アトリエ荘を選ぶ理由がどうも想像できない。
余計なお世話、という鋭い声が飛んでくるかと思ったが、ほろ酔いの彼の口は軽かった。
「介護にお金がかかるからだよ」
「介護、ですか」
陶芸用品や他の趣味に充分にお金をかけるために、安い住居を選んでいるのかと予想していたが、全く違った。
「僕は祖母に育てられたんだけど。祖母が認知症になって、今は施設に入ってる」
思わず顔を上げるが、彼は粘土を触る手を止めない。
「祖母と明確な意思疎通ができなくなって本当に困ったよ……わかると思うけど、僕は壊滅的に介護に向いてないから」
理論派の彼と、理屈の通らない認知症の症状。
相性が悪いのは明白だ。介護は誰にでもできるものではない。だから、介護士というスペシャリストがいるのだ。
やっと顔を上げた彼と目が合う。
「祖母の年金は微々たるもので。貯蓄は僕を育てるために全部使ったってわけ」
彼が祖母に深く感謝しているのが伝わってくる、やわらかい表情だ。
「祖母を質の良い施設に預ける。そのためのお金は全部僕が払う。だから僕はここに住んで、辻褄を合わせてる。納得いった?」
高級な施設を選ぶことで、直接介護をできない罪滅ぼしをしているかのような印象を受けた。彼は介護から手を引いた自分を、どこかで恥じているのかもしれない。
マクラメを編む私の手はいつの間にか止まっていて、千春さんがビールを飲んで上下する喉仏に目がいく。
「だから、おばあ様のために、介護AIをつくるお仕事をされているのですか?」
「現場の余裕が、利用者へのケアの質のアップに直結するからね」
彼はさも当然のようにそう言う。彼なりに自分にできる精一杯の介護を模索した結果なのだろう。
なんて遠いところから、祖母の幸せを願っているのだろうか。健気で切なくなる。千春さんはビール缶を両手のひらで覆う。
「僕はものを作る側ではあるけど、ただの理屈屋。どうしても、既存の考えを飛び越えられないんだ。だから、森のステラで、中世に人の想いと知恵だけで介護の困難を乗り越えていくシーンは沁みた」
彼はビール缶を眺めながらつらつら語る。
私が思うより彼は酔っているのかもしれない。森のステラを語ってくれることは、私へのファンレターみたいなものだ。
いつまでも聞いていたくて口を閉じる。彼は続ける。
「ステラがさ、排泄記録を細かく取っていくところ、いいよね。現実じゃ、なかなか根気よくできないけど。あれはすごく理にかなってる。介護に関わる全員で笑いながら進めていくのも夢があった。ああいうのが理想だよ」
土の匂いがするアトリエに溶けた千春さんの声は、夢を語る少年みたいだ。
「私の理想を詰め込みましたので、そう言っていただけると幸いです」
また粘土に触れ始めた彼とともに、私も指を動かし始める。
千春さんの思いを聞いて、森のステラのような理想が現実にあればと考える。
現場で拾い集めたものを、もう一度、頭の中で編み直していく。
森のステラ、排泄記録、記録を書くのを渋る介護士たち、記録を読む私。
私のメモに圧倒的に多く登場した単語が「記録」だ。おそらく、これが鍵だ。しかし、私が語りたい物語のピースがまだ足りない。何が足りないのだろうか。
「僕はそろそろ帰るよ」
手は紐を編んでいたが、頭は別のことでいっぱいだったので、反応が遅れる。顔を上げると千春さんはもう片づけが済んでいて、没頭していた私に声をかけてくれたようだ。
彼がお絵描きコーナーを眺めて言った。
「芽生は今月、何を描いてるか知ってる?」
「えっと、芽生くんは女性を描いているようですが……それより雛子ちゃんとAIでスパイごっことかをして」
お絵描きコーナーに目をやり、スパイごっこの様子を思い浮べる。すると、私の頭でばちんと情報が繋がった。私は千春さんを指さした。
「あ、そうですよ! 欲しかったのそれです、千春さん!」
急に大声を出した私に、彼は怪訝な顔をする。
「何、急に」
「トランシーバーです!」
「は?」
「私、書かないと!」
唐突に編み上がった「筋書き」が消えないうちに走って自室へ向かう。
片づけも戸締まりも全部放り出した私は、紙だらけの自室へ走り込んで、紺色のボールペンで紙に殴り書きを続ける。
日が昇っても、書きあがるまで止まれなかった。
アトリエに取り残された千春さんのことなんて、次の出勤日まで、全く思い出さなかった。




