11.二度目
車体が揺れるたび、振動がそのまま背に響く。
ラバーマット越しに、下の鉄骨がごつごつと尾てい骨を打ちつける。
引きずり込まれた瞬間に見えたのは、白いカーゴバンだった。
壁は白い鉄板で覆われ、窓がない。前方には仕切りがあり、金属のメッシュが粗く張られている。運転席の影は見えるが、表情までは読めなかった。
揺れに合わせて視界がぶれる中、フロントガラスの端に標識がかすめた。
国道一〇一号線。
頭の中で、地図を辿る。確か、南の山中を抜けていく道だ。途中いくつかの国道と分岐するので、行先はまるで分からない。
——わたしは馬鹿だ。
同じ悪人のよしみだと、仏心を出したのがいけなかった。
さっさと通報すればよかったものを、自分の中にある罪悪感が邪魔をした。
リックが接触してきたら、提示しようと思っていた条件は一つだった。
通報しないから、関わらないで。ただそれだけ。
無論、疑われることも考えた。その場合は、リックが撃ったとは思っていないと伝え、彼におもねり、恭順を示すつもりだった。それも口を塞がれてしまっては意味がない。
万里奈は舌打ちの代わりに布を噛みしめた。
リックは、ひどく殴られていた。拷問染みた暴行の跡を見ると、おおよその事情は見えてくる。農園の上の存在とやらに痛めつけられたのだろう。もしかすると、金でも要求されているのかもしれない。その場合わたしは――
嫌な予感が胸をよぎる。
……カルテルは、女衒のような商売にも手を出しているのだろうか。
とにかく、タイミングを見て逃げ出すしかない。
エイミーはいない。誘い出すだけの役割だったのか。なにせよ監視の目がないことは幸いだった。
指先で背中のシャツを上にたぐりよせる。
革のカバーの根元に爪をひっかけ、慎重に刃を露出させていく。車体が揺れ、指先が刃に触れてぴりっと痺れが走る。
運転席のリックに目をやる。大丈夫。ちゃんと前方を向いている。
しかしその時。
バックミラー越しに、目が合った。
ひやりと背筋が凍る。
「……マリナ、お前も災難だよなあ」
リックは音の抜けた舌足らずな声で笑った。
良かった、気づいてない。胸をなでおろす。
「たまたまあそこにいただけで、明日っからは金持ち相手に股開くお仕事だ」
やはり売るつもりか。胃の奥が重くなる。
「でもお前も悪いんだぜ。農園の事件のことはなんだか知らねえが黙ってたみたいだけどよ。寮でウィード吸ってたこと、お前チクったろ」
違う、それはジョアンナだ。
しゃべろうとする口を布が阻む。唸り声をあげて首を振った。
「はは、何言ってんのか分かんねぇよ」
リックが笑う。乾いた音が次第に熱を含んでいく。
「おかげで……まあ色々だ。とにかく金が必要なんだよ。それで農園の仕事に手を出したらこれだ。くそ!」
ハンドルを叩く音が車内に響く。
「なんだよ! 全部お前のせいじゃねえかよ!」
車体がぐらりと揺れた。目が回るような感覚に吐き気がした。
最悪だ。
勘違いで自分は売られようとしている。
両親の顔が頭の中で崩れる。その表情を遮るように、ぎゅっと目をつぶる。
絶対に、逃げる。何に変えても――
万里奈は手首の間の結束バンドに、ゆっくりと刃を当てた。
***
フロントガラスの向こうは、いつの間にか背の高い木々に覆われていた。道幅は狭まり、国道を外れたらしい。
かり、かり――
走行音に紛れさせながら、少しずつプラスチックを削る。指ほどの幅の結束バンドは、いまや薄皮一枚で繋がっている。
カーブのたびに刃先がずれる。何度か手首を掠め、じわりと熱が滲んだ。猫に引っ掻かれた程度の傷だ。
かり――
駄目押しのように、もう一度削る。
よし、ここまででいい。
完全に断ち切るのは危険だ。見咎められた時に、言い訳がきかない。わずかに緩んだ切り口を、じりじりと内側へ向けていく。
少し力を込めれば、外れる状態は整った。あとはタイミングだが――
急に。
大きく車体が曲がり、縁石を踏んだのか、ガタン、と跳ねた。
もう、終点?
心臓がひとつ、大きく鳴った。呼吸が浅くなり、背中に汗が伝う。
車は砂利を噛み砕くような音を立てながら、林道へ入っていく。勾配が上がり、支えのない体が後ろへ転がりかけた。足を突っ張って、どうにか耐える。
しばらくその体制のまま、車は坂道を進んでいった。
どこだここ。
このまま止まって、ドアを開けた先に男が何人もいたら終わる。
その時、着信音が車内を切り裂いた。
ふっと体の力が抜けて、バランスを崩し、後頭部を鉄板に打ちつけた。鈍い音が頭の内側で鳴る。
「……俺だ」
リックが舌打ち混じりに応答する。
「……わかってるって。金はそんな早くには無理だ。あ? 逃げる気はねえよ。いま向かってる」
声が固い。バックミラー越しに、何度も髪をかき上げているのが見える。
「金はねえけど、女さらってきた。……は? そこまで馬鹿じゃねえよ。ちゃんと今から車変えるとこだ。ああ、盗難車だよ」
乗り換え――。頭の奥が、静かに冷えていく。
「……なあ、たのむよ。あいつと話させてくれよ」
声が縋るように震えている。それにわずかなひっかかりを覚えた。
「……くそ、ああ、もういい。あと一時間くらいだ。……わかったよ。じゃあな」
通話が切れる。
じきに車は停まるだろう。
もう、ここしかない。
車はしばらく走り、やがてすこし開けた平地に止まった。
金網越しにリックがこちらを向く。
「聞いてたな、車変えんぞ」
そう言うと、車を降りていった。足音が遠ざかる。車の後部には観音開きの扉がある。窓はすべて鉄板でおおわれている。
いまなら。リックの目はない。
――いま。
万里奈は腕を勢いよく引っ張った。
パチ、と音を立てて結束バンドが弾けた。一瞬、自由になった感覚に指が震える。
すぐにシャツの胸元に腕を突っ込み、谷間に隠しておいたスプレーを引き抜く。
外で金属が触れ合う音が鳴る。閂が外され、ガタゴトと重い音が近づく。
万里奈は扉のすぐ横に寄り、息を止めた。
スプレーを構える。
ガチャ――
斜め下にあるリックの顔めがけて、スプレーを噴射した。
「ぐあっ」
声にならない音をあげて、リックが大きく仰け反る。
その体を、思い切り蹴飛ばすと、リックが地面に転がった。
すかさず荷台から身を放った――
ぐらり。
と、視界が急に沈み込む。
気づいたら眼前に地面があり、体に強い衝撃が走る。
かは、と喉から空気が漏れた。胸部を直に打ち付け、圧迫感に身もだえる。
「この、くそ女、てめえ……!」
足元を見ると、リックが片目をおさえ万里奈の足を掴んでいた。
顔はスプレーでぐしゃぐしゃに濡れ、赤く爛れている。足先から這い上がってくる。
「いや! はなして!」
滅茶苦茶に足を振り、何度も蹴り上げる。
――気づいたら、万里奈の手は背中に回っていた。
手に革の持ち手が触れると、すっと血が冷えた。
リックの体が万里奈に覆いかぶさる。
頭の中で、誰かが合図をおくる。
――よーい、
ぶちり、と皮が弾ける。
押し返す弾力を無視して、ぐっと力を入れる。
がぽっ
万里奈の眼前まで来ていたリックの口から、妙な音が鳴った。
こんな時なのに、この体制じゃ返り血がついちゃう。なんて考えて、万里奈は体をひねり、リックと体を入れ替えた。手はリックのみぞおちに固定したまま、深く、深く、押し込んでいく。
柄の根本から、ぬるい液体が手を濡らしていく。力をこめる度に、リックの体がびくびくと痙攣した。
馬乗りになると、体重をかけて更に押し込む。
ごりゅ、となにか固いものが刃先があたり、止まった。
リックの手が何かを掴むように、土を掻く。
「チェ……イス……」
――名前?
万里奈は即座に否定した。
子供の喃語みたいな、意味を成さない言葉だ。
リックの歯の抜けた隙間から、くー、となにか気の抜けたような音が抜ける。
地面を掻く手がふっと力を失い、静かに横たわった。
それきり、動かなくなった。
――また、これだ。
ゆっくりと、ナイフの柄から手を剥がす。真っ赤に染まった手を、リックのジーンズにこすりつけた。その足はだらりと弛緩し、もう生きてないことが分かる。
彼の目は薄く開けられていて、涙とスプレーでぐちゃぐちゃに濡れている。強力なトウガラシの溶剤は、その顔面に血の霧をふきかけたようだった。
深く息を吸う。
鉄の匂いに、森の青い匂いが混ざる。つんとくるのはトウガラシか。
ざり――、
はっと顔を上げる。
「リ、リック……なの?」
上擦った声。
青い顔。
――エイミー!




