14.万里奈の選択、マルティンの決断④ 好きなの?
「——僕は、シリアルキラーだ」
雨音が一瞬だけ遠のいたように感じた。
万里奈は沈黙したまま、濡れた睫毛に溜まった雫を瞬きで落とす。
その表情には恐怖も拒絶もなく、ただ状況を測る者の静かな困惑だけがあった。
そして、かすれるほど小さな声で言う。
「見返りは……?」
その一言に、マルティンの腕が反射的に万里奈を放した。
苛立ちを隠そうともせず、濡れた髪を乱暴にかき上げる。
——そこまで卑怯者に見えるのか。
だが、すぐにコーヒーショップでの一幕が脳裏をよぎり、身から出た錆だと自分を嘲笑う。
この先どれほど彼女の秘密を守り、どれほど身を削っても、〝シリアルキラー〟という役を演じ続ける限り、万里奈が心を明け渡す日は来ない。
それでも構わない、とマルティンは思った。
嫌というほどに。
彼女が自分の手を取らずにはいられなくなるほどに。
献身を、捧げよう。
「見返りなんて、求めないさ」
その言葉に、万里奈の胸がわずかに上下した。
雨に濡れたシャツが肌に貼りつき、呼吸の浅さまで露わにする。
だがその視線は、怯えではなく挑むような強さを帯びていた。
「そんなわけにいかない。あなたに借りなんて作りたくないもの」
律儀なのか、疑り深いのか。
短い付き合いでも、万里奈が相当に意固地な気質だと分かってきた。
代価があった方が彼女は安心する——ならば、従うまでだ。
「じゃあ、キス1回。それで手を打とう」
献身を誓った直後の台詞とは思えず、マルティンは自分で言いながら可笑しくなる。
万里奈は眉をさらに寄せた。
「——それだけ?」
「もっと要求していいのか?」
万里奈はひるんだように半歩退く。
細い喉がこくり、と一度だけ鳴った。
「じゃあ……、はい」
そう言うと、彼女は目を閉じ、ためらいもなく顔を上げた。
差し出されたのは、拒絶も恐れもない、ただ代価としての接触。
警戒心の強い万里奈が、こんなにも無防備な姿を見せる——
その事実が、マルティンの視界を一瞬ぐらつかせた。
思わず瞼を閉じ、眉間を指で押さえる。
その手の影からふいに、万里奈がぶるりと身を震わせた。
雨に体温を奪われ、唇からも血の気が引いている。
マルティンは考えるより先に、彼女の身体を掬い上げていた。
ぬかるんだ泥が跳ね、冷たい水が足元で弾ける。
「なに、っするのよ」
突然の横抱きに、万里奈は腕の中で暴れた。
だがその抵抗は、罠にかかった獲物よりもずっと弱々しい。
「雨の中で……ってのもロマンチックでいいけど、いったん中に入ろう。風邪ひく」
「一人で歩けるわ!」
きっ、と顔を上げた万里奈の頬に、わずかな赤みが差す。
その色を見て、マルティンは胸の奥でほっと息を吐いた。
「じゃあこれも見返りってことで。いいから、運ばせてくれよ」
「……なんでもありじゃない」
そう言いながら、ようやく力を抜いた身体を抱え直す。
マルティンは彼女をしっかりと支え、自宅へ続く小径を踏みしめた。
雨音だけが、二人の間の沈黙を埋めていた。
万里奈をリビングのソファに降ろすと、バスルームへ向かった。
タオルの上に、Tシャツとスエットパンツを重ね、再びリビングに戻る。
万里奈はソファの隅に小さく収まり、自分の身体を抱きしめている。
マルティンは万里奈の横に向かい合って腰を降ろし、大判のタオルで頭から包み込む。
タオルを押し当てて水気を吸わせ、濡れた髪を手に取って叩くように挟んだ。
大人しくされるがままの万里奈が、ほつれた髪の隙間からじっとこちらを見る。
目が合うと、すぐに視線をそらされた。
「ねえ、まさかとは思うけど……マルティン、あなた」
ぽんぽん、とタオルに挟まれた毛先が跳ね、水滴が飛ぶ。
「なに?」
毛先までタオルを滑らせ、手櫛で整える。
「わたしの事が、好きなの?」
「はあ?」
無遠慮な言葉に、思わず彼女の髪を強く握ってしまう。
痛い、と抗議する万里奈に小さく謝り、誤魔化すように彼女の顔にタオルをかけて視界を塞ぐ。
「だって、キス1回で殺人を犯す人なんて、どこにもいない」
ごもっとも。
だが、この感情にまだ名前をつけられない以上、説明のしようもない。
「それとも……ただ、人を殺したいだけ?」
「なんだって?」
タオルの隙間から顔を出した万里奈が、咎めるような目で見上げる。
「だって、……殺人鬼じゃない」
——殺人鬼は、君だろ。
「もう、五月蠅いから、とっととしてもらおうかな」
マルティンは溜息とともにタオルを細い肩にかけ、そのまま手を滑らせ両手を握った。
「ほら」
顎で促す。
万里奈は不満そうに目を細める。
「わたしからするの?」
マルティンは何も言わず、ゆっくりと瞼を閉じた。
視界が閉ざされる寸前、万里奈が小さく息を呑むのが見えた。
壁一枚隔てた雨音が、部屋に静かに溶け込む。
少し間を置いて、ソファがきし、と沈む。
口元にわずかに感じる息づかい。
湿った匂いに混じる、万里奈の淡い香り。
気づかぬうちに、マルティンは息を止めていた。
ひやりとした柔らかい感触が触れ、すぐに離れる。
その冷たさを追うように、身体が勝手に動いた。
目を開ける。
いつも吊り上がっていた万里奈の目元が、ふっと緩んでいた。
「マルティン……ありがとう」
握っていた手を、ぎこちなく、しかし確かに握り返される。
その仕草が、言葉以上に温かかった。
胎の底が熱く震えた。
秘密を知った時の衝動とは比べものにならない、焦げつくような熱。
マルティンはたまらず、万里奈の肩を掴んで引き寄せた。
そのまま、深く抱きしめるように唇を重ねる。
驚いて身を捩る万里奈が、重ねたままの口で抗議する。
「っちょ、——1回だけって……!」
「うん、やっぱり取り消し。……もっと、したい」
自分でも呆れるほどの正直さに笑いつつ、尚も言い募る万里奈の口を、何度もキスを落として黙らせた。
私欲にまみれた自分には、
そもそも〝献身〟などもっとも程遠いものなのかもしれない。
柔らかい感触に酔いながら、マルティンは頭のどこかでそう思った。




