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彼女が吐く息すべて、彼が見つめるものすべて  作者: ひめじろ
第二章 「マルティン」
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7.惑い

 叔父の家には、ひとつだけ秘密がある。


 玄関を入ってすぐの扉を開け、地下へ続く階段を降りると、厚さ二十センチはある鉄の扉が現れる。無骨な灰色の板が、家の静けさとは不釣り合いなほど重々しい。


 地下シェルターだ。


 といっても、核戦争に備えた本格的なものではない。空気浄化装置もなければ、気密室もない。地上に繋がる換気口があるだけ。大人が四人も寝そべればいっぱいになる、ただの分厚いコンクリートの箱にすぎない。

 

それでも叔父は、この「箱」を誰にも見せたがらなかった。実際、親戚そろって叔父の死後にその存在を知ったくらいだ。

 

 そして一番笑ってしまうのが、叔父がこのシェルターを作ったのが、奥さんに浮気され、家族が全員出ていったあとだということだ。核戦争でも天変地異でもなく、裏切られた腹いせに一人だけ生き残ってやろうと、こんなコンクリートの箱をこしらえたらしい。

 人間の醜さというのは、ときに妙に几帳面だ。

 

 だが、その几帳面さも、いまになってようやく役に立とうとしている。


「おい、この下にリックはいるのか?」

 

 階段を下るチェイスが、不安そうにこちらを振り返った。

 無駄に図体だけは大きいと思っていたが、数段下に頭があると、その幼さがいっそう際立つ。まるで、暗い穴に降ろされるのを嫌がる子供のようだ。


「しばらく潜るには、これ以上ないほど安全な場所だ。心配するな」


 扉には大きな鉄の閂がかけられている。

 リックの安否には触れず、顎で促してチェイスに開けさせた。金属が擦れる重たく硬質な音が階段の奥に沈んでいく。


 鉄の扉が開ききる前に、そっと肩のスリングから銃を外して構えた。照星にチェイスの背中を重ねる。その背中越しに、部屋の内部がゆっくりと姿を現した。

 

 地上の換気口へ伸びる太いパイプ。メタルラックには非常食と水。隅にはボックス型の簡易トイレ。

 

 もちろん、そこにリックの姿はない。

 

 それに気づいたチェイスが振り返り、銃を構えたマルティンを見ると驚愕に顔を歪めた。


「おい……おいおいおい、ど、どういうことだよ。やめろ、撃つな!」

「後ろに下がれ」

 

 言うまでもなく、彼は追い詰められた獣のように後退って、部屋の隅に背中をつけた。

 マルティンは照準を外さないまま膝をつき、背中のバックパックを地面に降ろす。中からくくり罠用のワイヤーロープを取り出すと、チェイスの足元に投げた。


「それ、拾え」

 

 チェイスはびくりと肩を揺らし、ぎこちなくワイヤーを掴む。


「わっかに足首を通せ」

 

 その一言で、彼の顔色がさらに青ざめた。


「騙したのか……お前、一体誰なんだよ」


 マルティンは小首を傾げて、トリガーに指をかけた。カチ、と高く小さな音が空気を裂く。


「おい、やめろ。わ、わかったよ。やるから撃つな」


 チェイスが屈みこみ、こわごわと輪に足首を通す。締める前に一度こちらを見たが、目が合った瞬間に体を強張らせ、ようやくワイヤーを引き始める。カチ、カチ、と金属片が噛み合う乾いた音が続く。


「ぎりぎりまで締めろよ。終わったら、片方はそこのパイプに同じように締めろ」


 鍛え上げたであろう筋肉の筋が浮く腕が、操り人形のように指示通りに動く。

 チェイスの両腕に刻まれたピストルと弾丸のグラフィティ風タトゥーは、いまはむしろ幼さを際立たせていた。

 パイプにもワイヤーがくくられ、最後にギギ、と金属を擦る音が途絶えた。


「足、体重かけて引け」


 チェイスが壁に手を付き、言われるまま脚を蹴り上げた。ワイヤーが肉に食い込んだ瞬間、息を呑んだように足首を抱える。


「わかっただろ。お前よりデカい猪でも暴れれば足が終わる。……忠告はしたからな」

 

 ようやく銃を降ろすと、引き金から外した指に遅れて汗が滲んだ。


「意味わかんねえ、何がしたいんだよ。……リックはどこだよ」

「そのリックがしたことを、お前に返してるだけだ。拉致監禁。そうだろ?」


 その言葉に、チェイスはぽかんと口を開けた。


「――そうか。そういうことか。お前、あの女の男かよ」

 

 いいね。その響きは胸のどこかをくすぐった。


「女さらわれた腹いせってことか。くそっ――でも、待てよ。未遂だったんだろ? リックはどうした」

「リックは、僕が手を下せないところにいる」


 あの世にな。


「は、嘘だろ。あいつ警察に捕まっちまったのか?」

 

 マルティンはなにも言わず、肩をすくめた。


「まじかよ……」とチェイスは壁をずるずると滑り、座り込んだ。

 がりがりと頭を掻きむしるたび、黒い短髪には細かなフケが浮き、汗と埃が混じった匂いがわずかに立った。

 しばらく項垂れていたチェイスがぱっと顔を上げる。


「な。女に手ぇだしたのは悪かったよ。俺も出頭する。だから許してくれ」

「随分あっさりだな。女を差し出してまで逃げ延びたかったんじゃないのか」

「……あいつが捕まったなら、もう終わりだ。俺が行って説明してやんねえと」

「説明?」

 

 チェイスがぐう、と喉を詰まらせる。掌を合わせて鼻を押しつけた。


「あのチャイニーズの夫婦を撃ったのは……俺だ。あいつはなんも悪くねえんだよ」

 

 マジックで書いたようなくっきりした眉が、情けなく垂れ下る。

 ハンクは犯人は相当狼狽えていたと言っていたが、目の前の男の事だと思えば妙に腑に落ちた。


「頼むよ。女の復讐ってんなら好きなだけ痛めつけてくれてもいい。でも、殺さないでくれ」


 足元にひざまずき懇願する視線を、切るように目を逸らす。


「僕は痛めつけも殺しもしない。暴力は嫌いなんだ」

 

 チェイスは困惑したように「じゃあ、なんで」とこぼす。


「お前をどうするか決めるのは、彼女だ」

「……は、女?」


 視線が左右に揺れると、


「ここまでするってことは、マリナって女、怪我でもしたのか?」


 と、呆れたことを口にする。

 

 彼女の口の端の傷を思い出す。それ以外に目立った外傷はなかったが、でも、服の下は分からない。頭をよぎる嫌な想像に、奥歯を噛みしめた。


「男と女だ。何もなかったとは思えない」


 弾かれたようにチェイスが顔を上げる。


「は? レイプされたってか? それはありえねえよ」


 と言ったあと、はっと口をつぐむ。

 やけに、はっきり言ったな。


「……とにかく、リックはそういう奴じゃねえ。思い違いだ」


 ――こいつら、やっぱりそっち系か。

 だが、今となっては取るに足らないことだ。こうして捕獲した以上、こいつはもう脅威ではない。

 あとは彼女に判断をゆだねるだけだ。


「まあいいさ。近いうちに彼女を連れてくる。その時わかるだろ」

「近いうちっていつだよ」

「都合もある。そのうちだよ。非常食は勝手に食っていいから、楽にしとけ」


 バックパックを拾い上げ、部屋を出て重たい鉄扉を引く。閉まりきる直前、隙間から「イカレ野郎!」という罵声が漏れた。

 

***


 リビングの床にバックパックを放り、テーブルに銃を置く。ソファに身を投げると、コイルが派手に軋み背中をわずかに押し返した。革張りのひじ掛けが、汗の残る首筋にじっとりと張りつく。


 時計は、午前三時を指していた。


 さすがに、くたびれた。

 万里奈の障害をひとつ取り除いた悦びが、胸を甘く締めつける。

 込み上げる欠伸も、足の倦怠感も、運転で凝り固まった腰の痛みも、彼女を思えば、どれも心地よい余韻に変わる。

 

 しかし、その達成感とは裏腹に、胸の底に別の感情が沈む。

 

 恐怖だ。

 

 掌を見る。節くれだった長い指、青白い肌。見慣れた自分の手。

 あの時、排莢口からはじき出された弾丸をこの掌で受け止めた瞬間。鳩尾から刃を差し込まれたみたいに、心臓が凍りついた。

 それは、彼女が与えた痛みだった。

 

 まるで悪魔に魅入られたみたいだ。

 

 心は確かに恐怖を感じているのに、足は勝手に供物を探している。いずれ自分の心臓さえ彼女に差し出すのか、あるいはこの手も血に染めるのか。

 誰かの秘密に寄り添うということは、こんなにも身を削ることなのか。


 今思えば、幼い頃の自分はその恐怖に耐えられなかったんだろう。秘密だけを握って、ノックス自身からは目を背けてしまった。


 今度こそ、見捨てない。

 マルティンは広げた掌をぎゅっと握り、いつしか微睡に沈んでいった。

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