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6.ジャオ・リン捜索隊③ 暗転

 マルティンは銃口を地面に向けたまま、下草をかき分けて進んでいった。

 

 万里奈は隣にいた人の体温が消えたことで急に肌寒さを覚え、薄い防水ジャケットを掻き寄せる。湿った布地に、細かく砕けたシダの葉がいくつも張り付いていた。

 

 遠くのマルティンはキャンピングカーから少し離れた場所で屈み込み、車体の下を覗き込んでいる。足跡や爪痕を探しているようだ。

 異常がないことを確かめると、ようやく車体の横へ回り込む。

 

 銃を片手に持ち替え、空いた手で車体を軽く叩く。

 コン。

 中身の詰まっていない軽い金属音が森に響く。

 コン、コン。

 反応はない。


 錆びた取っ手に手を掛け、振り向きざまにこちらを見ると、一度だけ静かに頷く。

 

 マルティンはゆっくりと扉を開けた。軋む音が鳴る。

 暗い空間がいざなうように口を開けた。ステップに足をかける前に銃を構え直し、そのまま暗闇に飲み込まれていった。

 

 キャンピングカーの中は、不気味なほど静まり返っている。

 

 マルティンはしばらくの間、出てこなかった。

 ジャオ・リンがいたのだろうか? それとも、獣に襲われた?

 急激に不安の種が芽吹き、居ても立ってもいられず一歩踏み出す。

 

 そのとき、入口からひょっこりとマルティンが顔を出した。

 安堵に肩をおろした瞬間、彼がこちらへ走ってくるので反射的に体が強張った。


「どうしたの?」

「まだ新しい獣の糞があった。急いでここから離れよう」


 その言葉にさっと血の気がひき、マルティンのあとを追う。

 背後のキャンピングカーが、途端に伏魔殿のような威圧感を放ち、背中を刺すような気配を感じた。ぞくぞくと粟立つ首筋にじっとりと汗が滲む。

 縋るようにマルティンを見ると、彼はけろりとしていた。その様子に万里奈は少しだけ胸をなでおろした。

 

 しばらくのあいだ無言で緩やかな斜面を進み、充分に距離をとったところでぴたりとマルティンが足を止めた。

 ぜいぜいと上がる息を抑えられず、膝に手をついて屈みこむ。  


「ねえ、ジャオ・リンは、いなかったんだよね?」

 

 マルティンはピンクのテープを木にくくりつけており、表情は見えない。


「さあ、たぶんね。なにしろ暗かったし、糞を見つけてすぐに引き返したから奥の方は確認できなかったな」


 その割には、ずいぶん時間がかかった気がする。

 顔を向けたマルティンは目を合わせずに言った。


「言っただろ? 獣の痕跡があればすぐ引き返すって。――まあ、人間の死体があったら匂いでわかっただろうさ」

「……そう、そうだよね」


 気まずい沈黙が落ちた。

 彼も目を背けているのは、満足に確認できずに引き上げたことへの負い目なのか。  

 そんな殊勝な男じゃないと思いつつ、今は善意で補うことにした。


「あの、マルティン。ごめんなさい、危険なことをさせちゃって」


 マルティンは片眉を上げた。


「獣の糞があるってあなたが走ってきた時、私、本当に怖かった。そんな危険なところに考えなしに行かせちゃったんだって、後悔した」


 その謝罪は欺瞞だった。危険な場所へ送り込んだことよりも、罪滅ぼしの代償行為だと見抜かれ、動揺して手が出たことの方が悔しかった。

 

 彼の左頬はうっすらと赤く色づいている。


「叩いちゃったことも……ごめんなさい」

「あれは、騒音苦情がくるレベルのビンタだったな」

 

 マルティンは喉を鳴らして笑った。

 そのジョークにほっと息をつき「森の中でよかったわ」と笑って返した。


***


「クマのお食事コースかな」

 

 尾根へ向かう途中、細い渓流が道を断ち切っていた。

 そこでマルティンが衝撃的な一言を放った。

 彼の視線を追うと、渓流沿いの泥に、水気を帯びたこぶし大の丸いくぼみを見つけた。

 万里奈はショルダーストラップに差した熊スプレーに無意識に手を添える。


「大きめの声でおしゃべりしながら進もう。大丈夫、人の気配があれば近寄らないよ」

「わ、わかった」


 渓流に沿って、流れの弱い渡れそうなところを探しながら、適当に話題を見繕った。


「ねえ、マルティンはなんで着いてきてくれたの?」

「言ったろ、無線で捜索隊の会話を拾ったからさ」

「そうじゃなくって、――あなたって、なんだか捜索に身が入ってないっていうか。どうでもよさそうに見えるんだけど」

 

 わざと声を大きく張っているせいで、意図せずぶっきらぼうな調子になってしまう。


「ずばり言うね」

 

 マルティンは苦笑する。


「……まあ、当たってるか。僕は、死体なんか見つからない方がいいって思ってるんだ」

「え?」

「また叩くなよ?」

 

 マルティンが冗談めかして頬を抑えるので「もう叩かない」と口を尖らす。


「失踪者の家族はさ、何が何でもみつけてやろうって思ってるのかも知れないけど、見つからない方がよっぽど幸せだよ」

「どうして、そう思うの?」

「どんな形であれ、森で見つかる死体なんてぜんぶ惨たらしいもんさ。滑落して手足がもげて顔も性別もわからないなんてざらだし、獣に食い荒らされてプラモデルのパーツみたいに散らばってることだってある」

「……それでも、見つからないまま家族が苦しむより、ずっといいんじゃない?」

「そうかな? 見つかれば、その苦しみって終わるの?」


 マルティンがひょい、と倒木に手をついて飛び越える。


「だってさ。ひどい状態の死体を見たら、想像しちゃうだろ。この子はいったいどんな苦しい死に方をしたんだろうって」


 振り返って、彼が手を差し出す。握った手は温かいのに、死体みたいに青白かった。


「きっと目に焼き付いて離れないよ。手塩にかけて育てた子供が、深く愛し合った恋人が、青春をわかちあった友人が、――頭陀袋みたいになって虫に這い回られている姿を見たらさ」

「そうかもしれないけど……きっと時間をかけて、癒えていくのよ」


「じゃあ殺されてたら?」


 ひゅっと息を吸い込む。


「誰が犯人かも分からない。死ぬ瞬間――いや、その前も。どんな恐怖を味わったのかって、考えちゃうよね。何があったのか、誰が殺したのか。一生そんなことを思いながら生きていくのって、生き地獄だろ」

 

 マルティンが渓流の中に平たく安定した岩を見つけ、そこに足をかけて対岸へ飛び移った。そしてまたこちらに手を差し伸べる。一瞬ためらい、彼の手を掴んだ。


「大丈夫? 手、氷みたいだ」


 その言葉を無視して、岩に片足をかける。

 さらさらと流れる水音がやけに耳に大きく響く。


「……水死体だったらどうだろう」


 びくりと岩にかけた膝がふるえる。


「水たまりに落ちてる湿布みたいに、ぶよぶよに膨らんだ体をみて、なんて思うかな? 沢蟹やザリガニに、柔らかい腹から食い破られて、フードコートにされていたら?」


 マルティンの顔が見れなかった。岩にかけた足が鉛のように重く沈み込む。


「水草や泥が巻き上がった水をがぶがぶ飲んで、息ができなくなって死に至るまで、その苦しみはどれくらい続くとおもう?」


 もうやめて。

 そう言おうとして、顔を上げた瞬間。

 

 《《小さな子供の泣き声》》が、森を揺らした。

 

 喉が引き攣り、膝から力が抜け崩れ落ちる。

 咄嗟にマルティンが支えるが、脛から下がぱしゃりと水に浸かる。冷たい川の水が靴の中にじわりと入り込んだ。


「大丈夫だよ。アライグマか、アカギツネの声だ」

 

 マルティンが顔を覗きこみ、すっと目を眇める。


「――いったい、なんの泣き声だと思ったのさ」 


 信じられない思いでマルティンを見つめた。この男にはすべて見透かされている。

 

 ぐっと腕を引かれ、半ば引きずられるように対岸へ渡される。


 「靴、水抜いとけよ」

 

 その言葉をどこか遠くに聞きながら、万里奈は罪の追及を受けている気分になっていた。彼の言葉は、刃先で皮膚をなぞるように、急所を探っている。

 靴の中で水に濡れたワセリンがぬるつき、その感触にぶるりと身を震わせた。


***


 斜面を登りきると、急に視界がひらけた。

 尾根の上は下草が少なく、乾いた枝が足の下でぱきりと割れる。

 

 結局、死体を見つけたがらない男が、なぜ捜索に参加したのか。その答えを聞くことはできなかった。それ以上に、胸の奥を覗き込まれることを恐れたのだ。

 

 マルティンは、こちらの胸中など知らぬ顔で、尾根から霧に霞む森を見下ろしている。

 その時。


 パララララララ――。


 トタンに雹が跳ねるような音が周囲に弾けた。


「――何」


 意図せず身構える。周りには山脈が連なり、音の出所がまるで分からない。


「小銃っぽいな」

「小銃? なんでそんなもの――」


 言いかけて、「威嚇射撃」という彼の言葉を思い出す。

 まさか、誰かが遭遇してしまったのだろうか。


「行こう。相手がよっぽどのイカレ野郎じゃなきゃ、追っ払われて終わりさ」


 しかし。

 パララッ、パララララ――。

 音は断続的に続く。誰かが交戦しているのか、追われているのか、判断できなかった。マルティンも足を止め、難しい顔で山脈を見下ろし黙り込んだ。


 彼の沈黙が、銃声よりも不気味だった。

 銃声はそれきり途絶え、森には静けさが戻った。

 万里奈はマルティンの顔色を伺った。得体の知れないところがあるにせよ、この場所では、彼の判断だけが唯一の拠り所だと感じていた。


「……大丈夫かな」

 

 何も言わないマルティンに焦れて、先に切り出した。


「何とも言えないな。刺激しなきゃ命までは盗らないだろうけど……」

 

 急に、ザザッとノイズが走った。

 ざらついた誰かの声が割り込む。

 

 万里奈は思わず肩を跳ねさせたが、彼は慣れた手つきで胸元の無線機の音量を絞った。


『……ちら、ハンク……れか、きこえるか』

「こちらマルティン。ハンク、聞こえてる。続けて」


 ノイズが一瞬だけ途切れ、低い声が続く。


『……銃撃を受けた。ジャオ・リン夫妻は安否不明。……くそっ、助けられなかった』


 万里奈は息を呑んだ。

 無線の声はまだ「くそ」と吐き捨てる声が続いている。

 マルティンはほんの一瞬だけ黙り、すぐに無線へ口を寄せる。


「ハンク、落ち着け。追跡はないのか」

『……距離はとった。威嚇のつもりが奥さんに当たって、連中も混乱してた。旦那がそれで食って掛かって、あいつらが……ちくしょう』

 

 ハンクが再び低く吐き捨てる。

 万里奈は口を手で覆った。そうでもしないと何かがこぼれ出しそうだった。


「とにかくすぐに撤退しろ。まちがっても助けに戻ろうとするな。こっちで郡保安官を要請する。場所は?」

『……ポイントCの北側だ。……撤退に入る』

「了解。こっちも引き返す。ハンク、気を付けて」


 最後にハンクが力なく返事をし、無線がザザッと途切れた。

 森に、また静けさが落ちた。

 

 なぜ。どうして。

 

 思考がまとまらず、頭の中では疑問符ばかりが空回りしていた。視界がぐらつく中で、ジャオ・リンの母親の涙や、「これで最後」と言った父親の声が、断片のように浮かんでは消えていった。

 

 マルティンは郡保安官に応援を要請し、そのまま別動隊へ撤退を伝えていた。あまりの速さに、言葉を挟む隙もなかった。もっとも、無力な自分が何を言ったところで状況は変わらない。

 

 マルティンは無線機を胸元に戻し、尾根の下を一瞥した。


「行くぞ。ここに長居するのは得策じゃない」


 その声音には、焦りも動揺もなかった。

 

 夫妻の運命は、どこでたがってしまったのだろうか。

 万里奈と、マルティン。

 二人の存在は、この捜索において大きな特異点に思えてならなかった。考えれば考えるほどに、因果の線が勝手に結びついていく。本当はそんなはずないと分かっているのに、頭のどこかが勝手に物語を作り始める。


 自分が来なければ。

 マルティンと組まなければ。

 

 そんな「もし」ばかりが、静かに胸の奥を締めつけていった。



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