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彼女が吐く息すべて、彼が見つめるものすべて  作者: ひめじろ
第二章 「マルティン」
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1.マルティン・ノヴァクという男① 秘密

 マルティンは完全にまいっていた。

 

 プロの探偵には暗黙の三原則がある。

 侵入しない。嘘をつかない。捏造しない。

 そして、半ば哲学のように語られる裏の三原則もある。

 観察者であれ。距離を保て。自分を消せ。

 

 今の自分ときたら、それをまるで、道に落ちたガムの包み紙をまたぐよりも簡単に踏み越えてしまっていた。

 それぐらい、君にまいっていたんだ。


 はじまりは、素行調査の依頼からだった。

 ロサンゼルスの大手探偵事務所に籍をおいていた頃に、一度だけ依頼を受けた日本人男性から、一通のテキストメールが届いた。


『久しぶりだな、マルティン。相変わらず仕事の虫か? 君がロスにいたとき世話になった汐崎だが覚えているかな』

 

 まったく覚えていなかった。

 親し気な様子のテキストに首をひねりながら読み進める。


『あの取引先の不正を君が暴いてくれたおかげで、うちの会社は九死に一生を得た。独立して今はハンボルトにいるそうだね。君の前のボスから聞いたよ』

 

ボスが仕事を回してくれたのか。彼にはいまだに頭が上がらない。


『ひょっとするとこれは運命かもな。実はいま、娘もハンボルトに留学しているんだ。そこで君に、折り入ってお願いがある』

 

 男いわく。

「娘と、娘にまとわりついている男の素行調査を依頼したい」だ、そうだ。


 そのあとも、いかに娘が愛らしく、可憐で、繊細で、賢くて、無垢であるかを延々と書き綴ったテキストを読み「ああ、あの親馬鹿か」と、やっと男の顔を思い出した。

 

 Mr.シオザキが依頼した調査期間は二週間。その提示金額を見たマルティンは、一も二もなく飛びついた。


 マルティンは子供のころから探偵という職業に憧れていた。 

「創作の世界の探偵なんてフィクションだ」と鼻で笑っていた生意気で幼い頃のマルティンは、その現実がいかに泥臭くて地味な作業の繰り返しかをよく知っていた。なぜなら父親が私設探偵だったからだ。


 毎晩疲れた顔で帰って来ては、毎朝同じ顔で出ていく。そのくせ実入りも悪い。そんな父親の姿をみて、よく同じ道を目指したものだと思うが、別に探偵と言う職業の過程や成果は重要じゃなかった。


 マルティンは、人の秘密を覗き込む行為そのものが好きなのだ。

 

 誰も気づかない癖。本人すら自覚していない嘘。沈黙の裏に潜む感情の揺れ。

 そういうものが、ふと目に飛び込む瞬間、胎の底が沈み込むように熱くなる。

 

 父が疲れた顔で帰ってきた理由も、今ならよく分かる。秘密というのは、覗き込んだ者のほうにも静かに沈殿していくものだからだ。

 

 マルティンが初めて、他人の秘密と遭遇したのは、十歳のときだった。

 

 同い年のノックスは、思ったことがそのまま顔に映し出される難儀な子供だった。眼窩に収まりきらない目は落ち着きなく泳ぎ、白い肌は赤にも青にもよく染まる。

 ノックスといると、次に何を言うか当ててしまえるから、自分が超能力に目覚めたのかと胸がときめいた。

 しかし、なんてことはない。同級生はみんな、ノックスのことならお見通しだった。

 マルティンは特別でもなんでもなかったのだ。

 

 でもノックスは秘密を隠していた。誰にも悟られず。マルティンだけが、それを覗き見た。

 

 ある日、一学年下の女の子が行方不明になった。

 地元局では連日そのニュースが流れ、当然、学校もその話題で持ちきりになった。

 マルティンは友達数人と輪になって、ロリコン趣味の靴屋の主人が犯人だとか、再婚した奥さんが怪しいとか、犯人当てに躍起になっていた。

 

 その中で、ノックスだけは顔を真っ青にして震えていた。

 口を開けば、きっと「恐ろしいね」と言うだろう。

 そして実際に、あいつはその通りの言葉を口にした。

 まったくもって、いつものノックスだった。

 

 ノックスとはスクールバスの方面が一緒で、よく隣り合って座っていた。

 先に降りていくあいつをバスの窓越しに見下ろしながら、何を考えているのか想像するのがマルティンの日課だった。

 

 物欲しそうに口をあけていれば「腹が減った」。

 目を輝かせていれば「帰ったらゲームしよ」。

 だいたい、そんなところだ。

 

 その日もステップを降りていく背中を見送り、窓の下で揺れるつむじを見下ろした。そして顔が見えた瞬間、マルティンは心臓をきゅっと掴まれた。


 あいつの目は、伽藍洞だった。


 ホワイトスクリーンみたいに全身に感情を映し出すノックスが、何ひとつ映さずに白んでいた。

 マルティンは見ちゃいけないものを見た気がして、さっと目をそらした。

 けど、自分が超能力者かもと期待したとき以上に、胸は激しく高鳴っていた。

 

 気づいた時にはもうバスを降りていて、その先にはあいつの背中があった。

 飛び跳ねたり、急に歩幅を落としたり、いつもなら目まぐるしく変わるノックスの足取りが、その日はロボットみたいに均一に動いていた。

 

 異様だった。

 

 この足は、どんな場所へ連れていくのか。マルティンはひとつ身震いをすると、胎の底がじんわりと熱をもつのを感じた。

 

 ノックスは家に帰らなかった。

 地図にピンでも打ったみたいに、一直線に進んでいく。

 

 たどり着いたのは、人気のない二車線道路。両手には休耕田が広がり、道路脇の落ちくぼんだ排水溝は、雨が降った時だけ川になる。

 

 あいつは排水溝にずり落ちていくと、道路の下に掘られた小さなトンネルの前でしゃがみこんだ。

 マルティンはガードレールに身を隠して、食い入るようにノックスを観察した。

 

 ノックスの腰ほどの高さしかないトンネルは、コンクリートで固められ、真っ黒な口を開けている。ここからでは、入口に溜まった泥と、湿った草葉しか見えない。

 ノックスの背中は微動だにせず、ただそこにいた。

 覗き込むでもなく、中に何があるか知っているかのように、ただそこに。


 マルティンは、中身が知りたくなった。

 そうなると、途端にノックスへの興味が消え失せ、眼下にいる背中が疎ましくなった。「早く帰れ」と繰り返し念じた。

 

 その思いが通じたのか、ノックスはすっと立ち上がると、またロボットの足取りで土手を上がっていった。ガードレールに隠れたまま、あいつの背中が見えなくなるまで見送った。やがて地平線にその頭が沈むと、マルティンは排水溝に転がるように降りた。

 

 排水溝の地面はぬかるんでいて、湿った枝が足元で鈍い音を立てる。買ってもらったばかりの白いスニーカーが泥で汚れるのもお構いなしに、足を進めた。

 

 トンネルの口は、間近で見るとさらに黒かった。マルティンはしゃがみ込み、泥で滑る手をつきながら、そっと覗き込んだ。

 

 奥には、枝や流木が出口を塞ぐように積み重なっていた。

 その隙間に、白いものが垂れていた。

 最初は布かと思った。

 でも暗闇に目が慣れてくると、その形がゆっくりと浮かび上がってきた。

 

 足だ。

 水たまりに落ちた湿布みたいにぶよぶよに膨らんだ、白い足。

 

 マルティンは吸い寄せられるように、一歩、中に踏み込んだ。

 その足元に、コロンとした小さな靴が泥に半分埋もれていて、何の気なしにそれを拾いあげた。


 その瞬間。

 腰が、びくびくと跳ねるように痙攣した。

 脳みその奥が痺れるような感覚が走り、視界が白く弾けた。膝が震え、そのままぺたりと座り込んだ。尻が泥に濡れるのと同時に、股間の辺りが熱くぬるついた。


 ――今思えば、あれが初めてだったんだ。

 

 マルティンは拾い上げた靴を、ズボンに押し込んでシャツで隠すと、その場から逃げ出すように駆けだした。

 

 ノックス。

 ノックス。

 ノックス!

 

 君は、なんという秘密を抱えていたんだ。

 マルティンは歓喜に震えていた。

 

 あのノックスが、リトマス試験紙みたいなノックスが。

 誰にも悟られず、仄暗い場所に秘密を隠し持っていた。

 それを、自分だけが見つけ出した。

 

 ノックスが彼女に何をしたのかなんて、些末なことだった。知る必要はないし、別に知りたいとも思わない。その後の捜索で発見された彼女には外傷はなく、溺死だったとだけ聞いた。事件はそれ以上進展することもなく、静かに忘れ去られていった。


 あいつは大学に進学する少し前、首を吊って自殺したらしい。何かの拍子で、そう訊いた。それがあの事件が原因なのかも、マルティンには興味のないことだった。

 自分にはあの、小さな靴さえあれば良い。その時は、そう思っていたんだ。

 

 そうしてマルティンは大学を卒業すると同時に探偵事務所に就職し、資格を取るための三年間、浮気調査や素行調査をこつこつとこなしていった。調査の過程で他人の秘密を垣間見ることは、何事にも代えがたい快感だ。秘密を探り出すことへの情熱は人一番あったし、上からの評価も厚かった。


 やはり天職。

 マルティンはそう確信していた。

 

 やがて資格をとり、「これで一端の探偵だ」とわずかばかりに胸を張っていた頃。

 マルティンの欲望は少しずつ変質を見せていった。

 

 最初は見つけ出すだけでよかった。

 でもそのうちに、秘密を作り出した人へ、賛辞を送りたくなった。お気に入りの本の作者に感想を伝えたくて、サイン会に並ぶファン心理のようなもの。

 

 ノックスとも話しておけばよかった。今になって、あいつの死が悔やまれる。

 

 ある男は会社の部下との不倫を奥さんから疑われていた。調査の過程で、他数人の女と関係を持っていたことが分かった。さらにそれぞれと子を持ち、多重生活を送ると言う離れ技までやってのけた。無論、男には重い社会的制裁が下され、逃げるように他州に引っ越してしまった。


 マルティンは男を追った。

「十年間、よく隠し通せたな」って、男を褒めたたえた。

 

 通報された。普通に。

 危うく資格を剥奪されかけたが、当時のボスがうまく誤魔化してくれて事なきを得た。


 そうなると事務所には居づらくなった。ボスは引き止めてくれたが、自分の悪癖を抑えられる自信がなかったので、これ以上迷惑をかける前に自ら退職を申し出た。

 

 それで独立し、ハンボルトに移ったんだ。

 自棄になったとか、死んだ親戚の家を安く譲り受けたからとか、理由はまあ色々だ。

 

 探偵業は、半ば休業状態だった。

 自分なりに反省してたし、自粛の意味合いもあった。ロサンゼルス時代の知り合いから、年に数件、依頼を回してもらう程度。それ以外はフリーライターなんかの仕事で食いつないでいる。デジタルノマド生活。気ままなもんだ。

 

 だが、この地で気まぐれに始めた猟という趣味は、思いがけずマルティンの欲望を刺激した。

 

 森には稀に死体が転がっている。

 それは、秘密の塊だった。

 

 誰かが必死に探しているものを、自分だけが知っている。そう思うと、胸の奥で何かが静かに頭をもたげた。

 

 マルティンは死体を見つける度、秘密を少しだけ分けてもらう。

 靴でも、帽子でも、指輪でも、携帯でもいい。ジップ付きのビニールに入れて持ち帰り、家に置く。時折取り出して眺めては、誰でもない死体と、秘密を共有する。

 

 まるで旧知の親友みたいに語らった。


「どうした。あんなとこで死んで」

「おぼれたのか? お前カナヅチだもんな」

「脳天撃たれるなんて、なにやらかした」

「家族が探してるぞ。帰ってやれよ」

 

 すぐに虚しくなった。そんなものでは満たされないくらいに、マルティンは飢えていた。

 

 そんな時、彼女に出会った。

 

 依頼を受けて、初めてあの町で彼女を見た時、足元から崩れ落ちそうになった。

 彼女の目は、あいつと同じだった。

 伽藍洞の瞳で行方不明者のチラシを見つめ、細い指を這わして、ちぎって、捨てた。そして足取りは、ロボットみたいに均一だった。


 Mr.シオザキの言う通り、これは運命だ。

 

 仕事部屋に書き残された彼女からのラブレターを手に取る。

 急いで書いただろうに、彼女は文字まで美しい。教科書のお手本みたいなローマ字に、なぞる様に指を這わした。


  マルティン。

  あなたのコレクションを見た。

  ジャオ・リンの携帯はわたしが預かっておく。

  それがどういうことか、わかるよね?

  わたしはあなたがしたことに目をつぶる。

  だからあなたも、わたし達のことに目をつぶって。

  お互い、不干渉でいきましょう。

  それと、わたしをターゲットにしているならやめて。

  わたしに手を出したらただじゃ済まないよ。

  覚えておいて。

  親愛なる、レッドウッドのシリアルキラーへ。


 マルティンの宝箱からジャオ・リンの携帯が消えていた。

 あれは、彼女と見つけた打ち捨てられたキャンピングカーで拾ったものだ。勿論、ジャオ・リンの死体もそこで静かに眠っていた。彼女が予想した通り、遭難して雨露をしのいでいたみたいだった。

 

 収集物を見て、彼女は僕を連続殺人鬼だと思い込んでいるらしい。


 不名誉なことこの上ないが、困ったことに彼女と秘密を共有しているみたいで、案外悪くないと思う自分がいる。

 

 万里奈。

 君に、まいっているよ。


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