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彼女が吐く息すべて、彼が見つめるものすべて  作者: ひめじろ
第二章 「マルティン」
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11.万里奈の選択、マルティンの決断① 苛立ち

 それからどうやって車を走らせたのか、ほとんど思い出せなかった。

 

 ハンドルを離したときには、フロントガラスの向こうにウィロークリークの自宅がぼんやり立っていた。

 途中、降り出した雨が霧を地面に押しつけ、スモークを焚いたように視界を曇らせている。

 

 外に出ると、ぬかるんだ小径を霧を払うようにして足早に進む。

 

「まさか。家に入った途端、襲ったりしないでしょうね」

 

 玄関の鍵を回すマルティンの背に、万里奈の声がかかる。

 彼女はポーチの階段下で距離を取り、雨に濡れるのも気にしていない。


 信用がないのは今に始まったことじゃない。

 だが、いまは妙に胸焼けがした。

 

「そんなことしないよ。ああ、でも」


 カチリ、と開錠したドアを背で塞ぐ。 


「まだ聞いてなかったな。チェイスをうまいこと対処できたら、君はなにをくれるのか——って」

 

 見返りが欲しくて動いたわけじゃない。

 なのに、彼女を前にすると、欲張りな自分が顔を出す。

 マルティンは、説明のつかない焦燥感に駆られていた。


「さっきは邪魔されちゃっただろ? 先に、聞いておこうかな」

「だめよ」


 ぴしゃりと切り捨てられる。


「価値も分からないものに、値段なんて付けられない。そうでしょ? だから、見てから決める」

「……ごもっともだな。いいよ、入れよ」


 雨に濡れた意固地な女の姿に、こめかみがぴくりと引き攣った。

 



「こっちだ」

 

 コイヤーマットの繊維にブーツを擦りつけ、泥を落とす。

 玄関すぐの扉を開けると、地下へ続く階段が口を開けた。

 

 万里奈が一段目の前で足を止める。

 

「地下室?ちょっと……一体、何があるの?」

「見てから決めるんだろ。早く来いよ」

 

 苛立ちが声に滲む。

 訝しげに眉を寄せる万里奈に、内心で毒づく。


 ——あいつと、結婚だって? あんな男、君になにを与えてやれるっていうんだ。


「捕まえるのに、随分と苦労したんだ。君が、よろこんでくれればいいけど」

 

 階段を下っていく。

 天井に一つだけのオレンジの灯りが、二人の影を濃く伸ばした。

 やがて、ぶ厚い鉄扉が現れると、背後で万里奈が小さく息を呑んだ。


 ——真面目なあいつに、こんなことできないだろ。

 せいぜい、刑務所に入った君に、ガラス越しに面会を求めるくらいさ。


 重たい閂を引き抜き、レバーを引く。

 体重をかけて押し開けると、つん、と鼻を突くアンモニアの匂いが出迎えた。


「ッ、やっとかよ!おい、便所がくせえよ!早く交換してく——」


 シャリ、とワイヤーが地面を滑る音。

 身を起こしたチェイスがマルティンの背後に視線を流し、目を剥いた。


「……その女、マリナってやつだよな」


「マルティン、これは、……どういうこと?」

 

 万里奈はシェルターの外で、困惑に瞳を揺らしている。


「見ての通りだ。こいつがチェイス。農園の上の連中に強制労働させられてたが、昨日一斉検挙があってね。そこから逃げ出してきたこいつを、僕が捕まえた」


「お、おい。あんたさ。拉致ったのはほんと、悪かったよ。リックに代わって謝る!

ホント悪かった!」


 チェイスが床を這ってにじり寄る。

 両手をつき、跪く姿はジャパニーズドゲザスタイルそのものだった。

 万里奈が日本人だからって、意図したわけではないだろうが。


「だからさ、なっ、許してくれよ。ムショでちゃんと償うからさ。リックも捕まったことだし、俺も今更逃げようなんて思ってねえよ」

 

「え?……リックが、何? なにを……」


 万里奈が助けを求めるような顔をしてこちらを見ると、「マルティン、ちょっと」と言って、肘を引いた。

 引かれるままに階段の中腹まで上がると、振り向きざまに口を開いた。


「どういうこと?彼は、何を言ってるの?」

「ああ。まだ奴にはリックが死んだことは言ってないんだ。僕が伝えることでもないしね」


「そんな……。それに、彼、出頭するって、そんなことさせられない」

 

 万里奈は親指の爪を口元に運び、歯の縁で押し返している。

 噛みつきたい衝動を、必死に堪えているようだった。


「奴はリックが警察に捕まったと思ってる。あの時、ジャオ・リン夫妻を撃ったのは奴一人だけだったらしい。リックに罪を被せられないから、すぐにでも出頭したいんだと。……ちょっと暑苦しい友情だよな」

 

 肩をひょいと上げてみせたが、万里奈は爪をいじったまま視線を落としている。


 ふいに、その顔が上がる。


「チェイスを捕まえて、それをわたしに見せて……あなた、一体わたしに何をさせたいの?」

  

 当然の問いだった。

 

 チェイスをどうするか。

 その選択を彼女に委ねさえすればいいと、そう思っていた。

 しかし、それにもいまは迷いが生じていた。


 「それは僕が決めることじゃない。煮るなり焼くなり好きにしろよ。でも……」

 

 言葉が喉で止まった。


 自分の目的は、彼女の瓦解しかけた物語を修正し、手助けすること。

 だが、もしも万里奈が間違った道を——チェイスを見逃す選択をしたら?

 それを修正することはすなわち、万里奈に()()()()()()ことになる。


 分かっていた。

 チェイスを手の内にした瞬間から、分かっていたはずだ。

 万里奈の秘密を、この先ずっと秘密のままにしていくための方法。

 その選択肢は、最初から一つしかないことを。


 そして、自分がその選択肢しか彼女に選ばせる気がないことも——。

 

「いや……、とにかく。君が捕まれば、僕も終わりだ。共倒れになるようなことだけは避けてほしいね」


「そんな……。彼を殺せって、そういいたいのね」


 万里奈が顔を白くし、相貌を崩した。

 胸の奥がきゅっと縮む。


「そうじゃない。他に安全な手があるなら、そっちを選べばいい」


 そんなものはない。

 苦し紛れに絞り出した言葉だった。

 

 万里奈はまた口元に爪を運び、カリ、と小さな音を立てて噛んだ。

 その手が力なく下ろされる。


 悲壮な色に染まった万里奈が、置くように言葉を落とした。


 「彼と、話をさせて」




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