15.処理④ マルティンからの招待
「どうしたんだ、それ」
マルティンは万里奈の顔を見るなり、開口一番にそう言った。
なにかおかしなところがあっただろうか。さっと血が下がる。
マルティンは腕を上げると、指の背でわたしの口の端を撫でた。ぴり、と痛みが走る。
――まずい。布を噛まされた時の傷だ。
「痛そうだ」
声音はやわらかいのに、目は笑っていない。
万里奈が言葉を探して視線を彷徨わせていると、彼はふっと眦を緩め、
「大あくびでもした?」
そう言って笑った。
彼が到着してからの応酬で、早くもどっと疲れが出た。
この男といると、いつもこうだ。探り合うような会話はじわじわと神経を削っていく。いまは、それがいっそう強く感じられた。
マルティンは、以前と同じピックアップトラックでやってきた。重たいカーバッテリーを小脇に軽々と抱え、手に工具箱を持つ。足取りは軽快そのものだ。
チェックのネルシャツに色褪せたジーンズ。その背に猟銃はなく、あの無骨なハンティングジャケットも着ていなかった。どこにでもいる青年のように見えるのが、なぜだか胸を騒がせた。
「大学の友達?」
マルティンがエイミーに目を向ける。
エイミーは万里奈と彼の間で視線を彷徨わせ、おずおずと返事をした。
「は、は、はい。エイミーです」
「マルティンだ。よろしく」
声がやわらかい。
違和感に思わず目を向ける。
彼は穏やかな笑みを浮かべたまま、エイミーと握手を交わしていた。サイラスのときとはまるで別人だ。エイミーの頬がぱっと赤くなり、視線を落としうつむいた。
胡乱な目つきで彼をみていると、横目で万里奈をちらと見て、すぐに話題を転じた。
「さっそくだけど、車見せて」
「あ、あ、こっちです」
エイミーが先を行く。彼はボンネットの中を一瞥して、言葉を落とした。
「……ああ、死んでるね」
ひやりとした。
マルティンの視線が、エイミーから万里奈へゆっくりと流れる。
「あー、や、やっぱりだめですか。取り換えれば、いけそうですか?」
エイミーは気づいていない。彼は、わざとその言葉を選んだ。
「いけるよ。でもこれ誰もメンテしてないな。そりゃ止まるよ」
「えーっと、パ、パパめんどくさがりやなんで……」
「相当放置してたな」
マルティンが、万里奈をまっすぐに見る。
「盗まれても、気づかれないわけだ」
エイミーの顔から、血の気が引いた。
「ぬ、ぬ、盗んだってそんな……借りただけですって」
彼女の乾いた笑いだけが、森の中に静かに落ちた。
作業はあっけないほど早かった。
マルティンは迷うことなく端子を外し、黒い箱を持ち上げると、新しいものを落とし込んだ。金具を締める金属音が二度三度響いただけで、もう終わっていた。
彼は工具箱にレンチを放ると、「試してみて」とエイミーを促す。
弾かれたようにエイミーが運転席に滑り込み、キーを回す。一瞬の沈黙のあと、エンジンがあっさりと息を吹き返した。
フロントガラスの向こうで、エイミーが大きくうなづく。
それを遮るように、マルティンが茉莉奈の前に立ちはだかる。
「こんな山奥で、女の子二人で何してた?」
確信を突く言葉に、揺らぎそうになる視線をぐっと留める。
「みればわかるでしょ。トレッキングよ」
「へえ。僕が山歩き教えたから、はまっちゃった?」
「そんなとこ」
「ふうん」
と、言ってマルティンは顎先を指でいじりながら、少しの間黙り込む。
そして、ふいに言った。
「盗難車だろ」
心臓がひとつ、大きく鳴った。
「なに、それ」
「車体番号が削られてた。雑にね。交換したときに見えた」
マルティンが一歩近づく。
「……やだ、ほんと? 彼女のお父さんが盗んだのかな。でも、わたしには関係ない」
「万里奈」
「……なに?」
万里奈の顔に影が落ちる。顔が近すぎて、もう表情も読めない。
「僕の家においでよ」
虚を突かれる。
「――は?」
「鹿肉。冷凍してある。前に誘っただろ」
そこで初めて視線が揺れてしまった。意図が読めない。
「わざわざここまで来たんだ。それぐらい、いいだろ」
「……駄目。サイラスが怒る」
「じゃあ彼女も来ればいい」
唐突に、距離がほどける。万里奈はやっと息を吸い込んだ。
エイミーがすぐ後ろに立って、頬を赤くして万里奈達を見ている。
「なあ、君もおいでよ。ご馳走する」
「え? は、はい!」
反射みたいに、エイミーが答えた。
「よし、決まりだ」
「ちょ、ちょっと、待って――」
「乘っといたほうがいいんじゃないのか」
マルティンの目が強く射貫く。無意識に体が固まった。
「怖がるなよ。悪いようにはしない」
そう言って、彼は声を立てて可笑しそうに笑った。
***
フロントガラスの向こうに、マルティンのピックアップトラックの影が揺れている。
紫に沈んだ夕闇を、ヘッドライトが丸く切り取る。黒い靄のような木々の隙間から、町の明かりが明滅するように現れては消えていった。
マルティンの車に追従するように、エイミーはハンドルを切る。
半ば脅しのように誘われた食事に、万里奈は断る術を持たなかった。
彼は盗難車に気づいた。たぶん、あの場所で何をしていたかも、見当はついているのだろう。彼はこの森が、後ろ暗い用途にしばしば利用されていることを知っている。
だが確信はないはず。死体が見つからない限り、疑惑は疑惑のままで終わる。かといって油断はできない。彼には楽観視を許さない何かがあった。
「ねえねえ、彼ってマリナのなんなの? すっごく怪しい雰囲気だった」
弾んだ声が、車内に浮く。
「別に。ただの知り合いだよ」
「えー? でもあっちは押せ押せだったじゃん。グリーンカードの相手、彼でもいいんじゃない?」
冗談じゃない。彼と一緒じゃ呼吸もままならない。
「無理だよ、あんな人。手に負えない」
「そうかなあ。頼りになりそうだし、素敵だったけどな」
エイミーが夢見るような顔で言う。ついさっき彼氏を埋めてきたばかりだというのに、この子もたいがい、ネジが外れている。
「長居はしないからね。この車の処理だって考えなきゃだし」
「う、うん。そっか、そうだった」
急に現実に戻ってきたかのように彼女は強張った。
「とっとと食べて、とっとと帰る。いい?」
エイミーは顔を引き締めて、短く頷いた。




