第八話 水辺への夢遊
夜の新龍市は、まだ眠る気配を見せていなかった。
建物を縁取る淡い光が通りを照らし、頭上を走る高架軌道を小型車両が滑るように通り過ぎていく。
「凜さん、今日はありがとうございました」
「こちらこそ。とても楽しかったです」
凜は総務部の同僚たちへ笑顔を返した。
「また行きましょうね」
「はい、ぜひ」
食事を終えた一行は、他愛のない話をしながら夜道を歩く。
普段なら庁舎と寮を往復するだけの日も多い。こうして同僚たちと市内で過ごす時間は、凜にとってひとときの楽しみだった。
「あ、わたしはこちらなので」
「お疲れさまです」
「おやすみなさい」
一人、また一人と別れていく。
凜も帰路へ足を向けようとして、ふと視線を止めた。
通りの向こう。
人の流れの中に、見覚えのある栗色の髪が横切った。
「……黎さん?」
「え?」
凛のつぶやきに、隣にいた同僚が振り返る。
「あ……いえ」
黎は一人だった。
珍しいことではない。
けれど、どこか雰囲気がいつもと違うような。
一定の歩調で、真っ直ぐ前だけを見ている。
行き交う人々にも、周囲の光にも目を向けない。
「凜さん?」
「あ、すみません」
呼びかけようとして、凜は口を閉じた。
同僚たちがいる。
黎の身に何かあったと決まったわけでもない。ここで声をかければ黎にも同僚にも余計な気遣いをさせてしまうかもしれない。
もう一度、通りの向こうへ目を向ける。
栗色の髪は、人混みの奥へ消えていた。
◇ ◇ ◇
翌日。
特殊機動隊の執務室を訪れた凜は、扉の前で僅かに足を止めた。
――やっぱり、心配しすぎかなぁ……。
昨夜の光景が頭から離れない。
凜にとって、黎は憧れの女性だった。
だからこそ、あの姿がいつもの黎とは違うように見え、どうにも気が気でない。
凜は扉を軽く叩く。
「どうぞ」
中から落ち着いた声が返ってきた。
「失礼します」
扉を開けると、玖狼が机から顔を上げた。
「凜か。どうした?」
「あの、玖狼さん。少しよろしいですか?」
「ああ」
凜は玖狼の机の前まで歩み寄る。訓練時間を迎えた執務室に、ほかの隊員の姿はなかった。
「その……心配しすぎかもしれないんですけど」
言葉を選びながら、昨夜見たことを話す。
「昨日、帰りに黎さんを見かけたんです。遅い時間に、お一人で歩いていて」
玖狼は黙って話を聞いている。
「なんか、様子がいつもと違ったので。なんとなく、その、ご本人にというより、隊長さんにご相談する方が良いかなって思いまして」
「……そうか」
玖狼は僅かに考えるように視線を落とした。
「いや、教えてくれて助かった。俺も少し気にしてみるよ」
思っていたよりも柔らかな声だった。
凜は小さく息を吐く。
「ありがとうございます」
「凜も、遅くまで出歩く時は気をつけるように」
「はい」
凜は頭を下げ、執務室をあとにした。
扉が閉じる。
玖狼は机の上の書類へ視線を戻した。
だが、その目はしばらく文字を追うことはなかった。
◇ ◇ ◇
数日後。
玖狼と紅牙は深夜の市街を歩いていた。
総監への活動報告を終えたところまでは良かった。その後、話があると食事に誘われ、気づけばこんな時間になっていた。
隣を歩く紅牙も、どこか眠たげに尾を垂らしている。
「悪かったな。お前まで付き合わせて」
紅牙の耳が僅かに動いた。わずかに不機嫌な気配が伝わってくる。
「俺に言っても仕方ないだろう。総監に言ってくれ」
低く鼻を鳴らす。
玖狼は小さく笑い、歩みを進めた。
不意に、紅牙が足を止める。
「どうした?」
漆黒の耳がぴんと立つ。
鼻先を夜気の匂いを探るように動かした。
玖狼も帯剣に手をかけ、立ち止まる。
「何かいるのか」
紅牙は答えず、来た道を引き返した。
「紅牙?」
歩調が速まる。
玖狼は眉を寄せ、そのあとを追った。
相棒は迷う様子もなく、市街を進んでいく。
「おい、どこまで行くつもりだ」
呼びかけても止まらない。
やがて紅牙が歩調を緩めた。
続いて玖狼も速度を落とす。
目の前の通りの先を、一人の女性が歩いていた。
栗色の短い髪。見慣れた隊服ではないが、黎だと分かった。
「……黎?」
数日前、凜から聞いた話が脳裏をよぎる。
彼女は真っ直ぐ前を向き、一定の歩調で歩いている。
玖狼たちに気づいた様子はない。
「黎」
少し離れたところから、呼びかける。
反応はない。
近づこうとして、足を止めた。
黎は歩き続けている。
ふらついているわけではなく、足取りもしっかりしている。
ただ、その空色の瞳には何も映っていなかった。
「……少し様子を見るか」
紅牙の耳が同意するように動く。
二人は距離を置き、黎のあとを追った。
賑わいの残る通りを抜ける。
人影は次第に減り、街の灯りも疎らになっていく。
それでも黎は足を止めない。
やがて、水の流れる音が聞こえた。
市内に流れ込む川のほとり。
黎は水際まで歩くと、ようやく足を止めた。
玖狼も少し離れた場所に立ち止まる。
黎はただ、水面を見つめている。
風が吹き抜け、栗色の髪を揺らした。
――声をかけるべきか?
玖狼はしばらくその背中を見つめる。
紅牙はふと、来た道へ歩き出した。
「……紅牙」
漆黒の耳が一度だけ動く。そのまま振り返ることなく、夜道を戻っていく。
玖狼は、相棒を引き止めることはしなかった。
小さく息を吐き、再び黎へ視線を戻す。
どれほど時間が経ったのか。
不意に、黎の身体が傾く。
「黎!」
玖狼は地面を蹴り、倒れる寸前、細身の身体を抱き止める。
「黎、聞こえるか」
返事はない。
黎の顔を覗き込み、呼吸を確かめた。
規則正しい呼吸。
――眠っているのか。
「……どうしたんだ、一体」
腕の中で眠るその顔をしばし見つめ、静かに息を吐いた。
――帰るか。
玖狼は黎を抱き上げた。
黎の住む集合住宅へ着く頃には、街の喧騒もすっかり遠のいていた。
玖狼は黎を抱えたまま、扉の前で足を止める。
扉脇の認証盤へ目を向けた。
少しだけ逡巡して、黎の手を取り、そっと触れさせる。
淡い光が指先をなぞり、静かに扉が開いた。
「入るよ」
眠る黎へ小さく声をかけ、部屋へ入る。
寝室を見つけ、黎を寝台へそっと横たえた。
靴を脱がせ、毛布を掛ける。
頬にかかる栗色の髪に手を伸ばしかけ――止める。
そのまま腕を下ろした。
「……おやすみ、黎」
踵を返し、寝室をあとにする。
静かに扉が閉じた。
◇ ◇ ◇
深い水の底。
身体がゆっくりと沈んでいく。
音はない。
光も届かない。
それなのに、苦しくはない。
肌に触れる水が、忘れていた輪郭をそっとなぞり、ゆっくりと水との境界が薄くなって――心地良い感覚に、ただ身を委ねている。
水と一つに溶けていく感覚だけが、確かにあった。
もっと深く、もっと――。
なんだか怖いと思っていたものも、きっとここには届かない。
漠然とした安心感にそっと包まれて――誰かの腕の中で、ただ温もりだけを感じていたときのように。
――黎。
遠くで、誰かの声がした。
いつもは、こんな声、しなかったのに。
声の主の顔はおぼろげで、はっきりとは思い出せないけれど、その声は胸の奥がじんわりと温まるような優しさがあった。
――あぁ、戻らないと。
そう思ったところで、彼女はゆっくりと意識を手放した。
◇ ◇ ◇
翌朝。
黎はゆっくりと目を開けた。
見慣れた天井。
身体を起こす。
昨夜、いつ眠ったのか覚えていない。
寝台の上で、黎は思い出そうとする。
また、深い水の底へ沈んでいく夢を見ていた気がする。
ここ最近で繰り返し見る夢ではあるが、内容まではハッキリと思い出せない。
「玖狼……?」
なぜ、ふとその名前が浮かんだのか分からない。
夢の中身は思い出せないのに、名前だけがやけにはっきりと残っている。
――まさか、また玖狼のこと考えながら寝ちゃったとか?
あり得ない話ではない。最近、玖狼への気持ちが、より一層育っている自覚はある。
「……なんでもない、よね」
誰に言うでもなく呟き、ベッドから足を下ろす。
ふと、寝る前には脱いだ覚えのない靴が、寝台の脇にきちんと並んでいることに気づいた。
「……あれ?」
首を傾げたのも束の間、朝の支度に気を取られて、その違和感はすぐに意識の隅へ追いやられてしまった。




