第九話 大統領の要件
始業前から人の気配で満ちた朝の庁内を、凛は抱えた律機端末を確認しながら歩いていた。
「おはようございます」
すれ違う職員や隊員たちに声をかけ、そのたびに足を止めて軽く頭を下げる。
「おはよう、エリスさん」
「賢尹さん、おはようございます。昨日より、目の下のクマが薄いですね」
「あはは、よく見てるなあ。三番機の調整、ようやく片付いたんだよ」
凛にとっては、ただ覚えているだけのことだった。誰がどの部署で、昨日どんな顔をしていたか。名前と顔と、交わした言葉の断片。総務部の仕事では、それがそのまま武器になる。
毎朝の巡回は、もうすっかり日課になっていた。
――次は、資料室ね
各部屋の施錠記録の確認。
資料の貸出記録。
前日までに届いた申請書や紛失届の確認。
どれも地味な作業だが、庁内が普段通りかどうかは、こういう記録の端々に出る。今朝も、いつもと変わらない。
手元の端末で今日の予定を確認しながら角を曲がった、そのときだった。
資料室へ向かう廊下の先から、特務総監の羅豪が一人で歩いてきた。いつもなら、副総監の静が半歩後ろに控えているはずだ。
――総監がお一人なんて、珍しい。
「総監、おはようございます!」
「おう、凛ちゃん。ちょうどいいところに」
人懐こい笑顔は、いつもどおりだった。左の目元の古傷が、笑うとわずかに引きつれる。
羅豪は懐から、庁内貸与品とは明らかに違う、艶のある漆黒の律機端末を取り出した。
「これ、玖狼に渡してくれない?本人に、直接な」
「はい、承知いたしました」
両手で受け取る。見た目よりずっしりと重く、掌に吸いつくような冷たさがあった。
「いやー、助かるよ。今度また総務部に差し入れしとくから」
「いえっ、お気遣いなく……!あ、でも、この前の焼き菓子はとても美味しかったです」
羅豪は笑いながら、ふと凛の耳元へ視線を落とした。桃色の花のピアスが、朝の光を受けている。
「……それ、似合ってるねぇ」
「えっ。あ、ありがとうございます……」
凛は、髪で口元を隠すようにうつむいた。
その一瞬、羅豪の目が、笑顔のまま何かを確かめるように細められたことに、凛は気づかない。
右手をふらりと振って、羅豪はさっさと歩き去っていく。
残された凛は、受け取った端末をまじまじと見つめた。
黒い筐体の縁に、細い龍の紋様が刻まれている。庁内のどの端末とも違う、意匠。
――あれ、この意匠。なんだか見覚えが。家でお母さんが時々使っていたものに、似てる……?
夜遅く、書斎の灯りの下。母が、誰にも見せずに開いていた端末。触ろうとして、優しく、けれどきっぱりと手を止められた記憶。
はっきりとは思い出せないまま、凛は首をかしげた。
――気のせい、よね。
そう決めて、彼女は特殊機動隊の執務室へ向かった。
「失礼します」
機動隊の執務室へ入ると、半数近くの隊員が出払っていた。空いた席の多い部屋は、普段より少しだけ広く感じる。
隊長席の脇では、漆黒の毛並みの紅牙が丸くなっていた。凛の足音に、鋭い耳がぴくりと動く。目は閉じたままだ。
黎は律機端末を相手にしている。眉間にわずかな皺を寄せ、指先だけが淀みなく動いていた。
――難しい顔する黎さんも、かっこいいなあ。
視界の端で黎を見やりながら、隊長席へ移動する。
「凛さん、おはようっす!」
雷の声が、部屋の反対側から飛んできた。
「あ、おはようございます、雷さん」
まっすぐな笑顔に、凛は小さく会釈を返す。悪い人ではない。ただ、ストレートな言動にどう応えればいいのか、時々、戸惑ってしまう。
「あの……冠隊長」
「普通の呼び方で構わないよ」
「では。……玖狼さん。こちら、総監からの預かりものです」
両手で差し出す。
「総監から、か――」
玖狼は端末を受け取った。その指が、筐体の縁の紋様を、一瞬だけなぞる。
「あら、副総監でなく、凛に頼むなんて珍しいわね」
手を止めた黎が、玖狼とのやり取りに加わった。
「あっ、廊下でお会いしまして。そこで託されたんです」
「となると、総監自ら持ってこようとしたわけね、それもまた珍しいこと」
「隊長!総監から直々のってくらいだから、デカい案件っすか?オレも行きますか?!」
「色々と会議に連れまわされるという要件だが……雷が私の代わりに行ってくれるか?」
「げっ……!冗談ってことで、隊長、頑張ってください!」
雷の悲鳴に、執務室の空気が緩む。凛も思わず、口元を手で覆った。
玖狼の口調は、いつもの調子だった。
だが、端末を見るその紅い眼光は鋭かった。足元の紅牙が、いつの間にか目を開けている。
「玖狼……?」
その鋭い視線に気づいたのは、黎だけだった。
◇ ◇ ◇
その日、玖狼は紅牙も連れず、一人暗い廊下を歩いていた。
とある建物の突き当たりの一室。認証端末に手をかざすと、無機質な電子音とともに扉が開く。ごく限られた人間だけが立ち入りを許された部屋だ。
「おう、来ていたか、玖狼」
羅豪は卓上に、漆黒の端末を置いて起動した。今朝、凛が届けたものと同じ端末だ。
光が立ち上がり、一人の女性の姿を結ぶ。
五十代前半。意志の強そうな瞳が印象的な女性。投影越しでも、部屋の空気が変わるのが分かった。
「お久しぶりです、エリティクス大統領」
律機新興国の大統領、彩月・エリティクスその人だった。
「冠くん、獅岳総監、お久しぶり」
その第一声は、政治家然としたものではなかった。知人に久しぶりに声をかける、柔らかな響き。だが、その手元では、書類の端を揃える指が一度、二度と動いている。
「端末は、ちゃんと届いたようね」
「玖狼には、凛ちゃんに頼みました。廊下でちょうど会ったもんで」
羅豪がさらりと答える。
書類を揃える彩月の指が、ほんの一瞬、止まった。
「……そう」
それだけだった。玖狼は何も言わず、横目で羅豪を見る。偶然だったのか、そうでないのか。それを問う場ではない。
「時間がないから、単刀直入に話すわ」
その一言で、空気が張り詰める。
「総監と機動隊の報告を読みました。合獣の出現と律子濃度の異常変動が重なっていること、私も概ね同意しています。そして、それが自然発生ではないことも」
「情報管理部は総出で当たらせています。特務支援部からはカイ・リンショウ少佐だけですが、あれ一人で部署ひとつ分は働く男ですから」
羅豪の補足に、彩月は小さく頷いた。
「今回の件、私は――」
言葉が、そこで途切れた。
羅豪の視線だけ、彩月から玖狼へ、ほんの一瞬流れて戻る。
「……始律教が関わっている可能性を、考えているわ」
室内の緊張が、一段と深くなる。
「我々も、その線は視野に入れて動いております」
「疑いだけで大きく動けば、彼らは証拠ごと消えるでしょう。だから、目立たない形で進めたいの」
彩月は、視線を落とした。
「始律教対策部は、これまでどおり影で動かします。けれど、その存在は表に出せない。だから表向きの矢面には、機動隊に立ってもらうことになる」
指先が、また書類の端をなぞる。
「あなたたちが危険を冒して掴んだものも、功績としては、どこにも残らないでしょう」
「大統領」
羅豪の声は低かった。普段の砕けた調子は影を潜めている。
「記録に残らずとも、俺が全部覚えておきます。総監として、表向きの責任も俺が持つ」
「……ありがとう、総監」
彩月が姿勢を正し、玖狼へ向き直る。
「では、改めて。冠玖狼大佐。ジョノア・ファル・メド=スイケイ皇帝、アル・シャルル連邦首長、そして私、彩月・エリティクスの名において、合獣調査の全権をあなたに与えます。出動権限、始律教関連の機密情報へのアクセス権、始律教対策部への命令権を含みます」
そこで彩月は、ほんの少しだけ言葉を選んだ。
「……これは、あなたにしか預けられないの」
全権。それは栄誉ではなく、失敗したときの責任もすべて、この肩に乗ってくるということだ。
玖狼は、すぐには答えなかった。
脳裏を、いくつかの顔がよぎる。軽口を叩きながら、誰よりも先に前へ出る雷。持ち場に散り、それぞれの役目を黙って果たしている機動隊の面々。
そして、隊長席の隣で、副隊長として同じ方向を見据え、隊を支えてくれている黎。
「……拝命いたします」
そして、顔を上げる。
「一点、確認を。対策部の存在を、隊の中でどこまで明かしますか」
黎も雷も、その名を知らない。
「対策部員が動けば、いずれ隊員の目に触れます。何も知らせずに動かせば、現場で必ず齟齬が出る。かといって、知る者が増えるほど、秘匿は脆くなります」
彩月が、羅豪を見る。羅豪は肩をすくめた。
「線引きは、お前に任せる。ただし、明かすなら、その重さはお前が負え」
「……必要になるまでは、伏せます。その時が来たら、私の口から伝えます」
短い答えだった。彩月の目が、わずかに和らぐ。
「それと、これは根拠のない話なのだけれど」
彩月が、静かに続ける。
「創天王国の動きと、無関係とは思えないの。……あなたには、言うまでもないでしょうけれど」
「……はい」
それだけを、玖狼は返した。
羅豪が、黙って二人を見比べている。
「世界の憂いを払う。皆様にお約束したことです。些細な憂いでも、私にお知らせください」
赤い瞳が、まっすぐに彩月を見据える。
「期待しているわ」
彩月の口元が、わずかに緩んだ。書類を揃えていた指が、ようやく止まる。
「それと同時に……あなたのところの子たちを、大事にね」
彼女の声は、大統領のものではなかった。
玖狼は、深く礼をして応えた。
投影が消え、羅豪も部屋を後にする。
一人残された部屋で、玖狼は「世界の憂いを払う」と誓いを立てたときのことを思い出していた。




