4.Every Breath You Take
とろっとした透明の液体を、半球状に繰りぬかれたシリコンのモールドに流し込んでく。
底面に膜が張るように満たすと、樹脂が固まるのを小一時間ほど待った。半分ほど硬化したところで、刷毛で綺麗に土を払った蛾の死骸を落とし込む。
そこへまた樹脂を注いでいく。
あとは待つだけだ。
樹脂にはいくつかの気泡が入り込み、まるで中の物が呼吸をしているかのように透明な粒が浮かび上がっている。ひっくり返って腹を見せている蛾の、翅に浮かぶ目玉模様は今は見えない。
やわらかいモールドを崩さないようにそっと持ち上げ、デスクライトにかざす。半透明のシリコンから、その黒い目玉の縁がぼんやりと滲むように現れた。
――万里奈。君は見つめられるのが嫌いなんだね。
じっとこちらを凝視するような目は確かに不気味だが、どこか自分と近しいものを覚えた。
なるほど、彼女に嫌われるわけだ。
Mr.シオザキからの調査を終えたあとも、マルティンは万里奈から目が離せなかった。 偽のアカウントを作り、彼女のインスタグラムやXのアカウントをフォローした。
日常が切り取られた投稿を見ても、ほほえましいばかりでマルティンの欲望は満たされない。だから時間さえ空けば、彼女の寮の裏手にそびえる丘陵の森へ足を延ばした。
彼女は知っているのかな。あそこの林道からは、彼女の部屋が見下ろせることを。
バードウォッチングの振りをして、何度も双眼鏡で万里奈を覗き込んだ。
デスクで勉強をするつむじ。薄いレースごしにサイラスと交わる影。毎晩決まった時間にかけるビデオ通話。
その通話の相手が母親だということはMr.シオザキから聞いていた。
万里奈は通話の前に一度深呼吸をする。
今時珍しいくらいに過保護な親だ。さぞ息が詰まるだろう。しかし彼女は通話がつながると同時に、切ないほど愛おしそうに顔を綻ばせる。憧憬の滲むその顔を見て、心から親を愛しているのだとわかった。
でもそれは一瞬だった。
瞳は虚空に落ち、唇だけで笑顔を作る。
それを見てマルティンは唐突に理解した。彼女はここへ逃げてきたということを。
そして思ってしまった。彼女はいつか、ノックスのように秘密を抱えきれずにこの世界から消えてしまうじゃないかって。
――そんなのは嫌だ。僕はいつまでも君を見つめていたい。
一度堰を切った思いは止めることはできず、あとは濁流に流されるままに、万里奈との接触の機会を計った。
ある日、万里奈のXのアカウントを見ていると、ある投稿に彼女が「いいね」を押した跡を見つけた。投稿は、行方不明者の捜索ボランティアを募集する内容だった。
場所はシックスリヴァー。 マルティンの狩場だった。
期待に胸が震えた。翌日、彼女がアウトドアショップでトレッキングシューズを購入したのをみて、それは確信に変わった。気づいた時には、林道の奥に車をとめ、森に潜んで彼女が現われるのを待ち構えていた。
あの森で彼女に頬を叩かれた痛みは、いまでも甘い痺れをともなって鮮明に思い出せる。だってあの時気づいたんだ。
万里奈は人を殺した過去がある――ってね。
彼女は触れれば崩れそうなほどに不安定だった。
だから少しだけ、揺さぶってみた。言葉を選んで、順番に置く。
その度に彼女は細い肩を震わせて、動揺を悟られまいと下唇をそっと噛みしめた。
その小さな歯の白さといったら――!
おっと、それはまあいい。
とにかく、彼女は限界が近いと思った。ああいう壊れ方をする人間をマルティンは知っている。ノックスと同じ結末にはさせない。
その日を境にマルティンは誓った。
いちファンという立場に甘んじるのはもうやめだ。彼女の苦悩を読み取り、進行を整え、危うい展開を手直しする。放っておけば自壊する彼女の物語を、作者に代わって守る編集者となろうと。
そして今まさに、自身の力量が試されようとしている。まさか逃げ出してきたこの地でも殺人を犯すなんて、そんな展開は彼女が望んだものとは思えない。
だから、彼女にこう言ってあげたい。
「面白い。このまま進めよう。けど破綻しないように軌道修正が必要だ」
ってね。
彼女が途中で筆を折らないように。願わくば新しい物語を描けるように。影となって支えることに決めたんだ。
夕食を終えて寝支度を整えたころには樹脂は硬化していた。モールドを剥がすと、艶めいたドーム状の置物が出来上がった。それをデスクに広げた万里奈からのラブレターの上に置く。
端正な文字が屈折して浮かびあがり、すぐそばに目玉模様が寄り添った。
不思議と、彼女との距離が近づいた気がした。
ベッドに入る前、レコード盤にはまったままの円盤に針を落とす。シーツに身をくるむ頃には、一定のリズムを刻むスネアが遠くで脈打ち始めた。抑制された囁くようなボーカルの声が耳の奥に沈みこむ。
The PoliceのEvery Breath You Take(見つめていたい)。
ラブソングの皮を被ったストーカーの歌だと揶揄されるが、その評価は間違っちゃない。
――スティング。君の気持ちが痛いほどに分かるよ。
***
翌日になると、マルティンの調査は暗礁に乗り上げていた。
すぐに見つけ出せると思っていた写真の背景に映り込むバーは、ネットのどこを探しても見つからない。実際にいくつかの店に足を運び、若者たちに写真を見せて回ったが、色よい返答は得られなかった。
もしかしたら、どこかの部屋やガレージを改造して作った、秘密の溜まり場のようなものかもしれない。だとしたら、写真の裏の「420」の文字も説明がつく。
夜も更け、ここで駄目なら別の線を当たろうと最後に寄った店での出来事だった。
「ジョアンナとリックじゃん、それ」
真っ赤な唇で、グラスをあおる女がそういった。
「友達?」
「学部が一緒で知ってるだけ。リックはともかく、ジョアンナは友達いないし」
色の抜けた外壁に、マルティンは女と並んで寄りかかっていた。店内は低いベース音だけが膨らんで、床板を鈍く震わせている。
「もう片方の男は知らない。三人で楽しんだのかもね。誰とでも寝るらしいよ」
「へぇ。リックとジョアンナは仲良いの?」
「仲良いっていうか……遊ばれてただけじゃん? リックって顔は良くても女癖悪いし、まともな子には相手されないから、そういう子ばっかり狙うんだよね」
なるほどね。確かにエイミーも吃音気味の喋りといい、アニメ趣味といい、友達が多いタイプには見えない。
女が空になったグラスを手持ち無沙汰に回すのを見て、手を引いてカウンターに座らせた。女は最初、友人数人と酒を交わしていたが、笑顔は噛み合わず視線は宙に浮いていた。それは退屈な日常に飽いている目だった。
まだ、何か引き出せそうだ。
「なあ、実はリックに金貸してるんだけど連絡とれなくてさ。あいつが行きそうなところ知らない?」
カウンター上部のスピーカーに負けないよう自然と距離が近くなる。マルティンが注文した酒に口をつけながら、女は上目遣いに喉を鳴らした。
「行きそうなところ……。あいつって私らが行くような店には顔ださないんだよね。ほら、どこでもウィード吸いたい奴だからさ。店ん中は禁止だし」
「君は? 酒飲みながら吸いたい時だってあるだろ?」
カウンタースツールの低い背もたれに手を回し、耳元で声を潜めた。
「学生同士の秘密の場所、教えてよ」
女はちらりと視線を向ける。長い髪を横にながして首筋をあらわにすると、
「聞いた話だけど」と、切り出した。
「ブロードウェイ北側の工業地帯に、たまに開くパーティスポットがあるんだって。詳しい場所までは知らない」
僕の膝に手を這わして、「あくまで噂」と念押しした。
「ふうん。パーティの開催はどうやって知るんだ?」
女の指先をくすぐるように指を添わすと、目の前の赤い唇が釣りあがった。
「インスタで、〈ウェアハウスパーティ〉〈ユーレカ420〉で調べてみて。日付だけ告知されるアカウントに辿り着ける」
そこまで聞ければ充分だ。
マルティンは女の手を置き去りに、礼を言って立ち上がるとカウンターに札を置いた。
「あ、ねえ。あっちに友達いるから、お兄さんも一緒に飲もうよ」
肩透かしを食らったようにいう女に「また今度」とだけ告げて、反応を待たずに店を出た。
駐車場までの道すがら、さっそく女に教わったキーワードでインスタグラムから検索をかける。
――あった。白地に日付だけが大きく描かれた画像。
八月十日。近いな、四日後だ。
それはハンボルトのカウンティフェアの開催日だった。州内外から人が集まる日。フェア帰りの若者の、二次会スポットとしての役割があるのだろう。
となると、当日になれば容易に場所の特定はできそうだ。車の吸い込まれていく先を追えばいい。
だが、チェイスが人目のつくところに現れるか?
もしそこが奴の潜伏場所ならパーティ当日は姿をくらませる可能性もある。
画面の上部の時計は二十三時を指している。
少し遅いが、行くだけ行ってみるか。
締め切り前に奔走する編集者は、こんな気分なのかもしれない。
大事な担当作家の顔を思い浮かべながら、頬を軽く張って眠気を払う。
マルティンは夜霧を裂くように歩調を強めた。




