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龍律 -Dragon Code-  作者: 次縁 最良
第一部 特殊機動隊 始動編
9/9

第九話 大統領の要件

 始業前から人の気配で満ちた朝の庁内を、凛(リン)は抱えた律機(りっき)端末を確認しながら歩いていた。


「おはようございます」


 すれ違う職員や隊員たちに声をかけ、そのたびに足を止めて軽く頭を下げる。


「おはよう、エリスさん」


「賢尹(ケンイ)さん、おはようございます。昨日より、目の下のクマが薄いですね」


「あはは、よく見てるなあ。三番機の調整、ようやく片付いたんだよ」


 凛にとっては、ただ覚えているだけのことだった。誰がどの部署で、昨日どんな顔をしていたか。名前と顔と、交わした言葉の断片。総務部の仕事では、それがそのまま武器になる。


 毎朝の巡回は、もうすっかり日課になっていた。


――次は、資料室ね


 各部屋の施錠記録の確認。

 資料の貸出記録。

 前日までに届いた申請書や紛失届の確認。


 どれも地味な作業だが、庁内が普段通りかどうかは、こういう記録の端々に出る。今朝も、いつもと変わらない。


 手元の端末で今日の予定を確認しながら角を曲がった、そのときだった。


 資料室へ向かう廊下の先から、特務総監の羅豪(ラゴウ)が一人で歩いてきた。いつもなら、副総監の静(セイ)が半歩後ろに控えているはずだ。


――総監がお一人なんて、珍しい。


「総監、おはようございます!」


「おう、凛ちゃん。ちょうどいいところに」


 人懐こい笑顔は、いつもどおりだった。左の目元の古傷が、笑うとわずかに引きつれる。


 羅豪は懐から、庁内貸与品とは明らかに違う、艶のある漆黒の律機端末を取り出した。


「これ、玖狼に渡してくれない?本人に、直接な」


「はい、承知いたしました」


 両手で受け取る。見た目よりずっしりと重く、掌に吸いつくような冷たさがあった。


「いやー、助かるよ。今度また総務部に差し入れしとくから」


「いえっ、お気遣いなく……!あ、でも、この前の焼き菓子はとても美味しかったです」


 羅豪は笑いながら、ふと凛の耳元へ視線を落とした。桃色の花のピアスが、朝の光を受けている。


「……それ、似合ってるねぇ」


「えっ。あ、ありがとうございます……」


 凛は、髪で口元を隠すようにうつむいた。


 その一瞬、羅豪の目が、笑顔のまま何かを確かめるように細められたことに、凛は気づかない。


 右手をふらりと振って、羅豪はさっさと歩き去っていく。


 残された凛は、受け取った端末をまじまじと見つめた。


 黒い筐体の縁に、細い龍の紋様が刻まれている。庁内のどの端末とも違う、意匠。


――あれ、この意匠。なんだか見覚えが。家でお母さんが時々使っていたものに、似てる……?


 夜遅く、書斎の灯りの下。母が、誰にも見せずに開いていた端末。触ろうとして、優しく、けれどきっぱりと手を止められた記憶。


 はっきりとは思い出せないまま、凛は首をかしげた。


――気のせい、よね。


 そう決めて、彼女は特殊機動隊の執務室へ向かった。




「失礼します」


 機動隊の執務室へ入ると、半数近くの隊員が出払っていた。空いた席の多い部屋は、普段より少しだけ広く感じる。


 隊長席の脇では、漆黒の毛並みの紅牙(コウガ)が丸くなっていた。凛の足音に、鋭い耳がぴくりと動く。目は閉じたままだ。


 黎(レイ)は律機端末を相手にしている。眉間にわずかな皺を寄せ、指先だけが淀みなく動いていた。


――難しい顔する黎さんも、かっこいいなあ。


 視界の端で黎を見やりながら、隊長席へ移動する。


「凛さん、おはようっす!」


 雷(ライ)の声が、部屋の反対側から飛んできた。


「あ、おはようございます、雷さん」


 まっすぐな笑顔に、凛は小さく会釈を返す。悪い人ではない。ただ、ストレートな言動にどう応えればいいのか、時々、戸惑ってしまう。


「あの……冠(カン)隊長」


「普通の呼び方で構わないよ」


「では。……玖狼(クロウ)さん。こちら、総監からの預かりものです」


 両手で差し出す。


「総監から、か――」


 玖狼は端末を受け取った。その指が、筐体の縁の紋様を、一瞬だけなぞる。


「あら、副総監でなく、凛に頼むなんて珍しいわね」


 手を止めた黎が、玖狼とのやり取りに加わった。


「あっ、廊下でお会いしまして。そこで託されたんです」


「となると、総監自ら持ってこようとしたわけね、それもまた珍しいこと」


「隊長!総監から直々のってくらいだから、デカい案件っすか?オレも行きますか?!」


「色々と会議に連れまわされるという要件だが……雷が私の代わりに行ってくれるか?」


「げっ……!冗談ってことで、隊長、頑張ってください!」


 雷の悲鳴に、執務室の空気が緩む。凛も思わず、口元を手で覆った。


 玖狼の口調は、いつもの調子だった。


 だが、端末を見るその紅い眼光は鋭かった。足元の紅牙が、いつの間にか目を開けている。


「玖狼……?」


 その鋭い視線に気づいたのは、黎だけだった。


◇ ◇ ◇


 その日、玖狼は紅牙も連れず、一人暗い廊下を歩いていた。


 とある建物の突き当たりの一室。認証端末に手をかざすと、無機質な電子音とともに扉が開く。ごく限られた人間だけが立ち入りを許された部屋だ。


「おう、来ていたか、玖狼」


 羅豪は卓上に、漆黒の端末を置いて起動した。今朝、凛が届けたものと同じ端末だ。


 光が立ち上がり、一人の女性の姿を結ぶ。


 五十代前半。意志の強そうな瞳が印象的な女性。投影越しでも、部屋の空気が変わるのが分かった。


「お久しぶりです、エリティクス大統領」


 律機新興国の大統領、彩月(サイゲツ)・エリティクスその人だった。


「冠くん、獅岳(シガク)総監、お久しぶり」


 その第一声は、政治家然としたものではなかった。知人に久しぶりに声をかける、柔らかな響き。だが、その手元では、書類の端を揃える指が一度、二度と動いている。


「端末は、ちゃんと届いたようね」


「玖狼には、凛ちゃんに頼みました。廊下でちょうど会ったもんで」


 羅豪がさらりと答える。


 書類を揃える彩月の指が、ほんの一瞬、止まった。


「……そう」


 それだけだった。玖狼は何も言わず、横目で羅豪を見る。偶然だったのか、そうでないのか。それを問う場ではない。


「時間がないから、単刀直入に話すわ」


 その一言で、空気が張り詰める。


「総監と機動隊の報告を読みました。合獣(ごうじゅう)の出現と律子(りっし)濃度の異常変動が重なっていること、私も概ね同意しています。そして、それが自然発生ではないことも」


「情報管理部は総出で当たらせています。特務支援部からはカイ・リンショウ少佐だけですが、あれ一人で部署ひとつ分は働く男ですから」


 羅豪の補足に、彩月は小さく頷いた。


「今回の件、私は――」


 言葉が、そこで途切れた。


 羅豪の視線だけ、彩月から玖狼へ、ほんの一瞬流れて戻る。


「……始律教(しりつきょう)が関わっている可能性を、考えているわ」


 室内の緊張が、一段と深くなる。


「我々も、その線は視野に入れて動いております」


「疑いだけで大きく動けば、彼らは証拠ごと消えるでしょう。だから、目立たない形で進めたいの」


 彩月は、視線を落とした。


「始律教対策部は、これまでどおり影で動かします。けれど、その存在は表に出せない。だから表向きの矢面には、機動隊に立ってもらうことになる」


 指先が、また書類の端をなぞる。


「あなたたちが危険を冒して掴んだものも、功績としては、どこにも残らないでしょう」


「大統領」


 羅豪の声は低かった。普段の砕けた調子は影を潜めている。


「記録に残らずとも、俺が全部覚えておきます。総監として、表向きの責任も俺が持つ」


「……ありがとう、総監」


 彩月が姿勢を正し、玖狼へ向き直る。


「では、改めて。冠玖狼大佐。ジョノア・ファル・メド=スイケイ皇帝、アル・シャルル連邦首長、そして私、彩月・エリティクスの名において、合獣調査の全権をあなたに与えます。出動権限、始律教関連の機密情報へのアクセス権、始律教対策部への命令権を含みます」


 そこで彩月は、ほんの少しだけ言葉を選んだ。


「……これは、あなたにしか預けられないの」


 全権。それは栄誉ではなく、失敗したときの責任もすべて、この肩に乗ってくるということだ。


 玖狼は、すぐには答えなかった。


 脳裏を、いくつかの顔がよぎる。軽口を叩きながら、誰よりも先に前へ出る雷。持ち場に散り、それぞれの役目を黙って果たしている機動隊の面々。


 そして、隊長席の隣で、副隊長として同じ方向を見据え、隊を支えてくれている黎。


「……拝命いたします」


 そして、顔を上げる。


「一点、確認を。対策部の存在を、隊の中でどこまで明かしますか」


 黎も雷も、その名を知らない。


「対策部員が動けば、いずれ隊員の目に触れます。何も知らせずに動かせば、現場で必ず齟齬が出る。かといって、知る者が増えるほど、秘匿は脆くなります」


 彩月が、羅豪を見る。羅豪は肩をすくめた。


「線引きは、お前に任せる。ただし、明かすなら、その重さはお前が負え」


「……必要になるまでは、伏せます。その時が来たら、私の口から伝えます」


 短い答えだった。彩月の目が、わずかに和らぐ。


「それと、これは根拠のない話なのだけれど」


 彩月が、静かに続ける。


「創天(そうてん)王国の動きと、無関係とは思えないの。……あなたには、言うまでもないでしょうけれど」


「……はい」


 それだけを、玖狼は返した。


 羅豪が、黙って二人を見比べている。


「世界の憂いを払う。皆様にお約束したことです。些細な憂いでも、私にお知らせください」


 赤い瞳が、まっすぐに彩月を見据える。


「期待しているわ」


 彩月の口元が、わずかに緩んだ。書類を揃えていた指が、ようやく止まる。


「それと同時に……あなたのところの子たちを、大事にね」


 彼女の声は、大統領のものではなかった。


 玖狼は、深く礼をして応えた。


 投影が消え、羅豪も部屋を後にする。


 一人残された部屋で、玖狼は「世界の憂いを払う」と誓いを立てたときのことを思い出していた。

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