第95話「目のやり場に困る湯煙」
この日の作業で、俺は人生で三番目くらいにけしからん光景を目撃することになる。
いや、効率的に考えれば疲労回復は重要だ。温泉はそのための手段であり──
……言い訳を先に考えている時点で負けている。
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昨日のマナ循環の流路図を頼りに、枯死区画の奥へ踏み込んだ。
灰色の木々の間を縫って、最初の腐った根に辿り着く。
地面から太い根が飛び出している。表面が黒ずんで、触れるとぬるりとした感触が指に残った。百年かけて腐り続けた木の残骸だ。
「ここだ。この根がマナの流れを塞いでる。フィーネ、抜けるか」
「やってみます」
フィーネが両手を地面に向けた。
指先から淡い緑の光が伸びて、腐った根を包み込む。【植物操作】で周囲の土を緩め、根を浮かせていく。
「俺の合図に合わせろ。上に引くんじゃなくて、南西に向かって──そう、マナの流路に沿って滑らせるように」
『根の除去率、三割……五割……マナの流路が部分的に復活。この方向を維持すること』
なるほど。半分まで来たか。
フィーネの指先が震え始めた。
額に汗が浮いている。緑の光が明滅する。
「もう少し、もう少しです──」
根がずるりと抜けた。
黒い液体がどろりと溢れて、土に染み込んでいく。
「一本目終了。あと二本」
「……分かって、います」
フィーネが荒い息をついた。
三百年生きたエルフだが、体力は見た目通りだ。細い腕、薄い肩。長寿と引き換えに、持久力はない。
二本目の根は一本目より太かった。
フィーネの【植物操作】で引き抜くのに、倍の時間がかかった。指先の光が弱くなっていく。
三本目に取りかかったとき、フィーネの膝が折れた。
「……っ」
地面に手をつく。金髪が土にかかった。
肩で息をしている。
「……少し、休ませて」
声が掠れていた。
プライドの高いこいつが「休ませて」と口にするのは、よほどだ。
「ルナ、水」
「うん!」
ルナが革袋を差し出す。フィーネが受け取り、小さく口をつけた。
……三本目はまだ残っている。
だが、今のフィーネに続行させるのは効率が悪い。体力が尽きた状態で無理をしても、作業精度が落ちるだけだ。
楽に済ませる方法を考えないと。めんどいが。
「あっちにお湯のにおいする!」
ルナの鼻がひくひく動いた。
耳がぴんと立って、森の奥を指差している。
「お湯?」
「うん! あったかくて、ちょっとぴりぴりするにおい! こっち!」
ルナが駆け出した。
フィーネと顔を見合わせる。温泉か。
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森の奥の岩場に、湯が湧いていた。
苔むした岩の割れ目から透明な水が溢れ出して、自然にできた窪みに溜まっている。湯気が立ち上り、硫黄と——何か甘い匂いが混ざった蒸気が漂っていた。
周囲だけ草が青々としている。枯死区画の灰色の世界とは別物だ。
「温泉です。森の奥にはいくつか湧いている場所があるのですが、ここは知りませんでした」
ルナの鼻は大したものだ。
俺は岩の縁に手を浸した。温かい。
【効率化】が反応する。
『温泉分析──マナ含有量が通常水の十二倍。筋肉の疲労回復を促進し、マナの循環を活性化させる成分あり。入浴による回復効率は休憩のみの場合の約三倍と推定。適正入浴時間は十五分から二十分。長湯はマナ酔いの可能性あり──』
マナ含有量が十二倍か。そりゃ周囲の草が元気なわけだ。
「疲労回復に効く温泉だ。マナの含有量がかなり高い。フィーネ、入れば体力が戻るはずだ」
フィーネが湯気の向こうに目をやった。
「……そうですね。作業を続けるためにも、回復は必要です」
実に合理的な判断だ。
俺は効率化が弾き出した適正入浴時間を伝えようとした。
「十五分から二十分が──」
「ユウトさんも入ろう!」
ルナがもう革靴を脱ぎかけている。早い。
「ルナ。男がいるのですが」
「え? ユウトさんは、ユウトさんだよ?」
その理屈はおかしい。
フィーネが腕を組んだ。
翡翠の瞳が据わっている。
「女性同士ですから構いませんが──あなたは、離れていてください」
「最初からそのつもりだ」
言われなくても分かっている。
俺はそのまま温泉から離れ、十分ほど歩いた岩陰に腰を下ろした。
……楽な場所を見つけて座る。これも才能だ。
苔の上は柔らかくて、背中をもたれるのにちょうどいい岩がある。昼寝スポットとしては悪くない。
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水音が聞こえてくる。
距離はあるのに、森が静かすぎるせいだ。ぱしゃん、という軽い音。
「きもちいい〜! あったかい!」
ルナの声が森に響いた。
声がでかい。もう少し小さくしてくれ。
「フィーネさんのお肌すべすべ! ねえ触って! つるつる!」
「触らないで! というかルナ! そんなところを触らないでください!」
「えー、だってすべすべなんだもん!」
「だ、だからって──きゃっ、やめ──っ!」
水の跳ねる音と、甲高い悲鳴が交互に聞こえてくる。
俺は岩に背を預けたまま、空を見上げた。
……何も聞いていない。俺は何も聞いていない。
【効率化】が勝手に動き始めた。
『温泉水の追加分析──この温泉水に含まれるマナは、植物の成長を促進する性質を持つ。枯死区画の土壌に直接散布することで、マナ循環の回復を補助できる可能性あり。さらに──』
ありがたい。実にありがたい。
今は温泉の成分分析にでも集中していないと、理性が保てない。
「ユウトさーん! もう来ていいよー!」
ルナの声が飛んできた。
俺は立ち上がり、ゆっくりと──わざとゆっくりと──温泉の方へ戻った。
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戻るんじゃなかった。
温泉の縁の平たい岩に、二人が並んで座っていた。
服は着ている。着ているが──髪が濡れている。
フィーネの長い金髪が、しっとりと背中に貼りついていた。
湯上りの肌が、木漏れ日を受けてほんのりと上気している。翡翠の瞳が湯気の中でいつもより潤んで見える。
ルナがフィーネの髪を梳かしてあげていた。
銀髪と金髪が指の間で交差して──二人が並んでいる絵面が。
……けしからん。
絶対にけしからん。
「何を見ているのですか!」
フィーネが声を上ずらせて叫んだ。
「何も見てない」
見てた。全部見てた。
「ユウトさん、フィーネさんの髪きれいだよ! さらさらになった!」
「ルナ、余計なことを言わなくていい」
「余計じゃないよ? ほんとにきれいだよ?」
フィーネが頬を押さえた。
三百歳が十代の少女みたいな反応をしている。
……とりあえず、効率の話をしよう。理性を保つために。
「フィーネ、体力は戻ったか」
「──ええ。嘘のように、身体が軽くなりました」
「マナ含有量が高い温泉だ。疲労回復の効率がいい。三本目の根も、明日なら抜けるだろう」
「そう、ですね」
フィーネが髪を耳にかけた。
濡れた金髪が、指の隙間から光を散らす。
見るな。目を逸らせ。効率の話だ。
「……この温泉は、毎日来ても構いませんから」
フィーネが小さく言った。
「森のためです。作業後の回復手段として、合理的ですから」
「ああ。合理的だな」
合理的。そうだ。合理的な話をしている。
それ以外の話ではない、まったく。
ルナの尻尾がぱたぱた揺れている。
嗅覚でどこまで察しているのか。何も言わないのが余計に怖い。
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帰り道、ふと気づいた。
温泉のマナ成分を分析した結果が、まだ頭に残っている。
『この温泉水──枯死区画の根に直接流し込めば、マナ循環の回復を大幅に早められる』
……なるほど。つまり、あの温泉にはまた来る理由があるわけだ。
効率的な理由が。それだけだ。
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