9.弟
弟の湊はとにかく忘れ物が多い。
わたしは心配性だから、夜のうちに明日の時間割りの用意をしちゃう。すみれ色のランドセルの中で、教科書がきちっと順番通りに並んでいると、すっきりした気持ちになる。
でも湊のランドセルの中はいつもぐちゃぐちゃだ。プリントなんか奥の方で、アコーディオンみたく潰れてる。大事なお知らせも渡さないから、お母さんに怒られていっつも泣きべそをかいてた。
いつだったか、お父さんとお母さんが、「湊は病気かもしれないね」って言ってた。ほんとは病気とは言ってなかったけど、DVDみたいな英語の名前で、わたしには覚えられなかった。
湊はあんまり友達がいないみたい。ぷくぷく太った体で、いつもTシャツの中で体育座りしちゃうから、どの服も首のところが伸びててだらしない。ああいう子ってなんか友達できにくそうだなって思った。
体操着袋を湊が忘れて、クラスまで届けに行ってあげたときなんかひどかった。
机の周りはゴミが散らかってて、変なにおいまでする。お道具箱を開けてみたら、飲みかけの牛乳パックが入ってた。ヨーグルトみたいにどろどろになってて、思わず叫んじゃったくらい。
お母さんは雑誌の編集長さんで、お父さんは社長さんだから、みんなでゆっくりできるのは日よう日だけ。
だから学校が終わると、いつも二人で学童にいく。わたしはもう四年生だから、ほんとは友達と遊びに行きたかったけど、お母さんが「湊をよろしくね」って言うから、よろしくしてあげてた。わたしがちゃんとお姉ちゃん出来てると、二人ともいっぱい褒めてくれるから、湊はちょっとだらしないくらいがちょうどいい。
そんな湊でも妖怪メダルだけは大事にしてた。
バインダーにいれて、どこに行くときも手放さない。銀色のジバニャンなんか、もう四枚もダブってて、透明のポケットがぱんぱんだった
「別のポケットに入れれば?」って言ったら、「順番通りがいい」だって。そんなところは、わたしに似たのかなって思った。
でもある日、メダルパックから5枚目のジバニャンがでてきて、とうとうポケットが破れた。湊はセロテープで頑張って貼ってたけど、もう駄目みたいだった。だから5枚目のジバニャンは、いつもズボンのポケットに入れて持ち歩いてた。
忘れ物が多い湊のことだから、いつか絶対なくしちゃうと思って、フェルトで首から下げられるメダル袋をつくってあげた。赤と白でちょうどジバニャン風だ。
湊は「ふーん」って5回くらい言って、ありがとうも言わずに首に通した。それからはいつも首にジバニャンがぶらさがっていた。
湊はときどき学童からいなくなる。
ある日は勝手に家に帰ってたり、またある日は河原でひとりで遊んでたり。探しても探してもみつからない日もあって、かと思えばふらっと帰ってくる。みんな最初は大慌てだったけど、そのうち「またか」ってあんまり気にしなくなっていった。
「みつからない日はどこにいるの?」って聞いたら「誰にも言わないなら教えてあげる」ってえらそうに言った。約束もしないうちにわたしの手を引っ張っていくから、たぶん自慢したかったんだと思う。
湊が連れってってくれたのは、裏山にあるホテルだった。ホテルっていっても、誰も泊まらないうちに潰れちゃったホテルだ。前にお父さんがそんなことを言っていた。
ホテルは、途中であきらめた湊の図工の作品みたいだった。フェンスがあったけど、横の方に隙間があって、なんか普通に通れちゃった。
入口っぽいところから中に入ると、学校の多目的ホールみたいな広場があった。窓ガラスが一枚もないから、ツタとか木の根っことかがラピュタみたいに入り込んできてた。
湊はラピュタをもう百万回くらい見てる。だからここが好きなのかなって思った。
地下におりる階段は水でいっぱいになってて、画用紙をちぎってつくる色水みたいに濁ってる。緑色なのに、下は真っ黒で、どこまで深いのかぜんぜん分からなかった。
湊はここが好きみたいだけど、わたしはじめじめしてて嫌なかんじがしたから、「ここには来ちゃだめだよ」って教えてあげた。
でも湊が「友達といっしょでもだめ?」って聞くから、湊に友達なんかいるはずないって思って「どんな子?」って聞いた。そしたら顔まっかにして「だれでもない!」ってすごく怒らせちゃった。
とにかく湊が見つからない時は、ここに探しにくればいいって分かったから、「あんまり遅くならなければいいよ」って言ってあげた。湊は嬉しそうに笑ってた。
その後は、湊の手をむにむに握りながら帰った。地面には手をつないだ影が長くなってて、3年生の国語で習った「ちいちゃんのかげおくり」を思い出した。ふたりでやってみたけど、もう夕日だったから空にはぼんやりした影しか送れなかった。
でも湊は、ちいちゃんみたいにいなくなっちゃった。
もう、手を繋げない。
***
失踪者の家族が、捜索の最中に銃撃に倒れる。
その悲劇は、小さな田舎町に重い衝撃を落とした。
小さな液晶の中では、白い建物を背景に、ふわふわした淡い金髪を風にそよがせながら、大柄の大統領が記者団に取材を受けている。
矢継ぎ早に飛ぶ質問に、彼は手慣れた調子で応じていく。
ふいに、一人の記者が何かを投げた。
大統領は手元の資料に一度だけ視線を落とし、「悲劇だ」と短く言った。続けざまに「経験者だからわかるさ」と肩をすくめる。軽い笑いが広がり、すぐに引いた。
——そんなものか。
万里奈はスマホを机に伏せると、デスクチェアの背もたれに身を沈めた。
地元局は連日特集を組み、同じ映像と、同じ言葉を繰り返し流し続けた。やがてそれは海を渡り、ジャオ・リンの本国では、さらに大きな扱いで報じられたという。
それでも、犯人逮捕の一報は訪れない。
二週間が過ぎても、リックは姿を見せなかった。
来週には両親が渡米する。
憂い事はそれだけで十分なのに、彼の件はまだどこにも着地しそうになかった。
その時、スマホの通知が鳴る。
通知欄には見慣れてしまった電話番号。しかしそれは電話の着信ではない。ショートメッセージだ。
『見て』
短いテキストのあと、すぐに画像が送られてきた。
写真には、大きな鹿を両腕に支えた青年の笑顔。ススキの穂みたいに乾いた髪と琥珀色の瞳が陽光を弾いている。ぐったりと力を失った鹿の姿は、万里奈の目にはただ痛ましく映る。
『たべちゃうの?』
『おいしいよ。食べにおいでよ』
『私ヴィーガンだから』
『万里奈って平気で嘘つくよな』
テキストに付いた涙顔の絵文字に、わずかに頬が緩んだ。
連絡先を交換してからというもの、マルティンはこうして毒にも薬にもならないようなメッセージを送ってくる。最初こそ警戒したが、誘いはしても特にしつこくせず、文字だけなら彼の不気味さも影を潜める。
害はない。――今のところは。
サイラスといるときに画面に彼の名前が表示されては面倒なので、アドレス帳には彼の名前すら登録していなかった。
会話を途中で切っても、マルティンはそれ以上何も送ってこない。
今日は、これでおしまい。
そう決めて、スマホを伏せる。続けざまに机の抽斗から大学支給のタブレットを取り出し点灯させた。白い画面には夏期講座の課題がずらりと並ぶ。
山積していく問題とはお構いなしに、日常は続いていく。
まずは明日の講義にそなえ、課題を一番上から片付けることにした。
順番通りに進められると、すっきりした気持ちになる。それは子供の頃から変わらないのだった。




