1.汐崎万里奈という女① 目的
ミッシング・パーソン。
汐崎万里奈の目の前には、いまにも千切れてしまいそうな行方不明者のチラシが、古びた木製の電柱に辛うじてへばりついていた。
カリフォルニア北部海岸の小さな港町、アルケータ。
湾岸からの海風に乗って、朝夕きっちりと垂れ込むミルク色の霧は、あらゆるものを湿気らせていく。
ふやけた紙の中の女の表情は歪み、怒っているようにも、泣いているようにも見えた。
万里奈は買い物帰りで膨らんだエコバックを肩にかけ直すと、水気を押しのけるようにしてチラシを撫でた。
掌の下から、やっと本来の笑顔がのぞいた。
卵型の輪郭に長い黒髪。アジア系の顔立ちをしている。
——中国人っぽい。
そう思ったのは、女が着ている赤いTシャツが中国国旗を思わせたからに他ならない。答え合わせに丸まった紙の端まで手を滑らすと、チラシは音もなくちぎれてしまった。
ため息をついて、周囲を見渡す。
大学を取り囲むように栄える港町は、夏休みで学生たちが姿を消すと途端に活気をなくし、いまやゴーストタウンのような佇まいだ。
人影は、ひとつもない。
誰にも見咎められていないことに胸を撫でおろし、ちぎれたチラシに目を落とす。
ジャオ・リン。
シックスリヴァー国有林付近で失踪。
確かここから内陸に進んだ樹海の広がる山深いエリアだ。
失踪日はひと月も前。
どのみち、もう生きてないだろう。
万里奈はそう納得すると、チラシをくしゃりと丸めてエコバッグに放り込んだ。
その時だった。
ばさりと大きな羽音を立て、掌ほどの蛾が電柱にとまった。
ふかふかとしたはねには、黒く縁どられた大きな目玉模様が浮かぶ。
――見たぞ。
そう言わんばかりに、中央の透明な膜がレンズのようにあやしく光る。
「……自業自得よ。ご愁傷様」
目玉をねめつけると、鼻を鳴らしてその場から立ち去った。
寮への帰り道、大学の建物群を横目にメインストリートを突き抜けていく。町の背後にせり上がる丘陵の森がみえてくると、徐々に勾配がきつくなってきた。
食材をつめこみすぎたエコバッグが、ずしりと重みを増していく。
寮は森の斜面に張り付くように建っていた。背の高いレッドウッドの木々に囲まれ、森に吞まれかけている。
わずかに上がった息を整えていると、ふと駐車区画の一台の車に目が止まる。見慣れないアースカラーのホンダ・シビックは昨晩からずっとそこにいた。
寮に宿泊したゲストの車だろうか?
そう思った矢先、エントランスの扉から人影が現れた。ご機嫌に車のキーを指先で弄る見知った顔に、内心で舌打ちする。
「よお、Kポップクイーンじゃん。会いたかったぜ」
細身の男が手を広げて近づいてくる。抱擁を避けるように一歩退く。
「リック。ここに泊まったのは知ってる。相手はエイミー? ジョアンナ? それと、何度も言うけど、わたしは日本人」
そうたしなめると、男は栗色の長髪をかきあげてへらへら笑って肩をすくめる。
「は。相変わらずお高くとまってんなあ」
彼の髪から、甘く土っぽい香りがふっと鼻をかすめ眉をひそめる。
「ちょっと……まさか部屋で吸ったの?」
ウィード――大麻の匂いだ。大学施設内では禁止のはずだ。よく見ればリックの目も、どこか焦点が合わず蕩けている。
「呆れた。夏休みで寮監の数が少ないからって調子乗ってると、いつかバレるよ」
わざわざチクる気もないが、かといってかばい立てする気もない。匂いの件で聞き取りが行われたら、迷いなくリックの名前を挙げるだろう。
そんな思惑を察したのか、リックは途端に顔色を変えた。
「おいおい滅多なこと考えないでくれよ。俺、何回かやらかしてんだ。今度バレたらマジでヤバいって……」
「そんなの知らない。ねえ、もういい? 部屋帰りたいんだけど」
「いや待てって――そうだ、マリナのこと気に入ってるやつ知ってるんだ。今度紹介するからさ」
「結構よ。間に合ってる」
冷たく切り捨てて身を翻し、エントランスのガラス戸を押す。
背中に「ビッチ!」と声がかかるが知ったことか。
男の口から吐かれるウィードの匂いも、軽い言葉もうんざりだった。
それにリックは、タトゥーを全身に刻んだ見るからに柄の悪い男とよく連れ立って歩いてる。あまり関わりたくない。
フロントを抜けると、奥のラウンジからなにやら興奮した調子の声が漏れ聞こえてきた。ラウンジ前の掲示板をみる振りをして、近づいてみる。
「……だから二階にいますぐ行って! 匂いですぐわかる。エイミーの部屋よ。あいつら部屋でウィード吸ってる。わたしへの当てつけよ」
ひょうたんを横に引き伸ばしたような体に黒い縮れ毛の彼女は、ジョアンナだ。 褐色の肌は涙にぬれ、寮監に向かって息巻いている。
「別れたばっかですぐ他の女の部屋に泊まるなんて最低よ。もう、ほんと最悪」
それはひどい。万里奈は心の中で合掌してその場を立ち去った。
二階への内階段を上がり居室が並ぶ廊下を進むと、うっすらと後を引く香りがまだ漂っていた。突き当りのエイミーの部屋からだ。
残念だけど、彼らには重たい処分が待っているだろう。
それにしても、口止めの材料として男の紹介とは見下げられたものだ。恋愛を否定する気はないし、学生が学業一筋であるべきだとも思わない。そもそも、自分が留学を選んだ理由だって純粋とは言いがたい。
万里奈は、今すぐにでも、グリーンカードが欲しかった。
その為には、さきほどのような学生同士の恋愛に割いている時間はない。
大人の男がいい。
安定した職に就き、周囲は結婚し始め、親からもそろそろどうだとせっつかれるような年上の男。若い女の体に夢中になって、逃してなるものかと焦ってくれるような、単純な男ならなおいい。
自室のドアノブに手をかけたとき、ポンと短くスマホの通知音が鳴った。
『明日コミュニティセンターで、フリマの出店するんだけどマリナも来いよ。よかったらそのあとディナーでも』
少し考えて、指を滑らせる。
『嬉しい。明日は暇してたから。直接向かえばいい?』
送信。
寮の自室は、今朝乾燥機にかけたばかりのリネンの甘い香りが充満していた。
ルームメイトが夏休みに入るなり母国へ帰国してくれたおかげで、今は気兼ねなく使える一人部屋となっている。
備え付けの小さな冷蔵庫に食材を放り込んでいくと、ポケットの中で通知音が三度鳴った。
『よしきた』
『もちろん迎えに行かせて頂きますともお姫様』
『夜はユーレカにオープンしたスシ・レストランに行こう』
そう。例えばこんな男はうってつけだ。
留学期間も折り返しを過ぎた。好都合なことに夏のあいだなら部屋も自由に使える。
彼との関係も、そろそろ進展させておく頃合いだ。
万里奈はスマホを口元にあてると、その裏でひっそりとほほ笑んだ




