10.拉致
「……ハイ、マリナ」
講義終わりの正午。教室を出る万里奈の背中に声がかかった。
それは学生たちの喧騒にかききえそうなほど、小さな声だった。
「エイミー、どうしたの」
驚きながら返す。彼女はリックの恋人だ。
といっても、恋人といえるほどの仲なのかは知らない。寮の廊下にウィードの香りが強く漂っていたあの日、彼がエイミーの部屋に泊まったという事だけは確かだった。体がわずかに緊張する。
「べ、別に。用がないと、は、話しかけちゃだめ?」
赤毛を指先でいじり、左右で色の違うレンズを嵌めた瞳が落ち着きなく泳いでいる。リスみたいな挙動も、軽い吃音も、いつもと同じだ。
――本当にそうだろうか?
「ううん、そんなことない。教授、今日も早口すぎて二倍速かと思ったよ」
と、肩をすくめてみせる。エイミーがほっと息を吐いたのを万里奈は見逃さない。
「マ、マリナは第二言語だし大変だよね。……あ、あのさ。このあと予定ある?」
「どうして?」
間を置かずに返す。視線がまた揺れた。
「え、え、えっと、買い物に付き合ってほしいんだけど。どうかな」
「買い物? ……いいよ。近くのプラザでいいの?」
「ユーレカまで行きたいの。わ、わたし、車出すから」
車――。密室だ。リックの影がよぎる。
「んー……ごめん。わたし普通の車って、すぐ酔っちゃうんだよね」
軽く笑ってごまかす。
「バスで行くから、向こうで合流でもいい?」
「え、え?」
エイミーは言葉を失ってしまった。小柄な体が落ち着きなく揺れる。
リックの隣に立つ女は、だいたいいつも、こういう子だ。
共通しているのは、どこか周囲から浮いていること。教室の隅にいるような、ああいう種類の人間だ。それさえ満たしていれば、容姿も、肌の色も、性格も、彼にとっては大した問題ではない。
万里奈は奥歯を噛みしめる。
孤独に付け込んで人を操るのは、あの男の常套手段だ。今まさにエイミーは糸を引かれている。これまでの反応で、もはや確信を得ていた。
目の前で困り果てている彼女に、ついつい助け舟を出してあげたくなってしまう。どうしたものかと思案に暮れていると、ようやくエイミーが口を開いた。
「わわ、わかった。現地集合でいいよ。べ、ベイショアモールでいいかな」
「……うん。だ、大丈夫」
つられてどもってしまった。
その時。
「ねえ、邪魔なんだけど」
後ろからドスの聞いた声とともに、押しのけるように背中を押された。
振り向くとそこには褐色の肌をもつジョアンナがいた。リックの隣には、かつて彼女の姿があった。
「入り口でつったってないでよね」
そう言って彼女はエイミーを睨みつけると、横に引き伸ばしたひょうたんみたいな体を揺らして歩き去った。恐る恐るエイミーを見ると、彼女は薄暗い目でジョアンナを追っていた。背中がぞっと冷える。三角関係は続行中なのだろうか。
お互いに連絡先を交換すると、時間を打ち合わせしてから彼女と別れた。
万里奈は大学を出ると、寮へ走った。
寮につくなり部屋の鍵を慌ただしく開けると、クローゼットの中からバックパックを取り出す。ショルダーストラップには、小さなスプレー缶が差し込まれたままだった。
手にとると、ころんとした背の低い缶の側面に、熊が大きく口を開けている。ジーンズの尻ポケットに差し込み、ほっと人心地つく。
ようやく、リックの方から動き出した。
人を殺したかもしれない人間に会いに行くのは恐ろしい。
けれど、自分もまた、同じ側に立っている。
その事実にいくらか勇気をもらうと、重い腰をあげて部屋をあとにした。
アルケータの中心街にあるバス停につくと、ベンチに腰を降ろした。
カラン、と尻ポケットから押し出されたスプレー缶が地面に転がる。振り向いて拾い上げると、その先にあるアウトドアショップが目に入る。
――これじゃ、心許ないか。
森の捜索の時にお守りがわりに買った熊スプレーは、とても小さく、射程距離も短い。
腕時計に目を落とす。バスの時間までまだ余裕があった。
逡巡したのも束の間、次の瞬間にはショップに向かって歩き出していた。
店に入ると、乾いたナイロンとゴムの匂いが鼻をかすめた。新品の布と金属が混ざり合った、人工的な山の匂いだ。
熊スプレーを探して歩いていた足が、ふいに止まる。
ガラスのショーケースの中で、照明に照らされ、鋭い刃先が冷たく光っている。
「姉ちゃん、ナイフ探してんの?」
キャップを後ろ向きに被った若い店員に声をかけられる。
「あ、いえ。熊スプレーを探してて」
そう答えながらも、視線はケースから離れなかった。
こんなもの、持つべきじゃない。人の命を奪う形をしている。
「山に行くならナイフだって必需品さ。一本もってても損はねぇって」
押しの強い店員は、熱心に勧めてくる。
「でも……」
はたと考える。もし、あれがあるなら――
「あの、もっと細長いのってありますか? 日本の――刺身包丁みたいな」
「刺身包丁は知んねぇけど、細長いのだったらいいのあるよ。ちょいまって」
そういって、店員はショーケース下の抽斗を鍵で開けると、中から数本のナイフを取り出した。
「これはフィレナイフ。魚捌くならこれだな。姉ちゃん、釣りする?」
「しないです」
木製のカバーから抜き出された刀身はするどく長い。イメージに近いが、かなり薄刃で、少しでも力を込めたらぽきりと折れてしまいそうだ。
首を振ると、店員がまた別のナイフを見せる。
「じゃあこっち。ボーニングナイフっつって、まぁ肉の骨を外す用途だな。キャンプでのバーベキューにもってこいだ」
店員の手の中で鈍く光るナイフに、はっと息を呑む。
刃先から柄へと続くカーブは滑らかで、細いのに折れそうな気配は全くない。冷えた金属が光を吸い込み、静かな緊張を孕んでいた。
「持ってみてもいいですか?」
店員は気を付けて、と一声かけてからナイフを握らせた。
革巻きのハンドルは艶を帯び、手のひらの形に合わせてわずかに膨らんでいる。
――しっくりくる。
「これ、ください」
気づけば、口に出ていた。
ご機嫌な店員に見送られ、店を出る。
すぐ脇の狭い路地に身を滑り込ませると、バッグからナイフを取り出した。
厚みのある一枚革のカバー越しに、硬い輪郭が指に触れる。
万里奈はシャツをめくりあげると、腰に差し込んだ。わずかに汗ばんだ背中に、革がぴたりと張りついた。もう一本背骨が生えてきたみたいに、背筋が伸びる。
これこそお守りだ。決して刃は抜かない。
けれど体はあの時と同じ感覚を、ゆっくりと思い出しはじめていた。
***
待ち合わせは、モール内にあるマンガショップだった。
店内を見回すと、書棚にもたれたままページをめくるエイミーの姿が目に入る。手は止まらず、視線は紙面に吸い付いたままだ。口元がわずかにほどけている。あの落ち着かない気配は、どこにもなかった。
「おまたせ」
声をかけるとエイミーのか細い肩が大きく揺れた。
「あ、あ、ありがとう、来てくれて」
「マンガ、好きなんだね」
「う、うん。マリナも好きでしょ。に、日本人だもんね」
本で口元を隠しながら、目だけが細く笑う。ページの表紙に目をやると、見覚えのあるキャラクターだった。
「あ、もしかしてエイミー。その目って……」
本を指して、「このキャラ?」と尋ねる。
「えへ。そうなんだ。か、彼ってクールだよね」
赤と白のレンズは奇抜だが、キャラクターを模していると知れば腑に落ちた。
「そっか、似合ってるよ。髪は染めないの?」
彼の髪は瞳と同じ色だ。
「さ、さすがにそれは……」
目を伏せながらも、口元はまだ緩んでいた。
それからしばらく、エイミーと漫画やアニメの話をしながら店内を歩き回った。
彼女は知識が深い。万里奈が知らない作品も、要点だけをすくい上げて、するすると語る。思っていたより、ずっと話しやすい子だった。
このまま、ただの買い物で終わればいいのに。
けれど背中に触れる固さが、その考えをすぐに打ち消した。
店を出た瞬間、エイミーが口を開く。
「マリナに渡したいものがあるの」
「……なに?」
「マリナに似合いそうな色のリップ。今日のお礼に」
彼女が息を短く吸い込む。
「車に置いてきちゃって……ついてきてくれる?」
視線は交わらず、万里奈の喉元に落ちている。言葉に、淀みがない。
腰に手をあてる振りで、背中を一度なぞる。固い感触を確かめると、
「いいよ。行こ」
そう言って、やわらかく口元をゆるめた。
モールの外に出ると、巨大な駐車区画が広がっていた。
アスファルトの平原に、車がぽつぽつと点在している。どれも互いに距離を置き、島のように孤立していた。
アースカラーのホンダ・シビックは見当たらない。視線だけで車の間をなぞっていく。
このどこかに、いるのかもしれない。
前を歩くエイミーの背中は、今にも霧に溶けそうなほど頼りない。それでも、ときおり肩越しに振り返っては、こちらの様子を窺ってくる。それは不自然に回数が多かった。
するとエイミーがぴたりと立ち止まり、すっと腕を上げる。
「あれ、わたしの車」
指の先に、ごく平凡なセダンが停車している。万里奈は歩幅を落とし、距離を保ったまま足を止めた。窓の奥に目を凝らす。薄暗い車内に人影はない。
車体の裏を確かめようと、横に回る。
バン。
突如、背後でドアが開いた。
次の瞬間、口を塞がれる。噛みつこうとした歯が、厚い革手袋に阻まれた。
腕ごと抱え込まれ、体が浮く。そのまま車内へ引きずり込まれる。
――しまった。
思考が遅れてやってきて、そう思った時には、すでに手遅れだった。
背中に回された手首を、結束バンドがぎりぎりと締め上げる。布を噛まされ、唇の端がひりついた。
まさか、ここまで強引に来るとは思っていなかった。心臓は痛いほどに高鳴っているのに、頭の奥だけが妙に冷えている。考えうる限り最悪な状況だが――
手は、後ろだ。
指先を探るように伸ばし、背中をなぞる。固い感触はそのままだった。
「よぉ、Kポップクイーン。ひ、ひさしぶりだなぁ」
どこか空気の抜けた音で、上擦りながらリックは言った。
口元に目を向けると、前歯が二本抜け落ちているのが見えた。
乱れた長髪がひと房顔に垂れ、その奥に覗くまぶたがひどく腫れ上がっている。赤黒く、潰れかけた色をしていた。
きっと自分より、目の前の男の方が恐怖を感じている。
呼吸が、すっと落ちる。
リック。
馬鹿な男。
私は日本人だって言ったでしょ。




