2.汐崎万里奈という女② サイラスと
この町を選んだことにさしたる理由はない。
留学先の条件を挙げるとすれば、「両親からの距離が遠いこと」。これだけだった。
両親のことが嫌いなのかと問われれば、そうではない。むしろ嫌われたくないから遠ざけたいのだ。
万里奈の家庭は空想上の創作物かと思うほどに、完璧だった。
父は貿易商社を率い、韓国コスメの流行をいち早く読み切り、会社を急成長させたやり手の経営者。
母はファッション誌の編集長で、イタリア製のパンツスーツをモデルのように軽やかに着こなす。
どちらも、ひいき目なしに格好良かった。
そんな二人は当然のように多忙を極めたが、かといって家庭を疎かにしたことは一度もない。
運動会には、どこの芸能人夫婦かと思うようなお揃いのサングラスで現われ、休日には、食道楽の両親に連れられて三ツ星レストラン巡り。
周囲はその裕福さばかりを羨んだが、万里奈にとっては、二人が時間を作ってくれることこそが何より嬉しかった。
両親は誇りであり、同じように誇られる娘でありたいと願った。
けれど二十年も生きれば、大小の差こそあれ誰にも言えない秘密のひとつやふたつ抱えるものだ。
万里奈にとって問題なのは、その秘密の数ではなく大きさだった。
人を殺した。
衝動に突き動かされたわけではない。
明確な殺意をもち、計画し、そして実行した。
あまつさえ、その後の処理までやり遂げてしまった。
だが隠蔽に成功したとて、罪が消えるわけではない。
人を傷つければ、自分の心も同じように傷つくし、誰かが悲しい顔をしていれば、その思いに引きずられる。そういう風に育ってきた。
罪の意識は日ごとに大きく膨らみ、心の襞を逆なでするようにせりあがっていった。
両親がキッチンでおはようのキスを交わすとき。
校門前に停めた車から父が軽く手を挙げたとき。
寝坊した母と一緒に駅まで走ったとき。
幸福な日常のどこかで、ふとした拍子に口から懺悔がこぼれ落ちそうになる。
何度も、飲み込んだ。
しかし人が年老いて嚥下する能力を失っていくように、いつかは限界が来る。
だから、逃げ出したのだ。
両親から留学に猛反対を受けていた大学二年の秋。
留学先の提携校のパンフレットをめくる手が、ある地名で止まった。それは高校時代の恩師が話していた、ふるさとの名前だった。
万里奈は両親の希望で、ミッションスクールに通っていた。
英語教諭のシスター・アナベルは清廉な修道女の見た目に反して俗っぽい女だった。神に仕える身でありながら、彼女のスマホケースには吸血鬼のアニメキャラが気障な笑顔を浮かべていた。そんなちぐはぐさが妙に魅力的で、万里奈はすぐに彼女を気に入った。
両親もまた、アナベルを殊のほか好んでいた。
親子参加の行事で顔を合わせるたびに、彼女の気取りのない物言いが、海千山千の二人の興味を引いたらしい。
もはや選択肢はひとつだった。
彼女は故郷を「幽霊すら退屈して出ていった町」と笑っていたが、そのアナベルの名があれば、きっと両親の警戒も鈍る。あとは一言添えてもらえればいい。
その読みは当たり、「私のファミリーがマリナの面倒をみます」という彼女の一声で、 両親は渋々ながら首を縦に振った。
こうして大学二年の一月。ここ――ハンボルト郡へ、逃げ込んだのだった。
***
体育館のように天井の高いホールは、天窓から差し込む光を受けて広々と明るい。そこに白い簡易テントが立ち並び、屋外のマーケットを丸ごと持ち込んだようだった。
「がらくたばっかりだろ?ほとんど親父の青春時代の遺物だよ」
あらかたの設営を終え、タイダイ染めの派手な敷物の上に、大きな体を縮こませて座り込む男がそう言った。
アナベルの七つ下、今年三十路を迎える弟のサイラスだ。
メジャーリーガーの野手みたいなむっちりとした体躯と、豊かな口ひげ。アナベルと姉弟で並べば美女と野獣に見えるだろう。
大学のある町アルケータに住むアナベルの一家は、娘が日本で取り交わした約束を律儀に守ってくれている。食事に招き、車のない万里奈の足にもなってくれた。もっとも、その大半はサイラスが声をかけてくれたものだ。
その彼の周りには、時代の一品が所狭しと並んでいる。
フリンジ付きのスエードベスト、ビルケンシュトックの底のすり減ったサンダル、手作りらしい少し歪なドリームキャッチャー。
「マイケルはヒッピーだったの?」
いかにもなラインナップに、彼の父親の名前を出してそう訊くと、サイラスは肩をひょいと持ち上げて笑った。
「だった、っていうか……まあ、今でも半分そうだよ。親父の中じゃ八〇年代がまだ終わってないんだ」
「意外。どうみても、真面目な高校教師って感じなのに」
サイラスもまた、父親と同じく教壇に立つ身だ。厳格そうな父に、破天荒な姉、その間に挟まれているのがこの男だと思うと、妙に納得がいく。
「外見だけだよ。家じゃいまでも愛と平和を唱えながらウィード吸ってる」
この土地に染みついた大麻文化にもいい加減慣れてきたが、いちおう礼儀として「びっくりね」とだけ返しておいた。
「じゃあもっと驚くぞ。姉貴もここにいた時は――」
サイラスが言いかけた言葉を飲み込む。
敬虔なシスターが大麻をふかす姿は、日本でいうならば破戒僧といったところか。アナベルならありえると思い、あえて訊かないことにした。
「アナベル、休暇はいつ帰ってこれるって?」
サイラスはあからさまにほっとしたような顔をする。
「来月のカントリーフェアまでには帰るってさ。マリナも行こう。こんな田舎のどこに隠れてたんだってくらい人が集まるから、びっくりするぜ」
「アナベルもいるなら最高ね。すごく楽しみ」
「まぁ、俺的には姉貴はどうでもいいっていうか、二人の方が……あ、いらっしゃい」
サイラスが語尾を濁らせたちょうどその時、最初の客が姿を見せた。頭髪の寂しくなった年配の男性が、ブースの手前に置かれたレトロなラジカセをしげしげと眺めている。
「それはパナソニックのRX5500。状態もいいし動作確認済みだよ」
「いや、懐かしいね。若い頃持ってたなあ――」
サイラスは客と楽しそうに話し込んでいる。
手持ち無沙汰になって、そばに積まれた古本の山から適当に一冊を手に取る。それはレッドウッドの森を紹介した子供向けの図鑑だった。
ぱらぱらとページを捲ると、巨大なセコイアの木に、マジックで顔が描き込まれている。さらに進めると、動物や虫たちにも同じように落書きされていた。みんな、何故かまつ毛を生やされていた。
犯人はアナベルだ、と心の中でほくそ笑む。
そしてページをまとめて飛ばした瞬間、目に飛び込んできたものに喉が詰まった。
大きく翅を広げた実物大の標本写真。
――昨日の蛾だ。
写真の下に解説文が書かれている。
ポリフェモス・モス。
ギリシャ神話の一つ目巨人〈ポリュペーモス〉に由来する。
本の中の大きな目玉模様と、目が合った。
じっとりと貼りつくような視線が、こちらを見ている。
昨日、あの蛾が向けてきたのと同じ、逃げ場のない視線だった。
ふいに背筋が粟立ち、思わず振り返る。テントの間の狭い通路を駆け抜ける子供、乱された古着を畳みなおす人。
何も、変わりはない。
「どうかした?」
はっとしてサイラスに向き直る。気づけば客の姿も消えていた。
よほど思いつめた顔をしていたのか、サイラスは心配そうに眉をひそめていた。
「ううん、なんでもない。お客さんは?」
「結局買わずに行っちゃったよ。負けてやったのに――あれ、その本」
サイラスが手元の本を覗き込む。
「へえ。その蛾ってここいらじゃよく見るけど、ポリュペーモスが由来だったんだな」
「サイラス、神話に詳しいの?」
見た目からは、神話を語るようなタイプには見えない。
「まあね。ポリュペーモスって、あれだよ。オデュッセウスに目ぇ潰された巨人」
サイラスは得意げに手をひらひらさせる。
「巨人が『誰だ!誰が俺をやった!』って叫ぶんだけどさ、オデュッセウスが自分の名前をノーバディって名乗ったから、仲間の巨人たちも『誰にもやられてないなら放っとけよ』って帰っちゃうんだよな。それでオデュッセウスはまんまと逃げおおせるって話」
サイラスは笑いながら肩をすくめた。
「姉貴、この話が好きでさ。ガキの頃、悪さする度に『ノーバディがやったのよ』って言い訳してたし」
ノーバディ、誰でもない。
英雄が知恵で怪物を出し抜いた話のはずなのに、どこか、言い逃れのための方便のようにも聞こえた。
胸の奥で、何かが、ゆっくりと浮かび上がろうとする。
「ねえ、ちょっと飲み物買ってくる」
本をそっと戻して立ち上がると、サイラスがまたも眉をひそめる。
「おい大丈夫か?なんか顔色悪ぃぞ」
「平気。標本写真に気分悪くなっただけ」
そう言ってサイラスの注文も受け、入口付近のドリンクブースへ向かった。
退屈そうに編み物をするボランティアの老女にコーヒーを二つ頼む。とぽとぽと紙コップに注がれていく香りが、胸の奥に残る冷たいざわつきを、ほんの少しだけ和らげた。
支払いを済ませ、ドリンクを受け取る。
そのとき、ちょうど出口に向かう背の高い男とすれ違った。
嗅ぎ慣れた匂いがふっと鼻をかすめる。
腐った土と、青臭い草の匂い。深い森の底を思わせる、湿った匂いだった。
視界の端を横切るその男の手に、見覚えのあるものが握られている。
――今の。
咄嗟に振り返ったが、もうどこにも姿はなかった。
胸の奥に引っかかるものを残したままブースへ戻ると、得意げな顔をしたサイラスが出迎えた。
「さっきの本、売れたよ」
予想していたことなのに、紙コップをテーブルに置く手が、かすかに震えた。
「……うん、さっき入口ですれ違った。変な人、あんな落書きだらけの本を買うなんて」
「まぁ、確かに変な奴だったな。同じページをじっと見てたよ。あんまり真剣に見てるもんだから、学者さんか何かですか?って聞いたらよ――」
万里奈は無意識に喉を詰める。
「たいした者じゃありませんってさ」
サイラスが口笛を吹いた瞬間、脳の奥を、鋭い何かで突かれた。
ぬるい風が吹き込む、暗い空間。
湿り気を帯びた土と、錆びた鉄のすえた匂い。
どくどくと、血の音が耳の内側で膨らんでいく。
その奥に、かすかに混じる声。
――おねえちゃん。
「おねえちゃん!」
はっと顔を上げる。
気づけば、ブースの前で小さな男の子が転がり、怪獣みたいな泣き声をあげていた。
「おねえちゃんが! おねえちゃんが押したんだ!」
サイラスが膝をついて立ち上がらせると、男の子はしゃくりあげながら訴える。その横で、少し年上の女の子が、スニーカーのつま先で地面をこすり視線を落としていた。
「おいおいまいったな。親はどこだ?」
サイラスがホールを見渡し、助けを求めようにこちらを見る。
「マリナ――顔が真っ青だぞ」
「……ごめんサイラス。やっぱり体調が良くないみたい。車で休ませてもらうね」
紙コップを掴み、返事も待たずに歩き出す。背中にサイラスの声を受けながら、その場を離れた。
その背後に、またどこからか視線を感じた。
泣いている子供を放っていく女を、きっと誰かが見ている。
そう思うと、万里奈は小さく自嘲した。
***
「ちょっといいか?」
約束のディナーを終えて駐車場に向かう道中で、サイラスが自身の胸ポケットの箱を指で叩いた。
4WDのキーを万里奈に渡すと「先入ってて」と言って路地の方へ歩き出す。背中には、この町に馴染んだ気配があった。
まだ車に戻る気になれず、腹ごなしに駐車場を歩いた。
湾岸に面したその一角は、潮の匂いが重くまとわりついていた。
ガス灯風の街灯が木製の電柱を淡く照らし、そこに海風にゆれる紙面が目に入る。
「……また、あなた?」
赤いTシャツの女。昨日、破り捨てたチラシだった。
蛾といい、狡猾な英雄といい、寄ってたかって古いかさぶたを剥がすような真似ばかりする。せっかく逃げ出してきたのに心は休まらず、じゅくじゅくとした膿だけが広がっていく。
憤りを溜息とともに吐き捨てた時、鋭い潮風が吹き抜けた。
チラシがひと際大きくたなびき、めくれあがる。
そこに姿を現した光景に、息を止めた。
何度も打ち込まれたタッカーの芯。錆びて赤茶けたもの、青々と光沢を残すもの。張り巡らされた芯が、まるで朽木に群がる節足動物のように蠢いて見えた。
残された家族の執念に目が焼かれる。
頭の奥で、ニュースの断片がひび割れたように反響する。
――行方不明男児の消息は――
――家族の訴えは続いており――
――情報提供を――
頭蓋の内側がガンガンと砕けていく。よろめくように後ずさると、車へ駆けだした。
助手席に滑り込み、音を立ててドアを閉める。
すると息つく間もなく、運転席の扉が開いた。思わず引き攣ったような悲鳴を上げる。
「おいおいなんだよ、どうした」
サイラスが目を剝いている。
「……ちょっと考えごとしてて、びっくりしただけ」
「やっぱり、まだ調子悪そうだな。大丈夫か?」
力なく頷くと、サイラスが優しく頭を撫でてくれた。
「早く帰してあげないとな。――じゃ、お姫様をお送りするとしますか」
「サイラス」
サイドブレーキを引こうとする手に、とっさに指を絡める。目を見張るサイラスに、身を乗り出して肩口に顔を擦り付けた。
「なんだよ、さびしくなっちゃったのか?」
その声に、じわりと甘い響きが滲む。
上目遣いに彼を見ると、太い喉仏が上下した。頬にぬるい温度が触れる。そのまま髪に指を差し込まれ、キスが送られた。
彼の舌はいつも、甘苦く土っぽいウィードの味がする。
サイラスは熱い息を吐き出すと、万里奈を抱き寄せた。
「……君があと半年もせずに日本に帰っちゃうなんて、考えたくないよ」
声を震わせるサイラスの背に手を回し「私も」と呟く。
半年後には日本に帰ると思うと吐き気がした。
焦る気持ちが唇を動かす。
「ねえ、今日は部屋に寄ってって?」
サイラスは体を離し、信じられないような目でこちらを見る。
「マリナ――いいのか」
「うん、ルームメイトが帰国しちゃって寂しいの。お願い、一緒にいて」
サイラスの目が光りその奥に熱が灯る。万里奈を掻き抱くと、今度は噛みつくようなキスをした。
万里奈はサイラスの首に腕を巻き付けると、心の中でほっと息を吐く。
――この調子なら、結婚まで行く。いずれグリーンカードが手に入るわ。
ここが死臭漂う町だろうと構わない。
罪は心と体に刻まれて、どこにだってついてくるのだから。




