表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
彼女が吐く息すべて、彼が見つめるものすべて  作者: ひめじろ
第二章 「マルティン」
32/32

15.万里奈の選択、マルティンの決断④ 死に至る言葉

 滑らかな歯列を割り、逃げる舌を追いかける。

 溢れ出る甘い唾液を、彼女の切ない吐息ごと深く飲み込んだ。

 

 抵抗らしい抵抗のないことに気を良くしたマルティンは、そのまま万里奈の首筋へと顔を沈める。折れそうなほどに細い鎖骨へと舌を這わせ、いたずらに小さく歯を立てた。


 その隙に、手は無意識のうちにシャツの裾から忍び込む。

 しっとりと吸い付くような冷たい肌を堪能しながら、ゆっくりと上へ、上へと辿っていく。


 やがて、形の良い柔らかな膨らみに指が沈み込んだ瞬間、彼女の喉から、わずかに上擦った吐息が漏れた。


「……ッ、話が、違う」


 下着の縁にかけた指が、ぴたりと止まる。


「……駄目?」


 顔を上げ、鼻先が触れそうな距離で万里奈を見つめる。

 その目の熱に、万里奈の頬が一気に赤く染まった。


 ゆるゆると、下着の縁を弄ぶ指先が布をかすかに揺らすたび、万里奈の肩が小さく震える。

 その反応が、マルティンに抗いがたい昂ぶりを呼び起こす。


 万里奈が濡れた唇を引き攣らせ、


「これが、見返り?……なら断れないじゃない」

 

 と、吐き捨てるように笑った。

 

 その笑顔に、マルティンの胸の奥が急速に冷えていく。

 長い息を吐き、シャツの中から手をゆっくりと引き抜いた。

 

「やめた」


 万里奈が虚をつかれ目をしばたたかせる。


「キス一回の約束だったしな。これ以上貰ったら、お釣りがでる」


 降参するように両手をひらひらと振る。

 万里奈は何か言いかけて、眉間にしわを作る。

 

「安心しろよ。——チェイスは僕が殺す」

 

 そう言ってやると、万里奈の強張りが解け、ほっと肩を落とした。

 

 その時だった。


 


 床下から微細な振動が伝わり、二人の身体をかすかに揺らした。


 マルティンは反射的に視線を床へ落とす。

 万里奈も同じ動きをし、顔を固くする。


 ぶ厚いコンクリートのシェルターは、音も声も通さずに内に籠る。

 しかし、今のは——


「……見てくる」


 マルティンは、ずり落ちていたタオルを万里奈の肩に巻き直し、ソファから立ち上がる。

 コーヒーテーブルに置きっぱなしの着替えへ視線を流し、「着替えとけよ」とだけ言い残してリビングを出た。


 

 廊下を進み、地下室へ続くドアノブに手をかけたところで、動きが止まった。

 彷徨う視線が、玄関ホールの片隅にあるガンラックでぴたりと留まる。


 心臓がひとつ、嫌な音を立てた。


 ——これから、やるのか。


 急に、現実が押し寄せてきた。


 鈍い足取りでガンラックへ向かうと、メタルパンチングの細かな穴越しに、レミントンM700の影が浮かび上がった。


 見慣れたそれは、猟銃として見れば美しいとさえ思える一挺だった。

 だがこれから向ける相手は鹿でも熊でもない。


 人間だ。

 

 油をさしていない機械のようにぎこちなく動く腕が、ラックのレバーを掴んだ。


「……もう、やるの?」


 追って来た万里奈の声に、止まっていた呼吸がようやく戻る。


 マルティンは振り向かずに黙って扉を開けた。

 

 銃を取り出し、スリングを肩に通すと、封の切られた紙箱から七・六二ミリ弾を一発だけ摘み上げる。


 掌で転がる真鍮色の冷たさをしばらく見つめ、強く握りしめた。


「きみは来るな。見張ってなくても、ちゃんとやってやるさ」


 振り返ると、万里奈は青ざめた顔ですがるように壁に手をつく。

 自分も同じ顔色をしていないことを、マルティンは無意識に祈った。


「リビングに戻って、大人しく待ってな」

「でも、」


「信じて」


 万里奈の肩を押し、耳元で短く囁く。

 体温を確かめるように、もう一度だけ唇に触れた。


 万里奈が短く息を呑む。


 絡んだ視線を振り切り、マルティンは地下室への階段を駆け下りた。


 唇のぬくもりが消えないうちに、終えてしまいたかった。

 


 重苦しい存在感を放つ鉄扉を睨みつけ、肩に担いでいたライフルをゆっくりと下ろす。

 ボルトを引き上げ、薬室に一発の銃弾を送り込む。

 真鍮の薬莢が鋼に触れてかすかに鳴った瞬間、脳の裏側に冷気が走った。



 閂を引き、冷たい鉄の塊に手をあてて一気に押し開いた。


 ごう、と鈍い音を立て、扉が動く。


 だが途中で、何かに噛み合ったように動きが止まった。

 

「おい、チェイス。何、したんだッ、どかせっ」

 

 体当たりを数度。

 ガツ、ガツ、と扉の向こう側で固い物を叩く音が響き、それ以上は開かない。


 舌打ちし、ライフルを片手に持ち替える。

 わずかに開いた隙間へ、身をねじ込むようにしてくぐり抜けた。

 

 シェルター内に踏み込んだ足先が、何か硬いものを蹴った。

 乾いた音を立てて転がったのは、非常食の缶だ。

 その先にも、同じ缶がいくつも散乱している。


 メタルラックが横倒しになり、狭い部屋を塞ぐように斜めに扉へ凭れかかっていた。

 棚板が歪み、ストックされていた水やパック食が床一面に散らばっている。


「おい、なに散らかして——」


 視界を遮るラックの奥。

 天井の配管から、なにか垂れるものがあった。

 

 チェイスを拘束した、ワイヤーロープだ。

 

 きい、きい、と擦れるような音を残しながら、わずかに揺れている。

 その先端には、奇妙な角度で吊られたものがぶら下がっていた。

 

 「チェイ、ス」


 返事はない。あるはずがなかった。

 

 血の巡りが失せた青。

 うっすらと唇に滲む紫。

 だらりと垂れる舌は、まだ湿り気を残した生々しい赤。


 それはもう、生者の色では無かった。


 ワイヤーは首を締め上げたまま、さらに縛られた片足へと続いていた。

 その足は、無理やり引き上げられて天井へ向かって伸びている。

 

 ライフルが手の中を滑り落ち、ごとりと床を打った。



 彼女がまた、罪をひとつ積み上げた。


 チェイス。


 こいつを死に至らしめたのは——


 

 ——あの時リック、最後になにか言ってたの。

 ——()()()()。あなたの名前だった。


 

 万里奈。君の言葉だ。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ