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彼女が吐く息すべて、彼が見つめるものすべて  作者: ひめじろ
第二章 「マルティン」
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12.万里奈の選択、マルティンの決断② 同情


 万里奈はシェルターに入るなり、口火を切った。

 



「結論から言う。あなたは出頭はする必要はない」


 檻の中を獣のように歩き回っていたチェイスは、その一言に足を止め、顔色を変えた。


「はあ?ど、どういうことだよ。だって、俺」

「聞いたわ。あなたが夫妻を撃ったんでしょ? でも、あなたが罪を償おうが、わたしには関係ない。拉致しようと計画したことも……いまとなってはどうでもいい」


「お、おい。この女、なにいってんだ??」

 

 チェイスが怪訝な表情でマルティンを見る。

 マルティンは、ただ静かに首を横に振った。

 

 換気口から落ちてくる地上の匂いが、湿った空気をさらに重くする。本降りになった雨音だけが、狭い地下室に沈殿していった。


 そんな雨音よりも静かに落ちたのは、万里奈の言葉だった。


「だから、逃げて。州外でも国外でもどこにだっていけばいい。私は通報しないし、追いもしない」


「逃げるかよ!リックのこと放っておけね——」

「リックはいない」

 

 万里奈が一歩踏み出す。

 足元で、食べ散らかされた非常食の空き缶が乾いた音を立てて転がった。

 

「——は?」

 

 缶が、チェイスの爪先に当たって止まった。チェイスの呼吸も、止まる。

 万里奈は、震えを押し殺すように片手を握りしめた。

 

 「リックは」

 

 言葉が途切れた。

  

 マルティンは横目で万里奈をみる。

 何も映さない、伽藍洞の瞳。

 秘密を抱えた《《あいつ》》と同じ瞳が、いまは胸の深奥に影をさした。


 チェイスと万里奈、どちらともなく唾を飲み込む音がした。

 

「リックは……死んだの。私が、殺した」


 すう、とチェイスが息を吸い込む。肺の奥で何かがひっくり返るような音がした。

 

「これで、わかったでしょ。出頭しても意味ないの。あなたのお友達はもうどこにもいない。だからこの町から出て——」


「ッざけんな!ぶっ殺してやる!!」

 

 叫びと同時に、チェイスの身体が跳ねた。

 だが次の瞬間、びん、と張り詰めたワイヤーロープが金属音を立て、彼の片足を無慈悲に引き戻す。


 チェイスは膝から崩れ落ちた。

 それでも、地面をかきむしるようにして万里奈へ這い寄る。


「千切れるぞ。止まれ」

 

 マルティンは万里奈の肩を抱え、後ろへ引いた。

 触れた彼女の身体は氷のように冷たく、思わずそのまま体温を押し当てる。

 

「止まるかよ!おい!これ外せ!その女ッ、許せねえ!」

 

 カシン、カシン、とパイプにワイヤーが擦れる音が途切れず続く。

 チェイスの顔は怒りで真っ赤に染まり、歯をむき出しにして唸る姿は、もはや人より獣に近かった。


 マルティンは腕の中の万里奈に、低く言葉を落とした。

 

「万里奈。見ての通り、こいつにとってリックは、ただのお友達じゃない。こいつを逃がしても無駄だ」


 万里奈がわずかに身動ぎをする。構わず言葉を続けた。

 

「仮にこいつが素直に従って逃げたとしても、いずれどっかで捕まる。解放するのは、得策じゃない」

「じゃあ、どうしろっていうの?」


 首だけで振り返った万里奈の顔は、泣き出す寸前の子供のように歪んでいた。

 その表情が、マルティンの胸に鈍い痛みを走らせる。


「そんなこと、言われなくたって分かってる。安全な手なんて、もう、」


 震える手が持ち上がり、マルティンの腕にすがるように添えられた。


「……殺すしか、ないじゃない……」


 消え入りそうな声だった。

 だが、その一語一語は、地下の空気を切り裂くほど重かった。


 その言葉が落ちた瞬間、暴れ回っていたチェイスがぴたりと動きを止めた。


 沈黙。

 雨音だけが、遠くで薄く響く。


「は……はは、お前、イカれてんな」

 

 チェイスは腹を抱えて身を捩った。

 場違いな笑い声が、シェルターの空気に浮いては弾ける。


 くつくつと笑いが収まったとき、ふいに顔を上げた。


「そう言って、リックのことも易々と殺したっていうのか? 」


 充血した眼球が、ぎょろりと万里奈を捉えた。

 万里奈が反射的にマルティンのシャツを握り締める。


「いくら拉致られたからって、なにも殺すことなかったんじゃねえのかよ!」


 チェイスが再び飛びかかった。


 限界まで引き締められたワイヤーが食い込み、すでに足首からは血が滲み始めていた。 

 万里奈の手が、マルティンの腕を痛いほど強く握った。


「ッ、あなただって、夫妻を撃ったでしょ」

「俺はッ、殺す気なんてなかった!威嚇して撃ったのがたまたま当たっちまっただけだ!」

「わたしだってそうよ!」

 

 とっとっとっと——


 万里奈の心音が、マルティンの腕越しに伝わる。

 捕まえた小動物の鼓動と同じ速さ。

 彼女がどれほど追い詰められているか、触れただけで分かった。


「おい、落ち着けよ」

 

 マルティンは声を低く落とし、チェイスに向けて言う。


「……チェイス。一旦下がれ。そのままだと、血が止まって足が腐り落ちるぞ」


 チェイスは荒い呼吸のまま、マルティンを睨みつけた。


「ハっ、どうせ、そこのイカレ女に殺されるんだろ? もう腐ろうが千切れようが関係ねえじゃねえか」


 怒りと恐怖と否認が混ざった顔が、にわかに崩れ落ちた。


「それに……もう、生きてたって意味ねえ」


 震える拳が、ざり、と地面を擦り上げる。


「あいつだけだったんだ……俺には、あいつだけ……。クソみたいな俺の世界に、巻き込んじまった……。くそ……」


 チェイスは芋虫のように身を丸め、地面に沈み込んだ。


「リック……リック……」


 もうどこにもいない相棒の名を、壊れた機械のように繰り返す。

 乾いたコンクリートの床に、一滴、二滴と暗い色が落ちていく。


 マルティンの胸には、目の前の男への同情など一片も湧かなかった。

 ただ——


 視線を落とした先に、万里奈のつむじがある。

 息を詰め、身を固め、細い肩を震わせている。


 この腕の中の存在だけが、狂おしいほどにマルティンの胸を引き裂いていった。

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