5.ジャオ・リン捜索隊② マルティンという男は
森の中は、緑の迷宮だった。
見上げても樹冠の見えない巨木が無秩序に立ち並び、苔むした倒木や朽木が行く手を阻む。深いところでは腰の高さまである湿ったシダの葉が、ズボンをじっとりと濡らしていった。
万里奈は上がる息もそのままに、下草に隠れた大き目の石に体重をかけた。
その瞬間。ふわっと体が沈む。
「おっと」
脇の下に腕を滑り込ませ、マルティンが素早く体を支えてくれた。
「あ、ありがとう」
「浮石に気を付けて。ここで転ぶと骨より先に運が折れる」
そう言って、マルティンは足元の石を靴でぐらぐらと揺らして見せた。
「安定してそうにみえても、ここの土は霧で柔らかく崩れやすい。踏み抜いたら危険だ。一歩ずつ足場を確かめながら――そう、そんな感じ」
「整備された山道なら登ったことあるけど、ここじゃまるで役に立たないのね」
「なにごとも慣れさ」
気落ちした万里奈の肩を軽く叩いた。
それからは、先導するマルティンの足跡を辿るように森を進んでいった。時折振り返ってはこちらの足運びに気を配る彼の様子に、申し訳なさで胸がいっぱいになる。
森の中は驚くほど静かだった。吐息や足音が周囲にまとわりつくようにこもる。
マルティンのバックパックに揺れるクマ鈴だけが、高く清涼な音を立てて森に染みわたっていった。
ジャオ・リンも、ここを通っただろうか?
人が通った痕跡などまるで分からない。だから彼女の色を頼りに、木々の隙間へ視線を凝らしながら歩いた。赤いTシャツ。同系色のスマホストラップ。それ以外は森に溶けるような暗色ばかりだ。だが、いくら目を走らせても、眼前には濃い緑がどこまでも続くだけだった。
小一時間ほどたった頃だろうか。
見通しの悪い森の斜面に行きつくと、マルティンは腰のポーチから蛍光ピンクの細いテープを取り出し、近くの枝にひと結びした。
「ここで休憩だ。食料は持ってきてるね」
万里奈はほっと息を吐いて「勿論」と応える。正直なところ、慣れない山歩きで疲労はすでにピークに達していたので、その言葉は渡りに船であった。
マルティンは倒木を何度か蹴り、屈みこんで裏側に何か潜んでいないか確認する。問題がないと判断したのか、静かにそこへ腰をおろした。
万里奈も彼の隣に座った。足に鈍い痛みが広がり、顔をしかめる。
「靴紐、解いておいたほうがいい。えっと……マリー、ナ?」
マルティンが不安そうに名前を発音する。
「うん、合ってる。こっちではみんな『リ』にアクセントを乗せるから」
「こっちではってことは――日本語の発音とは違うんだね。聞かせてよ」
「別にいいけど……発音しにくいよ」
戸惑いながら、日本の発音で自分の名前を口にする。どこにもアクセントを乗せない、山のない三拍。こちらでは誰も呼ばない響きだった。
彼は俯き、口の中で何度もその音を転がす。
「難しいでしょ? もういいって」
自分の名を繰り返されるむず痒さに耐えきれず止めようとすると、彼は掌を向けて制した。つぶやく声がしばらく続き、やがて、顔を上げる。
「万里奈」
倒木から彼のバックパックがずり落ち、一度だけクマ鈴が鳴く。尾を引くような細い金属音が、耳の奥に沈んでいった。
「万里奈? 変かな」
相変わらずマルティンの瞳はレンズのように無機質で、けれどその奥で引き絞られた焦点が、今ははっきりと万里奈だけを映していた。
「……ううん、綺麗な発音」
「よかった」
ほっとしたように彼が笑う。
その表情は暗い森を照らすように晴れやかなのに、万里奈は胸の奥が騒めくのを感じていた。
三十分ほど休憩すると、捜索を再開した。
寮で握ってきたおにぎりを一つ食べ、水分補給もしたことでわずかに活力が戻ってきていた。足の鈍痛は続いていたが、ワセリンのおかげか靴ずれは無い。
「この斜面は見通しが悪いから尾根に上がろう。上に出れば地形が読めるし、痕跡も見つけやすい」
マルティンはそう言うと、万里奈でも登れるくらいのなだらかな斜面を見つけだした。木の根や低木を掴み、途中で何度かマルティンに腕を引き上げてもらいながら、なんとか少し開けた平地にたどりつく。
「ここが尾根?」
「いや、まだだけど――」
マルティンがふいに言葉を飲み込んだ。
その視線の先を追って、息を止める。
森の中にぽっかりと穴があいたような空間に、打ち捨てられたキャンピングカーがひっそりと佇んでいた。
車体にはツタが絡みつき、窓枠から内部に侵入している。白い塗装は苔に覆われ、森に呑まれかけていた。
その手前には、枡状に組まれたプランターがいくつも並び、ビニールハウスの骨組みだった鉄棒が、折れた肋骨のように倒れていた。風化しかけたビニールの切れ端が、枝にひらひらと揺れている。
「これって……」
「違法大麻農園だね。かなり小規模の」
マルティンがさして興味もなさそうに言うので、思わず目をまくる。
「めずらしくもないよ。この森にはちらほらある。これはだいぶ古い……六〇年代の終わりから七〇年代にかけて、ヒッピーが山に入り込んでた頃の名残だと思う」
「こんな山奥にまで? 一体どうやって車を乗り入れたのかしら」
「廃道とか作業道とか、半分死んだ道がいくつもあるんだ。全く無理ってわけじゃない。……使われてない農園でよかった。現役だったら、威嚇射撃くらいはされてたかも」
その言葉に衝撃を受ける。その様子をみたマルティンが、なにがおかしいのか愉快そうに目を細めた。
「野生の獣とは真逆だ。でかい熊だって人間の気配を感じたら逃げるけど、あいつらは逆に寄ってくる。見つかったら、面倒なことになってた」
「ここは自然も厳しいけど、人間も怖いのね」
目の前の光景から、目が離れなかった。
「行こう、尾根はまだ先だ」
歩き出すマルティンに続こうとして、ふいに足が止まる。
もしかしたら――。ある考えが頭をよぎった。
「ねえ、待って、マルティン」
振り返る彼にキャンピングカーを指す。
「あそこに、ジャオ・リンがいるんじゃないかな。遭難して……雨露をしのぐために入ってたとしたら?」
マルティンはキャンピングカーを一瞥してかぶりを振る。
「気乗りしないな。獣がねぐらにしている可能性がある」
その言い方は淡々としていたが、どこか確信めいていた。
この森では、空き車両や廃小屋が、しばしばクーガーやコヨーテといった野生の獣の寝床になっている。そんな現実を、彼は何度も見てきたのだろう。
「でも私たちジャオ・リンを探しに来たのよ? 少しくらい中をのぞいたって――」
「例えいたとしても、それは骨と皮になったミイラか、滅茶苦茶に食い荒らされた残骸だろうね」
そっけない言葉に、かっと熱くなる。
「あなた、一体なにしに来たの? 着いてきてくれたことには感謝してるけど、私は山登りをしにきたわけじゃない!」
鋭い声が、森の空気を震わせた。
言い終えた瞬間、胸の奥がひやりと冷える。
語気が強すぎた――そう思ったが、マルティンは、まるで風に当たっただけのような顔で受け流していた。
無関心な態度に、胸の内がくすぶる。
「とにかく、私、見てくるから」
返事を待たずに足を踏み出す。下草を押し分け、キャンピングカーの方へ歩き出した。
背後で、マルティンが追ってくる気配がした。
「……万里奈。万里奈、待つんだ」
マルティンに肩を強くつかまれ引き寄せられる。
きっと怒っている、そう思った。
だが彼の顔には怒りの色はなく、ただ興味深そうに目を光らせてこちらを見ていた。
それが癪に障った。
「なによ」
色を映さない彼の瞳が、今は爛々と輝いている。まるで飼っている昆虫が、予想もしない習性を見せたときのように、探究心を刺激されている目だった。
「不思議だね。なにが君をそこまで駆りたてるのかな」
ぴくりと肩が跳ねる。探るような目から逃げるように顔を背ける。
「最初から気になってた。縁もゆかりもない死体探しに、こんな危険な山奥で知らない男と二人きりだ。普通の女の子なら、とっくに怖気づいて逃げ出してる」
マルティンは淡々と続ける。
「慈善家を気取って森に入る、恐れ知らずの馬鹿はどこにでもいる。でも君は、そうじゃないだろ」
「じゃあ、なんだって言うのよ」
「そうだな、まるで――赦しを乞うているみたいだ」
万里奈は目を見開いた。
「もしかして、君が、ジャオ・リンを殺した?」
にい、と横に引かれた口が目に飛び込んだ瞬間――
乾いた音が、森を裂いた。
掌から指先にかけて、ぴりぴりと痺れが走った。
目の前で、頬を押さえたマルティンが喉を鳴らして笑っていた。
「冗談だろ。まじになるなよ」
「言っていいことと、悪いことの区別もつかないの」
「わかった、降参だ。……悪かったよ」
マルティンは、ぱっと両手を上げた。
「僕がキャンピングカーを見てくる。君はここで待ってて。それで手打ちにしよう」
肩のスリングからライフルを外す。カチャリ、と金属音が鳴った。
「ただし獣の痕跡があるようなら、中は見ずにすぐに引き返してくる。それでいいね?」




