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彼女が吐く息すべて、彼が見つめるものすべて  作者: ひめじろ
第二章 「マルティン」
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10.動揺

 ——僕は、万里奈に恋をしているのだろうか。

 

 そんな疑問が、車窓に流れる景色とともに、マルティンの心の内をかすめていった。



 気づけば車はレッドウッドハイウェイに乗り、海沿いの道をひた走る。

 視界は背の高い沿岸林に遮られ、木々が途切れる一瞬だけ、霧に白く溶けた海がのぞいた。

 

 助手席の万里奈は、代わり映えのない窓の景色を睨み、ずっと口を閉ざしている。


 怒らせた——し、ますます嫌われたな、これは。


 当然だ。

 意図的に仲たがいを仕掛け、無理やり恋人サイラスと引き離したのだから。


 だがこうして冷静になってみると、自分でも理由が分からない。なぜ、あんな真似をした?

 キスを邪魔されたからか。

 殴られたからか。


 サイラスの存在を以前から苦々しく思っていたのは確かだ。だが、だからといって奪ってやろうなどという野心はなかった。

 そもそも、万里奈を「自分のものにしたい」という願望すらない。

 

 魅力的な女を前にして、肉体的な反応が皆無だと言えば嘘になる。

 だがそれは、ただの生理的な衝動にすぎない。キスを迫ったのも、突き詰めれば本能の延長だ。


 このまま家に連れ帰り、流れでそういう空気になれば——という打算が頭をよぎるのは事実だ。


 だが、目的はそこではない。

 ()()()()()()()をどうするか、その選択を彼女自身に委ねること。

 それが唯一の軸だ。


 恋ではない。ましてや、愛でもない。

 そうと呼ぶにはあまりに歪で屈折した感情。

 

 ただ一つだけ確かなことがある。

 万里奈を前にすると、自分は冷静ではいられない——それだけだ。

 

 マルティンは、胸に浮かんだ疑問にそう結論を与えると、唐突に口を開いた。


「なあ、答え合わせをさせてもらってもいいか?」


 返事はない。 

 マルティンはバックミラーの角度をわずかに変えた。

 映り込んだのは、窓の外に視線を固定したまま微動だにしない万里奈の横顔の輪郭だけ。

 苦く笑って、めげずに続けた。

  

「僕なりに、君とその周囲で起きたことを色々と調べさせてもらった。万里奈が知らないこともあると思うから、まあ、聞いてくれ」

 

 瞼の裏に、彼女のために奔走した二日間が巡る。


「君はあの日、ダイナーの通用口からリックとチェイスを目撃した。これは合ってるよな?」

 

 視界の端で、万里奈が一瞬だけこちらに視線を寄越した気配がした。

 

「調べて分かったんだが、リックは大学内での大麻使用の常習犯だったみたいだな。奨学金を打ち切られて金が必要だった。だからチェイスの伝手で違法農園の仕事に手を出し……その結果、あの銃撃事件が起こった。馬鹿だよな」

 

 バックミラー越しに、彼女の白い喉元が上下した。  


「チェイスは組織に捕まり、リックは金を稼ぐために解放された。で、リックは君をさらって組織に売っぱらって、相棒を助け出そうとした。その道中で——きみは奴を殺した」

 

 マルティンは顔ごと万里奈に向ける。


「背中のナイフは、奪ったものか?……いや、どうも違うな。君はリックを目撃しながらも通報しなかった。奴からの接近を恐れて、自衛の為に用意したってところか」

 

 そこではじめて万里奈が首を動かした。アスファルトの白線の先を、暗い瞳で追っている。 


「使うつもりはなかった。でも……仕方なかったの」


「仕方なかった、ね。そもそもダイナーで目撃した時点で通報しておけば、君が拉致されるようなこともなかったんじゃないのか? なんでそうしなかった」


「……別に。どうせすぐ捕まると思ってたし、わざわざ恨み買うような真似をしたくなかっただけ」


 嘘だ、とマルティンは思う。


 万里奈は、マルティンでさえまだ知らない罪を抱えている。

 そしてその罪滅ぼしのように行方不明者の捜索に参加する、妙に律儀なところがある。

 きっと、人を殺したかもしれない〝同族〟を売ることができなかったのだろう。

 そんな真面目さも、マルティンには好ましく映った。


「……ふうん。ま、そういうことにしておこうか」


 沈黙が落ちた。


「なあ」


 マルティンはハンドルを握り直し、バックミラーだけで彼女を追う。


「あいつ……リックに、乱暴された?」

 

 ミラー越しの輪郭が静かに横に振れた。

  

「そう、ならいい」


 ウィンドウを下ろす。

 心のつかえがひとつ取り払われた。

 マルティンは細胞に満たすように、冷たく湿った風を吸い込んだ。

 

*** 


 ハイウェイは海岸線を離れ、山間を突き抜けていく。

 道路の両端を覆うレッドウッドの樹冠の隙間から、鉛色の雲が切れ切れに覗いた。

 ひと雨きそうだ。


「一つ疑問なんだけど、エイミーはどうして君の協力者に? 彼女、リックの恋人だったんだろ 」

 

 途中に寄ったスターバックスのドライブスルー。

 買ったばかりのコーヒーのカップの縁を指先でいじりながら、万里奈が言った。

 

「エイミーはリックにいいように利用されてただけよ。……弱い子だから。わたしを誘い出して、乗り換えの盗難車を運ぶ役目だったみたい。彼を殺したところを見られたから、こちらに引き込んで処理を手伝わせたの」


「よく引き込めたな。で、いまはリックに代わって君が彼女の糸を引いてやってるってわけか。ちゃんと口止めはできてるんだろうな?」


「もう、死体遺棄の共犯だから。捕まりたくなければ、喋らないでしょ」

 

 それはどうかな。

 時が経てば、罪悪感に耐え切れず出頭する可能性は十分ある。

 人間の感情は脆く、移ろいやすい。

 

 ふいに、脳裏のどこかでノックスの空虚な瞳がよぎり、マルティンは小さく頭を振った。

 

 とにかく。

 チェイスが手の内にある今、唯一の懸念はエイミーか。


 マルティンはその課題を頭の片隅に押しやり、確認を続けた。

 

「盗難車は? どう処理した?」


「廃車場に夜中こっそり置いてきた。トランクはリックの痕跡がわからないように、シートを剥がして粉々に刻んでゴミに出したわ」


 廃車場か。

 海にでも沈めた方がよほど安全に思えるが、大丈夫か? 


「車体番号は?」

「グラインダーで削った。偽造のナンバープレートも外して捨てたけど……」


 リックの墓場の件を思えば、言葉通りに受け取るのは危うい。

 どこかに粗が残っている可能性はある。


 万里奈も不安なのか、自分の後処理を反芻するように瞳を揺らしていた。


「オーケー。明日チェックするから、あとで場所を教えてくれ」

「……わかった」

 

 救われたとばかりに、万里奈が息を吐く。

 そのわずかな緩みが、心をこちらに預けた証のように見えて、マルティンの胸がふっと浮いた。

 

「ねえ。チェイスって人のこと、どうするつもり?一体、 何を企んでいるの?」

「おっと、それは家についてからにしよう。あとのお楽しみだ」


 というか、いまここで説明してもこちらの旗色が悪くなるだけだ。

 逃げ場のない状況で、直接見てもらった方が話は早い。


「あなたって、人の事には遠慮なしに踏み込んでくるくせに、こっちからの質問には思わせぶりにはぐらかしてばっかりよね。……嫌になる」


「ミステリアスで堪らないっていう女は多いんだけどな。お気に召さない?」


 万里奈は眉間の皺を深め、こちらを横目で射抜く。

 虫でも見るような蔑んだ目。ちょっと、くせになりそうだ。

 

「ええ、すごく苛々する。わたしはもっと単純な人が好き」

「サイラスみたいな?」


 その名を出した途端、万里奈の顔色がすっと沈んだ。


「……そうよ。あんな風に置いてきちゃって、彼とは、もう、駄目かもしれない」


 カップを強く握りしめ、パルプに皺が寄る。

 

「良い人だった……。勝手に人の心を覗こうとしたり、試すようなことだってしない。誰かさんと違ってね」

 

 横から棘のある視線がささり、マルティンはただ黙って肩を持ち上げた。

 

「彼と結婚できなくなったら、どうしてくれるの?」


 持ち上げた肩が、止まった。


「——は?」


 タイヤが何かを踏み、車体がわずかに浮く。

 ハンドルを取られ、ぐらりと道を外れかけ、慌てて車線に戻す。


「ちょ、ちょっと待てよ。結婚? 誰と、誰が?」


 声が裏返る。


「私とサイラスだよ。留学してから今日まで、せっかくあそこまで関係性を持って行ったのに」


 万里奈の言葉が頭の裏側で響く。

 

 何故かはわからないけど、そんなのは絶対に、駄目だ。

 なにがなんでも、阻止しなければならない。

 そんな展開、誰が望むものか。


 ふいに、さっき振り払ったばかりのはずの疑問が、また、舞い戻ってきた。


 ——やっぱり、僕は彼女に恋をしているのか?


 

 




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