5.追跡
深夜のブロードウェイにはまだ車の往来とネオンの残光があり、人の気配がかろうじて街を温めていた。
しかし一本裏の道へ折れると、湿った鉄と油の匂いだけが濃くなり、人気のない工業地帯の気配が肌に張りついた。舗装の剥げた路面越しの空き地には放置されたトレーラーが無造作に並び、錆びたフェンスの奥で廃倉庫の影が連なっている。
しばらく空き地の横を舐めるように徐行していたが、フェンスの切れ間を見つけるとマルティンは車を停めた。
申し訳程度に置かれたバリケードを片足で越え、空き地へ侵入する。砂利混じりの土を踏む音だけが、だだっ広い空間に乾いた反響を返した。
フェンス沿いに並ぶ二棟の倉庫へ向かう。
大きな鉄扉は開け放たれ、覗き込むと、がらんとした空間の中央に錆びたボール盤が一台、横倒しのまま放置されていた。
――外れか。
もう一棟の倉庫も似たようなものだった。
倉庫の横手へ歩を進めると、建物の切れ間に一台の車が見えた。
暗色のカーゴバン。遠目には判然としないが、少なくとも打ち捨てられたものではない。
倉庫を背に覗き込む。
影に隠れていて気づかなかったが、そこには小さな建物があった。
倉庫というより、平屋建ての箱がぽつんと置かれているような印象だ。窓のカーテンの隙間から、一筋の光が漏れ出ている。
足音を潜めて建物に近づいた。
窓は薄く開けられていて、中からは男の話声が漏れてくる。
――二人、いや三人か? 声は低く籠っていて、聞き分けが難しい。
中をそっと覗き見る。バーカウンターが見え、後ろの棚には酒瓶がいくつも並んでいる。その棚に取り付けられたハイネケンのネオン電飾は光を失っていた。
写真の背景と同じ場所に間違いなかった。
ふるっと背筋が震え、脇の下に汗が滲む。秘密を見つけた時ほどではないが、探偵をやっていると、こういった瞬間が一番胸が躍る。
でもマルティンはいま探偵ではない。万里奈のために動く影だ。自分を戒めつつ、中の観察を続ける。
隙間からは男たちの姿は見えず、声だけが聞こえてくる。
「……で、数は?」
「今週は抑えめ。三十……いや、四十いける」
「夏休みだぞ。もっと回るだろ」
「回るさ。ただガキども、まとめては買わねえ。ま、盛り上がり次第だな」
紙が擦れる乾いた音がした。
「色は?」
「青と白。いつもの組み合わせだ」
一瞬、カーテンの前に影がよぎった。咄嗟に窓から顔を離す。
男たちの話し声はまだ続いている。静かに息を吐き戻した。
こいつら、大麻パーティと称して、その実、別の物を捌いているわけか。合法化してからは、ここでは草でちまちまと商売してもいられないのだろう。
次の瞬間。
「チェイスは?」
来た。血がすっと落ちる。
「チェイス? あいつはもう無理だ」
「まだ奴らに捕まってんのか」
「ああ。この間顔出したらよ。あいつ手錠に繋がれて、女どもに混じって大麻のもぎり作業やらされてた」
「は、ダセえ。やらかし過ぎだ、あのバカ」
低い笑い声が響く。
「で、あのガキは? 金作るために解放されたんだろ」
「……リック?」
「他にいねえだろ」
――リックの名前も出たか。情報を聞き逃さないよう、耳をそばたてる。
「あいつ、なんか言ってたな。金の代わりに女連れてくとかなんとか」
「は? あいつが? できるタマかよ」
「いや……あいつ、チェイス絡むと頭おかしくなるだろ」
グラスが当たる音が小さく響く。
「それはチェイスもだろ。……マジであいつら、そっち系なんじゃねえの」
「だろうな」
野卑な笑いが、薄い壁越しに濁って響いた。
ふいに、木の軋む音と、なにかを引き摺る気配がする。
――まずい、席を立ったか。
その場を離れようとした瞬間、足元の砂利が高く鳴った。
「――誰だ!」
重い足音がこちらに向かってくる。
間に合わない。
マルティンはあえて扉の前に立ち、腕を上げてノックの形を作った。
扉が開く。
「――あ? 誰だてめえは」
急に差し込んだ明かりに目を眇めながら、男たちを見る。キャップを被った黒人の大柄な男と、その後ろに、眉の上にタトゥーを入れた不健康そうな痩身の男。
マルティンは腕を宙に上げたまま、驚いた顔を作る。
「びびった。……ああ、わるい。ここ、420の会場だろ?」
「ああ? 今日はパーティはねえよ。帰んな」
ドアを閉めかけた手に、軽く指を添える。黒人の男が顔を顰めた。
「知ってる。四日後だろ? 僕はパーティじゃなくて、ディーラーを探してる」
商売の匂いを嗅ぎつけたのか、男はドアをわずかに開いた。
「チェイスって男、あんたら知らないか? 取引があったのに連絡がつかないんだ」
男たちが顔を見合わせる。
「あんた、残念だったな。あいつとはもう取引はできねえよ」
タトゥーの男が後ろで笑った。
「なんだって?」
僕は視線を落とし、独り言のように言う。
「まいったな……こっちにも客がいるんだが」
少し間を置いて視線を上げると、男たちは背を向けて何か小声で相談している。
「……まあいい、邪魔したな」
踵を返すと、「待て」と背中に声がかかった。思わず笑いがこみ上げるが、顔を作り直して振り返る。
「なんだ」
「量は?」
単位なんて知るか。適当にさっき男たちが話していた数字をそのまま盛る。
「五〇は欲しい」
黒人の男が鼻の孔を広げた。どうやら美味い商売らしい。
さて。こうなったらチェイスがいる場所を探りだしておきたい。
チェイスはいま囚われの身のようだが、いずれは仮釈放つきの債務奴隷のように金稼ぎのために解放される恐れがある。その役割だったリックが消えたとなれば、なおさらだ。万里奈に辿り着かれる可能性がある以上、居場所を先に掴む必要がある。
「……なあ、急ぎなんだ。できれば今日にでも欲しい」
内心の焦りが声に乗った。いい感じだ。
「はあ? 無茶言うな。上が動かなきゃ下りてこない」
「じゃあ、その上ってやつに直接買い付けたい」
男二人に鼻で笑われる。
「あんた素人か? 場所を明かせるわけねえだろ」
「お前らこそ察してくれよ。客はもう金を用意してる。こっちは準備できませんでしたじゃ済まないことぐらいわかるだろ」
タトゥーの男が鼻白む。マルティンは畳みかけるように言う。
「別に僕じゃなくてもいい。あんたら、今から上にかけあって持ってこれないか?」
「無理だって言ってんだろ」
「くそ、……だよな」
あっさり引いて見せる。
頭を掻きむしって体を細かく揺すった。最後にひとつ溜息を吐くと、「もういい」と言って背を向ける。
演技過剰だ。腹の奥がわずかに引き攣った。
「……おい、待て」
――ちょろいなこいつ。
「いくら出せる。無理言うぐらいだから弾むんだろ」
「逆にいくらなら動いてくれる?」
相場なんて知るはずがない。言わせたもん勝ちだ。
「……倍だ」
「倍?」
吹っ掛けられてるのかも判然としない。そのまま飲めば逆に怪しまれる。ここは大いに悩む振りだ。
口元に手をおいて俯く。男たちが焦れ始めた頃合いをみて、ようやく口を開いた。
「……くそ、分かったよ。倍でいい」
悔しそうに顔を歪ませてみせると、黒人の男が大きな鼻をひくつかせて笑った。これは相当欲をかいたな。お互いに。
「よし、いいだろう。お前はここで待っとけ」
「ここで? どのくらいかかる」
「余計なことは聞くな。お前、後がないんだろ」
男たちは嘲るように笑うと、カーゴバンへと乗り込んでいく。そっと息を吐く。
どちらかは残ると思ったが、馬鹿で助かった。
タイヤが砂利を高く鳴らし、目の前を通り抜けていく。遠くでバンが一度停まり、タトゥーの男がバリケードをどかし、車が通過するとまたそれを戻して乗り込んでいった。
そして車が見えなくなった瞬間。
マルティンは走った。
風を切る音が耳を裂く。
こんな全力疾走はいつぶりだ。バリケードをハードル走のように飛び越えると、急いで車に乗り込む。すでに奴らのバンは見えないが、テールライトの明かりだけが、糸を引くように道路に落ちていた。
まだ間に合いそうだ。
どのみちこの車通りの少ない道では接近はできない。エンジン音を響かせないように、ゆっくりとアクセルを踏んだ。
夜霧の中で赤い残光が揺れ、まるでこちらを誘うように遠ざかっていった。
***
国道に入る前、二台ほど車が通過してから合流した。
すでに零時を回った町は車影もまばらで、距離を詰めればすぐに気づかれる。
――と、思ったが奴らまるで素人だな。
ミラーを確認する気配もなく、速度も一定。不自然な車線変更もなし。尾行を警戒している様子は微塵もない。これがブラフなら大したものだが、マルティンの突貫の演技にあっさり引っかかった所を見ると、その危険はなさそうだ。
ちょうど後続に大きなトラックが見えたので、減速して追い越させ、さらに一台挟んだ。
車体がすっぽり隠れると、わずかに息を吐いた。
チェイスを追うのは、半ば探偵の勘だけで動いていたに過ぎないが、さっきの会話を聞く限り、その判断は間違っていなかった。
チェイスは危険だ。
万里奈にとっては、いつ爆ぜてもおかしくない時限爆弾みたいな存在だ。
リックとチェイスが本当に危うい関係なのかは分からない。ただ、厚い信頼で結ばれているのは確かなようだ。もしチェイスが解放されれば、まず相棒の身を案じるだろう。その姿が見えないとなると、万里奈に接触を図るに違いない。
万が一、奴にリックの死が知られるようなことがあれば――
思考を巡らせているあいだに、前方の車が次々と側道へ外れていった。広い国道に、バンとマルティンの車しか残らない。
――まずいな。
徐々に速度を落とし、地平の先に車体の頭がかろうじて見える程度まで距離を空ける。これからさらに人里離れた場所へ向かうだろうが、 ぎりぎりまで距離を保ち、せめてどの林道に入るのかだけは見極めたい。
一時間以上経過した頃。
国道一〇一号線は、山間の道をひたすら南へと突き抜けていった。 カーナビを横目に、奴らが降りそうな地点をいくつか予測しながら進む。
ふいに、前方のバンが減速した。ウィンカーも点けずそのまま側道へ滑り込んでいく。
マルティンは側道には入らず、そのまま直進した。
距離を取りつつ、ミラーで後方を確認する。十分に時間をあけてからUターンし、ようやく側道へ入った。
側道は川沿いの林を延々と蛇行しながら進む一車線の道路だった。背の高い木々がトンネルのように覆い、静まり返った空間に走行音がやけに大きく響く。ここまで来ると、バンの姿を視界に捕捉することすら危険だ。窓をわずかに開け、前方から流れてくる微かなタイヤノイズだけを頼りに車を進めた。
その時。タイヤの音が変わった。
ゆっくりと高く軋む音。角度を変えながら石を踏みしめる乾いた擦過音。続いて、がたがたと車体が弾むような振動が伝わってくる。どうやら林道に入ったようだ。
カーナビを確認する。すぐ先にある林道は一本だけ。ここから追わない。道同士に高低差があり、カーブも多い。近づけば、逆にこちらが捕捉される。
マルティンは道を外れ、林の奥に車を滑り込ませると、エンジンを切り、ライトも落とした。あとはここで待機し、奴らが戻るまでの時間で、おおよその位置を割り出せばいい。
アプリで衛星写真を開く。林道の奥には、ぽつぽつと家屋の影が見える。農園は森の奥に隠してあるかもしれないが、従業員の寝泊まりするタコ部屋は、民家に偽装している可能性が高い。
ここまで絞れれば上出来だ。背中の力が抜け、シートに深く沈みこむ。
あとは気ままに待つだけ――
そう思った矢先。
奴らのバンが音を立てて降りてきた。
ばれたかと思い、さっとエンジンに手を伸ばすが、こちらに気を止める素振りもなく猛スピードで通り過ぎていった。
虚を突かれてしばらく時が止まる。
気づいた時にはテールランプの明かりさえ消えていた。ものの五分も立たない内に降りてきたが、上でなにかあったのか?
マルティンは車を出て、林の奥の開けた川辺まで降りると頭上を仰ぎみた。木々の隙間からは、山の斜面が見える。
「……嘘だろ」
明滅する赤青灯が山肌を断続的に照らしていた。胸の奥をざらりとした質感が撫でていく。
マルティンは即座に車へ戻り、後部座席に投げてあったハンティングジャケットに腕を通し、猟銃ケースのスリングを肩に掛けた。
何があったにせよ、ハンターの格好ならいくらでも言い訳が利く。登って様子を探るしかない。
ジャケットのポケットからヘッドライトを取り出し額に装着すると、林道へ向けて足を踏み出した。




