第99話「嗅ぐな。絶対に嗅ぐな」
フィーネが来た。
自分から。
朝靄がまだ残る集落の入口に、金髪のエルフが立っていた。
腕を組んで、翡翠の瞳をすっと逸らしている。
「森の監視のために来ただけです。勘違いしないでください」
監視って。
ここは森じゃないんだが。
昨日の共同管理協定の初日。フィーネが自分から集落に足を運んでくるなんて、長老が聞いたら気絶するんじゃないか。
あのばあさんの驚く顔は見てみたいが──まあ、めんどくさいことになりそうだからいい。
「フィーネさん来たーっ!」
ルナの声が集落中に響いた。
銀色の尻尾がちぎれるんじゃないかってくらい振れている。
「ルナ、走るな。朝から──」
遅い。
ルナが全力で駆け寄って、フィーネに飛びついた。
小柄なエルフが受け止められるわけもなく、二人がまとめて倒れた。
「きゃっ──!」
「フィーネさーん! 会いたかったー!」
「ちょ──っ、ルナ! 重い……!」
地面に倒れたフィーネの上で、ルナが顔を擦り寄せている。
銀髪がフィーネの顔にかかって、ルナの尻尾が嬉しそうにぱたぱた揺れて。
……で、ルナの胸元にフィーネの顔が押しつけられている。
「む、むぐっ……! い、息が──!」
フィーネが手足をばたつかせた。
三百歳のエルフが獣人族の豊かな胸に窒息しかけている。朝からなんて光景だ。
けしからん。
実にけしからんが、助けないと死ぬ。
「ルナ、いい加減に離してやれ」
「えー、でもフィーネさんあったかい!」
「あったかいじゃない。窒息してる」
俺はルナの背中を掴んで引き剥がそうとした。
ルナを引っ張ると、フィーネも一緒にずるずると引きずられてくる。しがみついてるのかしがみつかれてるのか分からない。
しゃーない。
フィーネの手を掴んで引き起こすしかない。
手を伸ばした。
フィーネの右手を取る。
「──っ」
……細い。
思っていたより、ずっと細い指だった。冷たくて、でも柔らかい。あの【植物操作】で巨木の根を引き抜いた手とは思えない華奢さだ。
こいつ、見た目は強気だけど──
「て、手を……!」
フィーネの声が裏返った。
翡翠の瞳が至近距離で俺を見上げている。視線が泳ぎ、すぐに横を向いた。
そして──耳。
長い耳の先端が、真っ赤になっている。
エルフって、耳に出るのか。
「すまん」
引き起こして、すぐに手を離した。
フィーネが俺から二歩、三歩と距離を取る。
離した手がまだ冷たい。指先に、あの柔らかさの感触が残っている。
「……き、汚れました」
フィーネが服の土を払っている。
耳はまだ赤い。
「フィーネさん、ごめんね? でもうれしくて!」
「次からは走らないでください。というかぶつからないでください」
「はーい」
ルナはまるで反省していない。また何か言いたそうな顔をしている。
俺とフィーネの間に、妙な沈黙が流れた。
ルナだけが首をかしげて「?」という顔をしている。
……とりあえず、仕事をしよう。楽になるために。
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共同管理の初日は、順調に終わった。
枯死区画に温泉水を運ぶ水路の設計を俺が考えて、フィーネが植物で水路の壁を作って、ルナが嗅覚で地下水脈の位置を嗅ぎ当てる。
水路の傾斜は【効率化】で算出した。温泉水の温度が下がりすぎない距離と、マナの滞留点を避ける角度。フィーネが蔦で編んだ水路に最初の一筋が流れ込んだとき、ルナが「あったかい水のにおい!」と尻尾を振った。
三人いると、一人でやるより圧倒的に楽だ。
楽ができるなら、何人仲間がいてもいい。俺は怠惰を愛する者だ。
午後の作業を終えて、集落の広場で休憩していた。
フィーネが木のベンチに座って、集落の様子を眺めている。子どもたちが走り回っている光景を、翡翠の瞳がじっと追っていた。
「……で、本当に何しに来たんだ? 監視なら森でやればいい」
水の入った杯を差し出しながら訊いた。
「……べ、別にお礼を言いに来たのではありませんから。森のために来ただけです」
三百年も生きてるくせに、嘘が下手だ。
「フィーネさん」
ルナがくんくんと鼻を鳴らした。
「……ルナ?」
「フィーネさん、うそ! うれしいにおいだよ!」
フィーネの動きが止まった。
「いまのにおい、すっごくうれしいにおい! あたし、このにおい好き!」
「──嗅ぐな!」
フィーネの声が集落中に響いた。
鳥が数羽、驚いて飛び立つ。
「えー、でもほんとにうれしいにおいだもん。隠してもにおいは隠せないよ?」
「獣人の嗅覚は……プライバシーの侵害です……!」
フィーネが早口でまくし立てた後、両手で顔を覆った。
長い耳が隠しきれていない。耳がぴくぴく動いている。
「フィーネさん、ここ好き? みんなのこと好き?」
「好きとか嫌いとかそういう話ではなく──森の管理のために必要な連携先として──」
「においはうれしいって言ってるよ?」
「鼻を信じるな! わたくしの言葉を信じなさい!」
無理がある。
俺は杯の水を飲みながら、赤くなったエルフをぼんやり眺めた。
……あいつが来てくれた方が、森の管理は楽だ。
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夕方。
西の空が橙色に染まる頃、フィーネが立ち上がった。
「……そろそろ戻ります」
「また来てね! 絶対だよ!」
ルナが両手を振った。銀色の尻尾がブンブン揺れている。
「来ません。森の管理のために必要な時だけ来ます」
フィーネが背を向けた。
夕日を受けた金髪が、橙色に透けている。
……あいつ、尻尾があったらブンブン振ってるタイプだな。
フィーネの背中が、森の入口に向かって遠ざかっていく。
小さくなっていく背中を見送っていたら──ルナが俺の袖を引いた。
「ユウトさん」
「ん?」
ルナがくんくんと鼻を鳴らした。
琥珀色の目が、にっこり笑っている。
「ユウトさんも、うれしいにおいする」
「……嗅ぐな」
「えへへ、フィーネさんとおんなじこと言ってる」
「嗅ぐな。絶対に嗅ぐな」
ルナの尻尾がぱたぱた揺れた。
俺は顔を背けて、沈んでいく夕日を睨んだ。
フィーネの背中が、夕日の中で森に消えていく。
「また来てねー!」
ルナが手を振る。尻尾がブンブン揺れている。
「……来ませんからっ!」
遠くから返事が聞こえた。
明日も来るな、あいつ。
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