第93話「あの子の鼻は嘘をつかない」
ルナの耳が、ぺたんと伏せた。
フィーネが森から戻ってきた朝──長老との交渉が不調に終わったのは、表情を見れば分かった。
だが、ルナはその前に気づいていた。匂いで。
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集落の入口で水汲みをしていた俺は、遠巻きにその光景を見ていた。
フィーネの足取りが重い。いつもの背筋の伸びた歩き方ではなく、肩が少しだけ落ちている。
翡翠の瞳がどこか曇って見えるのは、朝日の角度のせいじゃないだろう。
……めんどくさいことになった予感がする。
ルナが駆け寄った。
「フィーネさん」
「……おはようございます、ルナ。何か用──」
「フィーネさん、悲しいにおいがする」
フィーネの言葉が止まった。
ルナの鼻がひくひくと動いている。
「昨日の夜から、ずっと泣いてたにおい。目の周りも、ちょっと赤い」
フィーネの顔が強張った。
三百年鍛えたポーカーフェイスが、獣人の鼻の前では紙切れ同然らしい。
「……嗅がないでください」
「ごめんね。でも、においは勝手に来るの」
慰めようとしているのか、ただの反射なのか。たぶん両方だ。
ルナが小さな手を伸ばして、フィーネの手を握った。
フィーネが固まる。
「その──その耳で慰めるのは反則よ……」
声が少しだけ震えていた。
……あれは、交渉が失敗したな。
昨日の夜、フィーネは「もう一度、長老に掛け合います」と言って森に帰った。
結果は──見るまでもない。
俺は水桶を置いて、木陰に座り直した。
関わるべきか、放っておくべきか。
正直なところ、エルフの内輪揉めに首を突っ込むのはめんどくさい。昨日もそう思ったし、今朝も変わっていない。
だがまあ、あの枯死が広がれば試験区画にも影響が出る。俺の昼寝場所がなくなる。
それは困る。
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「フィーネさん、こっち! 来て!」
ルナがフィーネの手を引いて走り出した。
どこに行く気だ、あいつ。
仕方なく後を追う。
ルナの足は試験区画に向かっていた。
森の中に踏み込む。
日差しが枝の隙間から降り注いで、地面に金色の模様を描いている。
間伐を始めてもう三週間になる。
試験区画の変化は、最初に来た頃とは比べものにならない。
残った木々は幹が太くなり、葉の色が深い。根元には下草がびっしりと茂って、その間を小さなトカゲが走り回っている。
鳥の囀りが頭上から降ってきた。二週間前には聞こえなかった声だ。
フィーネが思わず深く息を吸い込んだ。腐葉土と若葉の匂い──森が生きている匂いだ。
「ここ見て! フィーネさん!」
ルナが両手を広げた。
「間伐した森、こんなに元気! ユウトさんの効率化で、木がね、前より太くなったの!」
フィーネが足を止めた。
翡翠の瞳が、木漏れ日の中を泳いでいる。
「……見れば分かります」
「でしょ! すごいでしょ!」
フィーネが近くの木に手を当てた。
指先から金色の光が滲む。【植物操作】だ。
しばらく黙ったまま、光が幹を伝っていく。
やがてフィーネが目を見開いた。
「……マナの巡りが、以前の一・五倍近くに……」
「でしょ! ルナね、鼻で分かるよ! この区画だけ、森の空気があったかいの!」
ルナの鼻がひくひく動く。
こいつの嗅覚は、本当にスキルと同じくらい正確だ。
フィーネが木から手を離した。
金色の光が消える。
その手が、わずかに震えていた。
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「でも、長老たちは……」
フィーネの声が小さくなった。
試験区画の木陰に座り込んで、膝を抱えている。三百歳のエルフとは思えない、小さな姿だった。
「伝統の方法で対処すると。外の力に頼ることは、エルフの誇りを──」
「フィーネさん」
ルナがフィーネの隣に腰を下ろした。
耳が穏やかに揺れている。
「あたしもね、部族の掟に反したの」
フィーネが顔を上げた。
「……あなたが?」
「うん。部族の森を出ちゃダメって決まりだった。でもあたし、知らないにおいを嗅ぎたかったの。外の世界のにおいが、ずっと気になってた」
ルナが空を見上げた。
木漏れ日が銀色の髪をきらきら光らせている。
「にいにに怒られた。すっごく怒られた」
ルナが少しだけ笑った。
俺はそれを聞きながら、木の幹にもたれかかっていた。
ルガの顔が浮かんだ。南の草原で、あの巨体を揺らしながら「任せたぞ、人間」と言った獅子の横顔。
「でもね、にいにとは約束したの。たまに帰るって。だから──あたしはここに来てよかった」
ルナがフィーネの方を向いた。
まっすぐな瞳だった。
「新しいにおいがいっぱいあった。おいしいごはんも。すてきな人たちも。それに──フィーネさんにも会えた」
「──」
「フィーネさんも、きっとだいじょうぶ」
唇を噛んで、噛んで、でも堪えきれなかった。
「……あなたは、ずるい」
涙がこぼれた。
翡翠の瞳から、一筋、二筋。
「そんな──そんなまっすぐに言われたら……」
ルナがフィーネに身を寄せて、小さな腕を回した。
くすぐったそうにフィーネが身を捩じった。
──それでも、離れなかった。
サボりたい。
木陰で寝ていたい。あっちに行きたい。
だが、目が離せなかった。
泣いているエルフと、それを抱きしめている獣人。
種族も年齢も何もかも違うのに、あの二人の間にある何かを──俺のスキルでは測れない。
人の心は、効率化できない。
それだけは、はっきりと分かった。
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しばらくして。
フィーネが立ち上がった。
目元は赤いが、瞳の曇りは消えていた。
ルナの手を一度だけ握り返してから、俺の前に歩いてきた。
まっすぐ立って、背筋を伸ばして。
──そして、頭を下げた。
「……森を、見てくれませんか」
三百年のプライドを曲げた声だった。
震えている。──でも、頭を下げたまま動かない。
「長老たちは反対しています。でも、このままでは森が死にます。わたくしの【植物操作】だけでは、もう……」
言葉が途切れた。
頭を下げたまま、拳が白くなるほど握りしめている。
俺は木の幹にもたれたまま、空を見上げた。
めんどくさい。
本当に、めんどくさい。
「……しゃーないな」
フィーネの肩が震えた。
「ただし、条件がある。俺のペースでやる。急かすな、働かせすぎるな。あと昼寝の時間は確保しろ」
「……あなたは──」
「楽にやれる方法を考えるのが俺の仕事だ。大変なことを大変なままやるのは、効率が悪い」
ルナが両手を握りしめて、声にならない声で飛び跳ねている。嬉しいんだろう。分かりやすいやつだ。
フィーネが顔を上げた。涙の跡が、翡翠の瞳を光らせている。
「明日、森の奥に案内します。覚悟してきてください」
……覚悟って何だ。昼寝の覚悟ならいつでもできているんだが。
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