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彼女が吐く息すべて、彼が見つめるものすべて  作者: ひめじろ
第二章 「マルティン」
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6.捕獲

 林道を登り始めて十分も経たないうちに、状況が見えてきた。


 道の中腹の坂道に、パトカーが何台も停まっている。タイヤにはオレンジの輪留めが掛けられ、完全に固定されていた。

 

 農場の一斉摘発か。

 チェイスの足取りを追って来たか。

 あるいは、その両方か――。

 

 奥には黄色いテープが張られ、規制線の前に保安官が直立不動で立っている。


 「そこの男、止まれ」

 

 規制線の前の保安官がマルティンに気づき、手で制した。

 両手を上げ立ち止まる。


「ハンティングの帰りだ。騒がしかったから様子を見に来ただけだよ」

 

 保安官はジャケットのフードを少し上げ、マルティンを一瞥する。


「地元のハンターか」

「ああ。なにがあったんだ?」

「捜査中だ。答えられない」

 

 保安官がかぶりを振る。マルティンは肩をすくめて、


「物騒だな。……なあ、獲物を追ってる最中なんだ。まだ森にいて危険はないかな」


 と探りを入れる。保安官は一度だけ後ろを振り返り表情を硬くした。


「今日はもう入らない方がいい。危険だ」

「……誰か、森に逃げたとか?」

 

 保安官は溜息を落とすと「帰りなさい」とだけ言った。

 その時。

 保安官の無線が鳴った。彼は肩のマイクに手を当て、短く応答する。


「……了解。見失った地点は?」


 その一言で、胸の奥が冷えた。だが、すぐに耳を澄ませる。

 ノイズが混じる。


「……手錠の……」「……南側の斜面……」

 

 断片だけが拾えた。

 ――チェイス。

 

 無線に応答中の保安官に向けて軽く手をあげ、踵を返す。斜面を下り、彼の視界から外れた瞬間に、マルティンは走り出した。

 

 足を踏み下ろす振動に合わせ、吐息と一緒に断続的に笑いが漏れた。

 今日は走ってばっかりだ。

 暗闇を切り取るヘッドライトの明かりが、壇上を照らすスポットライトのようにまばゆく揺れている。


 ——万里奈。僕の世界はいま、ひどく満ちている。

 ——君と歩む物語はこんなにも楽しい。

 

 車に滑り込み衛星写真で地図を確認すると、車を発進させた。ぱちぱちとタイヤが枝を踏みしめる音が、開幕の合図みたいだ。遠くで犬の吠える音が響く。

 

 捜査官とマルティン。

 

 先にチェイスを捕獲するのはどちらだ。

 それとも、彼が逃げ切るのが先か。

 腰から首筋にかけて微弱な電流が這い上がるような感覚を、ゆっくりと息を吐いて散らした。ハンドルを握る手が汗でぬめる。

 

 チェイスは斜面を下ったら、林道を通りこして林の中に入るだろう。だが川辺には出ない。開けた場所よりも暗い木々の中に身を潜ませたいはずだ。

 

 向かう方向は? ――北だ。

 リックとチェイスの根城、そして万里奈のいる町。アルケータに向かうに違いない。先回りして、北側の林の中で待ち構えよう。

 

 マルティンはしばらく車を走らせると、北側の林に入りエンジンを切った。

 闇が一気に濃くなる。風のない森は、息を潜めた獣の腹の中みたいに静かだ。

 ヘッドライトを消すと、世界がひっくり返ったように暗くなった。

 車を離れ、湿った土を踏みしめながら木々の奥へと進む。

 

 ここだ。

 

 倒木の影に腰を落とし、呼吸を浅くする。森の匂いが肺に満ちていく。腐葉土、湿った苔、獣の通り道の残り香。

 

 耳が研ぎ澄まされる。遠くで、草をかき分ける音が風にのって耳を撫でた。

 チェイスだ。

 

 獣は追われると必ず暗い方へ逃げる。人間も同じだ。追い詰められれば、原始の本能に戻る。マルティンは膝に肘を置き、じっと闇を見つめた。視界の端で木々の影がわずかに揺れる。

 

 ――来る。

 

 胸の奥で微弱な電流がまた這い上がる。この「待ち」の時間がたまらない。獲物が自分の存在に気づかず、こちらへ向かってくる瞬間。

 

 肩のスリングからレミントン700を降ろす。膝に横たえ、指先で冷えた金属をなぞる。弾倉の底を軽く押すと、鈍い重みが返ってきた。空ではない。そこにあるという確かな感触だけが、静かに掌へ伝わる。

 

 そこで、はたと気づく。

 

 おいおい。なにをする気だ?

 撃つのか? 脅すのか? まさか――殺す気か?

 

 馬鹿な。自分は殺人鬼じゃない。万里奈が想像する仮初の設定に踊らされるな。

 

 一瞬でも頭に過ったありえない選択を隠すように口を押さえた。そのまま髪を掻き上げる。額の汗が手にじっとりと張りついた。

 

 自分の目的はなんだ?

 彼女の秘密を守り、そして彼女の作る物語の最初の読者であることだ。勝手にストーリーを進めることではない。

 

 なら、やることは一つ。

 

 ボルトを起こして引く。排莢口から弾き出された弾を手で受け止めた。長細い金属の塊を掌で転がすと、その冷たさが夜気よりも鋭く皮膚に刺さる。七・六二ミリ弾で撃たれたら、人は容易く命を絶たれる。

 ふいに、リックの傷口が頭をよぎる。万里奈は人の命を奪うこの冷たさに、耐えられたのだろうか。

 

 その時、前方の茂みから黒い靄のような影が現われた。

 倒木に身を隠したまま、極限まで潜めた声を影に向けて投げる。


「おい、こっちだ」


 影はびくりと身を固め、きょろきょろと周囲を見渡す。


「お前、チェイスだろ」


 一瞬の制止。次の瞬間、影は弾かれたように方向を変えて走り出す。マルティンは倒木から身を乗り出し、声を強めた。


「待て。……リックだ。リックに言われて来た」

「……リックだって?」


 影の声が打ち震える。歓喜なのか。それとも追われる怖気からか。


「来い、車がある。逃げるぞ」

 

 背中を向けて肩越しに言う。影は戸惑うように後方を何度か振り返ったが、遠くに犬の鳴き声が響くと、ついにこちらに向かって走り出した。


「おまえ誰だよ。リックはどこだ」

「話はあとだ。今は走れ」


 車に辿り着くとチェイスを後部座席の足元に押し込んだ。車中泊用に積んでいた毛布をかぶせ、その上に座席に散乱していた物を無造作に積む。テントや、クーラーボックス。ついでに着ていたジャケットも放り込んだ。チェイスが芋虫のように身動ぎする。


「じっとしてろよ」

 

 そう言って、車を発進させた。

 林道を抜けた瞬間、赤青灯が闇を切り裂いた。パトカーが道を斜めに塞ぎ、保安官が一人、懐中電灯をこちらに向けて立っている。


 ――やはり敷かれたか。

 深呼吸をして胸のざわめきを押し沈める。


「検問だ。しばらく息止めとけ」


 声だけを後部座席に投げ、パトカーの前にゆっくりと停まった。ウィンドウを降ろし、窓枠に腕をかけて保安官を見る。

 それは先ほど規制線の前にいた男だった。余程手が足りていないのか。好都合だ。


「なんだ、またあんたか」


 保安官は懐中電灯でマルティンの顔を照らすと、呆れと疲労が混じった声でそう言った。


「山に入るなって言うし、帰るとこだよ」

 

 掌をひらひらさせて肩をすくめる。

 保安官は軽く息を吐き、無言で懐中電灯を車内に滑らせた。光が後部座席の毛布の山に触れ、テントやクーラーボックスの影を揺らす。マルティンはチェイスと同じように息を止めた。

 

 その瞬間、無線が割れた。

「……南側……まだ見つからない……」「……犬が反応……」

 

 保安官はそちらに顔を向け、短く舌打ちした。


 「ったく、今日は忙しいな。……よし、行っていいぞ」

 

 懐中電灯を軽く振って道を示す。

 マルティンは頷き、「ご苦労さん」と一言落としウィンドウを上げた。

 毛布の下で、チェイスの息がわずかに震えた。


 国道に入りしばらく車を走らせた。途中パトカー二台とすれ違ったが、こちらに興味を示す様子はない。


「……おい、もういいか」


 後部座席から、毛布越しのくぐもった声がした。


「顔は出していいけど、そのまま伏せてろよ。まだ検閲があるかもしれない」

「くそ、これ臭えよ。なんか牧場の匂いがする」


 毛布から顔を出したのか、声が明瞭になる。


「文句いうなよ。放り出すぞ」

 

 そういえば、このあいだ鹿を仕留めたときに下敷きに使ったか、と喉まで出かかったが黙っておいた。


「なあ、あんた誰なんだよ。リックの何なんだ? どこに向かってるんだよ」


 矢継ぎ早に飛ぶ質問に鼻を鳴らす。


「答えてやるさ。ただし、まずはこっちの番だ。――あそこで何があった?」

「……知らねえ奴に話せるかよ」

「そうか、じゃあ降りるんだな」

 

 後続車がいないのを確認してアクセルを抜く。車体が沈み、後部座席で何かが転がって鈍い音を立てた。


「組織犯罪絡みで、これまでは見逃されてただけだ。だが、もう違う」


 チェイスがわずかに唸った。


「お前とリックは、そのうち指名手配だ。逃げ切れると思うなら好きにしろ。手錠をかけられたまま走れる距離なんて、たかが知れてるがな」

 

 捜査の進捗なんて知る由もないが、上が叩かれたとなると、この推測もあながち的外れではないのかもしれない。

 チェイスが押し黙る。マルティンは視線も向けず、ただ無言で続きを促した。

 車内に重い沈黙が落ちる。


「……何があったかなんて知らねえよ。寝てたら外が急に騒がしくなって、それで――」


 チェイスは言葉をひとつずつ落とすように話し始めた。

 彼は、不法入国の収穫移民の女性たちが寝泊まりする部屋とは別の、納屋のような場所に押し込まれていたらしい。施錠はされていなかったが、納屋は組織の男たちが寝起きする部屋の片隅にあり、逃げ出すのはほぼ不可能だった。


 だが、深夜。捜査官たちが一斉に踏み込んできて、状況は一変した。

 外の男たちは寝込みを襲われ、抵抗する間もなく次々と制圧されていったという。チェイスは納屋の中で息を潜め、外が一瞬だけ静まった隙を見て、そのまま逃げ出した――それが彼の言い分だった。


「――なあ、もういいだろ。どうなってんのか教えてくれよ。リックはなんでここにいないんだよ」


 手錠が鳴り、後ろで何かが散らばる音がしたかと思うと、次の瞬間には、頭のすぐ後ろでチェイスの声が響いた。

 バックミラー越しに目が合う。充血した瞳はひどく怯えている。リックほどではないが、チェイスの顔にも殴られた痕が残っていた。目の上の黄疸は、ようやく引きかけているところだろう。


 ――ここからが本題だ。


「リックは怪我をしてて来れない。いまはすやすや寝てるよ」

 

 嘘ではない。事実を少し整えただけだ。

 チェイスの顔色がさっと青ざめる。


「怪我……? 無事なのか? あいつ、女連れてくるって言って、それっきりで……」

「ああ、その女に抵抗されて、拉致は失敗した。――そこでやっかいな問題があってな」

「問題?」

「女の名前、なんて言ったかな……ええっと――」


 焦れたチェイスが、反射的に口を挟む。


「マリナだろ。リックと同じ大学の」


 車内の温度が一段下がった気がした。

 チェイス。

 お前はアウトだ。


「……そうそう、マリナだ。いい女だよな、高く売れそうだ。――上の奴らには見せたのか? 写真とか」

「別に見せちゃいねえよ。女拉致るってことしか言ってねえ。……おい問題ってなんなんだよ」


 組織はセーフだ。逮捕された連中から聴取で万里奈の名前が出て、リックの失踪と結びつく可能性は消えた。心の支えが一つ減り、肩の力が抜けていく。

 いま欲しい情報は取れたところで、マルティンは急に声を張った。


「おい、伏せろ! 」


 チェイスは反射的に後部座席へ潜り込む。手錠がシートに当たって、乾いた金属音が跳ねた。


「……パトカーだ。お前、やっぱしばらく潜ってろ」


 国道は相変わらず閑散としている。 オレンジ色のナトリウム灯だけが、間延びした帯になってフロントガラスを流れていった。


「……なあ、問題ってなんだよ。なにがあったんだ」


 毛布の奥から、くぐもった声が漏れた。拗ねたような調子だ。


「あとでな。安全な場所に着いてから答えるよ。もう寝とけ」


 舌打ちがひとつ。

 わずかに身じろぎする音がして、続けてぼそりと、


「……臭えよ」


 その一言だけが、毛布の中に沈んでいった。


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