13.万里奈の選択、マルティンの決断③ 与えられた役目
チェイスが鼻をすすり、嗚咽を漏らす度、腕の中の万里奈が小さく震える。
彼女に余計な罪悪感を背負わせるその泣き声が、マルティンには癇に障った。
腕の中の身体を抱え直すと、舌打ちとともに言葉が飛び出す。
「被害者ぶるなよ」
地を這うような声に、チェイスは息を呑み、ぎこちない動きで顔を上げる。
「言っとくが、彼女のやったことは正当防衛だ。車に押し込まれて、命の危険を感じない方がどうかしてる。……自業自得だよ」
チェイスが反論しようと開いた口は、過呼吸に呑まれ、浅い呼吸がひゅうひゅうと漏れるだけだった。
「責める相手を間違えてるぞ」
マルティンはわずかに身を屈めると、万里奈の耳元に口を寄せる。
「リックを死に追いやったのは——お前だよ、チェイス」
視線はチェイスへ、しかし言葉だけは万里奈に向けた。
——万里奈。君が責任を感じる必要は、どこにもない。
チェイスは顔をくしゃくしゃに歪め、聞きたくないとでもいうように頭を抱え込み、床に丸まった。
その幼児じみた身振りに、マルティンは閉口し、深く息を吐く。
「うるせえよ……もういい、殺せ。殺せよ……」
殺せ。
その一音がチェイスの口から漏れた瞬間、万里奈の身体がびくりと揺れた。
息が細く伸び、心音が早まるのが腕越しに伝わる。
だが、蹲っていたチェイスが、弾かれたように顔を上げた。
「なあ。おい、あんた」
濡れそぼるチェイスの瞳が万里奈を見る。
「リックは……どんな風に死んでいった?苦しんだのか?」
万里奈は狼狽え、答えを探すように首を数回揺らす。
やがて、喉につっかえながらも、ゆっくりと言葉を繋いだ。
「車、替える時、逃げ出したけど捕まって……そこで、ナイフで刺したわ。一突きだけ……数分も、かからなかったと思う……」
「そう、か……。一突きか……」
チェイスはリックの最期でも夢想しているのか、固く瞼を閉じた。
こみかみの青筋がぴくぴくと揺れ、歯をくいしばる。
「そうだ……あの時」
ふいに、万里奈がぽつりと呟いた。
どこか遠くを見るような、焦点の合わない目。口が勝手に動き出したかのような、かすれた声。
「そうよ。いま、分かったわ。
……あの時リック、最後になにか言ってたの。あれは——」
チェイスが当惑した顔で、万里奈を見上げる。
「——チェイス。あなたの名前だった」
大きく目を見開いたチェイスの黒い瞳。
目の縁に溜まっていた涙が一滴、コンクリートに落ちた。
瞬間。
チェイスの慟哭が、雨音も、心音も、呼吸も、すべてを消し去った。
万里奈が大きく息を吸う。
突如、マルティンの腕を振り払うと、身を翻してシェルターを飛び出した。
「万里奈!」
階段を駆け上がる万里奈の背中を追う。
万里奈は激しい音を立てて玄関のドアを開け放ち、雨を切り裂き、泥をはね上げて走った。
ベリー畑の垣根をかき分け、生え放題の雑草に足を捕られながら、目の前の万里奈に手を伸ばす。
その手が空を掴んだ時、万里奈の体が、糸が切れたように地面に崩れ落ちた。
マルティンは足を止め、荒れた呼気を整える。
「万里——」
「こないで!!」
斜線を描く雨が、落果して潰れた実に打ち付けている。つんと鼻を刺す、青臭い匂いが立ち上がる。
背を向け、膝から泥に沈んだ万里奈が、袖口で顔を拭った。
何度も、何度も。
マルティンは、堪らない気持ちになった。
誰かの秘密は、マルティンにとって何事にもかえがたい密の味だった。
けれどいまは、こんなにも苦い——。
「ねえ、マルティン」
普段よりも、幼い声。
濡れてほつれた長い髪が、肩と背中に張り付き、細い身体がいっそう頼りなく見える。
「……私は、人殺しかもしれない。けど……だけどね」
雨音にかき消されそうな声。
マルティンは、万里奈の横に静かに膝をついた。
「殺人鬼じゃ、ないんだよ……」
彼女の濡れた髪を指で払い、耳にかける。
指先からは、ひとかけらの体温も感じられなかった。
「なのに——」
顕わになった万里奈の横顔が、ゆっくりとこちらを向く。
マルティンは、短く息を吸った。
「どうして、最後は、殺しちゃうのかな」
万里奈は、泣きながら、笑っていた。
冷たい雨と、生温い涙が黒い瞳の輪郭を溶かしている。
悲痛なまでに胸を打つこの衝動は、
やはり、恋ではない。
それでも——
マルティンは耳に触れていた手で頭を引き寄せ、その身体を激しく抱きしめた。
「マルティ、ン?」
腕の中で押しつぶされた声。
氷を抱きしめているみたいだった。
「僕が、いるだろ」
万里奈の耳に直接吹き込む。
体温を分け与えるように、唇をそっと押し当てた。
こそばゆさに、細い身体が力なく藻掻く。
「僕に……奴を殺せと、頼めばいい」
腕の中の万里奈が、ぴたりと動きを止めた。
わずかに身を離すと、ゆっくりとこちらを見上げた。
視線が絡み合う。
「僕は、シリアルキラーだ」
——万里奈。君が、そう決めた。




