第92話「めんどい問題が来た」
昨日あんなに美味そうに木の実を食べていた女が、今日は唇を噛んでいる。
フィーネの翡翠の瞳に、いつもの鋭さがない。
……また何か来る。
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朝飯の片付けもそこそこに、フィーネは集落の広場に現れた。
いつもなら腕を組んで「おはようございます」のひと言もなく用件を切り出すくせに、今日は入り口で立ち止まったまま動かない。
「フィーネさん、悲しいにおいがする」
ルナの耳がぺたんと伏せた。
鼻をひくひくさせて、まっすぐフィーネの方を見ている。
──その目が、潤んでいた。
フィーネの悲しみを嗅いで、ルナ自身が泣きそうな顔をしている。こいつにとって匂いを嗅ぐというのは、たぶん俺たちが誰かの泣き顔を見るのと同じなのだ。嗅いだ瞬間に、もう感じてしまっている。
「……匂いで分かるの?」
「うん。昨日はね、うれしいにおいだった。今日は、ちがう」
ルナの声が小さく震えていた。
情報を伝えているんじゃない。一緒に悲しんでいる声だ。
「……フィーネさん、だいじょうぶ?」
ルナが一歩、前に出た。
伏せた耳のまま、上目遣いでフィーネを見上げている。
フィーネの唇が震えた。
一瞬、泣きそうな顔をして──すぐに持ち直した。さすがの三百年だ。
「……相談があります」
声は低い。
俺は木の柵にもたれたまま、あくびを噛み殺した。
めんどくさい話が来る。絶対に来る。
「森の奥で──木が枯れ始めている区画があるのです」
フィーネの声は淡々としていた。
だが、それが逆に深刻さを物語っている。
「枯れる? この森で?」
「ええ。わたくしの【植物操作】でも止められない。マナを注いでも、木が受け取らない。まるで──拒絶しているように」
ルナがフィーネの手をそっと握った。
フィーネは振り払わなかった。
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森の奥へ向かう道すがら、空気が変わった。
緑の匂いが薄くなる。代わりに、湿った土と腐葉土の匂い──いや、違う。腐葉土よりもっと嫌な、澱んだ匂いだ。水たまりが干上がった後の、あの淀んだ臭気に似ている。
「ここ、くさい……」
ルナが鼻を押さえた。
あの超嗅覚には堪えるだろう。
木々の色が変わっていた。
幹は灰色に褪せ、枝先の葉は茶色く縮れている。地面を覆っていた苔も黒ずんで、虫の音もしない。
──死んでいる。この区画だけ、森が死にかけている。
「いつ頃からだ」
「気づいたのは半年ほど前です。最初は一本だけでした。それが、今では──」
フィーネが手を広げた。
見渡す限り、灰色の木が続いている。数十本はある。
俺は腰を下ろして、地面に手をついた。
土の感触が違う。普通の森の土は湿っていて柔らかい。指を差し込めば虫や根の気配がある。ここの土は、冷たくて硬い。指先が弾かれるような拒絶感があった。
【効率化】が反応した。
『土壌分析──開始。マナの流量を測定……通常値の八分の一以下。マナが地中で滞留し、循環していない。滞留したマナが変質し、周囲の土壌を汚染。根がマナを吸い上げられず、栄養の循環が途絶している』
……なるほど。
マナの流れが止まって、腐っている。木が枯れるのは結果であって原因じゃない。
「地中でマナが詰まって腐ってる。木が枯れるのはその結果だ」
フィーネの目が見開かれた。
「触っただけで分かるのですか」
「スキルの仕業だ。俺の手柄じゃない」
面倒なので立ち上がりたくないが、もう少し調べないとまずい気がする。
隣の区画との境界まで歩いて、もう一度地面に触れた。
『追加分析──滞留の起点を逆算。マナの流れの阻害点は、この区画の南西方向。およそ百年前に高温にさらされた痕跡あり。焼損した根の残骸が地中でマナの通り道を塞いでいる』
「百年前に焼かれた区画、ここの近くにあるか」
フィーネの顔色が変わった。
「……あります。南西に。百年前、人間の開拓者が放った火で──焼け落ちた森の跡が」
「そこだ。焼けた木の根が地中に残って、マナの通り道を塞いでる。それが原因だ」
フィーネが言葉を失った。
地面に膝をついた手が、小刻みに震えている。
「……百年。百年も、あの火の傷が残っていた」
声が掠れていた。
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枯死区画を離れ、少し戻った森の木陰に腰を下ろした。
生きている木の根元は、苔の匂いがして落ち着く。やっぱり楽な場所がいい。
フィーネが木の幹にもたれた。
いつもの姿勢の良さが崩れている。
「長老たちには話したのか」
「……ええ。伝統の方法で対処する、と言われました。祈りと、【植物操作】の儀式で浄化する、と」
「それで効くのか」
フィーネは答えなかった。
沈黙が答えだ。
「わたくしは──他の種族に助けを求めるべきだと進言しました」
「それも却下か」
「……はい。エルフの森の問題を外の者に明かすなど、恥だと」
長老の考えは分からないでもない。三千年の誇りがある。外に助けを求めるのは、その誇りを傷つける。
だが、誇りで枯れた木は治らない。
「以前にも……似たことがあったのです」
フィーネの声が小さくなった。
「わたくしが──外の技術を取り入れるべきだと主張して」
そこで言葉が途切れた。
唇を噛んで、俯いている。
ルナがフィーネの隣にそっと座った。
何も言わずに、肩に寄りかかっている。
「フィーネさん……」
ルナの声が、かすれた。
めんどくさい。
エルフの内部事情なんて、俺にはどうしようもない。
「……エルフの内部問題に首を突っ込むのは、めんどい。めんどいんだが」
フィーネが顔を上げた。
「分かっています。無理にとは──」
「あの枯れ方を放っておくと、試験区画にも影響が出る」
フィーネの目が見開かれた。
「試験区画が駄目になると、せっかく作った間伐の仕組みも台無しだ。つまり──俺の昼寝場所がなくなる」
あの試験区画の木陰は最高なのだ。風通しがよくて、木漏れ日が程よくて。あそこでの昼寝を失うわけにはいかない。
「……あなたは」
フィーネが呆れたような、泣きそうな、よく分からない顔をした。
「昼寝場所のために、ですか」
「俺が楽できなくなる問題は、俺の問題だ。それを解決するのは、めんどいけど──しゃーない」
ルナが少しだけ前に出た。
嬉しそうに両手を胸の前で握っている。こいつは嘘の匂いが分かるくせに、何も言わない。
「……あなたは、変わった人間ですね」
「よく言われる。サボりたいだけの男だ」
風が吹いた。
生きている木の葉が揺れて、さわさわと鳴った。枯死区画の方からは、何の音もしない。
──放っておくと広がる。あの枯れ方は、止まらない。
面倒だが、もっと面倒になる前に手を打った方が楽だ。
フィーネが立ち上がる。翡翠の瞳が、まっすぐこちらを見た。
唇が震えている。でも、声は震えなかった。
「もう一度、長老に掛け合います。……結果は、明日」
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