4.ジャオ・リン捜索隊① 出会い
299号線は、山肌に貼りつくように蛇行しながら、じわじわと標高を上げていった。
レッドウッドの巨木が壁のように迫り、腐葉土の甘い発酵臭が車内にまで入り込む。ふいに木々が途切れた瞬間だけ、霧が雲海となって森を沈める光景がぱっと開けた。ガードレールの向こうは深い谷で、底はまったく見えない。
随分と遠くまで来てしまった。
車窓に広がる白い海を見ながら、胸の奥がざわめくのを抑えられなかった。
車内には沈黙が落ちている。
中国籍の夫婦はほとんど口を開かなかった。英語が得意ではないようだ。それ以上に、遠景のどこかに娘の影を探しているのか、ずっと網の目のように視線を巡らせていた。
ジャオ・リンの両親は、万里奈を歓待してくれた。
性別も年齢も、人種すら娘と同じ万里奈をみた瞬間、母親はせつなげに涙をにじませ、震える手で抱きしめてくれた。
目の下は落ちくぼみ、白髪交じりの三つ編みは所々にほつれており、その憔悴ぶりは言葉よりも先に胸に迫った。
父親は綺麗に禿げ上がった頭を撫で、片言の英語で感謝を口にする。本国での生活もあるためこれ以上の滞在は難しく、これが最後の捜索になる――と静かに告げられた言葉に、圧迫感が募った。
山間の町、ウィロー・クリ―クに着くと、集合場所であるビッグフット博物館に車を止めた。町全体が霧に沈み、木造の店々はどこか古い映画のセットのように見えた。博物館の正面にはビッグフットの巨大な木造のモニュメントがのっそりと佇み、いまにも動き出しそうな不気味な気配を放っていた。
かつては森に潜むUMAに恐れ、今はシリアルキラーの影に怯えるのか。
結局、人はいつの時代も、深い森を見ると理由もなく何かを想像して噂する。そう思うと不思議と、森への恐怖心が少し和らいだ気がした。
「全員、揃ったな」
提供された博物館内の一室に、低く掠れた声が響く。
捜索救助チームのリーダー、ハンク・ローウェルが前に立った。灰色の髭に覆われた顎、深く刻まれた眉間の皺。万里奈の父から柔和さをこそぎ落とし、代わりに荒野の匂いを足したら、この男のようになるかも知れない。
長机に広げられた地図には、赤い円が二つ重なっている。
「まず、ジャオ・リンが最後に確認された場所だ」
ハンクは地図の一点を節くれだった指で叩いた。
「監視カメラが彼女を捉えたのが午後三時十二分。これがその時の姿だ」
映像を切り取った写真だった。
何度も見た赤いTシャツ。同系色のスマホストラップを肩にかけ、背中には大きなバックパックを背負ってる。ちょうどこの博物館を出るところらしい。
「今日探すのは、この北側の尾根だ」
ハンクは赤い円の外側をなぞる。
「谷側は行かない。ここで迷ったら、夜までに戻れないからな」
その言い方は淡々としているのに、妙に重かった。地元の男が「行くな」と言う場所は、本当に危険なのだと分かる。
「二、三人のチームに分かれる。旗テープでマーキングしながら進め。GPSは信用しすぎるな。森の中じゃ狂うことがあるからな」
後方で、古い迷彩服の男が鼻で笑った。
「昨日も五十メートルずれてたぜ。あんなもん当てにならん」
「だから言ってるだろう、耳と足で覚えろって」
別の男が応じ、部屋に乾いた笑いが広がる。
万里奈は捜索隊に集った面々を見渡した。
部屋にいるのは十数人ほど。ほとんどが男だった。迷彩服のハンター、森のガイド、釣り人――この森に慣れた顔ばかりだ。
いたたまれなくなって視線を落とした。今日のために買ったトレッキングシューズは真新しく艶めき、支給されたオレンジベストは明らかにサイズが合わず、細い肩からだらりと垂れていた。
万里奈はこの場から浮いていた。
顔合わせをしたときには、ジャオ・リンの親族と間違えられたほどだ。
足手まといになりそうな予感がひしひしと胸に広がり、早くも捜索に加わったことを後悔し始めていた。
「それで、チーム分けなんだが――」
ハンクがこちらに視線を向けた瞬間、思わず身をすくめる。
「お嬢ちゃんはどうするかな、見たとこ、山歩きには慣れてなさそうだ」
「ハンクハンク、彼女は俺と組ませてよ」
細身の男が軽い調子で言うと、ハンクは露骨に顔をしかめた。
「お前は駄目だ。年中盛ってる犬みたいなやつに若い女を任せられるか」
男たちはどっと笑ったが、軽薄な男に、同級生の顔が重なり、心の中で苦虫を噛み潰した。
「しょうがない――お嬢ちゃんはジャオさん夫妻と一緒に俺と組む」
ハンクのその言葉に、細身の男が「ちぇっ」と舌打ちをし、周囲がまたくすくすと笑う。だがハンクの目だけは笑っていなかった。その鋭さに思わず背筋を正す。
「森はな、慣れてるやつほど足を取られる。初めての人間は、むしろ慎重でいい」
ハンクは表情を和らげると、「車の運転と一緒だよ」と、茉莉奈の肩に軽く手を置いた。
その顔にどこか父の面影を感じ、少しだけ体の強張りが解けた。
***
外に出ると、霧がさらに濃くなっていた。
一同はそれぞれ車に乗り込むと、林道が続く限り車を走らせた。一台がぎりぎり通れる幅の砂利道を、体を揺すられながら進む。
やがて視界が急に木々に阻まれ、道が閉ざされた。
林道の終点だ。
男たちはそれぞれの装備を肩に掛け、無線のスイッチを入れ、犬を連れた者はリードを短く握り直す。その動作ひとつひとつがどこか儀式めいていた。
閉じた道の一番奥に、森と同化するように一台の白いピックアップトラックがひっそりと停まっていた。捜索隊のものではない。
――地元のハンターだろうか?
「あいつ来てたのか」と、ハンクが呟く声が妙に耳に残った。
捜索隊はそれぞれのグループに分かれ、続々と森へ分け入っていく。それを固唾をのんで見守っていると、鋭い声が耳に飛び込む。
少し離れたところでジャオ・リン夫妻が中国語でなにか言い合っている。
「どうしたんですか?」
あわてて駆け寄り父親に声をかけると、彼は困ったように眉を下げる。
「いえ、妻が――谷側に行きたいと聞かなくて」
聞けばジャオ・リンは川遊びや渓流の景色が好きだったそうで、そこにいると違いないと母親が訴えているらしい。
ハンクは眉間に深い皺を刻み、地図を広げた。
「谷の底はいかない。危険すぎる。だが……谷を見下ろせる縁なら歩ける。そこなら足場もあるし、見落としも少ない」
母親は涙を浮かべながら何度も頷いた。しかしハンクは、ちらりとこちらに視線を向ける。
「……だがな、このルートは足場が悪い。お嬢ちゃんを連れて行くのは危ない」
ここに残ると言うべきだろうか。そもそもが不純な動機だ。迷惑はかけられない。
迷いながらも口を開いた、その時だった。
「ハンク、何かあったのか?」
霧の向こうから、低く染み入るような声が響いた。
後ろをみると、先ほど見えたピックアップトラックの主らしき長身の男が歩いてくる。
カーキのジャケット、泥に濡れる使い込まれたブーツ、肩に猟銃を背負って砂利道を歩くその足は、不思議なほど足音が静かだった。
ハンクがわずかに表情を緩めた。
「マルティン……来てくれたのか」
「無線で声を拾ったからね。手が足りてないのか?」
マルティンという男は、短く顎を引き、状況を一瞥した。
ジャオ・リンの母親の涙、父親の困惑、そして最後に万里奈に視線を移す。
その涼しげな目元が、すっと糸を引くように細められた。
色素の薄い琥珀色の瞳には感情の色がない。しかし口元はうっすらと笑みをたたえていた。
——霧のような男だ。
思わず息を飲み込むと、マルティンはぱっと顔を転じ、ボンネットの上に広げた地図に視線を落とした。
「谷縁を行くつもりか?」
「ああ。だが……」
ハンクがこちらを見た。
「この子を連れて行くのは危険すぎてな」
マルティンはもう一度こちらを見る。その視線はどこか焦点の合わないレンズのようにぼんやりとしている。
すると視線が万里奈の靴に落ち、くつりと喉を鳴らした。
「どうやらそのようだね」
かっと顔に熱が集まるのを感じ、奥歯を噛みしめてうつむく。ここに来てから、不甲斐ない思いばかりだ。
「いいよ、彼女は僕が連れてこう。安全なルートを選ぶよ」
「助かる。谷縁は俺たちで行く」
ハンクはそう言うと、ジャオ・リン夫妻と短く頷きあった。
「嬢ちゃん、安心しろ。こいつはこの森を棲み処にしているビッグフットみたいなやつだから、何の問題もない」
「人をホームレスみたいに言うなよ、ちゃんと毎日家に帰ってる」
軽口を言い合って笑う二人の姿に、マルティンにまとわりついていた霧のような気配がふっと薄れ、万里奈は少しだけ安堵した。
森に入っていくハンクと夫妻を見送ると、マルティンが話しかけてきた。
「新品だろ、それ。靴擦れするよ」
「あ……うんそうなの。ごめんなさい、私、森を甘く見てたみたい」
肩落として縮こまる。決して楽観視していたわけではなかったが、どこかで経験者に頼ればいいと甘えがあったことは確かだ。
マルティンは少し考えこみ「ついておいで」と彼のピックアップトラックに誘った。
助手席のドアを開け放ち、万里奈を座らせる。靴下まで脱ぐように促すと、グローブボックスから小さなワセリンの缶を取り出した。
これから何をされるかよりも、グローブボックスの中身に気を取られる。
そこには車検証などの書類の他に、車のマニュアルとは明らかに違う、分厚い本が入っていた。装丁は奥を向いていて見えないが、その厚みと大きさにどこか見覚えがあるような気がした。
その時、足にひやりと冷たい感触が触れる。
「気休めだけど、ないよりマシだ」
車外に投げ出された万里奈の足に、片膝をついたマルティンがワセリンを丁寧に塗り込んでいた。
「あの、自分でできる」
「そう。じゃあ片方は自分でやって。塗るポイント教えるから」
マルティンは手を止めず、淡々と指を滑らせる。
「まずは指先。親指の側面と小指は重点的に塗った方がいい。かかとは……言わなくても分かるね」
ぬめる指が万里奈の足先をすべり、ぴくりと跳ねる。
「あとは足の甲。――へぇ、日本人は随分と甲が低いね。でも意外とここも擦れやすい」
つい、と節くれだった指が甲をかすめ、むずがゆさに思わず身をよじった。
「はい終わり。後は自分でやって」
そう言って万里奈手に缶を落とすと、マルティンは物であふれた後部座席のドアを開け、無造作に装備を整え始めた。
教わった通りにもう片方の足へワセリンを塗り込みながら、ふと頭のどこかで考える。
――わたし、日本人だと名乗ったかな?
その疑問が、霧のように胸の奥に薄く漂った。




